■2026年8月3日(月)
■一日一文章トレーニング。

「今日は雨も降って過ごしやすいお天気」

私はベランダの植物たちの葉っぱに溜まる雨水を眺めながらこの雨水を何に例えるべきかと考えている。
そして、コーヒーを啜る手元も狂い茶色い液体を机の上にぶち撒ける。
「あーあーやってしまった」~なのだ~。
コップはスローモーションのように転がりキーボードの上にコーヒーはぶち撒かれ、私も固まる。
もう外の植物の葉っぱの滴どころの話ではないもので、私はティッシュで拭き拭きとパソコンを持ち上げて茶色い液体を机に上に落とす。
「先ずは電源がショートしないように」と電源ボタンを押して一旦電源を落とす。
けれども、マウスやキーボードに触れる度にモニターは起動して、濡れたパソコンを手に持ち電源を押したり画面が点いたりと一人一役のわけのわからぬ大騒動を起こす。
しかし、最近のお・パソコンとはドリンクを弾く仕様なのか?急ぎ応急処置も良すぎたのか?キーボードの中に1滴のコーヒーも入っていなかった。
「セーフ」
キレイに拭き取っても何もベトベターも無き無糖のコーヒーが良かった良かったでパソコン被害は皆無であった。
そして、コーヒーは週末に描く迷画にも飛散しているもので丁度BADなウィンクの頬の部分を茶色く染める。笑
□V□画は何だかキャッチャーのようでもあり、何でBADとIFなのかもわかりませんが角から文字が生えるとすればそのような文字だ。

そして、外には心地よい雨が降り部屋の中ではコーヒーが降って今日は心地よい曇り空。

私はどちらかと言うと昔から飲み物をぶち撒けることも多い人生だ。
自分のまわりの親や大人たちは飲み物もぶち撒けたりこぼしたりしないもので、当然、私も大人になれば自然とそのように何もこぼさぬ大人になると思っていた。
ですが・・・現実とは酷なもので三つ子の魂は百まである。
いつも何かをやらかしている感じで本当に「面目ない」気持ちでイッパイで、何かをぶち撒いた時にはいつもしっかりとした飲み物管理を心に刻む。
そして、時もたてばキレイさっぱりに忘れる。
大人の流儀とは少し厄介事なようで、面目とは「めんもく」と読むものですが口頭で「面目無い」言えば「めんぼく」と言う・・・と、そのような大人は理由もわからない話にすり替える技術も持っている。
本当に人がこぼすと、「これ、集中力が散漫だ」とか「ほら、落ち着きがない」とうるさきものでコーヒーや液体をぶち撒いた時にこそ人間性は出る。
私が何かをこぼすと「あれっ?」と借りてきた猫のような感じで、とりあえず、面子もどうのこうのとただただ面目無く思う。
そもそも、猫のことはよくわからないけれども普段と違い大人しくしている猫とは恐らく単に周囲の様子を伺っているだけの猫とも考えられる。
なので、私もこぼした部分とこぼれた周辺が気になる感じで猫をかぶる。
「面・めん」とは時に「つら・顔」とも読むもので、「面当て(意地悪なあてつけ)」「面構え(顔つき)」「面魂(顔つきに現れ出る強い心情)」「面の皮(顔の表皮)」「面汚し(名誉を汚すこと)」とコーヒーをこぼした時にこそ、こぼした人とそのような光景を見た人の本性は「面・つら」として体現されるのかな。
かと言って、優しく笑顔で「大丈夫?」とすり寄って来れば何だか胡散臭い。
かと言い、横目でちらりと何事も無かったように「私は一切かかわりありません(ビシッ)」の知らんぷりも、また、何かしらの人間性を表すようでわかりやすい。
このコーヒーやドリンク類をぶち撒く時には人間性という本性が試されているのでデス。
あーからおーのあー面(めん)、おー面。

 
■2026年8月3日(月)
■はぁ~。

■2026年8月4日(火)
■一日一文章トレーニング。

「マジックハンドで蝶々を撃退する」

今朝も窓を開けると涼しくて気持ち良い。
夏休みの朝とはやっぱりこのような朝だよねと、今年の夏は溶けるように暑い夏が通り過ぎると過ごしやすい夏もやって来る。
私は大豆を蒸して、麦茶も2番茶まで作り、ベランダの植物たちにも水も撒き、自由研究の観察も行う。
その研究とは先日イモムシに葉っぱを食い散らされた謎の柑橘系植物に虫がついていないかと凝視するもので成長具合も一応確認している。
柑橘系の植物はゲリラ豪雨の後に禿山のように新芽や葉っぱをイモムシに食い散らかされて無惨な姿となる。
そして、最近は新芽もわらわらと息吹くもので短時間で元の姿を徐々に取り戻す。
私は葉っぱに悪い虫はついていないかと毎朝探すもので余計な仕事も増える。
この謎の柑橘系植物の成長話はほんの3~4日の出来事で、食い散らかされた葉っぱももうわからないぐらいに急成長する原動力とは何であろうか?
1)気候が良い。
2)雨もたっぷりと降ることも良いかも。
3)私の予感では煮出した茶カスを撒いたことで成長のスイッチも入ったような気もする。
お茶の葉は使用済みのパーで捨てずに乾燥殺菌したものを撒いている。
お茶の葉っぱを撒いた直後から新芽がわらわらと出てきたので何かの刺激となった予感もする。
私の認識では茶カスとは一種の発酵した落ち葉みたいなもので土に還そうとする企みの一つでもある。

そして、

週末にはひらひらとアゲハチョウが謎の柑橘系植物に飛んでくるのを見つける。
私は「見つけたゾー」と蝶々を追い払うもので、去年も今年もアゲハチョウの幼虫被害を受けている。
なので、我が家にやって来る蝶は蜜を吸う蝶では無く、イモムシの卵を産むような蝶である。
私はイモムシの卵を産もうとする蝶を手で断固拒否と追い払い、蝶はひらりひらりと私の攻撃をかわしながら執拗に柑橘系植物の上を旋回して隙あらば葉っぱの上に止まろとしている。
人間が追い払っても飛んで逃げない蝶とはどのような蝶々なものかなと思うもので、もしかしたら、運悪く卵が出そうな瞬間に私に見つかった蝶かもしれない。
私はこの柑橘系の植物の葉っぱの上に絶対に止まらせないようにひたすら蝶を追い払うもので、そのぎこちない手の動きはまるで8ビットゲームのようだ。
それにしても、新芽が生えて来たならばすぐに飛んでくるアゲハチョウの情報源とは一体何であろうか?

ちょうちょちょうちょ謎の柑橘系に止まらないで・・・と「蝶」と「蝶々」「ちょうちょ」の違いも気になる。
そして、何もわからない。

私は素手でアゲハチョウを捕まえるのは気持ち悪いのでマジックハンドを取り出して、その棒を振り回しながら蝶を追い払う。
しかし、逃げない。
なので、鳥になった気分でマジックハンドをカチカチと蝶を掴もうと試みると、蝶はやっと驚いたのか空高く舞い上がり隣の家のベランダ方面に逃げる。
「オレはやったー蝶を追い払ったー」のである。
葉っぱの上に卵を産んでいないかと葉の表裏を細かく確認していると、暫くして再びひらひらと蝶は飛来するもので再び私のクチバシ攻撃で追い払う。
私は新芽を守る為であれば容赦はしない!
そして、大都会東京は広しと言えどもマジックハンドで蝶と格闘している人とはそうそうにいないもので、マジックハンドとは何用にも活用出来る。

蝶はひらひらとベランダの端っこに飛んでいき、絶対イモムシでも食べられないような固い葉っぱの観葉植物に止まり何処に飛び去る。
謎の柑橘系植物の葉っぱは死守したものの、卵はその固い葉っぱに産みつけたかもしれない。
夏のホラ話としてはその固い葉っぱの観葉植物のあった場所は少し前まで葉っぱを食い散らかされた柑橘系植物の鉢を置いていた場所である。
私が悪い虫がついていないかと確認しやすいように鉢を移動したもので、つい先日まではその場所にあった。
蝶はそのような空間把握もしているような動きで少しホラーだ。
果たして蝶に知能があるのか否かで、昆虫に記憶がなければ柑橘系の残り香や微かな化学物質のような気配を感じたのでしょうか。
とりあえず、アゲハチョウの幼虫は謎の柑橘系植物の葉っぱが好きなようで蝶もそれを狙って卵を産むもので、その辺にはもっと大きな柑橘系植物の樹木もあるのでそちらの葉っぱを食べて欲しい。

 


*デスクトップ画面用の画像です。
■2026年8月4日(火)
■つぶらなナットーだね☆
■2026年8月5日(水)
■一日一文章トレーニング。

「蝶」

なのか「蝶々」なのか「ちょうちょ」なのか「てふてふ」なのかと奴らとの戦いに終止符はない。
様々な呼ばれ方をする名前を持つものとは怪人20面相のようでもあり、いろんな顔を持つ存在とは謎めいている。
物語の中での蝶とはおそらく変化的なものを表すもので様々な顔に変化する。
蝶には英語のバタフライなエフェクトも含めると5面相もありワレワレを惑わすにも十分だ。
大体、飛び方もふわふわと予測不能で侵略者に撃ち込む爆弾は蝶々の如く曲者ミサイルを提案したい。
いつ何時の気を抜いた時には葉っぱはかじられてくるもので本当になぜ?こんなにも小さな鉢植えを狙ってわざわざ卵を生みくるのか?と謎である。
昨日は蝶の選手を追っ払い勝利宣言をしたものの、卵は一部孵化してすこす新葉もかじられる。
私は小さなイモムシ×2匹と卵×1個を見つけてピンセットでブチッと潰す。
イモムシは柔らかすぎて無感触ですが、卵の方はプチっと”とびっ子”ように壊れる。
一切の慈悲も無ければ容赦もなく、所謂、私はイモムシを見つけたならばイモムシを潰すイモムシキラーとなる。
プロフィールの特技欄には蚊の撲滅運動家に加えて、イモムシ潰し、若しくは、イモムシキラーと肩書も増える。
イモムシキラーとは皆が大嫌いなイモムシの名を持つ嫌われもので、または、イモムシを潰す味方でもあって敵か味方か謎めいている。
今や窓を見れば謎の柑橘系植物の葉っぱにイモムシはいないかと凝視するもので、鳥が窓の外を飛べば蝶なのかと目で追う。
しかし、本物の田舎に生息しているようなクソデカ・イモムシを見ればイモムシキラーも100%びびり何も出来ない。
イモムシキラーとはプロレスラーの鹿威しの如くビックマウスで、蝶とは何かと辞書で調べると気持ち悪い解剖図が出てきて「そおっと」静かに本を閉じる。

とりあえず、

私は新しく芽吹いて新緑の葉っぱがかじられることがとてつもなく嫌で、美味しく食べて種も土に植え芽が出て育てる柑橘系植物に愛着もある。
なので、その葉っぱがイモムシにかじられると心も痛みイモムシキラーとなる。
しかし、肝心のかじられた謎の柑橘系植物はひょうひょうと生きているもので、葉っぱのスジ以外の8割程かじられたとしても、葉っぱは枯れたり落葉したりすることも無く普通にかじられたままの状態で光合成をしているようで不思議だ。
果実をつける植物にとって蝶とは受粉の為に必要不可欠な存在かもしれない。
なので、蝶とは共存関係はあるのかもしれませんが、一端の樹木として育つまではイモムシにかじられたくない。
かじられた葉っぱとは不憫な姿で、この不快な気持ちとは何かと考えると能動的に自分から「かじる」分には問題ありませんが、受動的に「かじられる」不快感は大きい。
自分が大切に育てている植物の新葉がイモムシにかじられれば、私自身がイモムシやゾンビにかじられることと同義で、人は「かじられる」ことに嫌悪するものだ。

ところで、「かじる」「かじられた」の漢字をどのように書くべきかと悩ましい。
「かじる」の候補としては下記のようになるが、常用漢字表にない漢字で「齧る」と書くようだ。

齧る
囓る
噛じる

どれも複雑な構造で私の頭の中では梶井基次郎さんの檸檬な感じの明治の文豪の文章によく出てくる難字でもある。
歯へんの中には目茶目茶に人がいて、契約みたいな字もあれば何だかホラーな妄想も浮かぶもので、どのような経緯からこのような漢字となったのであろうか。
私もよく固いものを齧り、物事も少し齧ったりと、イモムシ野郎の大好物の葉っぱとはどれほど美味かと気になる。
私の予想では葉っぱにも柑橘系の甘いオレンジの風味がある予感で、今度一枚齧ってみるかな。
葉葉葉~

 

*デスクトップ画面用の画像です。
■2026年8月5日(水)
■ダイヤル。
■2026年8月6日(木)
■一日一文章トレーニング。

「今の時代は絶え間ない変化の時代でもあり、変化と言っても「へんげ」と読む時代である」

卵から幼虫、サナギ、蝶への変化のことを完全変態という。
街中の変態どもは卵から孵化してイモムシとなりサナギとなって全て分解されて新しくなり蝶として舞う。
物語では変化する状態のことを「蝶」というキーワードで例えるようだ。
頭に浮かぶものは「羊たちの沈黙」や「パプリカ」などで、「羊たちの沈黙」のポスターでは蛾(蝶)で口封じされた印象も強い。
配送荷物のように運ばれるマスクをしたレクター博士のインパクトも強いのですが内容はほぼ覚えていないので何も書けない。
「パプリカ」は黒幕を追う痕跡に必ず蝶がいたような記憶もあるもので、蝶は異世界に通ずる媒体な存在であったと思う。
こちらもまた内容はあやふやですが何度も観た映画なので大体はあっているような気もする。
また、主人公や悪役も「蝶」の成長のように完全変態していく。

しかし、「変化」というものは大変面白いものだ。
それは「変化」のことを「へんか」と「へんげ」という2通りの読み方をするもので、それぞれの意味も異なる。
昔の人たちは諸行無常な人生行路で絶えず起こる変化を概念として使い分けたようだ。

変化(へんか)とは受け身的に変わることや、能動的に変えることの意味で、どちらかと言うと今より良い風に変わりたいという願望も含む。
変化(へんか)とは必ずしも良い風に変わらないかもしれませんが、そこにはより良い未来の変化の祈りがあると思う。

一方で変化(へんげ)と読めば、人知の外の神が人に化ける神の領域で、妖怪やキツネ・狸なども化けて、人が変化(へんげ)するとなれば人ならぬ異界の何かの恐ろしいものに変化する。
ホラーやサスペンスなどの変化はこちらの変化(へんげ)のことで、変化(へんげ)の物語が流行った後には蝶はあまり飛ばなくなったような気もするもので、最近観る映画やドラマではこのような蝶の例えは見かけない。
流行り・廃りとはあるかも、ですが、科学技術も日進月歩で進化するような現代では、このような蝶的な変化とはわざわざエンターテイメントで見なくても毎日見ている日常である。

具体的に変化するものを探してみれば、玩具の変形合体は変化(へんか)だ。
漫画やアニメなどでは仲間も増えて人間として成長すれば変化(へんか)で、闇落ちしたり、自分ではコントロールできない一線を超えればそれは変化(へんげ)となる。
お化粧などで彩れば化かすような変化(へんげ)で、生活を楽にする科学技術の進化もまた化学(ばけがく)との変化(へんげ)のことだ。
私たちの日常の中にはこのような2通りの変化は常にあるもので、普段とは違う自分を見せようと努力することも変化(へんげ)とすることには少し違和感も感じる。
私はそのような変化の(へんか)と(へんげ)の違いと何かと考えれば未来に対する祈りの有る・無しではなかろうか?と思う。
昨今全てはお金な定規で計られることも多い。
勿論お金も大切ですが、そこには愛や未来に対する願いやロマンが欠落しているような変化ばかりの変化(へんげ)の時代でもある。
人はそのような変化(へんげ)にだんだんと耐えられなくなっているように思うもので、今こそより良い未来を願うような祈りのある変化(へんか)が大切だと思う。

 

■2026年8月6日(木)
■グリーン。

■2026年8月7日(金)
■一日一文章トレーニング。

「美しき風景」

何一つの祈りもない科学技術の発達ほどに恐ろしきものはない。
この祈りとは宗教的なことを言っているのではなく、新しく生まれる変化の先の願いというか発明の先にある優しさの解釈でもある。

私たちの身の回りには日々一歩一歩の小さな歩みで溢れている。
そして、そのような一歩一歩は小さな祈りの積み重ねでもあると同時に、ネット社会とは如何に人を出し抜こうかとの悪意も溢れている。
なので、それがより良き願いというものが感じにくい変化(へんげ)な時代でもある。

祈りとは何かと調べると18世紀後半から19世紀前半の産業革命が進む英国でロマン主義を立ち上げたコールリッジの詩を見つける。

「人をも鳥をも獣をも愛する人がよく祈る人である」

これは「老水夫行(の歌)」という大海原の神秘や恐ろしい体験を書いた詩の一節で、アホウドリを撃った水夫がその罪により南極まで流され大自然の中で生き抜き帰郷するお話のようだ。
東京都内にもアホウドリは生息しているようですが太平洋上の孤島に生息している。
アホウドリはその昔に人を見ても逃げないので阿呆の名前がついたようで乱獲された鳥でもある。
私もアホウドリやカツオドリを生きている内に一度は拝顔してみたいものの生息域が秘境すぎておそらく一生見ることも出来ないない鳥でもある。
この小さな一文から大自然の中に佇み自然に対する畏敬の念と祈り、願う光景が頭に浮かぶ。
人を愛し、鳥を愛し、獣を愛する人が一番よく祈っている、なんとも意味深で素敵だ。
この一節から私は日本語で言うところの願掛けのような自然の中でただただ無に手をあわせる八百万的な神秘を感じる。
そもそも「願い」というのは「原っぱ」の中で「顔」を下げて願う字でもある。
コールリッジの見渡す限りの海の原っぱな大自然の祈りとは正に願いそのもの。
※勿論、本は読んでいないので想像のロマンだけで書いています。~適当だ~草

ロマン主義は機械文明が発達し都市の空気も汚染され個人よりも合理主義や拝金主義、規則重視と蔓延する社会の中で自然の畏敬の念を感じて、もう一度自然を見直し想像力と感情を表現する文芸活動のようである。

東京の街に住んでいればいつも見上げる空は狭くいつも窮屈に感じる。
しかし、適度に大自然も多いもので住めば正に都だ。
そのような人工物で溢れた東京の大自然と言えば北の丸公園や荒川土手が大好きで、本郷の炭団坂(たどんざか)を登った先の高台の景色もなかなかに壮大で好き。
※写真参照。
時折通りたくなる炭団坂の上は私が好きな東京の景色の一つで、そのびっしりと住宅で埋まった先に大自然を見る。
曇っていても、晴れていてもその景色は雄大で、ここを通り過ぎるほとんどの人は足を止め「ふぅ」と呼吸を整えるような風景だ。
私たちはそのような炭団坂上の景色を本郷のソーデルマルムと呼んでいる。
この坂道を「よっこらしょ」とのぼる道や眺める景色はスウェーデンに旅行した時のソーデルマルムな風景に似ているもので、そのように呼ぶ。
スウェーデンはとても極寒な時期に旅して人生で初めて街中で凍え死ぬかと思うような寒さの中を歩き回り、当然、馬鹿と煙は高いところがお好きのようでもあって坂道も上り「うわー」とその景色に感動する。
そのような感動の景色が炭団坂上と重なる。
この炭団坂上の場所は昔「小説真髄」で勧善懲悪を排して写実主義を唱えた坪内逍遥のお家があったようだ。
写実主義とはコールリッジさんのロマン主義と正反対のようでロマンを排して写実的に模写するような文芸活動のようだ。
その後、坪内逍遥の跡地は旧伊予藩の久松氏が常磐会の寄宿舎とするもので、正岡子規などもこの崖上の美しい景色を堪能していたのは間違いない。
流石に昔の文人たちは良い場所を住処として選ぶもので、私にとっても都会のど真ん中で大自然を感じる唯一無二のロマンな場所でもある。
そして、想像力なロマンチックさえあれば何でもいけそうだ。w

 

■2026年8月7日(金)
■憧れのアホウドリ。
■2026年8月10日(月)
■一日一文章トレーニング。

「育てている三つ葉がこんなにも大きくなったー」

お正月になる前に食べてから早8月、根っこを水差しにして水耕栽培する三つ葉は今このように大きく育つ。
育てれば食べるのも勿体なく思う銀の匙で、涼しい我が家の中で観賞用として鎮座している。
そもそも「三つ葉が部屋に生えていて良かった」となるようなシチュエーションも無いもので、三つ葉を食べることもない。
今年は比較的に過ごしやすい夏で植物界のお嬢様が外にいることも多いのに、この三つ葉だけはエブリデー室内育ちだ。
夏の強い太陽が直接葉に当たると萎えるので、お陽様加減の程良い場所で大切に育てられている。
葉っぱの若さもすでになくなり葉も茎も分厚くてザラザラとした老木のような貫禄もある。
時折、千切って生食してみても硬く苦くてなかなかに消化出来ない草そのもの。
人生とは本当にどのように回転するかわからないもので、三つ葉でも大切に育ててればそれなりに愛着も生まれる。
毎朝起きたら外の植物たちに水をあげて、三つ葉の水やりは2晩でバケツ一杯のたっぷりの水を吸収するサイクルで育てている。
三つ葉を育てて学ぶことは、植物はどうやら私たちが寝ている間に水分を吸収しているようで、ベランダの植物たちも夕方や夜に水やりするのが良いのかなーと思う。
※よほどの猛暑の時以外は家では朝オンリーの水やりです。
夏の初めぐらいまでは成長・成熟期でもりもりと大きく葉っぱを伸ばして、今は一回り小ぶりな大きさとなって老年期に入ったようだ。
植物に成長期・老年期とはおかしな話でもありますが、スーパーで売られている野菜類は全部若い野菜たちばかりで、このような老いた植物は売られていない。
今こそ、食べるのか否かと決める最終判断の時期で、今、決断しないと本当に食べられない草となりそうだ。
三つ葉を食べないとすると土に植えることは可能ですが、この夏の暑さの中で土に植えたとしても秒で枯れるのは目に見えている。
なので、食うか?食わぬか?の実質の二択。

この三つ葉ちゃんとなりそめ?なれそめ?というか思い出を語る。
この三つ葉ちゃんは冬の寒い時期に芹鍋を食べようと芹を探していたのですが芹は無く、かわりに根付きの三つ葉を購入する。
そして、お正月に三つ葉が収穫出来たら良いなーとの軽い気持ちで芹を増やす要領で三つ葉を育てる。
しかし、なかなかに育たない三つ葉で、やっと芽が出たかと思っても茎が伸びるのもゆっくりで愛らしい。
気付けばお盆も近づく今日この頃で殺生するならば三つ葉のお化けが出るかもであり「さてさて、どーする、ゴーする竹野内さん」なのだ。
そう言えば、大量に羽虫が発生した事件もあった。
蚊の撲滅運動家の私は化学薬品を使用せずにパチパチとハンドでビシバシと虫を叩き潰すもので、これは大変な事件であった。
三つ葉ちゃんは洗面所の流しに水を溜めてどっぷりと浸し沈めて羽虫や汚れなどを洗い流して掃討するもので、この事件も一件落着する。
しかし、時折、虫は飛ぶもので三つ葉ちゃんを食べない限り羽虫の撲滅とは成らない。
なぜ?このような虫が発生する前に三つ葉を食べなかったのかと悔やむもので、自分でもなぜだろうと思う。
手がかかる子供程にかわいいとの諺もあるように、いろいろ思い出を生み出す植物の親密度も上昇するかもだ。
または、三つ葉をわざわざ食べる必要性もあまりない。

私は近代日本文学を貫く坪内逍遥先生にならい今日は写実主義を貫く誓いを立てた。
やっぱり文章とはありのままに写実的にジャーナリズム精神に則って三つ葉を食べるか否かについて書きたい。
しかし、ちょくちょくと私の中に浪漫が現れ出る。
困ったー困った。
三つ葉にどのようなロマンチズムが隠れているかと想像すれば、美味しい三つ葉料理が3つ浮かぶー浮雲・・・。

ひと~つ:
私の一押しは昆布出汁をとったお湯に豆腐を入れて三つ葉をたっぷりと入れた湯豆腐がオススメである。
茹でた三つ葉をカツオ節入りの醤油で食べれば硬い草も柔らかく美味しそうだ。

ふた~つ:
いやはや、料理は料理の専門家に話を聞くのが早いもので永久保存版の分厚い料理本を取り出して三つ葉の料理を調べる。
ここではインターネットとか言う便利なものを使わないことに悦になりながらの調べもので材料別のインデックスに三つ葉料理は無かった。ガックリ

みっつ~:
写実主義とは簡単にロマンによって侵食されるようで私の文章とは写実的な経験から浪漫への流れが一般的だ。
最終的にロマンのようで、お隣さんに「家で採れた三つ葉どす」と年季の入った三つ葉を持って行き気色がられる夏のホラー話だ。

ロマンチックは止まりません♪

 

*デスクトップ画面用の画像です。
■2026年8月10日(月)
■手づくり。
■2026年8月11日(火)
■一日一文章トレーニング。

「蝶除けトンボを置いたならばトンボがやって来た!」

台風15号が西寄り向かい上陸するそうな・・・。
まるで「台風18号」の歌みたいですが、私は朝からベランダの飛びそうなものたちを片付ける。
植物たちは風に吹かれていくつかの葉っぱを落とすであろう。
謎の柑橘系植物の新葉もイモムシに食べられなくとも台風一過の風により飛ばされるかもしれないので、今晩の風が強くなった頃合いで柑橘系植物は室内に避難させよう。

そう言えば、私、イモムシバスターはトンボのブローチを貰う。
ブローチは10センチ程のリアルなオニヤンマのカタチをしており百均で売られているもの。
トンボのブローチはリュックに付けて虫を威嚇して、キャンプや登山、外作業でも虫除けに役立つらしい商品のようで、イモムシの卵を産みにやって来る蝶の虫除け用として貰う。
どうやらオニヤンマは昆虫業界最凶の虫のようであり、虫たちは大きなオニヤンマを見れば怖がって近づかないようだ。
本当なのか迷信なのか?私は半信半疑ですが、さっそく、オニヤンマのブローチを窓際の柑橘系植物に向けて置く。
その効果があったのか無いのか、今のところ卵は産み付けられていない。

そう言えば、

オニヤンマのダミーを置いてから蝶はやって来ないようですが、野生のトンボは飛来した。
エアコンの排水以外に全く水の無いこのベランダにトンボが飛んで来ることが珍しい。
昨日の夏っぽい強い陽射しに風が吹くと気持ち良いもので、そこにトンボでも飛んでくれば小さな秋の気配も感じる。
トンボはダミーのオニヤンマからある程度距離を置きながら飛んだり止まったりとしているもので、私は蝶には超~蝶警戒中でもあるのでベランダの飛行物体はすぐに目で追い確認している。
トンボの大きさは8センチ程、ぼてっとした尻尾の色がメタリックがかったやや紫色なブルーでとてもキレイ。
調べるとオオシオカラトンボと言うようで胴体部分は青色というよりも黒っぽいトンボでもあった。
ビュンビュンと空を飛行していたならばオニヤンマのブローチが気になり寄り道した感じで、トンボは観葉植物の葉っぱに止まりゆっくりと休憩している。
調べるとトンボの目は何万個の複眼で出来ているようでとても目がいいようだ。
そして、ホバリングして右や左にクイック方向転換出来るような運動能力も高いもので、飛行中の蚊や虫も容易に捕まえて食べるようだ。
そもそも、トンボの元々の姿と言えばヤゴである。
ヤゴとは私が知っている限り大きな鎌の手を持ったとても獰猛な生き物で、水のドロ底から自分よりも大きなメダカなどを襲い捕食する生き物でもある。
そのような元ヤゴがトンボに変態したとあれば、虫たちにとっても怖い生き物であることは間違いなし。
イモムシが葉っぱの上から蝶として羽ばたくことはまだ何となくわかりますが、水の底に沈んでいるヤゴがなぜ空に向かって飛び立とうと思ったのか謎でもある。
水中と空中という人間が一度も生命活動しない世界で二度の人生を送る変態ぶりで、トンボの生態とは驚きでもある。
私はトンボの詳細をもっと知りたく思い窓に近づくと、トンボはブワーっと一直線に8月の高い空に逃げてしまう。
生命とは本当に不思議だ。

 

■2026年8月11日(火)
■いのしし。

*デスクトップ画面用の画像です。
■2026年8月17日(月)
■一日一文章トレーニング。

「お盆休み中は毎日が雨で、毎日10時間睡眠をしていたお話」

この前に購入したもともと安いリネン製のズボーンの生地が柔らかくてカタチも好きでもう1本欲しくなる。
そして、それが1000円引きだと知り雨の中をお買い物に出かける。
本当は前日に出かける予定でした雨予報で動く気力もなくて、その雨降る日に動くこととなる。
家から出た時はまだパラパラと降る小雨で傘を滅多に傘を開かない我が一族は「このくらいの雨ではまだまだ傘はささん」と意地を張る。
しかし、歩いて信号を渡るぐらいまで進むと結構な大雨となり素直に傘をさす。
そして、いつも雨に降られた時に雨宿りする場所も越えて「まだまだ進むのか?帰るのか?」とルート的には電車乗る選択肢はもう無い。
そして、タクシーや電車に乗れば1000円割引は意味も無く、本当に現金な奴らとは困ったもので1000円割引に惹かれてとんでもない雨に打たれる。
大雨もひどくなる道半ばの大きなビルの下で雨宿りしていると空もピカピカゴロゴロと道の先も雨で霞んで見えなくなる。
これは鎌倉の寺参りの時やせっかくの野球観戦が大雨で中止みたいな誰が大雨を呼ぶのかと泥のなすり付けあいとなる。
雨はザザザーと波紋を作りながら降るもので、雨レーダーやインターネットで調べると雨は5時頃に止むようでまだまだ先の話だ。
少し雨が小降りとなった頃を見はからい前進するものの、しかし、雨はすぐに「ひえー」とスゴイ大雨となって、靴もびしょ濡れ、服もびしょ濡れで上野の街に辿り着く。
さっそく、我らは大雨の中であちこち回ってお買い物をして、途中ベローチェでコーヒーゼリーを食べてと無事に1000円引きのズボ~~~ンも買う。
服も乾いて、そろそろ雨も止む5時頃なので小降りの中をてくてくと帰路につく。
しかし、道を進んでいるととんでもないザーザーの大雨となるもので坂道は川のような濁流となり、鮭の遡上のように上り雨はシャワーの如くで全身びしょ濡れとなる。
もうただただ寡黙に歩くだけで家に着いたならば、廊下を歩くと床に水たまりが出来て、カバンの中身もびしょ濡れで救出し、服を脱いで洗濯機に入れる。
「ふー」と床を拭いてカバンも干して、全てを終えて「つかれたー」と横になっているとそのまま寝てしまう。
2~3時間ぐらいは寝たであろうかとムックリと起きて無言のまま動き出すもので大雨で降られたぐらいでこんなにも疲労する我らでは山に登れない。
勿論、山登りする予定や趣味も全くありませんが、山で遭難や動けなくなる人のニュースをみる度に我も「そーだそーだ山を舐めるな!」と思うもので、上野周辺のお山を上り下りするだけで疲れてしまう体力ではすぐにギブアップ緊急通信を発動してネット民に叩かれてしまう。
そのような体力の無さを議論していたならば、大雨は本当に結構スゴイ大雨で千葉などで水害の被害も出る。
我らはスゴイ大雨の中から生還した。

とりあえず、お盆の間はよく寝ていたもので10時間ぐらいは寝ている。
寝すぎると何だか頭も痛くなるものでコーヒーを飲んで、お盆の間にどのような霊魂が帰ってきたかと思いを巡らす。
私の夢にはどのような霊魂が出てきたかと思うと、行ったことも縁も無い寝相の悪いミイラの夢を見る。w
ミイラとは人生ゲームの駒やマッチ棒のようにまっすぐなような気もしますが、夢の中のミイラは寝相が悪くて足を曲げて寝ていた。w
私はミイラに「何で寝相が悪いねん」とつっこんでいるもので、眠り眼に写真の名画を布団の中で書き留める。w
絶対に夢診断はしないでね☆

寝正月でもないのに寝すぎた毎日で、電球のコントローラーも寝すぎたようでスイッチのON・OFFが作動出来ない。
早速、電池交換してスイッチを押すもうんともすんとも動かないもので、最近、何かの電化製品が故障気味なことも多い。
今度は照明が壊れてしまったのかと壁のメインスイッチをカチカチとするとライトは点いたのでコントローラーの故障のようだ。
動かないコントローラーを照明に向けてチャンネルを変更して何度もボタンを押すも動かずに「あーこわれた、こわれた」とコントローラーを布団に向かって投げられる。
コントローラーは布団上に転がり寝相の悪いミイラのようだ。
私はそのコントローラーを拾い「壊れるよー」とすでに壊れてしまったコントローラーを照明に向けてスイッチを押すと照明はパッと明るく点いた。
投げた衝撃で電化製品とは直るもので、お盆の時期とは本当に不思議なことが起こる。

なんまいらーなんまいらーなーむー。

 
■2026年8月17日(月)
■い・の・し・し。
■2026年8月18日(火)
■一日一文章トレーニング。

「時間を戻してカナブンをつかまえたい・・・しだらなお話」

ベランダの植物たちを観察していると鉢の土の上に黄金色に輝く何かを見つける。
凝視すると金色に輝くカナブンで、私はそれに掴もうとする。
最近、セミやカナブンの死骸が道に転がるような季節でもあり、死んだキレイなカナブンは拾って捨てようと思う。
しかし、そのカナブンは元気にピンピンと生きており私の指の力を跳ねのける怪力で土を掘って中に潜ってしまう。
カナブンと言えば空を飛ぶ生き物で、土に潜るカナブンとは想定外でビックリ。
最近、蝶々の産卵から植物の虫食い警戒の儀が出ているもので「あーあー」と何だかとんでもない失態をしてしまったような予感。
さっそく、私はインターネットを検索してカナブンが土に潜ってしまう事柄について調べる。
どうやら、カナブン系にはカナブン・ハナムグリ・コガネムシと3種類いるようで土に潜って産卵するのでしょうか。
カナブンとハナムグリは益虫でコガネムシの幼虫は根っこを食べる害虫となるそうな。
昆虫博士でもないので一瞬見ただけでどの種類なのか皆目わからず、覚えていることと言えばキレイな黄金色に輝いていたぐらい。
コガネムシだとするとこの木は幼虫に根っこを食べられて弱るであろう。
もともと、寒い季節になると元気もなく春の雨によって大変弱る観葉植物だ。
大きな鉢に鉢替えして幼虫を掘り出すのも面倒だし幼虫が出てきたとしても何だか怖い。
ニワトリでもいれば鉢から掘り起こして「さあ、どうぞ」とツンツンと餌にもなるかもしれませんが、また一つどーでも良い悩み事が増える。
本当に、本当のところその辺に樹木なんていくらでも生えているのになぜ?我のベランダの小さな鉢に潜るのであろうか。
確かに我が家の鉢の土は腐葉土を使い二番煎じのお茶のパー・カスを撒いてフカフカと土壌改良はしている。
しかし、虫たちにはもっとその辺に大きな世界が広がっているもので、なぜこの小さな鉢なのか?と疑問も深まる。
個人的な生活圏や墓場も含めた範囲のことですが、夏なのに一部枝の枯れた樹木や桜の木の弱り木なども多々見かける。
これら樹木の弱りとはウクライナ戦争以前はあまり見なかったような気もするもので、土作りというか維持管理とはとてつもない労力とコストがかかる木だとすれば、これもまた肥料などのインフレが一つの要因のことなのか。
自分に出来ること言えばお茶のパーを撒くぐらいで、お茶の葉カスが絶対的に植物に良いとの確証も無いもので自分の領域内で試すぐらい関の山だ。
私はカナブンが土に潜った鉢と土の間に出来た隙間に茶葉をたっぷりとふりかけ詰める意味不明な行動をする。草

できれば、金色のカナブンを捕まえるシーンまで戻りたい。
黄金の虫はキッチリとしっかりと捕まえて遠くにポイッと投げ捨てて一件落着。w
そう言えば、昨日の寝相の悪い「ミイラ」と「未来(みらい)」とは良く似ている言葉だ。
ネット情報によるとポルトガル語とやら何やらと語源の由来なそうですが、私の見解だとどちらも未来に向けた概念でもあり江戸っ子的な逆さ言葉な語感も読める。
因みに、有名な「ミイラ取りがミイラになる」との諺を「未来取りが未来になる」と読んでも何だかしっくりだ。
この諺は人を連れ戻しに行った者が逆にその場所に留まる未来の事柄で、説得に向かった者が相手と同じ意見となる未来のことでもあって、ミイラを探しに行った人がかえって探されミイラとして発見されるような未来を暗示する。
逆さ言葉とは業界用語でもあり、江戸の粋でもあったようで語感で遊ぶものだ。
逆さ言葉を調べていると「だらしない」という横着者の定番の言葉が、もともとは「しだらがない」と言っていたようですが、今や「しだらがない」と話す人は皆無である。
使用されるのは「しだら」とは「ふしだら」や「自堕落」ぐらい。
逆さにした江戸っ子言葉の「だらしない」が現代に定着していることが大変面白い。
そのように考えると逆さ的に言葉をひっくり返すような未来やミイラの言葉も強ち無きにもあらずと勝手に思う。
勿論、何の根拠もありません。
ちなみに、未来という概念はいつから存在していたこと調べると聖徳太子の時代から文字として残されているようで、浦島太郎など昔話でも時空を未来に飛ぶようなお話も多い。
「あーカナブンよ」何で鉢に潜ってしまったのでしょうかー。

 

*デスクトップ画面用の画像です。
■2026年8月18日(火)
■scos
■2026年8月19日(水)
■一日一文章トレーニング。

「道中すべて膝栗毛です」

カナモゲラ・ハナムゲラ・コガネゲラと夢の中でも鉢の土に潜ってしまったカナブンが気になるもので、私はある決断を胸に刻む。
そして、私はうなされる体を伸ばしながら気持ち良い朝を迎える。
昨晩はクーラーの効いた部屋が寒く、薄い毛布を引っ張り出して寝るものでなかなかの快眠であった。
涼しい部屋に温かい布団とは最高である。
昨日も8月の強い陽射しでもあるものの夜は何だか寒い。
そう言えば、
関係ないけれども、昨日は私の鼻が久しぶりにクンクンとPM2.5的な微粒子な異物を感知するもので、何の微粒子なのか?わかりませんが何かを感じる。
我が家には4本の低木がありますが、これらは直射日光を遮る傘のような樹木である。
去年、一昨年・・・ここ数年の猛暑で多肉植物やサボテンなどの暑さにも強そうな植物たちでもぐったりと夏バテするもので、小さな木陰を作り出す低木を育てている。
木陰があれば植物たちも快適であろうし、窓からの熱量を低減すれば室内空間も快適になろうかと思っている。
木陰ができれば幾分涼しげだ。
街中でも木陰の下を歩くのと炎天下の道を直進するのでは雲泥の差があるものだ。
このベランダに木陰を作る小さなプロジェクトは多少の低木があったとしてもそれほどの木陰は出来ないことがわかる。
樹木の成長とはゆっくりとであり、しっかりとした木陰が感じられるのはいつ頃なのかと考えても先の長い話でもある。
そして、このベランダを涼しくする作戦の中で面白い発見もある。
それは低木を育てるよりも、猫じゃらしのような背丈の高い鉢の雑草を育てている方が涼しげである。
雑草を育てているとは変なことですがこれは間違いなく現実で、雑草の方がすぐに低木サイズに大きく成長し、風でも吹けばさらさらと涼しげに動いて風流で細長い草の木陰も随分と涼しそうである。
なので、ベランダの涼とは最近は低木より雑草かなと思ったりもしている。
雑草ならば水やりを怠り枯れても気にならないし、放置しても全く枯れない生命力も持っている。
また、天に向って伸びる長い草がゆらゆらと動くだけで風情もあるもので、これは侘び寂びというか?何というか?そんな感じである。

そのような毎年ちょっとずつしか成長しない低木の木の根っこがコガネムシの幼虫にかじられるかもと思えば心苦しいものですが、一晩寝て考えて我が家には4本の低木があるので今回のカナブンなにがしの騒動は見逃す決断をする。
本当のところは土を掘り返すのが面倒なこともある。
わざわざ薬品を買ってまで虫を殺すことでもはないし自然は自然に任せる。
1本は南国的な低木で、もう1本はカナブン入りの観葉植物の低木で、もう1本はオリーブの木の低木で、もう1本が蝶に狙われている謎の柑橘系植物の低木である。
来年、1本の木が枯れるか否かの実験でもあり、新しい話の種も仕込む。
そして、低木はまだまだ3本もあって雑草もあるので良しとする。

ということで、

涼しい部屋の中で薄い毛布に包まり眠ることは快眠だ。
私はムックリと起き上がり布団の上で正座してネットを見ながらの寝起きのぼーっとタイムを過ごす。
リンクを押してスライドさせて画像を拡大アップして「どれ?どれ?何?何?誰?誰?」と眺め、何をしているかと溶けていくような時間を過ごす。
何分経ったであろうかと座敷童のように正座でネットをみているもので、布団の上の正座とは良いものだ。
何だかピリッとちゃんとしているようで、ぼーっとしたネット三昧の長時間正座で膝小僧の裏からたらたらと汗が流れ出る。
さてさて、わーもそろそろ動くかと、やっぱりわーは動けないもので、よたよたと立ち上がると布団にタラリと落ちた膝小僧裏の汗が小さな湖を作る。
膝小僧の裏からは何だか汗はよく出る。
この膝の裏の部分は何と言うべきなのかとの謎ですが、そもそも膝小僧というネーミングも謎である。
私は自分の膝小僧をまじまじと眺めるもので、どこからどう見ても小僧には見えない。
膝小僧の別の名を調べると「ひざがしら」とも言うようで足の頭みたいな例えだ。
膝の裏部分はひざ尻というべきなのかの何なのかですが、医療用語は日常用語的では無いのでここでは無視して「膝小僧の裏側」とする。
膝とは東海道膝栗毛と馬代わりに旅を共にする友であったり、膝頭で歩いて江戸に行っても苦労や労力は報われなかったり、時に膝は笑い、困った時には膝とも談合することでどんな人でも相談すればそれだけの利益もあったりするそうで、膝枕に頬杖(ほおずえ)と気楽な様子の、膝には感情豊かな何かはある。
ならば、膝裏から汗が出ることにはどのような諺的な意味があるのかと考えるものである。
そして、カナブンの地下世界ルートと膝小僧裏の汗の湖ルートの2分岐妄想も確保する。

そんなかんなで、意味のないことをたらたら書いていると、目の前をアゲハチョウがひらひらと飛んでいく。
私は飛び跳ねてトンボのブローチを手に持ち水戸黄門のように「このオニヤンマが見えないかー」と蝶を追い払う。
オニヤンマをブンブンと振り回して蝶を追い払うものの、蝶は全く逃げないし逃げる様子も無い。
仕方がないのでマジックハンドを取りに行きカチカチと一家に一台の至高の棒を振り回し蝶を追い払う。
蝶はひらひらと旋回して逃げては再来し、あともう少しで蝶をマジックハンドでキャッチ出来そうでしたが取り逃がす。
そしたら、モンシロチョウもひらひらと飛んできて追い払う。
蝶も運が悪く超蝶警戒中のわーに見つかり追い払われ、わーは「はぁ~はぁ~はぁ」と土を掘ったカナブンを見逃しましたが蝶は決して許さなかった。www

 
■2026年8月19日(水)
■ON・OFF

■2026年8月20日(木)
■一日一文章トレーニング。

「ベランダで雑草を育てて日陰を作る雑草魂が気になる気になる」

道に落ちているいろんな種を拾っては鉢の土に植えて、美味しい果物を食べては種をそのまま土に埋めていると、新芽が出た時にどれが雑草でどれが雑草でないかと皆目わからない。
なので、我が家の草抜きとは植物もある程度成長させてから雑草なのか否かと調べて引っこ抜く。w
しかし、明らかに見つけてはすぐに引っこ抜かれるような雑草もあり、それは我が家の不動の雑草キングでもある不死鳥だ。
この植物は放置していると名前の不死鳥の如く他の植物を押しのけながら侵食するもので他の鉢でこれを見つければ問答無用に引っこ抜かれてゴミ箱行きだ。
しかし、その不死鳥でさえベランダ隅っこのいらない鉢で一応ひっそりと種は残すもので、他の植物との鉢の境界線さえしっかりと決めれば、面白いことに他の鉢にはあんまり広がらなくもなる。
今、育てている三つ葉も食べることの出来る雑草だ。
実家から持ち帰った“やぶらん”や多肉植物も言い換えれば雑草である。
ある意味に於いて、我が家の園芸とは購入した素敵な植物と雑草の混合で、植物の雑草とそうでない植物の線引きもまた人の匙加減次第でもある。
昨日書いた低木サイズに育ち日陰を作る猫じゃらしは画像検索によるとエノコログサと言うようだ。
道で見かけるとザ・雑草の王道植物でもあり、そのような雑草を育てることはおかしなことだ。
エノコログサが育つ鉢には以前、食用の芹を育てていたのですが芹もなくなり土だけになった鉢に自然発生的に生えた。
最初に草が生えた時には芹が復活したのかとも思うもので、暫く放置していれば腰ほどの高さまで立派に育ち猫じゃらしを付けて、これは「雑草だったのだー」と馬鹿丸出しである。
猫じゃらしは他の鉢に種を飛ばしても困るので一応見つけてはチョキチョキチョッキンと伐採して猫じゃらしは捕獲して保存する。
さて、カットした猫じゃらしはどうしようかなーとなるものですが、これは他の鉢に雑草が広がらないような気づかいである。
凛としたエノコログサの佇まいも素敵なもので、また、夏の強い陽射しをカットして程良い日陰を作る機能面の良さにも気付く。
樹木が作る陰とは図のような面で覆う日傘のような木陰だ。
街路樹だと体感温度も数度下がるような気持ち良い日陰ですが、ベランダに大木は生えないのでベランダの低木の木陰とは足元に影を落とす小さな陰となる。
人が涼むには小さすぎますが、植物たちの木陰と思えばそれなりの日傘にはなるもので、一方で低木とサイズの変わらないエノコログサも同等の日陰を作り出す。
エノコログサの日陰は格子戸のような日陰で日光のカット率は樹木程ではないのかもしれませんが、風が吹き草も揺れれば木漏れ日がちらちらとするような趣きのある木陰で下の植物もしっかりと光合成出来て、私も結構好き。
何せ、エノコログサとは定番の雑草で水やりを怠っても枯れることも無い横着者の友みたいでもある。
そして、そのような雑草を水やりしながら大切に育ててれば肌を切る鋭い刃の葉も優しい柔らかい葉となるもので、これは大切に育てればトゲも無くなるサボテンと同じだ。
植物はフレンドリーに育てると、それなりに植物も心?を開くような不思議。
なので、最近はベランダの日陰対策とはエノコログサのような雑草を育てることがベストではなかろうかと思う。
1)落ち葉のゴミを落とさない。
2)虫は葉っぱを食べない。
3)移動する時にも樹木ほど重くならなく軽量且つ適当に扱える。
4)土にカナブンが潜っても全く気にならない。
5)何よりピーンと天に向かってって伸びる雑草の佇まいがとてもエレガントだ。
6)水やりを忘れても大丈夫で、道端に生える猫じゃらしを思い出しても全く枯れずに皆元気ピンピンである。

よって、令和9年度の夏から雑草時代が予感するもので、どうせ育てるならば同類の“あわ”とか食べることも出来て大きく育ち日陰も作る植物を育てれば猛暑の夏にぴったりである。

・樹木の日陰は日傘のような面で影を作る。
・エノコログサの日陰は格子戸のような風で揺れる影を作り見た目も涼やか。

どうやら、建築などでは床面積の1/7以上の窓の採光有効面積のルールがあるようで、私も同じようにベランダ面積の何%ぐらい日陰を確保すればエアコン代金を節約できて涼しく過ごせるものかと思う。
これは自然を取り込み庭を作る草の侘び寂びなのである。m(_ _)mT
エッヘン!
さあ、夏草探しを始めるゾ。
エッヘン!

そして、
蝶が今日も謎の柑橘系植物に卵を産みにキター、マジックハンドで成敗であーる!!
ぷんぷん!!
そう言えば、昨晩、飛行機が月を横切るのを見た。

 
■2026年8月20日(木)
■ぶひぶひ。

*デスクトップ画面用の画像です。
■2026年8月21日(金)
■猪突妄進中。
■2026年8月24日(月)
■一日一文章トレーニング。

「アゲハチョウのバトルはまだまだ続き、点と点と結ぶ線は人の性格を一端を表しているように思う」

昨日、野菜もたっぷりと食べたお通じも大変よろしゅく長~い長いトイレから戻る。
すると、窓の外を飛ぶ1匹のアゲハチョウあり。
蝶は謎の柑橘系の植物の葉っぱに止まり羽をパタパタとさせて葉っぱから葉っぱに飛び踊るもので、私がトイレに入っている隙に蝶は舞い「あーこれが蝶のダンスだなー」と思う。
いやいや、蝶のダンスだと悠長な気分に浸るものでもない。
蝶は私が大切に育てている植物に卵を産みつけて、その卵から生まれた緑色の気持ち悪いイモムシ(生まれたては落ち葉みたいな真茶色)は新葉をムシャムシャとキレイに食い尽くし禿山とするもので、今やアゲハチョウとは私の天敵でもある。
私は手に武器を持ちてただ一人モスラに立ち向かうもので「大変だー大変なのだー」と急ぎ慌ててマジックハンドを探して掴み取る。
そして、窓を開けてカチカチと威嚇しながら蝶を追い払う。
私がこの謎の柑橘系植物の葉を守らなければ「誰がこの植物の葉っぱを守るのか!」である!!
ベランダでチェンソーならぬマジックハンドを振り回し、この町内で一番怪しげなホラー映画のように蝶から鉢を守る。
とても邪(よこしま)なのですが、本当にいつの日か美味しい果物をつけて恩返してくれることを期待している。
もし、東京湾からゴジラやモスラがやって来たならば・・・私はマジックハンドを持って立ち向かうであろうか?
「イエス、オフコース、アイハマジックハンドヲモッテニゲルダス」
蝶は毎度の如くひらひらりと私の攻撃をかわすもので、一旦逃げたふりをしてから時間を開けて再び襲撃する知能や空間能力もある。
なので、長期戦だ。
蝶の卵を産んで種を残す執念もなかなかですが、私に見つかった蝶の命運も尽きるもので、蝶もその内に諦めてどこかに飛び去る。
いやはや、この夏は三回目のモスラの襲撃だ。
※本当はもっとあるのかもしれませんが目視したの3回。
それにしても、何度もこのような小さな鉢の新葉を狙って蝶が襲撃するとはとても不思議だ。
私の勝手な予測ですが、この蝶はイモムシ時代に育った環境がベランダの植物ではなかろうかと思う。m(_ _)mt草
蝶はどこかのベランダの放置された鉢植えからイモムシとなって、育っては蝶に変態し、ベランダの植物が気になり建物から建物へと移動するベランダ生まれベランダ育ちの予感である。
それ以外にこのようなベランダの小さな葉っぱに卵を産む理由が思いつかない。
おそらく、この杜王町のどこかにイモムシがぬくぬくと育つ蝶の発生源の鉢があるように思う。
考え方によってはベランダの鉢に卵を産めば木に止まって涼むような鳥の大群もいなく、花咲く蜜のある植物も多いかもしれない。
ベランダに鳥も少なければ幼虫が食べられる確率も少ないもので、そして、ベランダには人の気配や人の活動、音も多い。
鳥もオチオチと落ち着かないベランダにはイモムシが食べられる機会も少ないことは確実だ。
天敵の鳥も近寄ることも少ないものであらば、街中のベランダの植物とは蝶々が育つ場所としては最適な場所かもしれない。

私は窓から柑橘系の植物を眺めて卵が付いていないかと探す。
物凄い凝視で見るもので、この集中力や執念を別の事柄に使えば良い成果も上がるかもしれない。
そして、新葉のてっぺんに丸い小さな黄色い点のアゲハチョウの卵を発見する。
やっぱり、もうすでに産卵はしていたようで他の葉っぱをくまなく見れば、もう一個卵も見つける。
私はさっそくピンセットでその卵を掴み取る。
卵は葉っぱに結構強力に粘着するもので、しっかりとピンセットで掴み葉っぱから剥ぎ取る。
まだまだ卵は産んでいる可能性もあるもので、ベランダの外に出てしゃがんみ上から下からと隈無く探す。
そうすると、合計5卵を発見する。888
蝶はやっぱり空間能力があるようでもあり、卵は一箇所にかたまらないように分散して産み付けられている。
これは幼虫がエサの柔らかい葉っぱを取り合うことを防ぐような考えのように思うもので、生える新葉に分散するように産卵する。
卵の全ては剥ぎ取りベランダに捨ててスリッパでグリグリと踏んづけて潰す。
どっちがゴジラかモスラなのかよくわかりませんが、とりあえず、全ての卵を排除した。
しかし、油断大敵なので今朝も大きな目を広げて卵を探して警戒モードだ。

こうして、

私はアゲハチョウの点である卵を潰し、点と点は線を結ばれて事件の概要をだんだんと明らかになる。
そして、私は関係ないのですが無地ノートに点と点を描き、その点と点を線で結ぶ線も描き罫線を描く。
私は蝶の小さな卵を見つけるような根気でせっせせっせと線を引き、巷ではこれほど無駄な線は無いとも言われていますが、自分で罫線を引くノートの界隈ではもう常識かもである。w
ノートの線とは自分で無地ノートに線を引くものだ。w
昨日は2ページ罫線を引きとても疲れた。
当然思い出したようにしか線は引きませんがやっぱり1日2頁ぐらいのペースが良いもので、全部の罫線が埋まるのはいつ頃かな。
勿論、蝶の卵な点を探し潰しているだけでも汗だくで疲れるのに、まだ一文字も書かないただただ罫線だけをノートの線を引き自己満足している。
罫線を引きながら思うことは線引きとは何だか性格が現れる。
先ず、無地ノートに罫線を引くにはそれ相応の気合と根性がいるもので、そもそも、無地ノートにオリジナルの自分だけの線を引こうと思う動機もなかなか生まれない。
真っ直ぐなキレイな線を引けないと全てを投げ出したくなるような人もいるかもしれないし、雑な線でも引けたら良いと思う人もいるかもだ。
私の線は雑にも見えるかもしれませんが、これはこれで一生懸命に丁寧に引いた線の結果だ。
人によってはどこかのコピー製品のような線を引きオリジナルな自分だけの線を生み出さない性格の人もいるであろう。
そして、罫線の種類もさまざまで極細の線を好む人や、研究者などは横罫線よりも方眼線を好むような傾向や、お気に入りの線も人それぞれ。
昔、お取引様の営業の方に文字を定規の線を引いて美しい文字を書く人もいた。
やっぱり「線を引く」とはその人が持つパーソナリティな何かの一部を体現しているように思い、いろんな人の引く線を見てみたい。

 
■2026年8月24日(月)
■A連打。
■2026年8月25日(火)
■一日一文章トレーニング。

「葛藤の先に個性を見いだす」

方眼の線を引く。
線を引くことがなぜ?引き算のような「引く」言葉となるのかと不思議ですが、水道を引き、綱を引っ張るように線を引きながら罫線は加算される。
恐らく、線を引くこととは足し算、引き算のような損得勘定で引いては駄目なようで、無心で線を引くことで何やら足される線もあるかな?である。

白い紙に青い線が素敵で四角い枠が並ぶとそれだけわーは大変満足だ。
そして、方眼線とは全部同じカタチの正方形で揃えたいものですが、世の中の線とはそうは問屋が卸さない。
完璧な方眼線を引こうと思えば、タテ・ヨコ最初から計算した正方形を描かないと枠内にキレイに収まらないもので、わーの場合には無計画に線を引いて写真のようになる。
真ん中に正方形では無い歪な長方形の間があって、その寸法の四角形でページ内に方眼がキレイに収まるように調整している。
「昨日、私はどこそこに行き何々をした」みたいな文章を書こうとすると一字の枠がとても小さくなってとても書きにくい。
このような歪な長方形は端っこに持ってくれば多少使いにくさも軽減されて実用性もあるかもですが、ド真ん中に配置するのがわーなのである。
こんな使いにくい線は絶対に商品化されない罫線のノートであり、自分で線を引かないとゲット出来ないレア罫線でもある。
そのような意味に於いても、ノートの罫線とは自分で線を引く意味はあるものだ。
そして、誰のプラットフォームに乗らない感じはすこす個性的でもある。
そもそも、方眼線使いとは枠の中に一文字入れるような概念もなくグリッド上を縦横無尽に文字を走らせるランナーのようでもある。
私が5ミリ方眼を使えば枠内に一文字入れたくなるような蟻の字を書いてしまう習性とはまた異なるスタイリッシュな人達だ。

これもあれもある意味で個性と言えば個性的な線ですが、果たして真っ直ぐに引く線に個性はあるのか?ないのか?である。
自分で罫線を引いていれば上記のような様々な葛藤もあって、そこから個性が生み出されるような気もする。
言うなれば、葛藤の無きところに個性とは皆無であり、世の中の個性と言われるもののほとんど虚像のように見える。
私は意味も無く無心に線を引き、自分が書いた線と願望の線が折り合う葛藤の先に個性を見る。
残念ながら右から左にコピーしているだけの事柄に個性はない。
そもそも葛藤(かっとう)とは何かと調べると同じツル科の草のクズとフジがもつれあい、悶着、絡まりながら争う様のこと。
昔の人はいつも上手に言葉を紡ぎ出したように思うもので、これは自分の中の高貴とクズの葛藤なのである。
藤は薄紫色の高貴な花を咲かす有難い植物で、一方の葛は以前も書いたようなクズと呼ばれる雑草で、それらが絡まり何だかよくわからないカオス的な難題となる。
配線が絡まりその線をほどくこともまた大変な葛藤で、そのような配線を独自の視線と解決方法で整理する方もリアルな線の絡まりを解きほぐす個性である。
種類の異なる植物が絡まれば、どちらも生息域を広げることであり蔦を解くことも根気も必要で、それを解き出すものが個性なのである。
たぶん・・・
このような立場に立つと個性とは最初から持っていたり、与えられたり、自然と身につくものでも無い。
わちゃわちゃといろんなものが絡まりカオス的な中からその糸を解いた人だけが生み出すことが出来る特別なものだ。
例えば、何十頁と罫線を引いた先に線がとんでもなく曲がってしまえばキレイだったノートも一瞬で汚れて何だかやる気も失せる。
私は生まれつきの潔癖症な性格でもあり、その失敗の山を越えることは難しきこと。
しかし、その山を越えて再び意味も無く線を引きはじめれば、絡まった蔦を解けるような気もして何か違う自分を見つけたような気もする。
何本も線を引いていれば、定規を抑える手の部分の反対側の定規がグラグラとすることに気付く。
これは手で押さえる部分が支点となって、力強く定規を押さえ続けないと反対側の定規の端が動いてしまい線も曲がってしまって台無しだ。
解決としては当たり前かもしれませんが、線を引くならば押さえている手と反対側の定規から線を引けば線が曲がってしまう確率も減少する。
それら失敗を乗り越えた先に個性的な線もあるような気もして、ここでは線を引くことで個性について語っていますが、葛藤が生まれるものであれば何でも同じことのように思う。

 

■2026年8月25日(火)
■いのしし

■2026年8月26日(水)
■一日一文章トレーニング。

「葛藤を図にした」

昨日から再び「暑い暑い」と暑い夏が戻ってキター。
暑くなるとやっぱり街の街路樹の大切さを強く感じるもので、街中にももっとたくさんの木々を植えてシルブブレ!
高高度な宇宙空間にとても大きな日傘を広げて太陽光をカットする未来も良いですが、やっぱり樹木の下を歩けばそれはとても心地良い。
何が心地良いかと考えても、葉っぱが遮る太陽光の木漏れ日も優しいし、吹き抜ける風もまた涼しくて、ピーピーと鳴く鳥たちの歌声さえも気持ち良い。
そして、そのような日陰を作る専門の植物と言えば藤の木だ。
神社仏閣の境内の藤の木はお手入れもされて綺麗なお花も咲かし平安絵巻の一幕のような雅さはある。
一方で公園ベンチ上の藤の木はどうかと思い返すと花が咲いている記憶も無くて、単に木陰だけを作る機能性を追求した植物でどこか野暮ったい。
境内の藤の木と街の公園の藤の木で、どうしてこんなにも高貴さに雲泥の差はあるかと思うもので、植物にとってお手入れのある・なしは重要かも。
※もしかしたら種類が異なるのかもしれない。
我が家の雑草のエノコログサでさえ猫じゃらしを見つけてはカットしながらお手入れすると凛と伸びた草波の揺らす風情はある。
それは雑草と言うよりも風で揺れる稲穂やススキのようだ。
世の中の暇人たちが揃いに揃って蜂起して街の植物たちをチョキチョキとボランティアでお手入れでもすれば街緑化は素敵となるのでありましょうか?
明治神宮の森は人の手を入れないことで素敵な森を作るものだ。
材木資源のある山や里山は人が手入れしないと荒れると言う。
藤の木は人の手が加わることで美しくもなる。
どれを信じたら良いのか植物たちの正解とはよくわからないものですが、森はその気候にあった植物を時間をかけて自然に淘汰しながら育み、庭は人工的に作り出して造形するもの也哉?

都内で藤の木を愛でた記憶は無い。
藤の木と言えば神社仏閣に公園と公共の植物で、ベンチに腰掛けてクックルと地面を歩く鳩を目で追うことはあっても「あーこの木は藤の木だなー」と見上げるようなことは無い。
昨今だと街中から日陰にするようなベンチが消えているようなニュースもあったような気もしますが、そもそも公園に行かないので藤の木の印象が完全に欠落している。
そして、ベランダ緑化を企む私は天を這い天然の木陰を作り出す藤の木がベランダの低木候補として適しているような予感だ。
ベランダに藤棚を組んで藤の木を這わせれば天然の屋根の完成で何だか全てが解決しそうである。草
そして、台風でも来れば藤棚も壊れてしまうので、できるだけ低木の高さで這わす藤の木陰である。
※横に伸びて広がる植物はサボテン三兄弟からもコテっと倒れて大変なことになることを学習しているので、やっぱり家庭の園芸としては難易度は高そうだ。

ということで、

昨日の「葛藤(かっとう)」が葛(くず)と藤(ふじ)が絡まって争う感じが気になって図に描く。
そうすると、葛と藤は全く異なる領域で育つ植物であることを知る。
藤の木は天上に枝を伸ばし屋根を作るもので、葉や紫色の花を地面に向かって垂らす植物だ。
葛は地面を這って地を覆いながら繁殖するもので、天に向かって赤紫色の花を咲かす植物でもある。
これらは全く正反対な植物であることが何だかとても面白い。
図から「葛藤」を解釈すると、野生の葛と藤が大繁殖して天と地の境界線もなく絡まりカオスとなるもので、これは水と油のような別物が混じる悶着である。
そして、仏教の禅宗では葛藤が「問答」のことを表すようで正に葛藤なのである!

 
■2026年8月26日(水)
■かわいくなーれ、かわいくなーれ、お願い。
■2026年8月27日(木)
■一日一文章トレーニング。

「いただきます」

と、

昨晩、約9ヶ月間自宅の窓際で大切に育てていた三つ葉を食す。
何だかんだと結構長い間一緒にいた草でもあり、食べるとなると何だか心も痛む。
おもむろに水耕栽培の鉢から三つ葉を取り出して、大きなまな板の上にドンっと置き、正にまな板の鯉というのか三つ葉の根と茎の隙間にザクリッと包丁を入れる。
羽虫などがいたならば嫌だなーと思うものの虫は1匹もおらず一安心ですが、小さな蜘蛛が一匹テーブルの上に飛び出す。
私は慌てて掃除機を取りに行くもので、その蜘蛛をゴゴゴーと吸い取る。
掃除機とマジックハンドを取りに行く動きとは普段の私とは異なる機敏な動きである。
夜の蜘蛛は殺してはいけないとのお話もありますが、掃除機で吸っただけなのでギリギリセーフ。
「あーあー」私は蜘蛛の糸にも三つ葉の根っこにも引っかからない地獄変なのかと淡々と三つ葉を仕込む。
1カットして、2カットして、3カットとすると魔女の薬草みたいな三つ葉の香りがプ~ンと部屋に漂う。
これは三つ葉の最後のメッセージであると思うものでクンクンと良い香りだ。
鉢植えの時からこのような香りを出してくれれば尚良いものですが、三つ葉の香りとは草葉を切る時にしか出てこない。
黄色くなった茎や分厚く固そうな大きな葉っぱ、ゴミを取り除き、キレイで美味しそうな部分だけをザルに集めて洗浄する。
部屋のホコリや塵は積層するかもで洗っても洗いてもゴミは出る。
往年の三つ葉とはじゃぶじゃぶとよく洗うに限る。

この三つ葉はお正月のお雑煮に数草のせて飾りにしょうと思っていたものだ。
しかし、お正月の間に草は生えず、お正月も過ぎて、春が来て、夏となって、夏の終わりを感じる季節となり、もうそろそろ最後の食べ頃ではなかろうかと思う。
三つ葉はもはや成長期というか若い時期は過ぎて一時期よりも一回り小さくなる。
このまま放置していれば、どんどんとやせ細り枯れて、食べられるような草ではなくなるような予感もする。
そもそも、なぜ?こんなにも三つ葉の食べ頃を失ったかと思うと、料理に三つ葉を入れるような機転もアイデアも無いもので、食べない三つ葉とは観賞用の三つ葉となる。
小さな葉っぱが大きく育ち、太陽に照らされて光合成しているかと思うと誰でも愛着も湧くもので、やっと育った草を食べる鬼にはなかなかなれない。
勿論、時折水やりの時に数本ちぎって洗い食べることもありますが、そのお味とは「苦(にが~)」の一文字。
結論から思うと三つ葉を使うような料理アイデアがあったならば、このような部屋の主(ぬし)な風貌にも成らずに適当に三つ葉を消費出来たようにも思う。

キレイに洗った三つ葉はフライパンの上でピチピチと焼く。
野菜とは炒めれば結構小さな質量となるものですが、9ヶ月間育てた草はそんなに小さくならない。
茎も葉も肉厚というか繊維質も頑丈でなかなか野性味もあってポン酢に隠し味の柚子胡椒を加えて美味しく食べる。
「あー美味しい三つ葉だ」
何というか食べると三つ葉の草の風味がお口に広がり、そして、噛んでも、噛んでもムシャムシャと噛み切れないような歯ごたえもある。
9ヶ月間の筋肉質というのか繊維質が物凄いもので、こんなにも噛み応えのある三つ葉は食べたこともない。
もし、よその家の料理やお店でも9ヶ月間育てた三つ葉が出てきたら怖いというか不気味というかの歯ごたえである。
自分が育てた草であるからにして感謝して食べるもので、これはセリ鍋のように湯通ししてから食べると絶品なお味になると思う。

ということで、

三つ葉には3つの葉っぱがあった。
1つ目の葉っぱは購入したばかりの柔らかい若い葉のお味。
2つ目の葉っぱは水耕栽培をして新芽が生えて三つ葉の森を育て愛でる葉。
3つ目の葉っぱは最後にキレイさっぱりと食す繊維質もスゴイ熟した葉のお味。
そして、家族は何の香りもしないようですが、育てた本人は体からは何だか三つ葉の爽やかな草原な香りが湧き立つような感じもして、私の中で三つ葉も生きているような感じもする。
私たちとは生命あるものを食して生きているもので草に感謝、食べ物に感謝だ。

 

*デスクトップ画面用の画像です。
■2026年8月27日(木)
■荒野の三人。

*デスクトップ画面用の画像です。
■2026年8月28日(金)
■あーらよっと。