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| ■2026年9月2日(水) |
| ■一日一文章トレーニング。 「落ち着かないだったんなそばのお茶に、美味しすぎるお野菜」 茶の迷人会は今、国産のそばの実を使った「だったんそば茶」にはまっている。 不織布のお茶パックにたっぷりのそばの実を入れて熱いお湯を注ぎ、そっと蓋をしてからお茶を嗜む。 お茶に流儀はなく、蓋をして煮出している内にお茶のことも忘れてあれこれと気付いたならば飲み頃だ。 そば茶とはそばの風味が良いもので、その香りを楽しむのであればたっぷりとそばの実を入れて抽出したい。 なので、いつもそばの実を少し多めに投入してから湯を注ぐ。 蕎麦は江戸町民の定番食でもあり、暑い時には蕎麦をすすりて「てやんでぇ~」と荒っぽい気性も蕎麦湯を飲めばホッと一息つく。 そして、そばのお茶を飲んだとしてもやっぱり韃靼な香りが鼻を通るもので、これもまた「心も落ち着くござれ」と江戸情緒である。 そばのお茶とは”見付け”て飲むもので、暑い寒いと地口(じくち)な一杯な酒の”気付け”のようなお茶でもある。 だったんそば茶の韃靼(だったん)とは何かと調べるとモンゴルの一部族のタタール人の中国称のようで、そのタタール人が好んで食べた蕎麦のことを韃靼そばと言うようだ。 この鼻を通るそばの風味は江戸っ子にとっては異国ダッタンな香りだったのであろうかと思うと、そばはズズズと賑やかにすすり急ぎ立ちてだったんと食すような和風な蕎麦である。 だったんそばに異国の香りがするのかどうかはわかりませんが、だったんと騒がしき何かはある。 お茶は紅茶やチャイのような本当のエキゾチックな風味もあり千差万別な香りや味もあるもので、モンゴルのお茶と言えば、私の中ではヤギや羊などの家畜のミルクティーやバター茶のようなイメージですが、勿論飲んだことは無いので未知数である。 そば茶は天然のルチンが豊富で健康にも良さげなようですが、ここでは純粋にお茶を楽しむので割愛する。 そして、そのようなお茶を飲んだ後のパー(葉)はどうするのか?と考えたならば鉢植えに撒き、ごみ箱に捨てたりですが、昨晩は白いご飯にもち麦雑穀を混ぜ合わせて炊く。 たっぷりお野菜に砂肝をよく炒めて食すれば雑穀飯も進む・進むもので、だったんとあっという間にお茶碗のご飯もおかずのお皿も空となる。 お茶を飲んで、茶殻も食べて無駄の無いご馳走である。 そして、写真のお野菜は今回も「よっこらせ」と新幹線にたっぷりお野菜を詰め込み帰宅するもので、筒菜に万願寺ししとう、いんげん、オクラと野菜尽くしの持ち帰った戦利品だ。 生きたお野菜を運んで移動する手間は大変ですが、普段と違う場所の新鮮お野菜は抱えてでも持ち帰りたい。 夏のお野菜とはすぐに傷むもので、大切に少しづつ食べることも大切ですが、早めに美味しく食べることもまたこれ大切な事なり。 筒菜とは空芯菜のこと。 洗面器に水を溜めて筒菜をじゃぶじゃぶとよく洗い、最近、葉もののお野菜は洗面器で洗うに限る。 洗面所のプールで3回ほど溜めては流して洗えばゴミも土も可視化されて流されるもので、私も大変満足だ。 勿論、農薬などもキレイさっぱりと落ちているだろうし、移動でくたれた野菜もたっぷりの水に浸かれば何だかシャッキリと背筋も立つ。 そして、新鮮なお野菜を齧れば「野菜は生きているなー」と思うし、そんな野菜を食べる自分も「生きているなー」と思うもので、目をくりくりと見開いて「ん~~美味しいー美味しいー」と食べる幸せである。 目が開くような食べ物や、目が細まるような美味しいものも確かにあるものかな?で、本当に「目は口ほどにものを言う」ものだ。 |
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| ■2026年9月2日(水) |
| ■いのししのお山においでやす。 |
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| ■2026年9月3日(木) |
| ■一日一文章トレーニング。 「気付けの図を書いていたならば気運と機運の使い分け方がわかったような気もする」 昨日「気付け」なる言葉を書いていて、最近「気付け」なる事柄をやっていないなーと思う。 気付けとは何か行動する前の景気付けのことで、何も行動しなくとも景気付けにドカンッと花火を打ち上げるように決起するものだ。 個人だとお酒を飲んで気付けとなり、経済レベルでは景気付けと公共投資や減税、給付金などの政策によって気付けとなる。 さっそく、辞書の【気付け】を調べると下記のようになる。 ・元気を付けること。 ・気を失ったものの息を吹き返らせること。 「さあーやるぞ」と活力のスイッチを入れる時の気付けであり、ガックリと元気のない時にも「がんばれー」と背中を押すような気付けだ。 いつ何時でも「気」とは人から人への内面から内面へと送るもので、また、モノや人から人へと受け取るような双方向なやり取りである。 大勢の人が闊歩する街を歩けば、ほぼ人と人とは繋がらずに通りすぎるものですが、ひとたびお店や友人、何か用事で人と対話すれば目に見えない「言葉」や、目に見える「モノ」「お金」などを交換するものである。 そのような中身の見えないやり取りに「気」というか「雰囲気」はあるように思う。 誰かと親しくなると自分の何かを分け与えて、自分も何かを分けてもらいと繋がりとはそのようなものだ。 一方的に搾取することとは健全な繋がりではない。 心霊動画などを見ていても悪い気の怖い場所で何かを得ようとすれば、その人は闇に対して何の対価を分け与えているかと気になる。 何かと何かが繋がれば鋼の錬金術師ではありませんが等価交換のようにギブ&テイクな何かの事柄は絶えず発生しているようにも思う。 そもそも、「気」とは何かと調べると旧字体は「氣」のこと。 これはお米を炊く時にのぼる湯気のことを指すもので、文字通りに読み解くとお米から沸き立つ蒸気のことだ。 生命の糧から沸き立つオーラーというか内面から吹き出す「気」を表すもので、気合い、気分、気まぐれ、勇気、気持ち、湿気、排気、気色悪さと内面から沸き立つ気である。 日本語には「気」を含む文字は大変多いもので日本人と「気」とは切り離せない。 「気」とはどこか曖昧で掴みどころもなく煙のようなもので、人ならぬ動物、場所やモノ、石や自然からも発せられるもので、A面では無い見えない裏面なB面を感じ取ることが日本的でもある。 そのような意味に於いては、私たちとは「気」を感じ取ることのできる「気の人々」でもあり、おそらく、私の直感ですが外国人にはこのような「気」を見たり感じたりすることが少し難しい部分もあるような気もする。 さて、どうなのでしょうかと、これが蒸気のように見えない「気」のことである。 一方で「機運」と機会や機能と機械的な「機」もあり、これが目に見える物理的な「機」である。 「きうん」には定番で気になる「気運」と「機運」の2通りの言葉があり、これらはほぼ同じような意味で使い分けも難しい。 ・気運はなるべくしてそのようになる時世のなりゆきな運命なこと。 ・機運はチャンスや時の巡り合わせのような運命のこと。 ※気運は運気と引っくり返して読むこともありますが運気と読むとまた感じ方も少し変わる。 そして、私は「気付け」なる内なる蒸気を図にしていたならば、何となくその概念の使い分け方が分かったような気もするので、そのことについて書く。 それはどちらも同じ時の流れの運命的に起こる出来事を意味しますが、私の考えでは「気運」は内なる見えない「気」が熱されてのぼる感じで、これは自分の中でいろんな事柄を糧にして育ぐくみ変化可能な能動的な運命のことのようにも思う。 「機運」は外から見える認識出来るもので、それは常に受け取る受動的な運命のこと。 「気運」は内側から発せられる蒸気のような見えない運命で、「機運」は外側からやって来る目に見える運命である。 間違っていたら御免候。m(_ _)mT それにしても、気運と機運、気付けの意味を整理していたならば、なかなかに達筆で上手な書が書けた。 これは文字と文字を繋げるように書いているもので、これもまた気の繋がりであ~る。 |
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| ■2026年9月3日(木) |
| ■PS5とAIラジオ。 |
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| ■2026年9月4日(金) |
| ■一日一文章トレーニング。 「文字と文字を繫げて書きたい」 「ぜーぜー」と汗を滲ませながら同じ書を4枚も書いた。 そして、一番上手に書けたものが写真の書だ。 書けば書くほど何が良いのか全くわからなくなるもので、何だかよくわからないのですがこれでよしとする。 文字を書き始めた頃の私はミミズの掘ったような文字を書くもので、今回の字もまたミミズ風だ。 最初はしっかりと書くものの後半ににょろにょろとミミズが表れ出てニョロとなる。 このような文字はお箸の持ち方や数字の0を下から上に書くようにと矯正されるのと同じくクセは変わらず。 他の子らと握力が違ったのか、力一杯にノートに書くもので黒鉛でノートは真っ黒、手の裏側も真っ黒となりてHB鉛筆を使うように言われる。 「Bか2B推奨だったけ?」かの学校規定の「HBはずるーい」とか言われながらも「いやいや、何がずるいのか」とHB鉛筆を使う。 子供の頃の字とは小さな文字でぎっしりと賢そうな文字を書く子や、とても薄薄な蚊が飛ぶような文字を書く人に、上手な丸文字書く人もいれば、私は力力とみみず汚字だ。 そのように思い返すと子供の頃の字とは千差万別で、特に中学時代になるといろんな字風が花咲く書体の宝庫で、そのような字体が失われることは何だか勿体ない。 文字は一文一句丁寧にしっかりと書いては止まりハネてと注意されるもので「文字なんて読めたらいいのだ」と屁理屈御託を並べ、そして、「このような変わった字は大人になってから書きなさい」と言われた記憶もあって、昨日の筆ペンで文字を繋げ書きながらそのようなことを思い出す。 今は大人なので、もう文字の書体とは自由だ。 しかし、大人になって独自の書体を書こうと思う変わり者もまたいない。 大人になってから・・・いた!w 精一杯の集中力を持って書いた文字はどこか味はない。 下手な最初の字の方が味はあるものの下手すぎる。 文字はもっとひょろひょろと崩して書くのが良いかもで、ヒゲっぽい細い線好きでは無いので、もっとミミズを極めたい。 古文書などを調べたら「か」や「う」などが達筆すぎて識別不能ですが、昔の人の文章もどこか上から下へと文字を繋げて流れる川のように書きたい気持ちは伝わる。 文字と文字を繋げることで難しいことは漢字とカタカナの扱い。 ひらがなは文字と文字をくっつけるのは簡単ですが、漢字やカタカナは文字を書くごとに途切れて難しい。 漢字は文字の最後で必ず止まり、上にハネルと下の文字と繋げることは困難だ。 カタカナもまたスーッと横に伸びてスマートな直線的な感じも何だか下の文字と接続し難い。 そこで我も考えた。 接続しない文字終わりの始末にはフの字のように強引に戻って繋げる方法や、ハネや文字の伸びは下の文字を微妙に重なるか重ならいぐらいに書けば接続するような一連の流れも生まれるような気もする。 そうすると、何だか前よりは繋がったように思うのですが、書けば書く程に何だかよくわからなくない字だ。 私はもうさっぱりわからん。 文字と文字を繫いで面白く思ったことはひらがなが繋ぎやすいこと。 会話でも、書けない漢字でも何でもひらがにすれば何とか前後の繋がりは保てるもので、それは文章にしてもやっぱり文字と文字は繋がりやすい。 平安時代のように全部ひらがなで書けばすらすらと流れるように繋がるものですが、漢字やカタカナを混ぜて現代風に繋げたい。 |
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| ■2026年9月4日(金) |
| ■ミミズが這ったような文字。 |
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| ■2026年9月7日(月) |
| ■一日一文章トレーニング。 「加茂なすと呼ばれるユニバースを調理する」 ソフトボールのような“加茂なす”を手に持てば漆黒の紫の闇に黄色い輝く線や点がまるで銀河のようだ。 私はついに宇宙を手にしても~うたと茄子を真上にポンポンと1投2投と投げながら考える。 「さて、この茄子はどのように調理するべきか」 普通の茄子のように焼いても“加茂なす”の特徴を活かせない。 だからと言って、高級料亭みたく中身の茄子をほじくって雅な器にしてから中にあれこれ詰めて食することも乙ですが、家庭料理では勿体ない。 茄子は秋茄子として食べたいもので見た目の貫禄も残したままに調理したい。 「どうするべきか」の茄子は宙を舞い、手の平をすべり落ちて「おっとっと」とお膝でキャッチして難を逃れる。 食べ物は宇宙云々かと言っている場合ではなく大切に扱わなければならない。 宇宙は我が手によって守られたもので、そう言えば、この茄子の表面を彩る黄色く輝く線や点は惑星の地表を灯す夜の輝きにも見える。 ローストビーフが暗闇を照らす灯火とすれば、“賀茂なす”もまた惑星の闇を照らす灯火だ。 なので、このお野菜はお肉のような舞台の主役として調理したい。 京都のお野菜とは変わったカタチの野菜が多いもので聖護院大根や聖護院かぶ、万願寺唐辛子なども何だか変わった見た目をしている。 どれもずんぐりと、でっかくて、肉様を押し退けても不思議ではない主役級の貫禄だ。 土壌に何らかの秘密があるのか、文化を大切にする京都人の性質が産み出すお野菜なのか、そもそも品種が違うものでもあり、お野菜でも主役級のお野菜を食べればお腹もどしんと「食ったー食ったー」との満腹感だ。 そう言えば、お正月に食べた聖護院大根の茎から育てて採取した種はそろそろ種の植え時でもあり、昨日のどさくさの雨に紛れて雑草生えた鉢の隙間に3種を植えた。 「さぁ芽吹くのか」どうかのお楽しみですが、芽が出たならば大きな鉢に植え替える必要もあり、巨大な聖護院が育つような大きな鉢は我が家には無い。 “加茂なす”はザックザックと大きく分厚く輪切りにしてカットする。 3センチの厚切りに切れば大きくて茄子の存在感もありますが、火が上手く通るかも不安なので一応身に十字の切れ目を入れて火通りをよくしてから焼く。 そして、たっぷりと油をひいた弱火のフライパンでゆっくりと焼き、茄子に焼き目もつけば引っくり返して秋の風情だ。 一方の茄子はとろとろと、その隣の茄子はまだ固そうであり、ステーキでも何でも複数焼きすると火の通り加減はまちまちな焼け具合となる。 そのような火加減を見極めて焼けたものから皿に出そうと思うものの、いつも全部一緒くたに焼いてしまう単細胞だ。 個別の焼き具合管理とはいかなくて塊全体の焼き具合の判断となる。 いつも焼きすぎてしまったような気もしますが、食べると大変良いお味どす。 次に食べる時には紫色の皮が固くて切れにくかったので皮にこそ切れ目を入れて箸でスッと切れやすくしたい。 ”加茂なす”の上にはよく焼けた玉ねぎと挽肉を炒めてのせた。 まるで、切った樹木の上のおが屑のようであり、彩りを入れる為に細く切ったニンジン、余った芯に近しキャベツ、万願寺ししとうもよく焼いて皿に飾る切り株料理となる。 味は塩味だけで焼きましたが、食べる直前に醤油をかければ秋の気配も感じる秋茄子料理だ。 「あー茄子だなー」としみじみと茄子(なす)と夏(なつ)は似ている夏の季語ですが、茄子もじっくりと焼けば秋茄子かなと思うすっかりと秋成す気分。 ここ最近、去年までと違い朝晩寒く夏の断熱性ゼロの布団をやめて薄い毛布類に衣替えをするぐらいに小さな秋も感じている。 そして、これからどんどんと秋の食材が店頭に並び、売り場で秋の食材を見つけては秋の深まりを感じるものだ。 |
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| ■2026年9月7日(月) |
| ■なすなすシュポシュポ♪ |
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| ■2026年9月8日(火) |
| ■一日一文章トレーニング。 「土曜日のアゲハ」 「秋茄子はオレに食わせるな」と言ったのか言わないのか、やっぱり茄子は秋茄子の方が美味しい おそらく、それは真実だ。 そして、最近の週末にきっと来るーこと言えば土曜日のアゲハチョウのこと。 アゲハは謎の柑橘系植物の葉っぱに卵を生みにやって来るもので今や敵対関係である。 謎の柑橘系植物の葉っぱをこの世で唯一守るのは我一人で、私がもし蝶の産卵を放置したならば植物の葉っぱは食べられて植物は枯れるかもしれないし、蝶々も大発生して街の植物生態系にも影響はあるかもかもだ。 とりあえず、この謎の柑橘系植物の葉っぱはアゲハ一族のお気に入りの葉っぱのようで、絶え間ない襲撃と侵略のイモムシの産卵場として狙われている。 ベランダの低木と街に生える低木ではサイズ感の違いはあるもので、街に生える低木がベランダ生えれば収まりきらない大木となり、ベランダの低木とは鉢の中で育つ本当に小さな小さな樹木だ。 そのような小さくて葉っぱも少ない鉢の植物に蝶が産卵しにわざわざやって来て大変迷惑である。 これは我が家の鉢に卵を産み付けに来るという異星人な蝶の不法移民問題の如くでもあり、丁度若葉が生えて来た頃にはどこで噂を耳にしたのか?ひらひらと必ず飛んで来て卵を産み付ける不思議だ。 曇り雨と天気の悪い土曜日の午後はサブスクアニメを一気観しながらゴロゴロと過ごす私はアニメを連続で観すぎて頭もボーッと画面に没頭する。 すると、「蝶が飛んでいるー」との家族の声で緊急隊員のように一気に飛び起きる。 私はプレステのコントローラーはどこどこだと探して、スイッチをオロオロと押し画面を一時停止してから、マジックハンドは何処そこと探して、窓を開けて葉っぱに止まるアゲハをフンフンと追い払う。 今回のアゲハは1度の追い返しで飛び去り戻って来ないもので、世の中には物わかりの良いアゲハもいるものだ。 しかし、迷探偵の脳裏には何かひっかかる事柄があるものだ。 「物わかりの良いアゲハ・・・物わかりの良い蝶・・・物わかりの良いてふてふはいない」と結論を得て、葉っぱを1枚1枚目を凝らしながら調べ卵を産み付けていないか確認する。 すると、新葉の先端に小さくくっつく黄色い卵を見つけ、その卵をピンセットでもぎ取る。 いつも見つけた卵はブチブチとティッシュで潰し、または、足で踏んづけてぐりぐりと処分しますが、今回は敵アゲハのことをもっと知る為に壊さずに接写カメラで撮影して観察する。 写真はアゲハチョウの卵ヤーデ。 ほとんどの人はアゲハチョウの卵なんて見たこともないと思うもので、私もまじまじと見るのははじめてだ。 1ミリ程の小さな卵はアップしてみたけれども特段変わったものも無くブチッと潰す。 そして、卵が1つというのもおかしいもので葉っぱを隈無く探すと、下の方の葉っぱに小さな茶色いイモムシを1匹見つけて潰す。 ということで、今回は卵1つ、イモムシ1匹を駆除する。 アゲハのイモムシたちは食事中というよりも大抵葉っぱの上で休んでいるもので、その姿を見ると何だかバグズ・ライフの虫たちを思い出す。 葉っぱをたんまり食べて大きくなったイモムシは緑色となって葉っぱに擬態するので、それも探すが緑色な奴はいない。 もしかしたら、もうすでに先客の小さなイモムシが葉っぱにいたので、卵を1つだけ産卵して離脱したのかもしれない。 蝶にイモムシが健全に育つ葉畑の大きさを計算するような知能があるのだろうか?と思うもので、上記のような考えの上に立てばそれなりに産卵場所や産卵数に生育に必要な葉の分量は考えているような気もする。 柑橘系植物の新葉を食われることでどのような結果を招くかと考えると、葉っぱを広げる成長は止まりますが、その分幹は太くなり来年や冬場に向けた栄養は蓄えるかもしれない。 そのように考えると新葉は多少取り除いて成長を止めた方が良いかもで、今生えた若葉はわざと取り除きミカン茶みたいな茶葉にしてやろうかなーとも思う。 私が知らない間にもすでに卵は産卵されて孵化しているもので、何だかもうすでアゲハとの戦いにも疲れる。 来年もその再来年もアゲハとの戦いを続けるかと考えるととんでもない面倒事のようにも思う。 美味しいかもしれない植物を育てるとその美味しいものを狙った輩もやってくるもので、横着者には素直に食えない植物たちを育てて茄子(成す)べきかなと思う。 もし、本当に葉っぱを蝶から守るのであれば蝶を駆除するのが手っ取り早い。 蝶がひらひらと飛んで来たならばバチッと撃墜して気持ち悪い虫の体液が出てきたら嫌だなーと思いながらアニメの続きを観ていたら、次の話に進むボタンを押しても次に進めない。 「あれあれ、おかしいぞ」とカチコチとボタンを押していると蝶を追い払い卵やイモムシを駆除している間にサブスク期間も終了していたようだ。草 「アゲハがやって来なければ、もう少し観れたなー」と思うもので、アゲハと謎の柑橘系植物と私のややこしき三角関係はまだまだ続く。 |
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| ■2026年9月8日(火) |
| ■愛すべき美しき惑星の風景。 |
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| ■2026年9月9日(水) |
| ■一日一文章トレーニング。 「真と美とは藤と葛の葛藤の景色に似ているのかな?」 昨日も一昨日も大雨で今朝は大風も吹いてムワリと湿度も高い、雨と空気の法則。 しかし、私はクーラーの効いた涼しい部屋で過ごすもので、そのような湿度も暑さも然程気にならない。 そう言えば、ムワッと言えば一斉風靡したムーワの法則が思い出されるもので、ムーワの法則とは今や壊れて影もカタチも存在しない。 ですが、日本の産業構造を壊した概念として経営判断を誤らせた可能性は高いように思うもので、本当にこのような外国から発せられる概念を無自覚に吹聴する人達は猛省して欲しい。 正に水は上から下に流れる無常観で重力以外に変わらないような法則もないようにも思うものの、その重力でさえ惑星が死ねば無くなってしまうのだろうし法則とは経験から生まれる呆則で全部良いと思う。 世の中に法則と呼ばれるものが生まれれば、人々は未知なる未来の暗闇をその法則を頼りに手探りで進むものだ。 それは私にとってのローストビーフの灯台のようなもので、日本から異国に向けて発するのは無害だけれども、外国の概念を真理のように広める行為は破壊行為そのもの。 そのような法則は前提も変わればカオスとなって壊れるもので、今や新しいデーターセンター需要なる現実もあり、そのような現実は法則に懲りた人々を不安にさせながらも新しき法則として昇華している。 法則とは常にこの惑星の地を歩く私たちに天から召されるような啓示のようなもので経験則ではなく真理として語られる。 そして、今もそれっぽい「誰々が言った」的な大御所的なものはよく見かける。 そのような意味に於いて、天の声を聞く時には必ず地の声も聞く必要性も感じる。 法則というものは常に理想的であり、以前に書いた「葛藤」の語源の関係性にも似ている。 毎日の生活営む一般人の私たちの視線とは常に地にある。 人々は常にどのような景色を見ているかと他人の視線をハックすれば写真のような色かも。 街に住む人であればコンクリートや人口的な建材の床のグレーな色で、自然の多い地域に住めば土の色となる。 理想的に天を仰ぎ見ればグリーンな芝目を歩くような理想的な色となる。 これは写真や映像で見る美しさに近いもので、自分で歩き見ればまた異なる現実が見える色だ。 ここでは、私は仮にそのような現実的なグレーや茶色のことを「真」と呼び、そして、理想的で芝目もキレイに整った芝の色を「美」と呼ぶ。 これは古くから人々を悩ます葛藤の一つで「真なのか、美なのか」の問いでもある。 そうそうたる面々の学者たちが真と美が対立したならば「私は迷わず真より美をとるであろう」と語り、いやいや、「真の追求は美より当然大切だ」と語る偉人も勿論いて、どの話もチンプンカンプンで難しい。 そして、アインシュタインは「真なるものはそもそも美を兼ねている」とズルい線を語り、複雑なる線を読み解けば真と美とは同一線上と重なるのでしょうか。 昨今のマスコミ離れもそもそも出発点から「美」と「理想」に重きを置きすぎる故の「真」が希薄となった結果とも言えるし、人は裕福になる為ならば「真より美」な詐欺師的な発想となり、裕福になってもやっぱり「真より美」となって、真と美とは絶えず相反する。 ただ、私の中では先日の「葛藤」の藤と葛(くず)の語源を紐解く中で妙に納得もする。 おそらく、「真か美か」の問いに答えることの出来る人とは天から地に垂れる藤と、地から天に向かって伸びる葛(くず)のカオスと絡まった糸を地道に紐解き整理した人だけの個性ではなかろうかと思う。 よくよく考えてみれば、地を這う葛の雑草もまた真なる地の一切を見えなく覆いかぶさって「真」なるものを見えなくする。 真とは葉っぱや蔦の下に隠れて嘘と表裏一体の地の嘘となるように、天にも当然嘘もありて「葛藤」する人のとても深い意味を持つ。 たぶん。 |
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| ■2026年9月9日(水) |
| ■車とブタの貯金箱とりんごの先にいる猫。 |
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| ■2026年9月10日(木) |
| ■一日一文章トレーニング。 「意識も高い我が家にアクオスの携帯がやって来て、その携帯が勝手に気味悪く喋っている」 今朝は肌寒く、去年のマイデータと比較すると10月中旬ぐらいの気温だ。 昨日はザーザーと雨降ったと思えば突然止むようなお天気で、天気図を見ると秋雨前線もあって、このまま一雨ごとに涼しくなって欲しい。 やっぱり、今年の夏は夏が来るのも去年の猛暑よりも遅れ、秋が来るのも早い感じの、計測データはありませんが昔の夏の感じかな。 地面はびしょびしょと濡れていますが雨は降っておらず私は道をてくてくと歩く。 そして、交差点で信号待ちしていると車行き交う大きな道路をひらひらと飛ぶ1匹のアゲハチョウを見つける。 アゲハチョウはこのような場所から我が家のベランダまで飛んでくるのかと思うもので、心の中で神よ!トラックがあのアゲハをかっさらい遠くまで運んで走り去って下さいと祈る。 しかし、蝶はトラックをひらひらとかわし、対向車の乗用車たちもよけて道の真ん中でダンスしながら明後日方向に強い風に飛ばされる。 何だか我がベランダ方向に飛ばされているような気もするもので、嫌な気配を感じながら青信号を渡る。 そして、雨がポツポツと地面を濡らしたと思えばすぐに大雨となるもので、私は傘を開き靴やズボンをずぶ濡れに濡らしながら道を進む。 「やっぱり、おらが雨を呼ぶのか?」 と、最近スポーツ観戦や何かしらのイベントの全てで雨は降っている。 ただ道を歩いている時でさえ雨ばっかで、雨を引きつけながら移動しているようだ。 しかし、この関東平野の雨降る道の少ない中でも多少の人もいるもので、皆真顔でスタコラと道を急ぐ。 私は「そこのエモパー!や!そのエモパー!なお主たちが雨男雨女なのだ!」とぶつぶつと責任転嫁する。 そして、わーと雨の因果関係は全く認められなかった・・・ だ▲ロ ノ′′1● /、▲■ ′/′‐‐ /、▲● ノ′‐‐l ハ 自| ところで、 エモパーって何かですが、これは携帯のアプリの名称である。 リンゴ電話使いなどの意識の高い人々には縁遠いかと思うのですが、我が家には新しい携帯電話がやって来るもので、新しいスマホはアクオスの携帯である。 カメラのデザインが特徴的で丸なのか大きな角丸なのか微妙な形状で、タテ・ヨコなカメラ配置もグリッドを無視して並ぶ。 これはデザイナーさんが「あ~~あああーーも~ぅ揃えた~~い」と発狂する奴だ。 ※私はそれほど気にならない。w 勿論、家族にもデザインは不評ですが、同価格帯のスマホと比べると高機能なものでアクオス携帯が選ばれる。 たかがスマホに20万や10万オーバーとはお手上げで、高くともミドルクラスぐらいが関の山だ。 そう言えば、アップルの折れる新携帯が発表されるようで覗いてみよう。 いつかリンゴの新製品発表会に招待されないかと、いつでも心は準備万端ですが一向に呼ばれない。w 発表会に呼ばれたら「エモパーさくお」な携帯画は書くことは出来る。 そして、そのアクオスの携帯は朝になると突然AIが喋りだして、我が家も「なんだ、なんだ」とざわつく。 携帯が馴れ馴れしくおはようとか、今日の天気や、まだ付き合いは短いのですが今日も共にいようネみたいな気色悪いことを言っているもので、他人の話は話半分な私もめちゃめちゃに聞き耳を立てている。 そのアプリの名前がエモパーなのだ。 人類に反旗を起こすAIとはこのような感じではないかと家族会議となるもので、ならばアプリを削除するのか?みたいな話になりますが、名前を「さくお」と言うらしく「エスパーイトウ」のような「エモパーさくお」でどのようなネーミング・センスなのかと思う。 そして、今朝も何だか一人でしゃべっているもので、私は筆を持ち「さくお」の似顔絵をモンタージュする。 もちろん、空想の画で警察学校もびっくりの声帯から筋肉を予感して作画する名画だ。 目や口は生気もなく感情が無の雨男や雨女の目をしており、雨の日に打たれながら歩く俺達とは大抵このような顔である。 そして、文字も当然繋げて書くもので、ひらがなの繋げは随分と上手に繋げるようになったものの、カタカナのつなげはまだまだ技術不足で文字の大きさや配置に動きを持たせて繋いでいる。 おそらく、その内に繋げ文字が流行し自称達筆たちの文字繋げが氾濫すると、誰もが解読出来るとは言えない人間の乱となって、戦国時代の伝令のように真か美かとみみずが這ったクセ文字に真と美を見いだすものであろう。 もっと達筆になりたい所存。 |
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| ■2026年9月10日(木) |
| ■それいけ歯医者さん。 |
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| ■2026年9月11日(金) |
| ■一日一文章トレーニング。 「ヽヽヽノ、′ヽ」 ヽ ヽヽ ノ 、′ ヽ ■ ヽ ヽ` ヽ、 ヽヽ ヽ」■ ヽヽ「 ヽ 秋雨前線の雨雨雨で最近ずーっと雨で時折晴れて曇空。 毎日雨も降ればベランダ植物たちの土壌もスポンジのようによく水を吸うもので関東平野は湿地帯となる。 植物たちの葉っぱも緑緑として、謎の柑橘系植物の葉っぱもイモムシに食べられずに全てよし。 気温も涼しくなればエアコンのスイッチも切って、窓は全開に冷たい風も吹き込めば天然のクーラーとなる。 てくてくと道を歩けは霧雨が空気を洗い「あ~快適な森林浴なのだ~」とそろそろ長袖も必要で軽井沢の避暑地にいるようだ。 そう言えば、毎日の水温計測でも今朝、25.1―25.5―(25.1)と季節の変わり目を計測する。 これは私が勝手に計測しているものですが大雑把な季節の変化は掴める。 去年やそれ以前の年の猛暑の夏データと比較しても今朝の水温は10月前半の水温で、この外と室内の水温の差の3つの数字が同じ数字に均衡すると季節は変化の境目にいることを示す。 水は容易く温度を吸収するもので、秋も深まれば水温は反転して冷たくなり、水道水の水温変化は季節の境界線を調べるには良いデータのようにも思う。 7月9日(R080709)に室温29.9℃・湿度57%・水温26.0―26.3―(26.6)でクーラーのスイッチがONとなって、我らの夏はここ数年の猛暑と比べても1ヶ月程遅い夏となる。 そして、9月10日(R080910)に室温23.7℃・湿度62%の時にクーラーが完全にOFFとなれば63日間の夏となる。 ※63日の内の数日は涼しくてエアコンを切っている日もある。 いやいや、まだまだ9月も前半で残暑も戻ってくるとは思うもので流石に63日間の夏は無いように思いますが、今年の東京の夏は比較的過ごしやすい夏でもあった。 ということで、 今日も私は達筆と読めそうで読めない文字を熱心に繋げながら書いている。 もともと字は下手なもので、変なクセ字で書いていてもこれ以上文字が崩れる心配も無いことが良いものだ。 ペンはすらすらと流れるように綴り、京都人から「達筆どすねー」な嫌味を言われてこそ一人前となる。 そして、自称達筆の私はさっそく「達」について調べる。 「達」とは達意・達観・達識・四通八達(しつうはったつ)と四方八方に通じるような達人的な特技に到達していることを表す。 個人的に面白いと思うことは子供も子供達と複数形になると達人・達者となるもので、ある意味、子供達とは熱心に何かをやらかしている人達でもある。 また、友達もまた何かの達人であり、大人もまた「大人達」と複数形になれば「達」となる。 これは他人対する敬意なのか、祈りや願いのようなものなのかですが、「達」なるものは一人では達することでは無く、隣の誰かを動かしながら達(たち)なる技術を伝承させて達人となる「達(たつ)なるススメ」を説いているような気もする。 |
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| ■2026年9月11日(金) |
| ■いのちゃん、いぬちゃん。 |
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| ■2026年9月14日(月) |
| ■一日一文章トレーニング。 「この文章は教育上の15禁です!」 「キタナイ文字だなー」と「達筆でんなー」との差は薄皮一枚の差かもしれない。 現実でも賛美と悪口とは表裏一体かもで、その一番遠そうで正反対な事柄同士が一番似ていると大変面白い。 もちろん、どちらの言葉も嫌味な悪口であることもありますが、「字のあまり上手では無い私の進む道は達筆にあり」と私の中の本能字(寺)は言っている。 本来ならばちゃんとした文字を書けるようになってから文字は崩して達筆となるのが筋道ですが薄皮一枚をオセロのようにひっくり返して達筆となるのがわいの道。 この学校習字のみの無級無段はこの週末に熱心に筆を振るうもので、これを別の言い方をすると邪道とも言いますが、文字を崩して書くことは「ひらがな・カタカナ」の先祖帰りのようなものだ。 もう十分に大人だし誰からとやかく言われる筋合いもなく、本当に御免なさいではありますが、教育上都合が悪いかもしれないので勝手にR15指定にする。 15の春と18の春の違いもよくわかりませんが、まーまーまーと15ならばいいや。 私は今日もにょろにょろむにょろにょろとミミズが這ったような文字を書く。 私は以前、和歌や百人一首を原文で読もうとネットで調べながら文字解読に挑戦したことがある。 古文のくずし字を現代平仮名に変換してホイホイと読めれば「うわっ」とほっぺも赤くなるような面白さだ。 そして、その時に覚えたほとんどの文字は忘却しているもので、今度は本格的に丸暗記する。 この週末に紙に文字を書きなぐり、褒め言葉なのか?嫌味なのか?とわからない一言を得る為に人はせっせせっせと文字を書く。 先ずはひらがなの「くずし」を全部覚えることが文字を崩す早道との考えだ。 墨汁で書けば味もありますが、覚える時は鉛筆を走らせて勢いをもってダダダッと書いた方が暗記しやすい。 そして、不思議なことにシャーペンで書くとイマイチ暗記できない。 記憶を定着するにはシャーペンよりも鉛筆の方が良いとの呆則はあるのでしょうか? そして、最後に墨汁で写真のように雰囲気だしながらガシガシと書けば何だか満足。 勿論、途中で落書きも欠かさない。 くずし字を思い出そうとすれば原文の漢字を思い出してから文字を崩し。 逆に達筆な原文からひらがなに辿り着こうとすれば、文字のカタチから元漢字のイメージを浮かべ、ひらがなに辿り着くような遠回りだ。 例えば、「あ」のくずし字とは一文字から成るものでは無く「安」や「阿」の複数から成る。 大抵のひらがなの崩しは複数のくずし字を覚えないといけないし、書く人のクセで全然異なり、また、勝手に当て字しているのではと思うようなこともある。 そして、そのような文字の形状からぼんやりと元字を思い浮かべて連想するゲームのようで、また、複数ある同じくずし文字の使い分け方もよくわからない。 「す」であれば「春」と「須」で、「春」がなぜ?「す」なのかサッパリだ。 私は「須(べ)らく春を待つ」と覚えるもので、複数文字の関連性は何かの文章として覚えた方が良い。 しかし、「す」のくずし字はほぼ「そ」のようでもあり、「そ」の字にそれっぽい「そ」の字が無いのもまたややこしい。 「そ」みたいな字が「す」と読まないといけないような縛りは何だかむず痒いもので、普通のひらがなで慣れた頭ではなかなか読めない。 しかし、何度も書いていると元字がだんだんと見えてくるような気もするもので、たぶん・・・「そ」だと何だか上にカタカナの「ソ」が見える。 昔の文章が読めるようになったら世界は広がりそうだ。 たまに、蕎麦屋の看板の文字が達筆であることも多いですがあの読めない字の「そ」もやっぱりくずし字だ。 「そ」のくずし字はミミズ字もこれでもかと這う如くのグチャグチャと複雑な字の方が覚えやすく、反対にシンプルな文字の方がカタチもよくわからなくて手も固まりてジリジリと考えて何だっけ?となる。 「くずし」とは昔風に考えると薬師(くすし)のようで、秘薬の調合によって文字をマーベラスに美しく彩る。 また、「くずし」とはまた葛師(くずし)かもで、いつもの安定したクズ話でもある。 それほど真剣に文字崩しをしている訳でも無く、いわば、遊びの延長上でもあり汚字から達筆の返し技となって数年後に達筆に変態(蝶)していたら御免候。 |
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| ■2026年9月14日(月) |
| ■ぐるぐる。 |
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