■2023年7月1日(土)
■一日一文章トレーニング。

「恐らく、美には根が重要です」

いやはや、なでしこ(サッカー)の縦の突破力はすごかった。
攻撃と守備のメリハリが効いているような気もします。
かくして、WBC大谷応援団以来のにわかがモグラ穴から這い出てきて意気込んでおります。

ということで、「なでしこ」の意味について調べました。
「なでしこ・撫子」は夏から秋にかけて淡い紅色と白の原始的な荒々しい花を咲かせるお花です。
この花色は平安朝以来の伝統なピンク色で撫子色と呼ばれております。
辞書には「二葉に生ひし撫子を来る朝ごとに撫でて」と植物の撫子にかわいがる様子と、子供をかわいがる様子を掛け合わせて用いることもあるようです。
そのような言葉の由来から「大和撫子」という言葉が生まれたのかもしれません。
スコスの絵でもサーモンピンクみたいな「なでしこ風」な色をよく好んで使用しておりますが、この色には温かみのあるやさしさがあると思います。

写真の花は赤紫色のカーネーション。
撫子色であったならば完璧ではあったのですが、そこまで先を見越す目は持っておりません。
因みに、先日の名無しの花もカーネーションのようでした。
カーネーションは母の日の花ではありますが、長持ちするお花でもあるようなので普段飾りにも良いのかもしれません。

ガラスの花瓶に花を生けることでわかりましたが、茎は揃えることが大切であるのかもしれません。
・左は茎を揃えて並べたお花。
・右は花のみの見栄えある花の見せ方にしようと意識して生けたお花です。
右の花はもりもりと花を盛り、変なピンクの実は花とかぶらないように分けて並べておりますが、どちらが美しいかと比較すると個人的には左の根を揃えて混じったお花の方が美しく見えます。
左側の真ん中に空いた空間も結構好き。
これの何が良いのかと分析すると、茎がキレイに揃っていることが良いことではないかとも考えます。
お花の根を揃えることとは「花は根にかえる」という“ことわざ”に通じているかもしれなくて、その意味は“もの”の全てはその根本に通ずるという古くから伝わる概念でもあります。
根をしっかりと美しく飾らないと、お花のお山も美しく盛れないという意味としても捉えることができます。
逆説だと「根がなくとも花は咲く」という“ことわざ”もあります。
これは事実無根な事柄も一時の話題となって世間を巡るというお話です。
根は人の目に触れることがないからこそ、人の想像力を掻き立てるという例えなのかもしれません。
この花瓶の良いところは根が丸見えであることです。
オープンマインドのガラス張りにすれば変な詮索も不必要なことなのかもしれません。
実際は根ではなくて、茎なのですが、お花を生けるとて見ない部分をキレイに揃えてこそお花も美しく見えるという今朝の呆即です。
根はとっても重要なのです。たぶん
華道とは1ミリもかじったことない全く知らぬことではありますが、たぶんそのような云々を語っているかもしれません。

先日は脱文明人と猛犬ウホウホとほざいてはおりましたが、花を生けて花を愛でることはとても文明的なことでもあります。
その意味は猛暑の中で「靴を履くか?履かないのか?」みたいな尺度で文明的であるかどうかと人を選別することは馬鹿らしいという意味でのロック魂燃え上がる反抗期のような発言でもあります。
なので、電気をなくしたり、Let’s石器時代に戻ろうというお話ではありません。m(_ _)mT
故に、この脱文明人も花を生けて何かしらのお花の文化を楽しんいることでもあります。
ただし、全ては数ヶ月後には足冷えピーピーと言っていると予言できる裸足族なのですが・・・。

以下、お花の観察メモです。

7月24日(月):花を購入。
7月26日(水):花が弱ってきたので茎を切る。菌糸は繁殖していない。
7月27日(木):細い茎の花が弱ってきたので3つの茎をカットする。菌糸なし。
7月29日(土):花が弱ってきたので茎を切る。菌糸なし。
7月31日(月):花が弱ってきたので茎を切る。

花が弱る間隔は2日間。
前回の4日間サイクルと比べても半分の長持ち。
お花の寿命も9日間。
前回のお花の寿命が21日間で3倍程の差があることからも共生菌に感染させて花を生ける効果は高いかもしれません。
本日は曇空ですが、ここ最近の気温が36度のクソ狂った暑さでもあったので、植物も我もぐったりと萎えてしまうことは自然なことでもあります。
切って保管しているビニール袋には共生菌の菌糸は全く繁殖していませんので、前回は上手にお花に菌を感染させることができました。
ただし、今回はベーコンを触った汚染した手で花瓶の水をじゃぶじゃぶとかき混ぜて水にベーコン肉の根粒菌?な菌を移す実験を行いましたが、ただ水が汚しただけでの失敗です。
次はベーコンを茎に直接塗り込もう!

 
■2023年7月1日(土)
■ニャーボール。

■2023年8月2日(水)
■一日一文章トレーニング。

「自分自身の無関心を反省する」

かくして、NEWパソコンに貼られている「intel CORE i5」と「intel iRISxe Graphics」のシールをキレイに剥がす。
パソコンに傷を付けないように鋭利なものでシールに隙間を空けて、強粘着なシールを上に剥がすことは案外簡単なこと。
この手のシールは記念なのか、貧乏性なのか、捨てることはできない。
なので、それらはカードコレクション入れに保管します。
コレクションケースの中には「Desighned for Microsoft Windows XP」と「intel inside Pentium 4」のシールもある。
このようなシールは気にすることもなく捨ててしまうようなトキメキのない時期もありますが、今はそれを捨てない時期でもあるので感受性の高い時期かもしれない。
マイクロソフトのシールは相変わらずのデザインではあるものの、このマークこそ誰でも知っている記号でもあります。
今回のNEWパソコンではマイクロソフトのシールは貼られていなくてintelシールのみ。
インテル・インサイドのデザインはとてもお洒落なデザインです。
手書き風の書体も良く、当時は「インテル入っている」と言われても何の会社かと思うぐらいな感じでもありましたが広告の妙で誰も知っているマークでもあります。
そして、そんな「intel inside」なTシャツやエコバックなどをその辺を歩くおばさんが持っているのを見るとどこで入手したのか?と微妙に欲しくなる企業グッズでもあります。

とりあえず、ノーパソ上のシールは完全にキレイに剥がし、これにより大胆にキーボードを拭くことができます。
先ずは電源落とし、激落ちくんスプレーをティッシュにシュッシュッして磨くと邪魔なシールもなくて心地良く拭けますが、間違って電源ボタンを押し拭いてしまいパソコンが起動します。
わざわざ、キーボードをキレイに磨く為に電源を落としたのに再び電源がONとなってしまうジレンマ。
再びウィンドウズ画面を開く為に指紋認証すると、こういう時は大抵、指紋認識しません。
仕方なくパスワードを手入力し画面を開いてから再び電源を落とす。
面倒事とは芋釣り形式に繋がるものであります。

今、キレイに磨かれたノートパソコンの写真を眺めていると、激落ちくんでキレイに磨いたのに、小さなホコリとかは結構付いております。
パソコンの色が黒系の色で目立つことはあるのかもしれませんが、目視している時には気づかなかったホコリや小さな汚れが写真に写り込みます。
目が劣化しているのか?そもそも人の目とは小さなホコリなどを認識しても仕方ない情報として無視しているのかもしれません。
本来なら、このような汚れは画像処理で「ちょちょい」と修正するのが常です。
ですが、今回はあえて修正しません。
あるがままの現実をそのままに写し出して見せることは、等身大な現実に近づくものかもしれません。

そして、こんな話で2000文字に迫る勢いで文章を書いている自分自身にも驚きなのですが、これは毎日、長文を書く訓練する賜物でもあります。何度でもしつこく書きますが、ここには自分自身のことしか書いておりません!全ての失敗談は自分のことであり、自分を面白可笑しく書けども他人の誰かについて書くことは一切ありません。※但し、公共性あるものは除く。今朝もモノマネについて書こうかと思ったのですが、物真似とは人の琴線に振れるシビアな表現を含みます。誰かを怒らしてしまうことも簡単でもあり、それは本意でもなく言葉を選んで慎重に書く必要もあります。なので、結局NEWパソコンの汚れを落とすという「本当にどうでも良い」話に逃げます。世の中にはビックリモーターやウクライナ戦争など様々な問題が山積しているというのに、私は今朝もノーパソの汚れを落とすという訳の分からないことについて延々と書く。これは大切なことをフィルタリングしているような気もします。パソコンをいくらキレイに磨いたとしても細かいホコリには写真を撮るまで全く気づかない私でもあり、そして、小さな汚れを見つけたならば画像処理で躊躇なく消す私でもある。そこに写るものが100%に純粋な現実でもあることは幻想でしかありません。たぶん、私にできることは心の内に浮かぶ本心な一文を書くことぐらいの抵抗かもしれないと小さなホコリを眺めて思います。戦争を災害であると考えるならば、誰一人として願わない災害を人為的に継続して実行する異常性はかなり高い。災害が起きる確率はルーレットの如き運命でもあり、毎度どこかで起きても、いつも他人事な災害でもあります。そのような、遠くの災害という感覚が人為的な災害を引き起こす戦争の要因なのかもしれないと「ふっ」と思う。キレイに磨いても、小さな汚れは見ていないし、パソコンのキーボードはすぐに汚れものであります。何の話なのか、自分自身の無関心を反省しています。

 
■2023年8月2日(水)
■Key of scos.
■2023年8月3日(木)
■一日一文章トレーニング。

「蒸しご飯を作ったよ」

「ひ〜暑い」
昨日の暑さと言えば大玉の汗が滴り落ちるような暑さでもある。
一段上の悲鳴の「ひ〜」な暑さとは、この夏一番暑かった暑さであったと言っても過言ではない。(体感)
南西にある台風6号の影響なのか?南からの温かく湿った空気がどんどんと関東平野になだれ込みより暑く感じる暑さなのかもしれません。
天気予報によると、台風は沖縄地方を超えて「く」の字に曲がる曲者予想な動きとなっております。
今朝のお空は真っ青なお空が広がりて、目の見えない大婆様の心で感じるような空色でもあります。
王蟲の関東到来はあるのでしょうか。
「今日もきっと暑いぜ!」ということで、その内に台風6号もよちよちとやって来ることに全タケノコ煮をかけます。

ということで。

本日のテーマは白米です。
単なる白いご飯で一つの文章を書くことはなかなかにチャレンジなこと。
昨日はホットクックの機能を使いて蒸しご飯を作ります。
蒸しご飯のお米とはもちもちな食感もあって、なかなかに新しいお味でもあります。
大好きな崎陽軒のシュウマイ弁当の白米が蒸しご飯を使用しているということで、試しに我が家でも蒸しご飯を作る。
シュウマイ弁当とは冷えても美味しいご飯になるように蒸しご飯によって作られたお弁当でもあるようです。
新幹線で移動する時にはバカの一つ覚えのようなシュウマイ弁当しか購入しません。
今では考えられない地獄の新幹線の喫煙席に座ったとしても、シュウマイ弁当を食べる瞬間は癒やしです。
前の席の人が地獄のグリーン席に座ったとしてもシュウマイ弁当を食べる時はそんな苦痛を癒やしてくれます。
グリーン席が地獄であるとは変な話なのですが、グリーン席に乗ると態度もビックリモーターな人たちの確率も高いような気もして、もの凄い苦痛を感じることが多いような気もします。
我々のような小心者はお互いに周りを気遣いながら少し座席を倒すぐらいに控えな指定席の雰囲気ぐらいの方が一番しっくりと落ち着きます。
しかし、東北新幹線のグレードの高い席はゴージャスでとっても好き。
話はそれましたが・・・。

シュウマイと言えば、子供の頃からシュウマイに乗っているグリーンピースに納得いかず、どちらかと言えば嫌いな部類の食べ物であります。
なのに、今や一番大好きなお弁当でもあります。
それもこれも、白米がとても美味しいことにあるような気もして、唐揚げに魚の塩焼き、かまぼこに卵焼き、ご飯は昆布と大好物の紅生姜とカリカリ梅、おまけのデザートの杏がいかしたセンスあります。
ただ、唯一苦手なものがタケノコ煮。
ネットの情報によると、このタケノコ煮みたい具材が、シュウマイ弁当の一番人気の具材でもあるそうで、それは、私の価値観とは全くの正反対でもあります。
シュウマイ弁当は皆、大好きだけれども、タケノコ煮が一番人気であることは本当に世の中よくわからないものであり、つくづく自分の価値観とはひねくれた逆ベクトルな嗜好性を持っているものだと思います。
そして、困ったことに、このタケノコ煮みたいなのは結構モリモリと大量に入ってもいます。
シュウマイ弁当を食べる時には、このタケノコ煮を全部人に譲渡するか、初っ端から一気に口に放り込んでさっさっとおさらばする感じでもあります。
好きなものは最後に残すタイプの食べ方です。
このように、シュウマイ弁当にはバランス良くいろんな食材が入っていてにぎやかで美味しいお弁当で、それも全て半分を占める蒸しご飯が美味しいからだと思います。
この文章を書いているだけでも食べたくなるシュウマイ弁当なのですが、移動時や新幹線の時のみに食べることのできるお弁当でもあります。
このシュウマイ弁当を分類するとすれば、それは銀座のジャポネのスパゲティなどと同じく定期的に食べたくなるマイ定番食の一つであります。

 
■2023年8月3日(木)
■猫の洗顔。
■2023年8月4日(金)
■一日一文章トレーニング。

「シュウマイ弁当の正式名称はシウマイ弁当でした」

シュウマイ弁当の正式名称がシウマイ弁当である事実にほとんどの人は気づいていない。
お弁当を買う時に、ほとんどの人が「シュウマイ弁当を下さい」と言っていると思う。
パッケージを目の前にして、その名称を書き取ることができれば「シウマイ弁当」の間違いに気づいたであろうか?
思い出補正された固定された記憶のイメージは早々に間違いであることに気づくことも少ないはず。
シウマイ弁当が好きなことは間違いないことである。
だがしかし、頭の記憶棚に収まるイメージはシュウマイ弁当である。
これは対象物に対して取材をしたのか?していないのか?違いでもあるような気もするが、文章の内容を考えるだけで精一杯な作業中の脳に余力はない。
そもそも、単にシュウマイ弁当のような蒸しご飯を作った日記にわざわざシウマイ弁当について掘り下げて調べる必要性も感じられない。
後から、シュウマイ弁当がシウマイ弁当であったことを知って「あっヤバイwww」と思いながらも、これは「怪我の功名」で次回ネタとして紐付けてしまおうと思う私がいる。
流石にシュウマイ弁当の中身の具材について暗記している訳でもないので、ネットで調べた。
その中でシュウマイ弁当の写真もたくさんあって「あっ、焼き魚も入っていた」と思ったり、タケノコ煮が人気という記事も読んで一般的な味覚との異なりに愕然ともした。
その中で何度となくシウマイ弁当のパッケージを見たにもかかわらず、名前がシウマイであること気づかないかことは先入観の弊害であるように思う。
先入観のままに書いてしまうことは良くあることで、頭であれこれ考えるというよりも運動神経で文章を書くような感じでもある。
文章トレーニングをすることで思うことは、これらは案外ラケットの素振りすることや、体を動かしてスムーズな動きを身につけることにも似ているような気もします。
先入観とは頭の中で当然事のように思い込む固定観念のことで、後に間違いが間違いであるとの天啓がやって来て「そうだったんだ」とその間違いを知るのですが、それを知るまでは条件反射に体を動かして無意識に書いているものでもあります。
そこには間違いや正解であるかの疑念も持たない歩行運動のようなものである。

そこで、先入観を克服する方法について考えてみた。

・1つは物事に常に疑いを持つ癖を身につけること。
これは性格もひねくれた人間になりそうな気もするので却下。

・もう1つは反対でとってもピュアになること。
常に真っ白なノートのようであれば、見たものを見たままに、何事も真新しく世の中を眺めることは可能かもしれない。
しかし、常に白紙っていうのも何か空っぽすぎな感じもする。

・失敗したことは失敗談として広く周知する方法もある。
「先ずは馬鹿になれ」=(誰の諺?)は正しいかもしれない。
誰か先頭を走る馬鹿頭が一人でもいれば、一人の人間の失敗した情報が周知される可能生もある。
そうなれば、多くの情報が正確な情報へと塗り替えられるかもしれない。

そもそも、インスタグラムにキラキラしたご飯が立った(蒸しご飯)を載せることだけでも全てのインスタグラマーの目的を達成したとも言えます。
そして、そこには嫌がらせレベルの長文付きでもある。
時折、文章をたくさん書きすぎた時には1回で送信できない文字量となって、1/2記事と2/2記事と2回にわたりアップすることもある。
そんな時、自分でも何をやっているのかと思うのですが、されど、バックアップを含めても一日一文章トレーニングの記事を残す意味はあります。
勿論、先頭を走る馬鹿頭の意味もあるのかもしれないが、この世の中、全てのカタチのある物質は経年劣化する宿命にあります。
コピーしても完全に同じものが作れるデジタル情報でさえ、それら物理法則からは逃れることはできません。
その理由は電気やサーバーやインフラがあってこその情報でもあります。
それらシステムが陳腐化したり、無くなってしまえば、当然そこにある情報も簡単に消滅します。
なので、今思いついたこと、考えたことは明日にも霧散してしまいそうな薄氷の儚いものであると考えると最低2つ以上のサーバーに分散して保管する意味は十分にあるように思えます。

結局のところ、シュウマイ弁当であれシウマイ弁当であっても、蒸しご飯の文章を最低でも半分は書き詰めて、あとはシュウマイ弁当の熱い想いを書けたことは、それなりの満足でもある。
そして、シウマイ・シウマイと書いているとシウマイ弁当がだんだん「シマウマ弁当」に見えてきた。
何だかヤバイね。

 
■2023年8月4日(金)
■色iroいろのイロいろいろ。
■2023年8月5日(土)
■一日一文章トレーニング。

「机上の友、旅の友、タヌキの人形」

古いwindows10パソコンがなくなれば80センチ幅のマイ書斎も随分と広くなります。
4000平方センチメートルの机に置かれるものはタブレットとその充電スタンドと、常々私をチクタクと時を刻みながら脅してくる目覚まし時計、それとアップルペンシル立ての3つ。
ノートパソコンがなくなれば、部屋の空間も随分とスッキリするものです。
結局、今、新しいノートパソコンを置いて作業していることを考えれば、全くの同条件で変化のなしとも言えますが、古いノートパソコンがバッテリ逝きの理由によって電源を挿したままに机に置かれていたのと比べても雲泥の差です。
机がスッキリとすれば、頭の中も整然と整うかと思えばそのようなことは全くありません。
今日も何のネタも思いつかないので空っぽな状態で文章を書いていることを思えば、机の上もリアル生活も混沌している方がネタ豊富なのかもしれません。
偉人の机とかは(見たことがない)恐らく「わちゃ〜」と荒れ狂う机上空間なのもしれなくて、机がカオスであればある程に面白き話が量産される机なのかもしれません。
我、妄想の書生一日目は、文豪の鬱陶しい灰皿と机の上をペンペン草一本も生えないアアルト(北欧)家具みたいな状態にして初日で首になってしまうことでありましょう。
広々とした小さなスペースとはそんな風にとっても快適な机でもあります。

デスクの上がスッキリもすれば「机上の友」を連れて来ることもできます。
写真はガーディアンズ オブ ザ ギャラクシーのタヌキのフィギュア。
この生物はアライグマなのかもしれません。
アライグマには可愛らしさとお洒落さがありますが実際は獰猛な生き物であると聞いたことがあります。
一方、タヌキは人を化かして泥臭くずる賢い生物のようではありますが、実際は臆病で大人しい生物のような気もします。
そう考えるとラスカルのイメージ戦略は一つのアニメだけで世の中を完全に作り変えてしまったメディア戦略の賜物です。

写真のタヌキは自然光の美しいキッチンテーブルで撮影しました。
オレンジの宇宙服を来た小さな毛むくじゃらとは、とてもかわいらしい生物です。
ほぼ、身長と同サイズの大きな武器を持っているのもかわいらしい。
銃には4つの銃口が付いておりワントリガーで4つの玉かレザー光線を発射することが可能です。
撃たれる方にとってはタヌキに銃で撃たれる絶望的な設定でもありますが、技量がなくとも的に当たりやすい凶悪な武器とも言えます。
銃口一つで連射するというのが、我ら人間の開発してきた概念だとすると、狙いはほどほどだけれども、数撃って当ててしまえという「質より量」な感じが、私好みでもあり犬属性の持つ野蛮さや適当さを体現しているようにも思われます。
犬とはもともと、貪欲で獰猛な生物です。
犬が言葉を喋り、道具を使ってコミュニケーションするとなれば、大体こんな感じだと思います。

困ったことは、このタヌキのフィギュアはすぐにコケてしまうこと。
机にドヤっと飾ってもちょっとした振動でコケます。
コケると尻尾が外れて、運が悪ければ銃の細かいパーツを破損してしまうかもしれません。
なので、結局、タヌキは横に倒して置きます。
フィギュアでどのように遊ぶのか?という行為も謎です。
幼き頃であれば「こんにちわ 今日から僕がリカちゃんを完全武装で警護するね」
という感じで遊んでいたのかもしれません。
広く広々としたマイ書斎にタヌキを並べることの面白さに困惑しつつ、マイお気に入りな机上の空間にはやっぱりタヌキは必要です。
そもそも、宇宙人みたいな土偶もお人形さんであることと考えれば、縄文人のお人形さん遊びも今も昔も変わらないお人形さんを置いて自分空間を高める自己満足なことであったのかもしれません。
縄文人の机にあのような土偶が置かれていれば、その部屋はなかなかにイカした部屋でもあります。
足は1本折れてしまったかもしれませんが、なかかなに物持ちの良い人物の所有物でもあったので現在まで遺ったことになります。

もし、私が漆黒の宇宙を旅する旅人であれば、「旅の相棒」には間違いなくこのような毛むくじゃらの生物と一緒に旅をすることでしょう。
法による統治とか全く関係ない宇宙空間でサバイバルするとなれば、変な道徳感を持つ人間よりも闘争心と野生身のある犬族な方がよっぽど背中を預けやすいバディーです。
見た目もかわいくて野蛮であると同時に宇宙生活にピッタリな生き物です。
目も真っ黒な黒目で怒っているのか?喜んでいるのかもわからないポーカーフェイスでありながら、うれしいと尻尾をフルフリして可愛らしい生き物。
そして、だけれども、「旅の友」としてバッグにこんなタヌキが入っていたら、それはそれで心底引きます。
タヌキフィギュアを持ち歩くのは壊れるから絶対にダメ。

 
■2023年8月5日(土)
■熱風吹きつけて、体にまとわりつく蒸し暑さ。
■2023年8月6日(日)
■一日一文章トレーニング。

「なでしこのサッカーを文豪の机上空間になぞらえて詠む」

「文豪の机」というものをネット検索したならば、結構、整然と整頓された机が多そうでもあります。
それは至極残念なこと。
その机に汗や涙、生みの苦しみの片鱗を全く感じることはできません。
絶対に一頁も読んでいないだろうと思われる全然関係ない本が不安定に積み上がり、ガクリッと寝落ちした瞬間に本の山も一緒に崩れて机上空間からむくりと起き上がる偉人のイメージは好感度爆上がりです。
Hunter x Hunter先生の写真のみが秀逸ですが、整然とキレイに並べられ机上空間のイメージはフィクションであって欲しいもの。
嘘八百な妄想をあたかも現実な物語のように書くような人達なことでもあります。
恐らく、フィクション癖も極まる本人たちのチェックの入った机上空間の絵であるとすれば、そのアップされる写真の数々もフィクションであると考えるのが妥当なことなのかもしれません。
創作系の人ならば自分の創造性のオリジナリティについてより神経質になるだろうし、人とはアイデアのソースとは常に隠したいと思う生き物でもあると思います。
また、苦しみの「行」を絶対に読み手に悟られてはならないと考える文豪もいるのかもしれません。
私の視線ではキレイに見せれば見せる作家程に、裏面の机上空間が隠されているのかもと裏を探りたくなる分析でもあります。
中には、「おらはそのまんまの素であるだ〜」みたいな天然な文豪もいるのかもしれませんが・・・。
そもそも文豪とは何かと考えれば明治の文豪などのイメージです。
辞書によると文章が並みはずれて上手な人、もしくは、文芸作家、大作家とあります。
文芸とはさらに何かと調べると、学問と芸術、言語表現による芸術作品、詩歌、小説、戯曲等とある。
あまり考えたこともありませんが、文章も美術などの絵と同じく芸術であるらしい。
文章の中からイメージが「ぶわり」と広がる時がありますが、あーいう感覚が、文章が芸術である瞬間なのかもしれません。

ということで。

昨日のなでしこの女子ワールドカップサッカーも凄かった。
文豪が机上の空間で文芸の美しさを生むとすれば、なでしこのサッカーは美しい芝生のフィールドに芸術的なボールの軌跡を作り出します。
ボールの軌跡は最終的に競技の勝ち負けをつけますが、なでしこのサッカーには隠し事の無き明確な意思を感じます。
それは守る時にはできるだけ危機を遠くに遠ざけることの攻守の明確さであったり、相手がパワープレーで攻めて来たとしてもボールを取り返した瞬間に縦へ縦へのとボールを繋ぐ戦い方の切り替え方の速さだったり。
その縦攻撃には2枚3枚と縦に連なる仲間たちの連携もあることも凄い。
そんな2枚・3枚の波状攻撃が繋がれば、それを阻止する手立ては相手チームに残されておりません。
また、相手チームが守備を固めたとしても、ブラジルやアルゼンチンのチームだけがするような中央突破を試みて強固な守備をこじ開ける技量も何か凄い。
サッカーのプレースタイルを全部把握している訳ではありませんが、なでしこのサッカーは唯一無二な戦い方をしているようにも思います。
このプレースタイルを一言で言うと「習字」のような感じかもしれません。
和歌を詠むように、さらりさらりと時に力強く、時にすーっと力を抜いて筆は進んで57577なリズムを刻みます。
それは文豪が「この文章も違うの〜」「これも違うの〜」と紙を丸めて捨てながら、最終的なゴールに向かう一文を試行錯誤しながら書き綴ることにも似ているような気もします。
とても素晴らしい試合でした。888

 
■2023年8月6日(日)
■ネコジタバタ。

■2023年8月7日(月)
■一日一文章トレーニング。

「花枯れた色に美しさを見出し、見慣れたマークにバイオハザードを見つける」

最近、ニュースで話題の中古車自動車販売の看板がどこかで見たようなマークであると思っていたら、そのマークがアンブレラ社のロゴマークに激似であることに気づきます。

・アンブレラ社のマークとは8角形の星型で赤黒。
・話題のマークは6角形の星型で黄色と白で一つの黄色が欠けている。

アンブレラ社と言えば、私たち世代にとって大変お世話になった会社でもあります。
Tウィルスをばら撒き、世界をゾンビ溢れさせて「ヒーキャー」と遊ばせてくれたバイオハザード内の製薬会社の名前でもある。
ゲーム内でも確かアンブレラ社のCMがあったのでバイオで遊んだことがある人ならば馴染みある会社であると思う。
私にとってバイオ4は狂ったように周回を重ねて遊んでいたゲームでもあり、ブラッドボーン、ダークソウル3、ダークソウル、デモンズソウル、バイオハザード4、バイオハザード5、これらはフィールド内を走り尽くしたゲームでもある。
同じゲームを何周も回って何が面白いのか?と思うものでもありますが、面白いゲームは何周回っても面白い。
最近リメイク版のバイオRe4も出たようなのですが、あれにはまだ手を出していない。
バイオ4や5のマーセナリーズもアホほど遊んでいる。
マーセナリーズとはゲーム終了後にゾンビを効率良くたくさんやっつけて高得点を上げるおまけのゲーム。
なので、すっかりゾンビ耐性もつき、今やゾンビに囲まれたとしても真顔な冷静沈着なプレイでもある。
周回重ねると生卵投げてゾンビをおちょくって遊んでゾンビに噛まれたり、ナイフ一本で余裕かましてゾンビに噛まれたりするという感じでもある。
絶対に死なないように巧みな技術で遊んでいても、最後の最後のボートレースで必ずYou Deadとなるゲームでもある。
勿論、ワンパンで死んでしまう怖いチェンソー男のフィギュアも買っている。
アシュリーはなぜあんなゲテモノ世界であのような服装をしているのかと思うのですがゲームには夢と青春がたくさん詰まっているものであります。
それにしても、なぜ?アンブレラ社の激似マークなのかが気になります。
卵が先か?鶏が先なのか?全くわかりませんが、どちらにしてもアンブレラ社似のロゴイメージとはあまり好感度の良いものではありません。
色や画数に変化を付けてはいるものの、後からアンブレラ社似のマークを元デザインとして「こんな感じでデザインしてよ(よくありそうな感じ)」であるとすれば、ゾンビにも驚かない私でも大いにビビります。
うちらのようなバイオファンは「あれっ、このマークはどこかで見たよな」と思えば、潜在意識にウェスカーの影を感じるのかもしれないので、カプコンデザイナーさん達には感謝イッパイです。
中古車販売店はニュースになる随分前から詐欺っぽいお話は耳にしておりましたが、実際にニュースとして話題になることはありませんでした。
そんな状況を一気に世間に広く浸透したのが街路樹を枯らすということ
言葉は悪いけれども詐欺まがいな事に比べて、木々を枯らすことは大した事ではないと思うので木々の伐採が事件の趨勢を決めたということがビックリな事でもあります。
これらから汲み取るものがあるとすれば、植物を粗末に扱うことのインパクトはキャッチーで大きいということである。
その意味では神宮工事のイチョウの大木伐採とかも大きく世の中の流れを変える案件なような気もします。

ということで。

我が家の植物界のお嬢にも不思議な力が宿ります。
それは弱った植物を元気にする力。
前回は弱った大根の茎を植物界のお嬢の下に置いたら、みるみる花を咲かせました。
今回は花枯れした植物を植物界のお嬢の下に置いたら、いい感じの色具合になりました。
花は枯れてくすんだ紫色となり、変な実も茶色く枯れたようにもなりて微妙に味わいある良い感じになっております。
よくよく考えてみると、花が枯れてしまったからと言って植物自体も枯れてしまったとは限りません。
緑の葉っぱには緑色の美しさがあります。
茶枯れの茶色にも茶色の美しさがある。
紫の花枯れの状態の色具合もキレイです。
絵など見る時には一般的にカラフルな色に美しさを見るものではありますが、街の喧騒や汚れなどにも時折、美を見出す現代美術などもあります。
花枯れた状態に美しさを見出すことは、そのような現代美術ぐらいの美意識が芽生えてきたような気もします。
それはくすんだ色のキレイさでもあり、同時にかっこよさであるような気がして、もしかしたら、これが「侘び寂び」なのかも?と思ったりもするのですが、よくわからないことであります。

 
■2023年8月7日(月)
■真夏の太陽を砕くアイスクラッシャー。


■2023年8月8日(火)
■一日一文章トレーニング。

「台風は関東平野に様々なカタチの雲を運び、直射日光が遮られた私はひとときの涼を楽しむ、空には彩雲と呼ばれるレアな虹を見つけますが、特段の幸運も見つからずがっかりしていると、普段絶対に見つからない方位磁石が見つかってラッキーだと思う、墓場の大木の先端の傾きを計測するとピッタリ北向きで、次は北向きに進んでみようかと思う迷探偵の迷推理みたいな変な話」

昨日のこと、いろんな雲が浮かんで、とてもにぎやかなお空です。
台風6号が南西諸島に直撃して以来、台風の大風がいろんな雲を上空に運び関東平野にも随分雲が増えました。
それまでは全く雲のない空であったことと比べると大きな変化。
おかげで、私の頭上にも大きな雲がぷかぷかと浮かび、または、モクモクとそそり立つ白い壁が迫る入道雲も見えます。
いやはや、夏ですね。
時折、雲が太陽の前を横切ると街に大きな日陰ができて涼やかだ。
もう小さな日陰を探す必要もありません。
この灼熱の世界にもっとたくさんの雲が生えますように。

雲のカタチとは様々です。
人生という荒波に飲まれたくすんだ眼力の人間の目に映し出される雲の姿は、今やコロッケやトンカツ、唐揚げ揚げのようでもある。
コロッケ一丁あり〜トンカツもキレイに揚がったよ〜熱々の唐揚げもとてもジューシーである。
昔ならば雲のカタチをもう少しロマンチックなものに例えていたと思う。
上空の風が強いこともあって大きな揚げ物たちは遠方にどんどん押し流される。
よく揚がる繁盛店のようでもある。

私が昨日空を眺めていた理由は2つある。
勿論、UFOを探していた訳でもありません。
理由もなく雲を眺めるようなロマンチストでもない。
それはネタ不足の変わった実を拾うことと同じく、空に浮かぶ雲も拾っていることでもある。

1つ目。

薄雲に虹がかかっていた。
虹がかかると言っても橋のようにかかる虹ではなくて雲自体が虹色に発光する雲を見つける。
通りかかる人も多いけれども、誰も見ていない虹色の雲とは淡いオレンジ+赤+黄緑+緑となかなかに美しき色に発色しています。
正にインスタにアップするような雲であるので撮影します。
この虹色の雲はネットで調べると「彩雲」という雲らしい。
雲に含まれる氷の粒が光に反射して、このようなキレイな虹色の雲を見せてくれます。
珍しい現象でもあるので、見ると何かしらのラッキーもあるようにも書かれています。
昨日、彩雲を見ることで何か特別な幸運ごとがあっただろうかと考えても特に何も思いつきません。
むしろ、ミスや何やとバタバタとやっていたぐらいです。
珍しき幸運を見つけても何の幸も拾わないことは、七福神のような立派な福耳を持った不幸者や、四葉のクローバーをたくさん拾うが肝心な幸運は拾わないような人でもあるように思えて何だか嫌だ。
小さな頃、虹とは結構頻繁に見ていたような気もしますが、大人になると虹を見ることはほとんどありません。
これは年齢と虹を見る機会は相関関係があるような気もして、大人の彩雲には時間差は必要であると屁理屈な解釈を行います。

2つ目。

最近、墓場を通りかかる時に気になることがあります。
それは御神木のような大木の先端が同じ方向に向かって曲がっていること。
今まではそんなことはなかったと思うので風吹いて曲がっているのかな?とも思っていたら風の吹かない日もやっぱり曲がっています。
なので、これは何だろうと思って、やっとの思いで方位磁石を掘り起こして計測しました。
普段、絶対に使うことのない方位磁石が見つかることは奇跡的なこと。
「ここにあるかな?」と思った場所の5個目ぐらいの場所に方位磁石はありました。
引っ越した時に北枕の位置を確認したい時にも絶対に見つからない方位磁石でもあります。
使いたい時に絶対に見つからない方位磁石が見つかることはラッキーに間違いありません。
「彩雲」のラッキーが方位磁石を見つけることであれば、これはちょっとがっかりでもあります。
ですが、毎度、通りかかる大木が何かしらの方角を指し示す方角を計測できたことは良いこと。
ゲーム脳はこういう時に物事の連続性からクエストのようなものを見出す傾向にあります。
大木の指し示す方角はピッタリ北向き。
何だか不思議だけれども、最近、墓場の大木の先端は北向き曲がる理由があるのかもしれません?
大判小判を見つけたらどうしよう・・・うしうし・・・ごめんなwww。

 
■2023年8月8日(火)
■一刀両断のインパクト到来!!
フォーク、カーブ、ものすごい球にも対応するケモノバット。
吸いつくように良く当たる。
バットが送球にあわせて太くもなる。
グリップはモフモフして滑らない。
一度手にすると癒やされること間違いなし。
50000ホイホイ、好評発売中。
タヌキ村のハンドメイド。
魔力は再補充可能です。
本商品は野球好きの推奨商品です。
 

■2023年8月9日(水)
■一日一文章トレーニング。

「彩雲効果を検証する」

昨日、再び彩雲を見た。
二日連続見られる虹色の雲とはこのお盆の時期に現れやすい雲なのかもしれない。
仏教的にもこの彩雲に乗ってお釈迦様が現れるようでもあります。
なので、この時期にピッタリでありがたい雲でもある。
また、昨日の彩雲は一昨日の彩雲よりも色がだいぶん薄い虹色でもあった。
台風が連れてきた多くの雲が太陽光を遮ることも多いので、そのような具合で薄い見えたのだと思います。
そのような幸薄な彩雲を見たからには、何かラッキーなことを期待してしまう私もいます。
小判か大判か、はたまた何かもっと良いことが待っていたならばと思っていたら手作り感満載のニワトリの縄が切れた。

野蛮に部屋の中に吊るされたニワトリは小学校以来の唯一の相棒である。
このニワトリは引っ越ししても、いつも一緒で私の成長と共にいつもそばにいるニワトリでもあります。
夏休み田舎に遊びに行った時に親戚のおじさんがニワトリの首をスパッと切り落として、物干し竿にニワトリを吊るして血抜きするポーズと同じ姿。
抜かれた血は飲むようで、飲んでみるかと聞かれて「いやいや、遠慮しておきます」と感じにもなるニワトリの吊るされ具合でもある。
何故なのか、ニワトリの解体作業の一部始終の全てを見せられて、鶏の内臓を家の裏の水路に放り込むと鯉が大きな口を開けて貪りやってくるところだけが面白かった記憶です。
胃袋や内臓類は水に浮くので、獰猛な鯉がそれらにめがけてバチャバチャと暴れる姿が面白かった。
ニワトリに無駄なものは何もないという教育の一環ではあるとおもいますが、今となっては良い思い出でもあり感謝でもあります。
私たちが好んで肉を食べていることの裏に、このような命のやり取りがあることがよく理解できます。
当然、鶏の味は一つも覚えていませんので、鶏の唐揚げは一口も食べていなかったのだと思います。
庭で放し飼いのニワトリのもも肉とは大人になった今から考えると、とても美味しそうなお肉であるような気もします。

そのような、長年吊るされ続けたニワトリにとって、昨日2023年8月8日は縄からの開放記念日(888な日)でもあったのかもしれません。
長らく、自分自身を虐げ吊るし続けてきた縄が経年劣化でやっと切れることになったことはニワトリにとっては僥倖でもあります。
ですが、この形状のニワトリはやっぱりニワトリは吊るされてなんぼのもんやというカタチでもあります。
なので、良い縄を見つけて再び結び直そうと思う、ゴメンね☆)))
今度、ホームセンターに寄った際は、昔ながらの良い縄を探しましょう。
月日が経つと縄とはこんなにぼろぼろになるものでもあります。
動物の毛のようなぼろぼと崩れる縄の毛を掃除機で吸いながら、かわいい毛むくじゃら動物の毛も、ゴミを散らかすニワトリの縄も同じくかわいらしく思います。

彩雲の見られた昨晩のおつまみは枝豆である。
ホットクックで蒸された枝豆は豆の香りをぷんぷんと漂わせてとても美味しいそうである。
湯気経つ枝豆にイキり立ちて塩をかけようとするならば、塩の入った容器を枝豆の上にどストラク落とす。
見事に塩まみれの枝豆。
多少の救いは塩の残量が少なかったことでもあり、それでも塩まみれの枝豆とは残念な姿でもある。
なぜ、塩を落とす時にこんなに美しくも枝豆の上に落とすものかと考える。
体操競技の審査であれば10点、10点、10点・・・の満点具合な芸術点でもあります。
昨日、なぜ、その姿を写真に記録しなかったのかと悔やまれます。
全ては横着して机の上に置いてゆっくりと作業をしなかったからである。
流し台の狭い場所でちょちょいと塩をふりかけてしまおうと思うことが私の悪いくせでもある。
「調理作業は絶対に机の上でやりませう」それが今日の呆即です。
取れる分の塩を容器に戻し、とても塩辛い枝豆を食べた。
今日はたくさん汗をかくことが吉。

そのような訳で、彩雲が見られた日の出来事とはこんな感じの一日でもある。
これは彩雲に乗っているお釈迦様をありがたさも感じない信仰の薄さが成せる技なのかもしれないし、大判・小判と時代錯誤も甚だしいセンスの無いラッキーに期待しすぎる人間の末路なのかもしれない。
ただ、ニワトリの縄が切れたり、塩の芸術性からもどんちゃんと大騒ぎで楽しい一日でもあった。
これが彩雲効果であると考えると、十分に楽しい彩雲効果でもある。

 
■2023年8月9日(水)
■ネコクロック。

■2023年8月10日(木)
■一日一文章トレーニング。

「オレはやった 全てをやってやりましたが 世の中とは本当にどうでも良いことで溢れている」

昨日は朝からの雨降りて涼しくなります。
猛暑も一息したならば、やろうと思っていたことが一つあります。
それがクーラーとサーキュレーターのお掃除。
先ず、物凄いホコリの塊がくっついたサーキュレーターを完全分解。
パーツごとに分解し、お風呂場で洗浄するとホコリ・ほこり・埃・・・の塊が取れて真っ黒な汚水となります。
そして、それらに洗剤をぶっかけてキレイに洗浄します。
単にクーラーの冷気を掻き混ぜるだけの機械にこれだけの量のホコリが溜まることは驚きでもある。
その黒い汚れは空気中の汚れの可視化しているとも言えるので、こんなにも真っ黒な汚れを吸い込んでいたのだと思うと本当に洗浄して良かったと思う。
冬であれば適度の換気なども行われますが、夏の猛暑の外気は少しでも遮断したい空気でもある。
冷房の効いた部屋の換気は、朝起き一番に窓を「ガガッ」と開けて今日の外気を確認したり、植物の水やり程度ぐらいにしか開放しないことを考えれば、夏場のフル稼働のエアコンの効いた部屋の空気とは汚れちまった空気であることに間違いはありません。

ほこりが ふわふるり ふわふわる
ほこりがなくなれば 笑顔になる
たった それだけで 笑顔になる

と、毎年同じようなことを言っているような気もする恋愛サーキュレーションなお掃除です。

突然の雨はゴロゴロ・ザーザーと街の汚れを洗い流して涼しい空気を残していきます。
新しい台風7号が日本列島に近づいているようで、そんな台風が近づけばこその、そんな影響もあっての高気圧に覆われて雲一つない天気と異なる雲の多い天気なのかもしれません。
雨で涼しくもなると人も元気になりますが、野鳥も元気です。
昨日、上野のボードワン博士の銅像の頭にカラスが止まりて、頭をつっつき悪戯をしていました。
人間への八つ当たりなのか、これから人に行う予行演習かもしれませんが、人の頭に似た銅像の頭をパシコパシコ・コンコンと激しく頭を突っついたり、叩いたりして激しく荒れ狂っておりました。
その様子がすごく面白かったので、「飛ぶなよ・飛んでしまうなよ」と思いながらガサゴソ・ノロノロとスマホを取り出してカラスにカメラを向けます。
「はよ、つっついて下さい」と願うのですが、カラスは警戒心たっぷりにこちらの動きを観察してから遠くに逃げてしまいました。
カラスとて、あのような変な動きを人にじっくり観察されて恥ずかしかったのかもしれません。
(残念)

そんな感じで、涼しくはなったのですが、やっぱりまだまだ蒸し暑くもあるのでタオルを取り出して汗を拭きます。
タオルで汗を拭くと、よくその使っているタオルを落としてしまうことがあります。
先日もどこかに落としてしまった汗拭きタオルですが、タオルが輪状に繋がっていれば首に通すことで落とすことの心配もないタオルを愛用しております。
繋がった輪は首に通すと落ちないのですが、何せダサい。
なので、当然、首に通さずに手に持って使っていることが多く、「ぼーっ」と生きている人生でもあるのでタオルや物を落とすことも多い。
写真のタオルは先日落としたタオルと同タイプのタオル。
何個も同じものを持っているのが(草)なのですが、この輪状につながったタオルはお気に入りで家にたくさんあります。
そして、昨日もそのタオルを使って「涼しくなったと言っても、やっぱりまだまだ暑いわ〜」と言いながら汗を拭ってタオルを机に置いたならば、そのタオルのお姿が「便座カバー」に見えてきます。
写真のタオルは便座カバーのように見えますが、正真正銘の顔の汗を拭くタオルです。
どこから、どのように便座に巻いても、決して便座にフィットすることのないタオル。
便座カバーをタオルみたいに使っている人とはちょっとヤバイよねwwwと思いながら、一度でもこのタオルが便座カバーに見えたらならば、もうどこから見ても、このタオルは便座カバーです。
くすんだ若草色みたいな色も何だが唯一無二の便座カバーっぽい色ではある。
わいが「暑いわー暑いわー」と言いながら拭いているタオルが便座カバーのように他人が勘違いしても仕方がなきそっくりさんでもあったことに、今まで気づかないことにもビックリである。
そして、この同じタオルは先日もどこかで落としました。
道で落ちているかもしれないこのタオルは便座カバーにしか見えないものでもあり、本当に御免候な気分にもなる。
今まで何も考えず使っていましたが、もはや、このタオルは便座カバーにしか見えません。
そして、そんな便座カバーみたいなタオルを首から通していたら、便座カバーを首から通している人みたいで面白い。
それでも、この便座カバーみたいなタオルを使い続けるところが、わいと呼ばれる意識高い系でもある。www 
なので、わいのタオルは便座カバーではないので、あしからず☆

 
■2023年8月10日(木)
吊るされニワトリへのオマージュ。
■2023年8月11日(金)
■一日一文章トレーニング。

「大木の先端が北向きの指向性がある件について考えた」

墓場の御神木のような大木が北向きを指し示している件について。
いろんな木々の先端を気にかけて、その都度コンパスでその方角を調べた結果について書きます。

木々の先端が方角を示すことは、墓場の木々だけでなく他の木々についても見られる現象です。
墓場の大木が指す方角に何かしらの宝物があるのではないかとのささやかな希望は打ち砕かれましたが、たくさんの木々の先端が北向きの方角を示していることは面白いことでもあります。
どの種類の木々でも方角を識別できる訳ではなく、常用樹、落葉樹等のモワッと丸く葉っぱが生い茂る木々では識別不可能です。
この辺りでハッキリと方角を示す木々はヒマラヤスギの大木。
ヒマラヤスギの大木が識別し易いのは三角形の先端が尖っているからだろうと思います。
三角山のてっぺんから1本伸びる枝を見れば、北向きの方角に枝を伸ばしていることがすぐにわかります。
凝視して先端の1本を見極める必要がありますが、他の杉の木でも同じように北向きを指していることを確認できます。
あとは、イチョウの木々も北向き傾向を示していますが、小さな街路樹のイチョウでは全く方角を示さない場合もあります。
イチョウの街路樹でも大木であればある程に、その方角を識別することが可能です。
イチョウの木も針葉樹も三角形の樹木のカタチに特徴があるので、三角形のカタチの木々の頂上から伸びた1本を識別すれば北向きの方角を認識できるのだと思います。
大風、辻風、台風一過で枝も飛ばされてしまえば、識別も不可能となるので観察するならば台風がやってくる前の今が観察日和です。
結構、不思議な現象であるので観察する価値はあります。
その意味では安定した気候の時のみ北向きを識別できる方法なのかもしれませんが、台風一過の後の変化についても調べてみたいと思います。

木々の先端から方角がわかれば、それは大変便利なことでもあります。
初めて降りる地下鉄の駅とは大抵、「ここはどこなのだ?」と地上に出ると東西南北さっぱりわからない方向音痴になるものです。
スマホの地図を見てもよくわからないことは度々あることで、スマホと体をぐるぐると回しながら、結局、自分は今どちらの方向に向かっているのだろう?と不安に思うことは度々あること。
そのような時に針葉樹やイチョウの大木を見つけて先端の枝の指す方角を目視できれば、とりあえずの北向きの方角を知ることはできます。

このような木々から方角がわかる植物のことをコンパスプラントと言うようであります。
まだ、観察事例も少なく、北の方角を示しているのは今の時期や、今年だけの偶然なこととも考えられるので、一年を通して調べないとなんともよくわからない現象ではありますが、植物が磁場の影響を受けて、その磁場の流れをなぞることは至極当然なことのようにも思います。
そのように思う理由は下記の通りです。(知らんけど)

鉄の惑星である地球の磁場は空中の空間を南から北に向かって流れる磁力線の通りに作用する現象でもあります。
土壌にも砂鉄がたっぷりと含まれるとなれば、土から栄養分を吸い上げて青々と生い茂る葉っぱにも鉄分が含まれると考えても不思議ではありません。
なので、そんな微弱な鉄分を持つ葉っぱが磁場に反応して北向きに引っ張られるのでわとの考えです。
※鉄分の少ない土壌では明確な方角を示さいこともあるのかもしれません。
そうなれば、大木ほど天高く伸びてより空中にある磁力線の影響をより受けやすくなるとも思うので、空高く伸びる大木ほど北向きの方向示しやすい理由はそんなところにあるのかもしれません。
ヒマラヤスギの大木の先端に含まれる鉄分は成長と共に、伸びれば伸びる程に不安定なカタチの枝となって自然と重力と磁場によって引っ張られて南から北に向かって曲がるのではないだろうかと思うのです。(仮説です)

 
■2023年8月11日(金)
■新しいネコの顔。
■2023年8月12日(土)
■一日一文章トレーニング。

「真っ白であることの良いことは作業を行う痕跡が必ず残ること。長年使ったものであらばそのような痕跡はカタチとして定着しているのかもしれません。」

いやはや、なでしこ残念。スウェーデンの前半からのフォアードと中盤でのトップギアの強いプレスは2〜3人で囲み潰される徹底ぶりでもありました。相手陣営で反則する分にはノーダメージでもあるので相手陣で激しく当たるスウェーデンの戦略は理に適っていると思います。ハーフラインを超えて来るような局面では全くボールを持たせてもらえなかったので、今まで見られた“なでしこ”の良さは相手チームによって完全に封印されたことになります。これを打開する方法はわかりませんが、バックの守備がボールを持ったら中盤をスッ飛ばして前方のスペースやロングボールをどんどんと蹴り込み地味にチャンスを作るのか?1対1の局面では必ず一人抜いてから数的な有利を作るのかとも考えるのですがサッカーの知らない私が考えてもよくわからない圧倒させるだけの前後半のスウェーデンのパワープレーでもありました。守ってばっかりいるとしんどいし面白くもないと思うので守備にも楽しさもあれば良いのかもしれません。それが前方に一本で通すロングキック職人みたいな技かもしれないし、ところどころ関係ないところでピッタリ密着マンマークしてその都度、相手を苛つかせる方法などを考えるのは人を怒らせることが得意な私が考えそうな浅知恵でもあります。いずれにしても勝手にあれやこれやと分析することは面白いのですが、スウェーデンの罠にはキレイにハマりすぎたことが敗因なのかもしれません。ゴールへの執念や運動量でも相手の方が上回っていたように思われて、後半同点にできるような機会もゴールポストにも嫌われてしまうことが度々ありました。丸いボールの気まぐれなことを考えると「三笘の1ミリ」なことを思い出されます。あれは大谷選手のホームランぐらいに熱狂する瞬間でもあります。ボールという生き物は、もしかしたら物理的な法則を超えた気力や怨念のようなものをのせて終着地への軌跡を描くものなのかもしれません。

ということで。

今朝は朝からキーボードの絵を描きます。一つ一つキーボードを描くことは狂気な怨念です。とても大変で1/3ぐらい描いたところで「キーボードは1個1個描かなくとも、コピペしたら良いのでわ」という当たり前のことに気づきます。そして、Procreateに大量のキーボードをコピー&ペーストを繰り返していたならば、iPadも今までない位に発熱してコピーエラーが発生します。もうこれ以上の画像の複製を作れなくなったので、レイヤー画像を統合させて数を減少させると通常通りに動くようになりました。ノートパソコンのキーボードの数は何個ぐらいあるのかと数えてみたら88個(一つは電源ボタン)あります。そりゃ80ものレイヤーを開くとなると高負荷にもなりそうであります。

ノートパソコンの文字を描いていると悪名高い「ナムロックキー」が無いことに気づきます。古いパソコンも調べてみたら「ナムロックキー」がなかったので前機種から「ナムロックキー」は廃止されていたようでもあります。キーボードの文字を入力していると、これは何のキーだというものが多々あります。「Pause Breakキー」もその一つ。何のキーなのかわらないので早速ネットで調べるとパソコン処理を電気的に停止させるボタンのようであります。今は歴史的な名残として残っているようで、ほとんど使われることのないキーでもあるとも書かれています。なら、いらんのにと思います。その隣にある「insertキー」も文章途中に時折間違って押してしまい「あれっ?入力が変になった?」となるボタンでもあります。パソコン上のキーボードでよく使用するものはほとんど決まっており、その痕跡はまだキレイなパソコンのキーボード汚れを磨きながら検証することで見える化できます。(写真の図)

写真は1回目(赤)と2回目(青)でキーボードに油汚れを可視化したもの。よく押すタイプ文字ははみ出ても押すこととなるので汚れが目立ちます。このような使う度にキレイに拭き拭きしているのは最初のことだけでもありますが、汚れを拭くことで良く使うキーも見えてきます。汚れ具合を検証すると文字は万遍なく押していることがわかります。その他の汚れはパソコンの上に手を置いた時の手垢となります。キレイなパソコンの利点はこのような油汚れでさえ痕跡を残すことでもあります。横の汚れだけは使えば使う程に脂ギッシュに汚れを蓄積していくもので拭いても・拭いても油は追加投入されて層を成していくような感じでもあります。ならば、前もって油をキーボードの金属に塗り込んで手汗油が気にならないぐらいに金属を油を浸透させることはできないものかとも思います。今度、試しに油を塗り込んでみます?

 
■2023年8月12日(土)
■「キャーわー」なネコの挨拶。
■2023年8月13日(日)
■一日一文章トレーニング。

「良く言えば随筆、悪く言えば筋肉運動」

 物忘れ、うっかり間違い、そもそも覚えた時から間違っていることもある。毎日文章を書くことで文章が上手になるような気配もなく、寧ろどんどん下手に雑になるような気もする文章トレーニング。当然、毎日書くようなネタもないので、どうでもいいようなことにフィーチャーしながら書く。同じ文章でも渾身の思いを込められた文章と、ほぼノリと勢いで書かれた文章には雲泥の差はあります。文章の良し悪しは内容次第なのか?それとも、脱字誤字による減点方式なのか?毎日文章を書いていると書けば書くだけ脱字誤字も大量生産されます。私の脱字誤字・間違いはトレーニングすることで人の数百倍、数千倍の失敗を毎日繰り返すことになるのでしょう。これを私は戦歴の傷や勲章だと思うようにしています。成功談よりも失敗談の方が人にとって有効かもしれないことは完全に無敗のチームが存在しないことの理由でもあります。間違いは間違いに気付いた時に修正すれば除々に良きものに近づく期待です。脱字誤字を発見すると人の記憶とはいかにいい加減なものだと思う。毎日、どれだけの間違いの山を築けども脱字誤字問題に永遠に解決を見る未来は見えません。死ぬまで文章を書いたとしても間違いは山盛り作られていくことになります。考えるだけ無駄なことなのかもしれません。自分で書いた文章の間違いを自分自身で気づくことは大変難しい。校正的な目線の別人格が読むことで初めて知る間違いもある。このような文章でも縦横斜め読みしながら修正はしますが、やっぱり気づかない間違いはあるものだ。直近では「恋愛サーキュレーション」の歌を「恋のサーキュレーション」と書いた。正式名称「シウマイ弁当」のことを「シュウマイ弁当」と微妙に惜しい間違いを頻発している。それ以外にも多々ある。それは文字の世界のことだけでもなく、先日はお茶の入った容器を冷蔵庫に戻そうとしたならば、なぜか冷蔵庫の扉と脱衣所の扉を間違えて開けていたこともある。わざわざ離れた脱衣所まで向かう意味もよくわからないのですが、これは無意識な行動でもあります。意識的に書かなければならない内容とは意図的に避けて通る3丁目のようなもの。長年書こうと思っているゴミや物真似のお話、資源国でもないのに科学(技術)立国を捨てて観光立国・円安誘導な無茶苦茶なAB政治についても書きたいと思うのだが、何せ内容が重い。なので後回しとなる。結局、怪我の功名で美味しいパンを食べたお話について書く。注意散漫にならないように常に意識することで人とは人らしく考えて行動するとなれば、無意識とは単なる筋肉の電気信号で動いているようなものかもしれません。この文章もほぼ9割無意識だとすると、お坊さん世界の「無」の状態とも言えるのかもしれません。邪念も少ない良い状態ですが、悪く言うと無意識な内をスラスラと書いているだけの筋肉運動とも言えます。仕組まれた文章でもない分、脱字誤字も多いということ。正しい文章というのも変な話でもありますが、読み手からすれば、字間を省いて走り読み、読み飛ばしてワープすることもあれば、間違いを修正しながら丁寧に読むことも日常茶飯事でもあります。自己脳内で文章を拾い・修正しながら読むことは、もはや文章は書き手の作品ではなくて、読む時点で読み手の作品であるとも考えられます。そうなれば、Aというものは読む人のBやA’、A+Bなど正反対や全く異なった解釈にもなり得ます。書き手が自由であれば、読み手も自由でもあります。ならば、事務的に短文で内容を伝えることが吉かもしれないと思って、今やX(バツ)と呼ばれているツイッターな短文でこの内容を要約してみたバッテン。

「私の文章に脱字誤字は多い。
長文とは本質的に不必要な内容でかさ上げして意図的に文章を長くしている。
不必要な内容とは無意識な内容かもしれない。
無意識的な文章も多くなれば当然、間違いも増えます。
文章は多くなればなるほどセルフ校正で間違いに気付くことも難しくなる。
それが脱字誤字の多い理由である。
あと、間違いは見つけた時点で修正すればいいやと諦めてもいる。
無意識とは良き「無」なのか?それは単なる電気的な筋肉運動なのか?
人の中に常に無意識がある以上、書き手も無意識な適当さで書き進めれば、読み手も無意識な解釈で読むこともあり得ます。
創作物は作り手から離れて読み手に渡った時点で、別の作品となっているのかもしれません」

ということで。

前日の晩ご飯に食べようとトースターで焼かれて、そのまま食べるのを忘れた野菜を発見する。
きゅうり・トマト・ししとう・アスパラガスのオリーブ焼き。
焼き目が付いて美味しいそうに乾燥している。
もう一度、オーブンで焼いて朝のパンの上に並べたらとても美味しくて豪華なパンになりました。
間違い失敗とは時に怪我の功名、学びでもあり、必ずしもの悪という訳ではないようでもあります。

 
■2023年8月13日(日)
■壁に投げる。
■2023年8月14日(月)
■一日一文章トレーニング。

「アイスキャンディーはお皿を使って食べようね(令和の常識?)」

暑中お見舞申し上げます。
いやはや、まだまだ暑い日は続きますが7月の36度の猛暑を乗り越えれば、体も暑さに慣れる耐性もついて来るのかとも思っていたら、8月の暑さは曇っていても、夜でも、やっぱり暑い。
そして、まだまだ暑い日は続きます。

そんな暑い日の救世主がアイスクリームです。
カラフルで冷たく、恐らく栄養なんて全く無いと思われる完全無欠の嗜好品。
アイスクリームみたいな人と、人に例えると全く良さは伝わりませんがこの時期のアイスの冷たさは救いです。
マイ・NEWパソコンのデスクトップ画面は今やアイスキャンディー画像です。
とっかえ、ひっかえ、様々のアイス画像がオサレに涼しげに貼っている。
新しい端末を頻繁にカスタマイズすることは新品あるあるです。
アイスキャンディーのオレンジやブルーのあの怪しげな半透明色はとても体に悪そうな食べ物でもある。
昔、食べた駄菓子屋のキャンディーであれば食べると舌の色もアイス色に着色して、皆で「べー」しながら舌に着いたアイスキャンディー色を見て笑っていたものでもある。
今考えると、無邪気でアホっぽい。

モニター上で永遠に凍る氷の画像を見ていれば、それなりに気分だけでも涼しくもなりますが、何せ自撮り?自分自身で撮影したアイスキャンディーの画像でもあります。
ピントも随分ボケボケな写真であり、影も映り込む素人具合な雑なアイス画像でさえ視覚的な冷たさは感じるもの。
夏場のクソ暑い時のデスクトップ画像にむさ苦しさ溢れる人の群れ、煮えたぎる鍋の画像にしたならばグラフィックボードのファンも100%の唸り声を上げるのかもしれません。
当初は海外のアイスクリーム屋さんの映える写真やTumblrで収集したアイス画像をダウンロードして使用しておりましたが、リアルにアイスを食べていると下手な写真でもデスクトップ画面に貼りたくもなります。
写真は「ガツンとみかん」と「ガリガリくん」のキャンディーです。
夏の季節は赤城様さまさまです。
氷の割れ目はクレバスで、エメラルドグリーンや青く輝く氷上の探検隊。
画像の氷の目を眺めるだけでも氷点下の冷気に閉ざされます。
もはや、棒の持ち手などを削除して画面全面を氷の拡大画像にしても良いのかもしれない。
アイスのデスクトップ画像をダウンロードできます

アイスキャンディーとは棒を持ってワイルドに食するものだと思っていましたが、これは大いなる間違いでした。
アイスキャンディーはしっかりとお皿にのせて、エレガントに食べることが一番食べやすい作法ではないかとも思います。
アイスキャンディーを写真に撮ることでわかりましたが、アイスを食べるとベビスターを食べている時のようなボロボロ・ボロボロとアイスの欠片や液体を落としながら食べていることに気づきます。
アイスを食べた後に机や床がベトつくことはその論証でもある。
どれだけの糖分を含んでいるのかと思うと、先日、梅ジュースを作った時にも狂った分量の砂糖を投入してから、やっと美味しい梅ドリンクとなっていたので甘いお菓子や飲み物にたっぷりの糖分とは常識でもあります。
そんな甘い糖分が机や床に落ちればベトベータになってしまうことは当然のこと。
人生の大切なことは全てポケモンカードで学ぶみたいな感じです。

アイスキャンディーを食べる時にお皿を用意することの良いことは落ちる破片をキャッチする以外にもあります。
それは、箸休めをできること。
アイスを食べ始めると溶けるスピードと、溶けて落下するアイスを如何に落とさずに上手に食べるかという時間との戦いでもあります。
上からガブガブ食して、下から崩れ落ちるアイスをすくいながら食べる。
それは蟹食うカップルが無言で高速に食べることに似ていて、忙しくて落ち着かないことでもあります。
そこで、箸休めのお皿があると一呼吸を入れることが可能です。
陶器のお皿は熱量奪うことも無いので、お皿に置いていても解凍を早めることもありません。

ということで。

デスクトップ画面用のアイスキャンディー写真を撮る為に白いお皿に置いて撮影していたならば、アイスキャンディーとはお皿に置いて食べると意外に便利であることに気づきます。
もしかしたら、アイスにお皿は常識だったらm(_ _)mt。
アイスをお皿に置いて食べることは、ハンバガーをナイフ&フォークを使って食べる欧州人のようでもあり、ワンランクアップするお上品な食べ方でもあります。
セレブさんやマナー講師がアイスキャンディーを棒のまま食べているのを見たらならば、何か笑ってしまうかもしれない新常識?かもしれないお話でした。草
勿論、皿の上でアイスを食べていても笑えます。草

 
■2023年8月14日(月)
■皿上で踊るアイスキャンディー。
■2023年8月15日(火)
■一日一文章トレーニング。

「ノーラン監督の新作を観たいな」

クラシック音楽は全然聞かないのですがWilliam Walton(1902-1983)は好き。
珍しい赤色のプラスチックケースに入ったパッケージにはスピットファイア(英国の第二次世界大戦時代の戦闘機)が雲の上を飛ぶ姿も描かれています。
1曲目のSpitfireは戦闘機が雄大に飛ぶ感じが表現される良い曲です。
それ以外にもインペリアル戴冠式の音楽等も荘厳な感じも素晴らしい。
戴冠式(たいかんしき)は君主制の国家で即位の王冠を聖職者から受け取る儀式のことで、日本だと「即位礼正殿の儀」にあたります。
曲のノリは英国のロイヤル・アルバート・ホールの「Promsコンサート」を聞いているような感じでもある。
クラッシク音楽に戦闘機なので国威発揚な音楽かと思えば映画音楽です。
「ヘンリー5世」「ハムレット」「リチャード3世」とspitfireを描いた「The First of the Few」用の映画音楽として奏でられた曲です。
当然ですが、これら映画は観たことがありません。
なぜ?このCDを持っているかと言えば、実家から勝手に持ってきてからでもある。
CDをパカッとはめてスタートボタンを押すと「パパーン・パパーン〜」と軽やかでPOPなクラシック音楽が流れ出す。
映画音楽だけあって、すんなりと耳に入るクラシック音楽。
映画のサウンドトラックと言えば、澤野弘之さんのユニコーンガンダムの曲も好きな音楽の一つです。
こちらはDVDもCDも持っている位に何回でも聴いてしまう音楽です。

「映画に音楽は必要不可欠だな〜フムフム」と思っていたら、クリストファー・ノーラン監督のことを思い出します。
ノーラン監督の音楽の使い方は真逆な手法です。
そういえば、ノーラン監督はスピットファイア戦闘機が飛ぶ「DUNKIRK」の映画も作っていました。
こちらの音楽には「ン〜ン〜」という不気味な音が流れていたような記憶です。
映画も第二次世界大戦初期の英国軍の撤退戦をテーマにしたもので、ダンケルクの海岸に集まって英国本土に後退しようとする英国軍に対してドイツ軍の戦闘機が機銃掃射するという絶望的なお話です。
ドイツ軍は地上戦力の消耗を避ける為に航空戦のみの攻撃で海上封鎖を行いましたが、英国は民間のボートなどを動員して戦闘員を救出するという完全なる負け戦の実話です。
普通であれば「ノルマンディー上陸作戦」や「The First of the Few(観たことがないけど)」の軽快なリズムで飛行機を飛ばしたいところですが、ノーラン監督の面白いところは真逆なところ。
そもそも、「バットマン」では「善悪」の2つの対抗軸で物語が進んでいきます。
「インセプション」では記憶の中の何本も何層にも重なる夢の時間軸と現実の時間軸を対比させています。
「ダンケルク」では確か、飛行機の目線と、絶望的な地上を這いつくばって逃げる人間の目線で描かれていたように思います。
ノーラン監督は常に相反する2面の対比を持って物語を繋ぐ監督のような気もします。
新作では「オッペンハイマー」を題材にした作品で話題になっておりますが、原爆の父と呼ばれる人をテーマの映画であるようで日本での放映は未定みたい。
日本人にとって核や原爆等はとても政治的な問題ではあります。
今までのノーラン節を観て来た感想で言うと、クリストファー・ノーラン監督は政治的な表現をする人ではありません。
全く内容は知りませんが、今回も原子力という人類に恩恵を与える側面と、大量殺戮の道具の相反する2面を題材にして描いているような気もします。
日本は悲しくも2発の原子力爆弾(大量破壊兵器)を落とされた国でもあります。
もし、当時の日本にB29の高高度を飛ぶ飛行機を撃墜できる防空能力があれば、爆弾を積載する爆撃機を撃墜することが可能でもあったので、先ずは当時の空軍の戦闘能力の低さを認識する必要はあります。
零戦のプロパガンダに踊らされる現実の向こうには、ほぼ宇宙空間まで飛行できる技術遂行能力です。
豊臣秀吉も「小牧・長久手の戦い」で徳川家康に負け戦をしたけれども、その後に天下人の礎を築くことにも似ています。
「勝ち・負け」「成功・失敗」とはとてもシンプルな01思考ではありますが、世の中そんなに単純ではないのかもしれなくて、ダンケルクの戦いで英国に逃げ帰った戦闘員が戦争後半の反撃の中心となったことを知るならば、ドイツ軍の勝利の失敗は陸上戦力を総投入しても戦わなったことでもあります。
その意味では戦争とは全く無意味で無駄な破壊行為です。
オッペンハイマーは誰なのか?、オッペンハイマーが核開発を止めたところで、全く別の誰かがそれを開発するだろうし、作品やキーワードに政治的な要素を持ち込み、自ら盲目にあるように現実を見ないのは私たち自身であるような気もします。

 
■2023年8月15日(火)
■ノーラン節構文の解析。
2つの価値観や異なる人々が交わる時の時間軸を図化してみた。
左から右へ刻々と時間は経過していきます。
青と赤の時間軸で交わる時に出来事(事件)が発生します。
色を半透明にしてみると新しい発見もあります!!
何かと何かを共有する時に、それぞれが持つ色も混色する変化も面白い。
私たち自身をトランスパーレント(半透明)な存在であると考えると、
人とは何にでも染まりやすく影響を受けてしまうことは当然なのかもしれません。
これは青から見た物語なのか?赤から見た世界なのか?それとも視線の変化なのか?
人が持つアイデンティティは完全な別物であることを考えると染まり染め上げる合戦の果ての衝突なのか?
もしくは、相手人格の存在を完全に認めることの他ならないのかもしれません?
対局にある価値観とは白黒つけることが難しい価値観でもあります。
ノーラン節構文の最終終着駅は結局、答えが出てこないものなのかもしれなくて、
ハッキリとした解決を求める人には少し歯がゆい終わり方であるとも思います。
私の場合、そのような曖昧模糊とした終着駅は結構好きな駅でもあります。

  
■2023年8月16日(水)
■一日一文章トレーニング。

「毒を以て毒を制すとは変な言葉です」

その言葉、私たち日本人の心の奥底に必ず眠っている言葉の一つでもあります。
それは日本人の国民性を表す一つの概念であると言っても良いと思います。
悪を除く為には悪を使いて取り除くという意味で、それを以て毒で毒を制すことになります。
イメージとしては何かしらの問題を「毒」であると考えるならば、それを解決するに新たなる「同質の毒」が必要ということにもなります。
普通に考えれば毒と毒がぶつかり会う状態とは結局、猛毒が蔓延した状態でもあります。
できるだけ穏便に問題を解決したいと考える私たちが、問題解決の為に自らも毒に手を染めて毒のかけ合いを続けることに生産的を見出さないのも、それまた日本人的な考え方の一つでもあります。
そこで、
その後に続く言葉が「和を以て貴しと成す」かもしれないとも思うし。
または、「調和」の実行でもらちがあかない時の最終手段としての「毒対毒の対策」なのかもしれません。

いづれにしても、「毒を以て毒を制す」状況とは私の記憶の帯を探ったとしても、それに該当するような経験は見当たりません。
経験薄なのに、なぜ心の奥底に脈々と存在しているのかは不思議なことでもあります。
外国の諺の「目には目を歯には歯を」とも近いような気もしますが、やられたことに対して同じことをやるという意味ではないので、対立する事柄に対して、それが悪魔であれば、例え悪魔であったとしても同等の力を持って対峙するということに近いのかもしれません。
昨日の兵隊には兵隊をというのも毒には毒に例えることはできます。
薬が毒というのも変な話ではありますが、薬を飲む時にも副作用のことを考えて飲むような時にも心の奥で少しはそのようなことは多少考えます。
いつも何時でも何かしらをの損得を天秤にメリットと副作用を推し量る状況です。

そこで、
もしかしたら、NEWパソコンの気になるキーボードの手垢汚れを目立たなくする為に、サラダ油を塗り込んで金属と馴染ませる事柄が「毒を以て毒を制する」ことにとっても似ているような気もします。
手脂の汚れが気になるならば、最初から油を塗ってしまえば、それが油を以て油汚れを制することになります。
パソコンのキーボードの角に少量のサラダ油を塗り込もうと試したならば、毎度の加減の緩いドバっと大量の油が付きます。
仕方なく一気に全面に油を塗り込むとパソコンのキーボードはベッタベタのテッカテカ・ボディービルダー選手権のようです。
機械加工やフライパンなどでも油で金属を馴染ませることがありますが、流石にこれはテカテカすぎるので丁寧に油を拭き取ります。
オイリーパソコンの油を完全に拭き取らないとモニターを閉めた時に画面に油が移ってしまう可能性もあるので、激落ちくん等を使いて塗る前の状態ぐらいにキレイに油を拭き取ります。
こんなにもキレイに拭き取れば油の効果も無くなってしまうかと思えば、結論を言うと、サラダ油は案外キーボードに馴染みます。
以前よりも手脂の付き具合が目立たなくなりました。
新しいスニーカーを買った時に白いピカピカの靴がダサいと思いてわざと使い古されたように汚す人もいますが、そのような感じに近いのかもしれませんし、新車のツヤツヤのボディーが汚すことが嫌で車に乗れないという人が、使用前にわざと車を汚す少しばかりの勇気のいる儀式のようでもあります。
いづれにしても、金属に油を塗り込むとそれなりに油は金属に馴染みて、これは「毒を以て毒を制した」と言っても良い感じです。

写真は前前前に使っていた3代目前のパソコンのシールを剥がしたもの。
「Windows7」「intel Centrino inside」「NVIDIA GEFORCE with CUDA」「ENERGY STAR」
細いマスキングテープに滲んだ文字で書かれた「衝撃に弱い」が愛嬌です。
このパソコンは少しでも衝撃を与えるとシャットダウンしてしまうので「衝撃に弱い」と自分自身に注意を促していました。
いづれにしても、古いパソコンのキーボードは「これでもかー」と言うぐらいに、とっても汚い。
キーボードをキレイ扱っているのは最初だけの特権かもしれなくて使用済みパソコンのキーボードはどれもとっても汚い。
昔、キーボードは便器よりも汚いというような記事も見たような気もするので、他人のキーボードを触るのは何だか気持ち悪いことでもあります。
昔、Pの売り場に置いてたノートパソコンを知らない子供が熱心に触っていたので何をしているのかと、後ろからじーっと見ていたらネットサーフィンです。
業務用パソコンとかはたまにお前は誰やねんと思う人が、普通に触っていたりして売り場にパソコンはいろんな人が触っていて気持ち悪い草です。
 
■2023年8月16日(水)
■121212。
■2023年8月17日(木)
■一日一文章トレーニング。

「アイスクリームから人の熱量を例えてみる」

新しいデスクトップ画像を作った。
勿論、涼しさを呼ぶアイスクリーム画像です。
コーンにチョコがけの茶色いチョコレート味はアイスキャンディーの半透明さにかなわないような気もしましたが、やっぱりアイスクリームはアイスクリームだけあって涼しげだ。
しかし、見えるアイス部分は先端の数センチだけであり、ほとんどの面積は手持ちのコーンでもある。
その小さなアイスクリーム面でさえもT字に覆われたチョコレートによって氷部分が隠されて、実際の凍った部分は画像のほんの少しである。
なのに、なぜ涼しくも感じるのでしょうか?
「アイス=冷たい」
そんな絶対的なイメージは私の中で健在である。
それは経験則の積み重ねにより物事を記号化して見ている証拠だとも思われます。
一度完成されたイメージは固定されて、わざわざ疑う余地もないので、このアイスを食べたことのない人にとって全く涼しさを感じさせない写真なのかもしれません。

この手のアイスクリーム形状は冷たさを内包した形となります。
アイスキャンディーが冷たい氷が表面に露出していたのと比べても、外層で覆われているので氷の冷たさは外に現れにくい。
アイスキャンディーよりも保冷性があると思うので外気温の影響も受けにくいと思う。
これまた、人をアイスクリームに例えると、表面はワッフルやチョコレートに覆われて甘く、芯の部分にキーンと冷たいアイスを隠し持っている感じでもあります。
人の心の冷たさが見えないパターンはちょっとやっかいな甘さでもあります。
アイスを人に例えることは止めておこうかと思うのですが、やっぱり、どのように転ぼうとも人の心に温度は必ずあります。
あつい人、あつくるしい人、凍った人、冷たい人、常温の人。
イベントの準備に燃えて一人沸騰する熱量で盛り上がっても周りの人達の凍る程に寒いテンションでそんな熱量も一瞬にして消えてしまうものでもあります。
熱量とはそのまま「情熱」に置き換えることも可能ですし、その人が持っている「色」に例えることもできます。
そのような熱量を隠すことがクールと感じる時期もありますが、不思議なことに好き勝手に熱量を上げてしまう時も突然やって来るのが人生でもあります。
同じTシャツを着れば同じような熱量になるイベントあるあるも不思議なことです。
熱量とは簡単にまわりに影響するものでもあるので、それを別名で同調圧力と呼ぶのかもしれません。
何か熱量が高まった時に、一人の環境を作ることができれば、そんな情熱の種を大切に育てることができるのかもしれないし、または、凍った心の人にとっても他人の熱量で自分の心が溶かされることのストレスもありません。
なので、熱量が少し高まったら人から離れて熱中するのが吉なのかもしれません。
アイスクリームのデスクトップ画像はスコスHPからダウンロードできます。

ところで。

昨日書いた「目には目を歯には歯を」について調べていたら、この言葉がイスラムの格言でもあり聖書の一節でもあるようです。
この2つの世界は、随分と見た目は異なりますが、それは地理的な見立ての違いが見え方の違いでもあり教義的にはよく似ているのかもしれません。
「目には目を歯には歯を」の概念は「ルール」でもあるようです。
もし、AがBのパソコンを破壊して喧嘩となったならば、宗教的な仲裁者Cは同等の物をAがBに返すことでAの罪が完全に帳消しとなるということを言っています。
これは一般的な欧米的な概念でもあります。
それは、別の言い方をするとBはAに対して同等以上スペックのパソコンを要求してもいけないとも言っております。
常に補償とは等価で妥当であるようにとの意味です。
解釈する意味は人それぞれではありますが、本当の意味が目を奪われたら、相手の目を奪うということでもなく、歯を折られたら、相手の歯を折るという相手の大切なものを奪うというバイオレンスなことでもなくて良かったです。

 
■2023年8月17日(木)
■なかなかのジャンプ力。
■2023年8月18日(金)
■一日一文章トレーニング。

「わびさびか それわびさびだ 夏盆水」

気の流れや、運気に、風水なんちゃらと枯れた植物を部屋に飾るべからずとはどこかともなく聞くお話です。
「良い気が枯れた花に吸われるのか?
枯れた花が悪い気を呼び寄せるのか?」
気とは見えない為に何ともわからないものではありますが、確かに枯れた花を飾って置くことは不吉なことでもあります。
そのようなお話を聞くと美しい花が散れば、何も躊躇もせずにポイッと捨てるのが通常モードの私です。
但し、今は日々ネタ不足の金欠状態のような感じでもあります。
「毎日、何かしらの言いたいことがある人とはちょっと頭がおかしいのでわ」と思うぐらいに、私には特段の言いたいこともありません。
それでも、何かを書くとなれば日頃の錬金術を使ってネタを生み出すことは柔道の力技のようなダメ見本のような感じでもあります。
ネタをゲットする為の方法は方々に張ったアンテナに、研ぎすまれた観察眼、そして、ネタの種を蒔くことである。
探すだけでなく、自分から仕掛けているところが面白いところで、面白ネタを回収できればラッキーな感じぐらいでもある。
そんなにもネタ不足なのに、思いついたことは全部書くところが面白い。
少しセーブして次の日のネタとして持ち越せば良いのに、そのようなケチなこともしない。
思いついたことは全部書く。
結局、思いついたことを全部書いたところで100%の気持ちを説明できる文章能力もありません。
長い道のりを経て何かの気持ちが繋がって何とかカタチとなることもある。
時に前フリとして思っていることと反対のことを書き、次の日に反対の事柄を言ったりして遊んだりもしているので人間とは信用ならない適当な生物であります。
はっきり言うと、この世の中に私が毎日書くような必要性のあることは100%なく、なんともしんどい苦行である。

ところで、

見えない運気がどうのこうのと言われると人とは、とりあえず捨てようとなるものですが、我が家には植物界のお嬢がいます。
もし、枯れた花が悪い気を発しだしたら、そのような運気は100%彼女に吸ってもらおうとの魂胆です。(保険)
枯れたお花は涼しくて日当たりが良い植物界のお嬢様の下に置いて観察します。
植物界のお嬢のパワーとは何か凄いものがありまして、枯れたお花は生き返る訳でもありませんが、何かいい感じの深い色合いや素敵な枯れ具合で花の一生を終えていくような感じです。
枯れた花から悪い気が溜まるというよりも、植物界のお嬢から何かしらのエネルギーが与えられているような感じ。
枯れたお花がキレイだと言うと変なように思われますが、写真で見てもやっぱり何かキレイに感じる部分は多い。
前回も書きましたが、茎までパリパリに枯れた時が植物の生命の終わりかもしれなくて、花は花枯れしたからと言っても完全に死んだわけではありません。
一様に花は散ってもまだまだ生きております。
黒く熟成期も過ぎた枯れた実、太陽光を透過させる葉っぱの色合い、花は散ってもまだまだしっかりと生える茎、枯れた花のしわしわ紫に、水に浸かった葉っぱの光合成の色合いも美しい。
ピンク色の花の艶やかさも美しいのですが、今やこっちの方が美しい色合いのようにも思えます。
渋い感覚。w
燦々と部屋に降り注ぐ枯れた花を見ていると、幼少の頃に遊んだ小川のキラキラと輝く水の世界のようにも見えます。
「枯れたお花はまだまだ生きている」
これは枯山盆水(かれやまぼんすい)何?みたいな感じです。
「侘び寂び」とは、このようなことを言うのではないかとも思います。
安土桃山時代の文化人とは訳のわからない現代アートを作る人達かもしれなくて、異なる視線の美学を見出す人たちでもあります。
タイムマシーンを持っていれば、安土桃山時代までタイムループして千利休に「これは“わびさび”なのですか?」と聞きに行きたい気分でもある。
たぶん、利休も茶室の小さな庵の中で「イエス・クリニック?」と答えると思います。
そういう訳で、やっと「わびさび」の心がちょっとわかったような気持ちになり、私の美的センスも日々向上しているとの自画自賛。
これは全ては植物界のお嬢を大切にお世話する恩恵なのかもしれません。
サンキューお嬢。

ということで。

朝から面倒だけれども、そのような「侘び寂び」に近づいたと思われる植物のカラー情報を抽出します。写真の美しく思う部分の色にスポイトで色を吸いて画面に一つ一つ貼ります。「なぜこんなにも面倒なことをするのか?」とも思うのですが「侘び寂び」色を抽出すれば、「侘び寂び」な真髄に近づけるかもしれないとも思います。色を取り出すと、私が美しく思う色がキレイな葉っぱの緑色であったり、水に浸かった植物の反射光であったりもします。確かに夏の強い太陽光の作る影の黒色はとてもキレイでもある。そして、茶色や寂れた枯れ葉色に花枯れの紫色にも美を見出してはいますが、結局は緑素色に魅了されているような気もします。緑素色が「侘び寂び」なのか?と考えると微妙な感じもします。さっきまでの「オレは侘び寂びを理解したかも」との強気がとっても怪しい雲行きです。やっぱり、「侘び寂び」については利休に聞くしか方法は無さそうで、利休に会う為にはタイムマシーンが必要で、利休のような有名人に会う為に小判が必要かもしれなくて、そもそも、利休ってどこに住んでいるのかも知らなくて、全ては持っていないわ、、、と、私にできることは怪しいイタコに頼むか?根津神社で「利休に会わせてくれ」という無理難題をお願いする事ぐらいしかありません。

わびさびか それわびさびだ
夏盆水 (字余り)

 
■2023年8月17日(木)
■ドシンっとドシンっと振動が伝わる。
■2023年8月19日(土)
■一日一文章トレーニング。

「作る時はアンダンテ、食べるとモデラートな “交響曲・枝豆の時間”」

ザルの上に枝豆を「ドサッ」と置き、水を「ジャージャー」と流す。
「ドサッ」とに「ジャジャ」っとするだけで、枝豆を美味しく食べる姿が頭に浮かびます。
「今晩は枝豆にビールだ」
それだけでも脳内が「うひゃっ」とした笑顔も溢れます。
豆をよく洗い粗塩をサッサッと満遍なくまぶし十分に塩を馴染ませる。
「慌てちゃいけない、慌てちゃいけません」
この塩を馴染ませる時間が美味しい枝豆を作るのに大切な時間でもある。
後はホットクックに入れて蒸すだけで美味しい枝豆の完成です。
ホットクックのフタを開けると出来上がった枝豆のホクホクとした湯けむりが部屋中に広がります。
枝豆にはいろんな種類の豆があり、中にはとても香りの強いものもあります。
香りの強い枝豆を蒸すと何故か、その香りがお風呂場に溜まりて、夜にお風呂に入ろうと思った時にも枝豆の香りを感じる位に香りは強い。
クーラーで涼んだお部屋の換気は最終的にお風呂場から抜けていくのかもしれなくて、昨日の何だかよくわからない気の話に置き換えると、気になる部屋の”気”も、枝豆の香りの流れから察するに最終的にお風呂場に溜まってから、毎日のお風呂でキレイに浄化されて外に排出されていることのようにも思います。
なので、家の気というものは結構、普通に換気されて万事OKなようになっていると思います。

昨晩食べた枝豆はそんなにも香りが強いものではありません。
出来上がったホクホクの枝豆を「熱つ、熱つ」と言いながら1つ2つとつまみ食いすることが枝豆作りの醍醐味です。
「どれどれ」な一口が一口で止まらないことが枝豆作りの難点だ。
どうやら、枝豆とはついつい“つまみ食い”してしまう宿命の食べ物で、最初に作った分量がメインの夕食の時まで残った例は未だかつてないことでもある。
熱い枝豆には熱い枝豆の美味しさがあり、冷たい枝豆には冷たい枝豆の優劣つけれない美味しさがある。
私が人間でなくイヌ属であれば、出来上がった枝豆は完成した瞬間に腹の内であったかもしれない。
いやはや、人間で良かったとつくづく思う。
結局、10豆以上は食べてしまいそうな勢いでもあったので、今晩は楽しいビールと枝豆の晩餐であると「もうこれ以上食べてはダメ絶対に」と自らを律する。
粗熱をとり冷蔵庫に入れて冷やされた枝豆が食卓に並んだとしても、2度目のつまみ食い合戦が始まる。
1つ2つ3つと本番のビールとのアンサンブルを前にして数を減らしていくのが枝豆の運命である。
枝豆のお山のラップはめくられて、その隙間からごっそりと枝豆が盗み食いされて欠けていく山。草
枝豆とは本番の山場に向けて、どんどんと山を減らしていく星の食べ物なのだ。
枝豆に罪はないように、わいらにも全く罪はない。
お店で食べる枝豆にも“つまみ食い”の星がないこと祈ります。

今回の枝豆は普通のスーパー特売1パック300円以下のものを4パック買ったもの、お盆に入る前に良い枝豆を良い価格で十分に用意できたことに満足である。
今年の夏は山盛りの枝豆をわいわいと食べることを密かなる目標としていたので、特売の枝豆を買い込んでそのような夢を叶えたことにもなります。
4パックを一気に作ろうかとも思ったのですがザルにも入りきらないし、2パックだけでも十分な量でもあります。
大抵、枝豆とは1パックで作るものでありますが、そこはもう1パック追加して贅沢して山盛りにすると、お腹もイッパイで満足度も急上昇します。
枝豆の呆則!枝豆を作る時には2パックで作ると満腹中枢の満足度も2倍以上!!。
今年の豆は豊作でもあるようでスーパー特売品でも目視で十分にわかる立派な3豆具合でもあります。
所謂、(知らないけれども)枝豆の当たり年なのかもしれません。
「あ〜美味しい」

ということで。

「タッタラ〜ン タタ〜ン タタタ〜ン 多々〜」
昨晩はごはんを食べた後に、ビールの缶を「プシュッ」と開けて最大の山場、枝豆回の開幕です。
随分と数を減らした枝豆ですが、それでもまだまだ山盛りです。
コップにビールを「トクトク」と流し込み、先ずは枝豆を食べます。
「1・2・3・1・2・3・美味しい〜・1・2・3・美味しい〜」
塩加減も丁度良く冷蔵庫で冷やされた枝豆は理想通りの美味しさでもあります。
止められない、止まらない、とは正にこのようなこと。
ビールを飲むことを忘れてむさぼり豆を食らいますが、気付いたようにビールを飲みます。
「うひゃ〜」
ビールも美味しい〜w。
枝豆とビールって何という素敵な組み合わせなのでしょうか。
こんなにも美味しい食材を作ってくれた生産者の方々感謝しながら、枝豆の山は見る見ると減っていき、机の上には枝豆の皮の山がどんどんと積み上がります。
これは物理学です。
ご馳走様です。

 
■2023年8月19日(土)
■きらめく流星。暑いね。
■2023年8月20日(日)
■一日一文章トレーニング。

「メタリック色の尻尾がキレイなトカゲを見つける」

「あつい」今日も暑くて暑い一日が始まります。
この暑さはいつ頃まで続くのでしょうか。
週間天気予報を調べたら、来週火曜日以降に曇って気温も33℃〜31℃ぐらいまで下がるようですが、涼風が吹くのはまだまだ先の話のようです。

先日、墓場を通り抜けていた時に道端でトカゲを発見します。トカゲは青系メタリックの尻尾をキラキラとさせながら走り止まりしながら道を横切ります。キレイな尻尾のトカゲを見かけることは何年ぶりのことでしょうか。それは虫採りとかをしていた小学校以来かもしれません。昔は手で捕まえて、尻尾が取れたりもしましたが、メタリック色のトカゲはそんなに頻繁に見かけるトカゲではなかったように思います。よく見かけたトカゲ類はヤモリとカナヘビの類。今思えばよくも気持ち悪い爬虫類を素手で捕獲していたものです。

トカゲを通り過ぎて数メートル。「トカゲを見るのか?見ないのか?」の自問自答に答えが出ます。何の思いれもないトカゲをネタに何か書けるのかわかりませんが、トカゲの写真を一枚撮るだけでネタ一つはゲットできます。答えは「イエス・クリニック?」と言うことで、自転車を墓石の横に止めてトカゲの写真を撮影する為に墓石に向かいます。毎度、毎度の写真を撮るまでのオロオロ行動の為にトカゲも小径を随分進んでしまっています。そのようなトカゲを撮影しようとカメラを向けていると、ヘルメット姿の自転車が猛スピードでトカゲの横を疾走します。その風圧により、さらにトカゲも高速スピードで逃げていき、われも墓石に這いつくばりながらトカゲを追いかけます。逃げるトカゲ、中腰でトカゲにスマホを向ける私、そして、その横を通り過ぎていく何者かの自転車。役者は全て揃いました。自転車の人は私のことを墓石マニアと思ったかもしれませんが、ここは何せカオスな憩い場でもある谷中霊園です。

トカゲは墓石の下に潜ったかと思われましたが、案外、墓石とは地面との間に隙間がないもので墓石を横を横へと移動していきます。動きの早いトカゲを撮影することは至難の業ではありますが、トカゲはトカゲなりの撮影タイムを私に与えてくれました。墓石を一つ越えた先の地面で動きをピタリと止めて数秒間ジッと停止してくれます。胴体は金色に輝く線、尻尾と胴体の付け根が黄緑色のメタリックで、尻尾の先がメタリックな青色となります。これが歩く宝石ならば良いのですが、残念ながら薄気味悪い単なるトカゲです。外国でこのようなメタリック色のトカゲを見たら、間違いなく猛毒を持っているだろう思わせる風貌でもあります。

ネットで調べると正式名称はニホントカゲらしいのですが、よくよく調べると、東日本に住むニホントカゲはヒガシニホントカゲと呼ぶらしい。ニホントガゲは西日本に住むトカゲを指すようで、ほとんど見た目は一緒なのですが微妙に遺伝子が異なっているようです。なので、東日本で見かける尻尾の青いトカゲはヒガシニホントカゲとなります。関東のおばさんと関西のおばさんの見た目の雰囲気が微妙に違う感じに似ているのかもしれません。住む地域も異なれば、顔の雰囲気や服装、佇まいは異なってきます。尻尾のキラキラは若いトカゲに見られる特有の現象でもあるので、昔から見かけることが少なかった稀な理由はそこにあるのかもしれません。もしかしたら、カナヘビと思っていた爬虫類もトカゲの大人であった可能性もあります。メタリック色のトカゲを見ることを彩雲を見る如き幸運であると言う人もいますが、虹色繋がりは何のラッキーも呼び寄せない経験則もあるので特に何も期待しません。トカゲは数枚の写真を撮らせてくれた後に、そそくさと墓石と墓石の隙間に入っていきました。ということで、谷中霊園にはヒガシニホントカゲが生息しております。

 
■2023年8月20日(日)
■ヒガシニホントカゲ(Plestiodon finitimus)の標本画。(ゆるり)
東京都のヒガシニホントカゲは絶滅危惧種でした〜。
■2023年8月21日(月)
■一日一文章トレーニング。

「こんな暑い時に変な話なのですが、足冷えには足の裏を温めてあげると有効です。」

☆あー夏休み、あ〜夏休みということでしばらく更新もお休みです。☆

毎日猛暑のこんなにも暑い日も続けば、体中冷え冷えと凍えるぐらいに体を冷やしたいものであります。
時にアイス枕を抱きかかえて熱帯夜の夜を眠り、時に目から入る涼を意識してパソコンのデスクトップ画像もアイスに変更します。
その意味では自然の猛威に抗いコントロールする冷酷さも持ち合わせております。
だがしかし、少し気になることもある。
それは若干、足のつま先に冷たさを感じること。
実際は完全なる足冷え状態という感じではありませんが、こんなにも暑い暑いと言いながらも、どこかで若干冷え冷えと感じるつま先です。
このような夏真っ盛りの時からつま先の冷えを感じていては、本格的な冬がやって来た時には凍傷レベルな寒さになっているかもしれないと危惧します。
信号待ちのビーサン履いた足の指に直射日光をたっぷりと当ててあげたりとかも試してみますが全くの効果無し。
血流が足りていないかもと思い、適度な運動も必要かもとも考えますが、このような炎天下の下で運動する程のあたおかでもありません。
「これはいよいよ足冷えもヤバイぞ」ということで、さっそく各部位の温度を図りて原因追求します。
下記は実際の体温計測。

おでこ:36.5℃(問題なし)
腹:35.9℃(CPUよりも−0.6℃低い)
足のふともも:35.9℃(CPUよりも−0.6℃低い)
足ふくらはぎ:35.4℃(CPUよりも−1.1℃低い)
足の指(表):35.4℃(CPUよりも−1.1℃低い)
足の指(裏):34.4℃(CPUよりも−2.1℃低い)
足の裏:33.4℃(CPUよりも−3.1℃低い)
足の裏かかと:34.9℃(CPUよりも−1.6℃低い)
※かかとは何故かなかなか計測できなかった。

ということで、

足のつま先が冷たく感じる理由はMYポンコツCPUよりも足の温度が実際に低いことに原因があります。
これは物理現象です。
面白いのは、つま先が冷えていると思っていた先入観は、実際に足裏が一番冷えているという事実を知った途端、急に足の裏が冷たく感じるところ。
何とも適当で不思議な体の仕組みです。
逆に言えば、足裏を温めてあげれば足冷えを解消できることができます。
足のつま先(表)は−1℃ぐらいで、足のつま先が冷えていると思っていた部分はそれ程冷えていなかったことになります。
この−1℃は、同じく時折冷え冷えと感じる”ふくらはぎ”と同じ温度。
これの意味するところは−1℃でも人体は十分に冷たく感じることがわかります。
−1℃でもそのように感じるということは−3℃は結構な温度差です。
足のつま先(裏)は更に−2℃冷えており、冷えの中心は足裏の−3℃となります。
なので、足裏を手で温めながら入力していると体もポカポカと温まって足冷え感覚も適当に解消されていくような感じがします。
−3℃差は温める手の温度を吸収するぐらいの冷たさです。
よって、
足冷えする時には足の裏側を温めてあげれば「ホッ」と一時の解消ができると思います。(たぶん)

 
■2023年8月29日(火)
■一日一文章トレーニング。

「ぼくのなつやすみ・ほぼ全部寝ていた編」

いやはや、久しぶりの文章です。
あー夏休み、あー夏休みだよな・・・の現実は初っ端から風邪をひいてダウンしました。w
関係ないけれどもwって今思うとウィーザーの指サインですね。
お休みの時に丁寧に風邪をもらってくる鉄則とは私の中のあるあるで、昔からお正月休みや休暇中に風邪をこじらせるのは持ち合わせた魔の悪さでもある。
どうせ風邪を引くならば正々堂々と平日に風邪を引いて学校や会社を休みたいものでもありますが、大抵、風邪を引くのは残念なことに休み期間中が多い。
それには緊張の糸が切れるという精神論も存在しますが、それは間違いで、そこに風邪菌がいるからこそ風邪をひくことになります。

1)私が風邪を引くパターンはシャックリが出てもお酒を飲み続けるパターンが一番多い。
シャックリが出ると私の体が「もうこれ以上飲んではいけませんよ〜」とドクターストップをかけてくれます。
それでも飲み続けると二日酔い+風邪も引いてしまっていることにもなります。
2)王道に体を冷やして純粋に風邪をひくパターンもある。
3)風邪を引いている知人からもらう場合もある。
後から冷静になって考えてみたらそりゃそうだよなっとなります。
4)そして、実家に帰って風邪をもらってくるパターンも非常に多い。
甥っ子が風邪引きで隔離して寝ていた布団に知らずに寝ていたら、翌日には見事に風邪引いていたこともあります。
子供の風邪とは強烈な風邪でもあり、除夜の鐘か夏休みだったかもしれませんがを布団の中から布団は天日干しして欲しかったし、病人が寝ていたら、それを教えて欲しいと思うものであります。
今回は父から風邪を貰ったみたい。
言葉も少なく背中丸めて「もう先も長くないかもしれない」などと言っていたのですが風邪で調子が悪かったようです。
同じ風邪を引いて思うことはこの風邪は結構しんどい部類の風邪でもありますので、弱音を吐くことも仕方がなきしんどさでもあります。
風邪を引いているならば、風邪を引いていると教えてくれれば対処方法もありましたが、母は元気でノーマスク、全く風邪を引いているとは思わないので完全な無防備でもありました。
今となって考えてみると母は免疫を持っているのかもしれませんが、風邪を引いているという疑いは全く持ち合わせない状況でもありました。
パンデミック時は帰って来なくてもいいとか、マスクやアルコール消毒して、とまるで病原菌のような扱いでもあった、あの時代は何なのだったのかな?とも思うぐらいの軽さでの変容です。

風邪教訓に新たな一行を付け加えます。

一、実家に帰った時にすでに臨時用布団が敷かれていたら、誰かが隔離して寝ていた可能性があるので警戒する。
二、背中を丸めたしんどそうな人を見かければ、先ずは風邪を疑う。
人は背中で人生を語るらしいのですが、病気やしんどさも背中で語っているような気もします。

というわけで、私の風邪は37℃前半という微熱も微妙な風邪。
とはいえ、夏風邪であり、経験上からもしんどい部類の風邪でありました。
先ずは悪寒でブルブルと寒くなり、暑いのに長袖長ズボンを着て寒さに耐えていたら汗をかいて体温も下がるというサイクルでもあります。
猛暑の中、暑く感じない体温調整できない感覚とはこんな無茶苦茶な感覚なのかと学習します。
悪寒サイクルも収まると次は単に体が熱くなり、これはヤバイゾと思い体温計測すると36℃代の後半で平熱より少し高めで「あれっ?」となります。
それでいて、体調も程々に上々で体を動かせる元気な時の体温は37℃前半の微熱を発症している謎でもある。
それでも、やっぱりしんどくて寝ることにはなるのですが不思議なことに昼間の方が程良く睡眠は取れます。
昼間にたっぷり寝ると夜はもう寝むたくなくなっているのですが、結局、ちょくちょく寝たり起きたりしながら寝ます。
そして、一日中寝ていることで頭が痛くもなります。

隔離やアルコール消毒をしたものの風邪は瞬く間に家族へと伝播して皆ダウンしてしまいました。
最初に感染して、すでに一番元気なわい病人が病人を介護するというカオスな状況でした。
風邪の苦しみとは本当に自分以外には経験して欲しくないと思うのでm(_ _)mなさいとしか言いようがありません。

病み上がりではありますが、今日から半月ぐらい制作作業に没頭します。
夢の中でずーっと作っていたのでスムーズに行くと思います。(たぶん)
一週間ぐらい出遅れたから巻き返しだ。

 
■2023年8月29日(火)
■ウィルス撃退。
■2023年8月30日(水)
■一日一文章トレーニング。

「何が残暑かと語るにも真夏の難き暑さが続く毎日に、部屋の涼し気な残花も負けじと勃興す」

8月1日から活けていた花の実の方はまだまだ生き生きと元気です。
実は黒ずみ熟してからパリパリと乾燥すれども葉は元気ですくすく成長している。
2本の内の1本からは茎からは根が生えてきた。
根が出るということは、生きる熱意のようなものを感じます。
ちょろちょろと最長で15ミリ程の長さのかわいい根である。
ネットで検索すると、このような水差し状態から発根する方法は植物の増やし方の一つであるらしい。
もっと、ふさふさと根が成長して残暑という名の猛暑が一息ついた頃に鉢植えをしてみたいと思います。
画像検索すると根はもっとふさふさと生える方が理想的な鉢植え時期のような気もします。
流石にカーネーションの葉は枯れてパリパリになって捨てられてしまったが、変な実の植物はまだ健気にガラス瓶に飾られています。
これは所謂、渋さを追求した生花のようでもある。
お花の業界ではそのような渋めの花飾りを残花(ざんか)と呼ぶらしい。
残花とは、植物が除々に枯れていく様子を楽しむ方法らしい。
きらびやか植物の美しさは美しいものではありますが、「侘び寂び」の美学とはこんなにも枯れた植物の渋い美しさを見出すことの楽しみなのかもしれません。
何せ、小判を握りしめて桃山時代の利休に侘び寂びとは何ぞやと聞くまでは、その美学の詳細はぼんやりと感じるだけなのであります。
そもそも、利休って冷静に考えると茶人です。
花とあまり関係ないような気もします。
現在の世の中で茶人という肩書きは、其の緩さに「いいな〜」な感じです。
本業は金融やコンサルト業みたいな感じかもしれませんが、金人、話人、いやいやどれも怪しいので、茶人という敷居の低く裏が何か?よくわからない単語をよく見つけたものであります。
そして、昨日の金価格が1g10001円です。
888!!
小判など持っていたら、利休に駆け込むよりもゴールドショップに駆け込む方が有能ではないかと思ったりもします。
いやはや、5桁。
金の価値が上昇する意味とは、通貨の価値が減価していることでもありますが、ドルベースの金価格の、これすなわち円安というカタチを加わっての現象です。
面白いところだと、世界中の中央銀行がこぞりて金を買い越して準備高を積みましているというニュースもありました。
金の需要はまだまだ続くと見た方が良いのかもしれませんし、ドル円が急激に円高に反転するような未来も予想できないので、暫くの1万超えは日常の景色なのかもしれません。
私の場合は「きん」の第一変換ワードが「菌」でホッコリで良かったと思います。

ところで、

そのような残花らしき花枯れ具合を楽しんでいたら、植物界のお嬢の魔力で植物は元気になっていきます。
わいのお世話よりも何よりも植物界のお嬢の他力に頼るのが植物を元気にさせる手っ取り早さです。

弱った植物の世話は植物界のお嬢にお任せ。

花枯れ具合を人生に重ねて楽しむはずか、いつの間にか植物は根を生やし第二の人生のど根性を見せてくれるあたりが面白いところ。
これは諸行無常や侘び寂れた感じと少し異なるような不屈な精神なような感じでもあります。
何が残暑かと語るにも真夏の難き暑さが続く毎日に、部屋の涼し気な残花も負けじと勃興します。
その意味はどちらも引き際はすんなりと終わらないものであります。
盛り返す残暑も、植物の生命力も、最後まで見届けようという気概です。

 
■2023年8月30日(水)
■ざぶん〜ん。
■2023年8月31日(木)
■一日一文章トレーニング。

「1方向から3方向の視線を得る方法」

水面にキラキラと反射する光のスペクタルは写真を撮っているだけでもキレイで面白いもの。
そして、昨日の写真が何気に面白く思ったのでメモします。
花瓶に写る発根状態とは一方向から撮影されたものでありますが、よく見ると3方向からの視点を持っております。

A)少し上から見た視線:光が屈折してやや上から眺めた視線。
B)通常の目の視線:一般的な私達の目線。
C)下から見た視線:容器の底部分で反射して本来は絶対に見えない裏面を見せている。

固定された1方向からしか物事を見ていないのに、複数の視線を持つことは面白いことです。
これは一つの視線で複数の見え方をしているような高度な生命体の視線を体現しているようにも見えます。
この現象は光の屈折に原因があります。
空気と水という異なる空間を光が透過する時に、進行するスピードの異なる空間を通過することで光を屈折させております。
また、花瓶の底面に光が鏡面的に反射することで3つ目の視点も与えてくれています。
一つの現象から多方面の視野を得ることを客観視とも言います。
それは社会人となれば求められる現象の一つでもあります。
ですが、一つの物象に複数から視線を得るとは膨大なる経験値の上や、実際に異なる角度から観察することで得られるような視点でもあります。
そして、当然ではありますが、常に誰でも客観的に視線を常に持ち得られるものでもありません。
私なんて、見たままに、感じたままに、直線的な思考で書くことが基本であります。
そこで、私のような愚輩は「ウシウシ〜」と思うことがあります。
それは、このような空間の異なりを時間のスピードを変速して異なる視線を得られないかと思う方法論です。
もし、意図的に空間の変質が行えて、光の進行スピードをコントロールすることができれば、1つの眼差しで3つの見え方をゲットできることも夢ではないような気もします。
重要なのは空気の空間と水の空間では光の進行スピードの変化することです。
それは同じ対象でも、プロパーと部外者が見た場合に異なるものを見ていることと似ているような気もします。
部屋に入ってくるだけで、空間を捻じ曲げて魔境結界を作り出す人達も確かに存在し、いつになったらこの時間が過ぎ去っていくのかと思うような苦痛空間を作り出す人も確かに存在します。
一方で写真のような常に2つの異なる空間を持ち合わせている人とは、私の呆則では記録もありませんし、今まで考えも及ばない事柄でもあります。
それは異なる空間を持ち合わせた時間を変速させている人ということになります。
水と油、水と空気、異なる空間を持つ人とは何だか分裂症のような気も若干しますが、光の屈折とは見る人にとってはキラキラと美しくかんじさせるものでもあります。
それは絶対に魅力的には見えるはずです。(たぶん)
時間は常に一定ではありますが、感じる時間的なスピードとは人それぞれでもあり、また、水と空気の“侘び寂び”?の花瓶は光のスピードを捻じ曲げて屈折、反射させて、そのような時間に同居して存在していることも事実です。
もし、そのような時間的な変速できるような空間を通してコントロールできるとなれば、複数視点をゲットできたという意味に於いては、とてもラッキーであり何かよくわからない3つの視点を得ることもできるのかもしれないと思う分解法であります。

 
■2023年8月31日(木)
■ドット奏者。