■2026年4月1日(水)
■一日一文章トレーニング。

「大雨の中を歩いて花見もしたよ」

昨日は結構な大雨でズボンもびしょ濡れ、そして、靴もずぶ濡れで、傘をさす上から下までの全部ずぶ濡れ。
そう言えば、昨日履いていた登山靴がそのまま玄関に放置しているもので、靴の中からインナーを抜き取り乾かす。
そして、靴は下駄箱に立てかけて乾かす。
昨日のザザザーと降る雨が防水の登山靴の靴下まで濡らすもので、家に上がれば濡れた足跡を点々と残す。
そして、今朝見ても靴はずぶ濡れのままであり、靴のつま先や裏側に落ち葉はくっつく。
紅葉する秋でもないのに落ち葉とは何だか面白い。
これは常緑樹に新葉が生えると古い葉を落葉させるもので、クスノキなどは春の新葉が生えると紅葉し葉っぱの一部を落とすようだ。
よって、満開の桜の花びらはひらひらと散り、葉っぱ茂る常緑樹もまた葉っぱをひらひらりと落下させる。
おかげで水溜りを避けた足元にふかふかとした雨水湿る落ち葉を踏みしめ靴もぐちょぐしょ。
そして、空を見上げると満開の桜トンネルが咲いてキレイだなー。

雨降りの誰もいない都会の道をのんびりと進み、桜を見て思いに耽けることがあるとするならば、それは今年もあっと言う間にやって来た桜咲く季節。
桜が咲くスピードが早いのか、私の時間感覚が早いのか、去年の桜の時期から数えてもあっと言う間に今年の桜はもう咲いて驚き桃の木桜の木である。

今年の桜の花はどうであろうかと思うと桜は曇り空でも、雨が降っても美しい。
しかし、私の生活圏の一部の桜は咲く直前に剪定が行われて迫力不足も感じる。
樹木の成長はとてもゆっくりで、以前のような桜のトンネルが見られないと思うと少し残念。
私たちが現在見ている樹木の生い茂りとは何十年前から続く成長の証でもある。
大きく育つ木々の生い茂りをメモ帳の紙の積み上げるように眺めると、一年で積み上がる木々の成長とは微々たるもので、何年も重ねて厚みも重みも増して大木となる。
今年や去年の剪定で切られた桜は長い時間も経てばまた盛り返して立派な桜を見せてくれるのかもしれませんが、何だかカタチも変で少し痛々しくも見える。
弱って切らないと安全確保できない木々もあるだろうし、いろんな木を切る理由もあるでしょうが、切られた木は何年経っても現状復帰とはならない。
これは切る人のセンスなのか、腕ある人は樹齢の長い大木を切るような仕事を受けないのか、切られた木のカタチが昔に比べて何だか変かなの、または、私の考えすぎかもしれない。
特にパンデミックの前後で私たちの社会に大きな変化を感じるもので、職人さんがいなくなることもありえる。
考え方も変わってしまった可能性もあるし、人命も軽くもなれば植物の命なんて超超軽量級であってもおかしくはない。
また、植木知識ゼロの私の感覚もまた曖昧で何だか変なカタチだなーと思うぐらいの引っ掛かりでもある。
そして、それとは逆に高級ホテルのエントランスには美しくも妖艶で大きな生け花の桜が鬱蒼とした花を咲かせるものだ。
剪定された桜の枝のいく先がこのような場所かと思うと毎年発根させて土植えの野望を持っていた私も何だか馬鹿らしくなるもので、今年から部屋の中で飾っていた桜の枝を買うことをやめる。

ことわざの「桜切る馬鹿と梅切らぬ馬鹿」という言葉もある。
桜は枝や幹を切ると腐りやすく剪定には余計な枝を切らない注意が必要なようだ。
梅は逆に余計な枝を切らないと来年にキレイな花を咲かせないようである。
これは梅も桜も盛々とキレイな花を咲かしたい人々の思いに変わりはないけれども剪定方法の違いを説いている。
そして、スカスカと空が広い弱々しい桜やその他変わり果てた大木の姿を見ると以前の立派な木々を知っている分、少しお腹がズキズキとするような痛みも感じる。
※写真は雨で誰も歩いていないキレイな桜のトンネルで順番から予測すると来年はこの辺りの桜の木が切られる予感。

 
■2026年4月1日(水)
■オールスパイスだー。
■2026年4月2日(木)
■一日一文章トレーニング。

「我が家で今一番流行っているのはオールスパイスであ~る」

「ドド~ン」これがオールスパイスで熟成中の肉と魚。
我が家では今絶賛スパイス革命が起きているもので肉を焼いてもポトフライやスナック菓子を食べてもオールスパイスをふりかけて味を試している。
肉やスナック類にオールスパイスを振りかければ味変する美味しさはある。
そして、肉に使う時にはつけ置きの熟成期間もあった方が味も深くなるようなスパイスである。
とりあえず、スパイスの専門家でもないもので何ともよくわからない香辛料ですが、何でもふりふりとふりかけていれば2歩も3歩も味や香りの深みも出る。
「クンクン♪」と鼻の記憶にも珍しき香辛料の香りが残るもので、この香りは苦手な香りでもない。
そして、今フィンガースメルを嗅げば魚を触ったので手が生臭い。www
流石のオールなスパイスだなーと思うものでwbcのネットフリックス月間の極悪女王を観た影響でプロレスの「全女」みたく「全香(全・香辛料)」と略したりもしている。

今回は豚ヒレ肉を使用してパンチェッタを加工。
パンチェッタは通常豚バラ肉を使用するようですが前回は豚のもも肉を使い脂身の少ないお肉が出来た。
あんなにも美味しいパンチェッタはもう出来ないかなと思うもので、今回は国産豚ヒレ肉を使用してパンチェッタを作る。
さて、どのような味になるかと楽しみで、豚ヒレ肉の塩漬けドリップ液は豚もも肉の時よりも少ない。
なので、もっとぎちぎちっと肉肉しい肉になる予感。
魚は何魚かとメモも忘れたもので特売のぷりぷりとした一夜干しの魚に塩をふりかけて熟成加工している。
今日で三日目ぐらい。
勿論、どちらにもオールスパイスで熟成させた全香漬けで、肉も魚も塩漬け冷燻されると余分な水分も飛ぶ。
1週間の熟成後の重量を計測すると312gから289gと19g分の余計な水分や灰汁を放出。
当然、約20g引き締まるお肉となるもので、あと1~2週間は冷蔵庫内でカチカチに冷蔵燻製させると素敵な海賊料理になる予定である。
そう言えば、実写版ワンピースも全部観たよ☆
ワンピースでは3回程ホロリと感動して当惑している。
そして、2シーズン全部も観終わり、あの番組は真剣佑さんのスゲー筋肉とネイティブ英語、剣術を堪能する筋肉番組でもあった。
ネイティブはネイティブでも私はヌートバー選手のワチャワチャとした英語も何かいいよね☆
そして、我が家の肉も魚も真剣佑ばりに肉もマッスル・マッスルとムキムキに熟成されて、私はオータニ選手に、パンチェッタ、ホークの流血反則攻撃、マッケンユーと頻繁に口にするもので誰にも何も伝わらないネットフリックス追い込み期間なのだ。
あと、ワールドカップが始まるまでの天才ちゃんのエゴをブルーロックで再勉強もしたく映画も3本ぐらい観たい。
そして、この肉肉しい肉や魚がサンジさんの料理に負けない美味しい料理になれば良いと思い下記に肉加工の詳細をメモする。

豚ヒレ肉(100gあたり308円・312gで1037円@960)
R080325 塩漬け(312g)
R080401 
ドリップ終了で塩抜き洗浄
軽く再び塩をふり追いのオールスパイスを追加
皿に殺菌のアルコールを吹いた・・・熟成期間中に皿殺菌はNGなのだろうか?
R080402 キッチンペーパーを取り替えて計量する(289g)
R080408 熟成具合を確認予定
R080416 熟成具合を確認予定 食べ頃かな?

あ~まだ食べてもいない仕込み中の料理を美味しいか如くの文章にする罪をお許し下さい。
あ~めん

 
■2026年4月2日(木)
■クリスタ最新バージョンにしたので呪術廻戦みたいに走らせてみた。
失敗!一コマ抜けていますがいい方法を思いついたので再チャレンジしよう。
■2026年4月3日(金)
■一日一文章トレーニング。

「境界線上のマニアは境界線上に潮目を見出す」

魚のオールスパイス・塩漬けはたっぷりと水分も抜けて今日も新しいキッチンペーパーに取り替える。
魚の水分とはいくらでも出てきそうな感じでスパイスと塩分のアク抜きは魚類の臭みも十分に取ってくれる。
肉は長い時間をかけ水分も抜けば味も凝縮されて美味しくなる。
しかし、お魚はもともと水の中にいる生物なので、その潮時の見極めも必要だ。
水分も抜きすぎればぷりぷりなお魚も骨皮筋右衛門(ほねかわすじえもん)な鮭トバ状態になるかもで、母が時折、謎ネーミングしている骨皮筋右衛門が何だか面白い。
我無免許シェフも魚の冷蔵庫内燻製はもうここいらで潮時だとも思う。
メインディッシュはぷりぷりの洋風ムニエルかなで、ムニエルとはどうやって調理するのかでもあり、オールスパイスの素の味わいも食したいと思えばシンプルに焼くだけでも良い。

潮時とは海水が満ちたり引いたりすることの物事を行うのに丁度良い頃合いのこと。
そして、私の呆則ではこのような潮時・頃合いを見極めることが人生の中で如何に難しいことかと知っている。
そのような潮時を見極める真贋の目を持つ人物は良い先生に学んだ人なのか、場数を踏んだ結果なのか、生まれつき持ち合わせるセンスかもしれないもので、私は場数を踏んで覚えるタイプ。
そもそもこだわりのない人はそのような場に参加もしないので、こだわる人ほど遅すぎたり、早すぎたり、少なすぎたり、多すぎたりと潮時を見誤る。
プラモデル作りでも気合入れて格好良くしようとこだわればこだわる程に塗りすぎて失敗することも多い。
引きどころの頃合いを見極める目とは人生を生きる上でとても重要である。
よって、オールスパイスで熟成される魚ももうそろそろ潮時だとの私の直感が囁いている。
我のような素人は潮目を見極める能力が大きく欠如しているものだ。
なので、ちょっと早目の潮時ぐらいが丁度良いかもしれない。
失敗どもの夢の跡、全ての失敗とはこのような潮時たる境界線上の動向を見極められないことに凝縮されているように思うもので、我の座右の銘にも「潮時」を記す。
それにしても時間と労力の「手間暇」かけた「暇」とは大変失礼でもある。
愛情込めて手間暇をかけたのに「暇」とは何たることかと、私たちご先祖様たちは手間暇とは暇な奴がやることと語ったのかもと、私も胸に手を置きながら「あれっ」我暇人も日本語から垣間見る哲学の奥深さを感じている。
それは、「暇」とは「隙・ひま」のことでもある。
地図上に記載される海岸線も常に一定でもないもので潮目に応じて満潮になったり引き潮となったりする。
よって、地図上の線も何かしらの妥協の産物で、私の中の潮目も境界線も引いたり上がたりと揺れ動く。
私はこの常に揺れ動く潮目の境界線上に隙間なる空間を見出すもので、境界線上のマニアは境界線上を常に揺れ動く隙間のゆらめきをアップデートする。

さてさて、

肉や魚の塩漬け仕込みがもし発酵状態ならば皿をアルコール消毒すると菌は消滅してしまう。
なので、昨日、お皿にアルコールを吹きながらこのオールスパイス塩漬けとは発酵食品なのか熟成食品なのかと悩むものだ。
そもそも、発酵と熟成の違いもよくわからないもので調べると下記のようになる。
・発酵とは酵母、細菌、かび等の微生物の働きにより糖類などの有機化合物を分解し新しく物質を作り出す現象のこと。
納豆やヨーグルト、お酒造りは発酵食品。
・熟成とは時期が熟することで、酒類だと十分に発酵して出来上がった後の樽で寝かせることで美味しいお酒となる。
また、生ハム等の肉類にも発酵や熟成もある。
これが微生物による発酵なのか酵素分解による熟成なのか難題だ。
肉は肉のままで変容してないので熟成だと思いながら、見た目は生肉からハムに変容しているなーとも思う。
熟成の工程とは食材の持つ酵素がタンパク質をアミノ酸に分解するようである。
噛み締めた時の旨味がアミノ酸なのかもしれない。
いずれにしても、時間経過と共に水分を抜き味を凝縮する現象が私の中の塩漬け熟成で、肉や魚を塩漬けして寝かせると身も引き締まって美味しい。

 
■2026年4月3日(金)
■髪型マシーン。

*デスクトップ画面用の画像です。
■2026年4月5日(日)
■人を動かせるようになったー!!

*デスクトップ画面用の画像です。
■2026年4月6日(月)
■一日一文章トレーニング。

「いきって仕込んだオールスパイスの魚料理が不味かった」

この一ヶ月間、私は来る日も来る日もwbc流れの映像三昧で映画にドラマ、アニメを観すぎる。
当分映像はもういいやと満腹状態。
そのようなネットフリックスもこの週末に終了して私はインプットモードから製作モードになる。
そして、昨日作ったのが「走る人」。
どのような人の動きでも簡単に作れる方法を見つけて怖いのですが、ランナー画もまた永遠に足を止めることなく走り続けて怖い。
人生もまた時に全速力で走り続けるランナーのような時もある。
また、「考える人」「走る人」とその手の人たちのご馳走でもありますが、考えるよりも鋼の心臓で走り続ける人もまたいる。
人はどこに向かって急ぎ走ったとしても最終地点は墓場の不思議。
私は今、生活圏に墓場があることの悪影響を感じ、ランナーとは案外同じ場所をぐるぐると周り走っているもので、自分もまた同じ場所をぐるぐると周り走る。
いやいや、しんどいので走ってないか。

このような全速力な走りでぐるぐると回れば虎さんバターとなるような童話もある。
なぜ、同じところをぐるぐる走ればバターとなって溶ける理由も気になるもので、考えれば考える程にヤシの木を走って周回して溶けるバターの虎現象は何かしらの人生の含蓄が含んでいるように思う。
公園や皇居の周りをぐるぐると走る人たちも多い。
私も昔に「走るゾー」と服を揃えたこともあるものですが、怖いことに1ランもしない内にランニングウェアは寝巻きとなる。
走った時間分だけ距離は稼げて物理的な遠くにも辿り着く、また、同じ場所をぐるぐると回れば距離は稼げずに、私の論理を当てはめると「遠くの墓場」か「近くの墓場」の違いのようにも思う。

ぐるぐると皇居の周りを走るランナーたちは同じ方向で走るという暗黙のルールがあるようだ。
真贋の確証はありませんが記憶を思い返してもランナーは同じ方向で走っているような気もする。
これをバターの呆則に当てはめれば美味しいバターの完成だ。
逆走すればベテランランナーから怒られるかと思うと小心者の墓場のランナーは怖くて走れないのですが、そもそも、走るスタート地点にも辿り着いていないので杞憂である。
私のイメージではハツカネズミはゲージの中でくるくると回転する遊具で回転しながら運動している。
水族館の魚の群れもまた同じ方向をクルクルと回遊しながら何かしらの人生の先に向かい泳いでいる。
感受性の高い人たちは水族館の魚の群れを見ていろいろ思案するそうな。
ある人はくるくると周回する魚を見て、自分の人生と重ねあわせる。
ある人はくるくると周回する魚を見て、美味しそうな魚だと思うそうな。

そして、

私のイキリ立ち仕込むオールスパイス塩漬け魚料理がとても不味かった。

先ず、オールスパイスの効果は全くなし。
塩漬けも魚の臭みは残るもので、結局、レモンをたっぷりと振りかけて醤油もダボダボとふりかけ申し訳無い気分にもなる。
魚はやっぱりムニエルかなと思うもので飛行機のビーフorフィシュだとビーフ一択なので、美味しい魚料理をもっと食べる必要がある。
※ビーフorチキンだっけ?
焼き方もグリルで焼くのでは無くフライパンの上に焦げないシートを敷いて焼いたのも良くなかったかもしれない。
焼きが甘かったかもと思っても裏表をしっかりと焼き目がつくぐらいにしっかりと焼いたなーと思うものであり、何かしらの料理の反則攻撃が足りなかったのか。
オールスパイスは完全に魚に負けて、魚にスパイスは弱すぎる。
江戸時代の寿司職人たちもお酢や醤油漬け、焼いたりしながら魚の臭みを取り冷蔵庫がない時代の腐敗しない仕込みの知恵で魚と格闘したようだ。
流石のオールなスパイスでも魚料理にはちょっと効果は薄いようで、雑っぽいスパイスの実の衛生状態もイマイチな気もして、私の一連のこだわり料理はまるで恐怖映画みたいだ。

ということで、

私はこんなにも不味い魚料理は猫にあげる猫まんまだーと思う。
しかし、ご飯に鰹節をふりかけて醤油をぶっかけて食す本物の猫まんまはとっても美味しい。
そして、私の脳内に猫の絵と歌となる魚の塩漬けスパイス料理がなり響く。
写真はその歌と画の詳細を記載したもの。

「魚はーはー 山しのひのー し丸丸―丸 ニャあニャ オールスパイス」

平安時代の歌会に持っていくピッタリなお歌が出来た☆

 

*デスクトップ画面用の画像です。
■2026年4月6日(月)
■歌と踊り。
■2026年4月7日(火)
■一日一文章トレーニング。

「輪を重ね書きして接点を見つける」

ペンの試し書きでぐるぐると書く。
その平面上をぐるぐると周る線はたくさんの輪を描き、輪の接点が増える仕組みを面白く思う。
先ず輪を一つ描くと線上に一つの接点が生まれる。
そして、輪を横にスライドしながらもう一つ円を描くと、輪の接点は3つできて合計1+3の4つの接点ができる。
次に再び輪の接点をずらして円を描くと再び新たに3つの接点が出来て合計4+3の7つの接点が出来る。
このようにして円は新しい輪が出来る度に3つの接点が増やす規則性。

このように輪が増えていく様を人生の年輪な流れのように仮定すれば、その横移動とは時間である。
そして、円の大きさとは収穫する面積でもある。
横移動の時間と共に円も増えれば何か人間的な深みも増すように思うもので、輪も増えればそれに伴い接点数も増加して人の深みも増す。
ここで重要なのは回した輪の数で人は深くなり、輪の面積で人間性は深くならない。
「人生の深さとは輪の数の密度なのである・・・」と大見得を切ってしまうもので、輪も重なるとそれなりに人生の層も厚くなるかもである。
また、そのように輪も増えた状態とは電気的に見ると磁力も増すコイルのようにも見える。
円の重なりが多い人とはより多くの磁力を持った電気の呆則でww 人生図は一般的に縦線と横線のグラフで表現するものですが円の連続性で表現するというのもまた乙である。

新しい円を描く度に生まれる接点とはそれは何を意味するかと難問で、それは人であったり、物事であったり、キーワードであったり、事件や事故かもしれない。
ここの文章も過去のいくつかの接点を繫ぎなら紡ぐ文章で、そのような意味に於いてはこの文章もまた輪を描き接点を繋ぐカタチの文章である。

昨日のバターになる3匹の虎たちの童話も喧嘩して重なりあうお話で、梅原猛さんの3つの首がフライパンの上で噛みあうお話などもありましたが、それもやっぱり3つの首の3である。
3という数字はちょっと気になる。
図のようなラフな図面で考えて、輪の3つの接点が喧嘩してそれぞれの接点が重なりあえば図形的にはどのような形となるでしょうか。
おそらく、円は一部で消滅し、または、1点に収斂するカタチの歪な円となるかも。

これらお話とは相互に重なり合う3つの象徴が整ったカタチの円を壊すお話のようにも思える。
3という数字は不思議なもので毛利元就の兄弟喧嘩が家を消滅させるという3本の矢というお話もある。
これは3本重なりあう物理的な矢の強度のお話でもありますが、それぞれの立ち位置でしっかりと家を支える円の意味に於いてはこれもまた接点である。

ことわざを調べると「3人虎(市虎)を成す」というお話もある。
「市虎(しこ)」と何かと根も葉もない嘘の噂が本当になってしまうことで、「街中に虎がいるぞ」と3人の嘘を流布する人物がいれば、それは本当のこととなってしまう戦国時代の策のお話。
昨今のネット時代も真贋な話も多く、それらはノードからノードへと繋がり拡散されるネットワーク理論の話でもありますが昔から存在する概念でもある。
このような風説の流布に対抗する手段とは何か。
逆説的に考えると、相互の発信源の接点を結び歪なカタチと成すものかなである。

また、「3人の秘密は秘密にならない」とのことわざもある。
これは西欧のことわざで「A secret between more than two is no secret」と2人以上の秘密を知る者がいれば秘密は保てない教訓。
日本語表記では何故か3人の秘密と表記変更となりますが原文では2人以上で、それだけ文化的に3が重要なのかもしれないし、二人目は信じたい日本人の優しさなのかもしれない。

「3人よれば人中」、「3人よれば文殊の知恵」との言葉もある。
これは3人いれば世間となり、3人もいれば知恵も深まるということわざ。
これらを図上にイメージするならば確実に真円の線上に接点を見出すもので、日本人の輪や和を尊ぶ事柄と円上に丁度良くキレイに並ぶ接点の重なりを感じる。
昨今の西欧化した社会では接点とは力ずくでも何でも一つに重ね纏めようとする人もいる。
また、接点の交わりの暗黙知も働かないようなこともあって、そのような輪とは随分と歪んだカタチの円のようにも思う。
これは単なる図形の美しさと言葉遊びではありますが、案外このような事柄なのかも。

 

■2026年4月7日(火)
■片道だけの人生行路グラフの輪っかを完全ループの無限行路に変換したら赤い下線部分が伸びた。
完全ループとはSFだけれども時間は同じだとしたら何か変だよね。
■2026年4月8日(水)
■一日一文章トレーニング。

「頭の中が無限ループしている」

ウホウホウホと、おっにくーの時間だよ☆
オールスパイス冷燻期間中の豚ヒレ肉は忍耐に忍耐の約1週間経過の我慢をして本日食べ頃となる。
前回の美味しかったお肉はさらに1週間程熟成したお肉が一番美味しかったように思うもので今日から食べるのか、さらにもう1週間待つのかと大いに迷う。
因みに、本日の肉の重さは266gとなり46gの水分を飛ばす。
熟成肉とは水分が飛べば飛ぶ程に肉も引き締まり美味しくなる。

R080325 312g
R080402 289g
R080408 266g
R080416 前回の食べ頃

魚のオールスパイス漬けは大コケでしたが、今回の豚のヒレ肉のパンチェッタは美味しく出来るのでしょうか。
それにしても、食べ物の仕込みとはこんなにも手間のかかるものかな。
同時に熟成肉の期間も長くなればなる程に食べ物に対する感謝の気持ちも高まり大切に食すものだ。
これは時間軸のファーストに対するスローフードなのか。
いつも何時もファーストでもありたいと思いながらも時折スローでもあり日々葛藤している。

昨日の日本文化に於ける「3」の数字で思い出すことは、以前も書きましたが私たちのご先祖様たちが植物たる木々を伐採する時に刻む3本線のミキという御酒の「3本線」のこと。
斧の反対側には4本線のヨキという地水火風の印も刻むもので、3本線のお酒と4本線の豊穣の恵みの斧で命ある木々を切らせてもらうことの感謝をもって木を伐採していたようである。
インターネットを検索すると植物には神経もないので切っても痛みはないと記載されている。
確かにそれはその通りではありますが、私は何だか痛々しくも思う時もあるもので、昔の人たちもまた木を伐採する時に自分の心の中に痛みを感じていたのかもしれない。
毎度毎度、些細な伐採の度にお供えをすることは無理なので3本線4本線の呪文は斧に記し木々を伐採する。
そして、モータリゼーションを迎えた現代の私たちは電気ノコギリで一気に木を伐る。
当然木を切る時にお供えもないし、道具にミキ・ヨキもなく、モノのように伐られていく。
世の中は人権意識も高まり命の尊さも声高く言われる時代でもあり、それはミキ・ヨキ的な命を尊ぶ考え方と異なる流れの概念でもある。
もしかしたら、昔の侍や職人たちは簡単に命を奪える刀や道具を振る故に命と正面から向き合っていたのかもしれない。
いつでも例外はあるもので、人にもよるかもしれませんし、昔のことはわからないものではありますが、3本線ミキや4本線ヨキな言葉が存在していること自体がそのように思う理由でもある。
汚れている手の葛藤というのか奪う生命に対する感謝や敬いの気持ちは生死の狭間が密接で背中合わせであるほどに近くなるのかもしれない。
そのような意味に於いても私たちとは無限に命も薄くもなるもので、肉を買ってもスーパーの陳列を見るだけで牛や豚を屠殺する風景も知らない。
木材を輸入したとしてもその大木がその生えた土地で神木のように聳え立っていたことさえ知らずに消費して捨てている。
権利は十分に高いが命は非常に軽いというかお粗末なようにも思う時もある。
それは命を奪う道具を持つ人たちよりも安全圏の現代的の振る舞いは命に無頓着かもしれない。
私も生まれた時から大量生産大量消費時代のド真ん中。
モノは壊れたならばポイッと捨てて、この便利さを享受するのにどれだけの命やエネルギーが消費しているかとの想像すら出来ない。
そして、何も知らなければ気にもならないものでものですが、気になると少し気になる木でもある。
食物連鎖の頂点に立つ生き物が命を奪うことを無限ループだと考えるようになればどのような結果になるのだろうかと思うと、それは恐らく絶滅に向かって一直線なのかな。

ということで、

時は時々と不思議なもので毎分毎秒と今も進む。
そして、図のように重なる円の接点が一点に収斂すると輪のカタチは消滅して無限(∞)マークになるような気もする。
いやいや、1つだけの小さな円になるのか、蝶々結びの逆ハートも有力で、これらはベジェ曲線でシュミレーション出来るのでしょうか?
最終的な最後に収斂する接点の位置にもよりますが、いろんなカタチは見えてくる。
横軸が時間だとすると接点が一点に収斂するとタイムマシーンのように時間を縮めているようにも見えて何だか不思議。
昨日もループさせたら時間軸の線が伸びて、あーこれは不思議だなーと思う図形の神秘である。
私ではよくわからないカタチでもあるものですが、どうやら接点と接点重なると合うと虎のバターの如く円のカタチは次々に崩れて消滅することだけはわかり、たぶん、接点が動くことは面白い。
これは何の呆則なのでしょうか。

 

*デスクトップ画面用の画像です。
■2026年4月8日(水)
■遊覧飛行。

■2026年4月9日(木)
■一日一文章トレーニング。

「いやはや春だ」

街を歩くと外国から来たツーリストたちが半袖半パンで闊歩している。
老若男女のおじいさんまでもサングラスにキャップ、半袖半パンと完全に夏のようだ。
「お主たち半袖姿で寒くないか」と思うのがオール日本ピオプルの謎でもある。
ある者は薄手のコートを脱ぎTシャツ姿となる。
ある者はホテルからそのままの真夏な半袖半パン姿で出てき途中で寒くなったらどうするだろうかと心配にもなる軽装でもある。
長袖の拙者も自転車を押し押しと坂道を上りじんわりと汗をかくもので確かに暑い。
ほんのりと暖冬の真冬でも半袖姿の外国人はたまにいるものですが、そう言えば、拙者も小学校時代ではオールシーズンで半袖半パン姿であった。
なので、薄着のツーリストたちにあれやこれやと言える立場でもない。
極寒に寒い時でもTシャツにダウンベストというカートゥーンアニメに出てきそうな意味不明のファッションセンスで生活していたもので、また、半パンもホットパンツのようなピチピチなものを好んでいた。
ほとんど、親が買ってきた服を着るもので、その理由も子供は薄着の方が風邪を引かない迷信話だったようにも思う。
ならば、風邪を引かなかったかと思えば一通りの風邪は全部ひいている。
拙者が半パン族を脱退した決定的な瞬間は中学生の冬に半パン姿を笑われたこと。
それから親に頼んで季節相応の服を着るようになり、隣のクラスのあのすかしたブイブイした奴に馬鹿にされなければ、今でも外国人ツールスト並の薄着だったかもしれない。
身震い。
こうして、拙者の半パン族は完全脱退となるもので、東京の若者たちを見ていたならばちゃんと季節感のある服装していてエッペラい。
そう言えば、この前ギャル二人がミニスカをいつまで履けるのかと話していた。
些細な変化も聞き逃さない拙者の地獄耳はピーン立ちてその話の一部始終を聞く。
ギャルAは25歳までかなーと言っている。
ギャルBはミニスカに年齢は関係ないと言っている。
ふむふむ。
こんなにも暑い春となればお風呂上がりも暑く、一昨日は半袖で寝る。
秋は足冷えなどと騒がしいのに今度はもう暑い暑いと騒がしい。
そうすると、途中であまりにも寒くもなり目が覚めて、むくりと起き上がり長袖に着替える。
暑くて寒く寒くて暑いこれが春だなーと思う潮時である。

ということで、

植物たちの春も絶賛もりもりと急成長中で、どの植物も新芽を生やして青々と冬枯れした世界から一辺して賑やか。
ベランダには実家から持ってきた食べられないニラが越冬して白い小さな花を咲かせる。
白いベルのような花がとても可愛らしく、これが庭一面に咲くととても壮観でもある。
冬枯れした葉っぱからは新芽も出てくるもので流石のニラパワーなのか生命力のある雑草である。
ニラは実家から持ち帰る時に母から何度も何度も絶対に食べてはいけないと念を押された植物で「相わかった、相わかった」と愛でるものだ。
食べられないニラなる雑草を育てる目標とは全てこの白い花を咲かせることにある。

そして、

以前墓場に生えていたコバンソウを鉢植えした新芽が生える。
土に植えてもすぐに枯れてしまいコバンソウの存在も忘れ、そのまま放置していた鉢から生える。
新芽が出るまで何年経ったであろうかと思う数年越しに生えたバンソウの新芽である。
植物の種って急に忘れた頃に芽吹くふしぎ。
最初は空いた鉢の土から食べられないニラが生えてきたと思いて放置していたならば、今朝見たらコバンソウに成長していた。
ラッキー。
この数日で2倍ぐらいに大きくなり小さな小判をぶら下げて万歳\(^o^)/とお目出度い。
肝心のコバンソウの繁殖地は新しい墓が建ち群生地は無くなったもので種が絶えなかったことも嬉しい。
墓場の移動中は何本かのコバンソウは見つけますが群生地はもう無く、我が鉢からも小判が生えて良かった良かった。

 
■2026年4月9日(木)
■ドローン部隊が猫さんを投入する。
■2026年4月10日(金)
■一日一文章トレーニング。

「ビューーーーー」

と吹き抜ける春の大風は窓をガタガタと揺らす。
そして、
私は朝のブラックコーヒーを飲みながら窓の外を見る。

「ビューーーーー」と大風も吹けば、当然、私の中の全プランも吹き飛ぶもので、今は風が吹かす音色をただ模写する。
それは音楽だ。
山頂に白い積雪を見せる壮大な山々の景色はキレイで、いやいや、私の目の前に広がる景色は鉛色の狭い空に電線の楽譜がゆらゆらと揺れる都心のコンクリート山脈が広がる枯山水である。
ただし、我が家の枯山水は枯れてはいない。
春の新芽の息吹がもりもりとベランダの植物たちが風に吹かれれば、その光景とは春のベランダ協奏曲となる。
もしくは、春のアンサンブルかもしれない。
アンサンブルも協奏曲も定義は曖昧ですが、春の大風も吹けば我が家にはベランダの楽団員たちが音を奏でるもので賑やかな山水となる。

春から外住まいとなった植物界のお嬢様は大きな葉っぱに風をしっかりと受けてまるで大海を進む帆船のようだ。
そのお嬢の下に生える多肉植物の平原は風に吹かれてザワザワッと波切る潮騒の風のカタチを残す。
まるもるとしたオリーブの葉っぱもまた風が吹く度に上から下、左から右と葉っぱを大きく揺れて楽団員の演奏する肩の如く。
食べられないニラの花も四方八方と白いラッパの音色を奏で、ニラの葉も風をうけてフワリと浮かぶ。
コバンソウの穂はリンリンと情熱的に鈴の音を鳴らし、細い体の雑草たちは大風で折れてしまわないかと心配ですが風をしなやかに受け流す。
そして、謎の柑橘系樹木の若木もまた大風に吹かれて、まるでメトロノームのように揺れている。
我がベランダの楽団員たちは横一列に並び風吹く音色をしっかりと受け止めて曲を奏でるもので、高さも様々な植物たちも順々に揺れれば何かの楽譜のようにも見える。
そして、ベランダ楽団の指揮者はサボテン三兄弟+1で風に微動だにしない低姿勢で楽団を指揮する。

ということで、

書くことも特にないピンチに陥ればこのような意味不明な楽団話も書く。
そして、私のオススメのクラシック音楽もバッハばかりで上から下までバッハバッハバッハJSバッハと演奏者はグレン・グールドさんのバッハである。
勿論、グレン・グールドさんとは全く知らない人物でもあった。
たまたま演奏者のロックな風貌からクリックして作業用にリピートして聴いていたならばいつのまにか全部バッハバッハとグレン・グールドJSバッハのピアノ曲のそんなバッハとなる。
困ったー困ったーと何にも困ることもないものですが、実際に良い音楽でもあるのでオススメのクラシック音楽は全部グレン・グールドさんのピアノバッハでいいや。

そして、

再び「ビューーーーーーー」と大風も吹けば楽団植物たちの肩もキレイに揺れて食べられないニラの葉っぱにエアープランツは絡みつく。
そして、再び大風が吹けばエアープランツは吹き飛ばされて私は小雨で濡れたベランダを靴下のままでぺたぺたと歩きプランツを救出する。
うちの楽団は結構良い音を奏でる。

 

*デスクトップ画面用の画像です。
■2026年4月10日(金)
■すこすのすー。
■2026年4月13日(月)
■一日一文章トレーニング。

「拙者この週末にパリのレストランでウェイターバイトをする夢をみていた」

いくつかのテーブルを任されてボンジュール・ボンソワール・ムッシュ・マダムと大変忙しく働きながら寝ていたヘビースリーパーだ。
メルシー、シルルヴゥヴゥレ、ラ何々、イペミニヨン、オーボワ、フロマーゲと勿論、フランス語は話せない。
なのに、拙者はフレンチレストランでウィターをして注文をとったりと活躍している。
そのお作法とは携帯電話を片手にGoogle翻訳のライブ翻訳を使いながらウィター業を華麗にこなすものであり、日本語による日本のサービス精神でフランスのお客様をテキパキともてなす。
お客様の立場に立ったその姿勢は高評価でチップもガボガボ。
AIの力によって会話は変換されて、恐らく流暢な翻訳となっているのだと思うフランス語だけれでもチンプンカンプンで確証する術ない。
正に同時通訳が簡単に出来てしまう世の中でもあり「技術の進化とは凄いなー」と夢の中で労働している。
勿論、子羊のローストを引っくり返すような失態もなければ、パテ・アン・クルートもお客様の前でキレイにカットして美しく皿の上に並べている。

そう言えば、フランス料理本をイキり買ったこともある。
我が家の晩飯にテリーヌやジュレ、シャトレーゼな芸術的な料理が並ぶ食卓の期待して購入したものの、いきなりウサギのもも肉?って「どこで売っているのか?」と食材を集めるハードルも高すぎて挫折したあの料理御本である。
なので、まだ一つのフランス料理も作っていない。
これならばエビとアボガドとマグロのジュレをマヨネーズ添えた寿司フランスの方がまだまだフランス料理っぽくなるかもである。
いつかこのようなフランス料理を作ってみようと思い捨てることの出来ない本であり、この本は毎度の大掃除の際に捨てるのか?捨てないのか?の狭間に立つ本でもある。
大体、我が家の茶色(ブラウン)料理もフランス料理のマジック技にかかれば茶の濃淡の反則技でお洒落になるかもであり、1品も作っていないのに結構よれよれの愛読書のようにもなっている。
いつの日にかフランス料理が自宅の食卓に並ぶ日が楽しみだ。

因みに、写真はこの週末にゲットした特売品のマッシュルームの山盛り。
マリオに出てくるような直径7~8センチ程の巨大なマッシュルームが1UP2UPとゴロゴロと入っており思わず買ってしまったー。
「こんなにも食べれないよー」な気分でもありますがマッシュルームと言えばフランス料理でもあり、シュプレームソースのページをめくると鶏もも肉にマッシュルーム、ブーケガルニ1束?と「ブーケガルニ1束って何野菜?」となる。
ガルニガルニブーケガルニJSバッハバッハと頭の中に謎の食材が頭を巡り、私の中にハハハーハハーひーひひーひひーとオペラな声が鳴り響く。

というわけで、

このようなフランス料理屋でバイトをしてしまう夢を見る理由はAIの力を利用して洋ゲーや動画を自動翻訳しながら遊ぶ話をしていたから。
動画の外国人がペラペラと話すものを自動的に日本語変換して教えてくれる便利機能で、これを聴きながら料理したり家事をすれば便利だよねーという話でもある。
そのような会話もしていればそりゃ夢の中でスマホ片手にフレンチレストランで働くものだ。
「ほれほれ、こうやって明日の天気を尋ねると、明日の天気も教えてくれるよ」とAI会話を弾み、そして、拙者も横から余計なチャチャを入れるもので「(AIの声を)よちんさんの声にしたら」と話しかける。
すると、AIは「ち◯こはしまう」と聞き間違えたようであり横腹痛い。
AIは「明日も良いお天気になりそうですね」と他愛もない会話を喋ってお茶を濁しているようで再び横腹が痛く、「記録に残るからもーうやめてー」と「トラブルメーカーなのか」と言われながら確かにイエスボスな気分でもある。
「これはニューモンキーでいろいろと・・・」と会話は続き、流石の拙者もニューモンキーと煽られても仕方ない面はあるものの「ニューモンキーとは何?のこと」と気になり聞き返すものである。
すると、「ニューモンキー」とは「にゅうもんきのこと」で「えっ何?」と「入門機(にゅうもんき)」のことのようであった。
また再び横腹が痛い。

意思疎通とはとても難しいものだ。
言葉とは表情や雰囲気、会話の流れなど多岐に渡る情報を読み取るもので、皆言葉尻をとって自分の良い解釈をしたり、聞き間違えたりと対話のキャッチボールとはたくさんボールを投げあうことで何だか意思疎通できたのか、出来なかったのかでもある。
それだけ、世界とはすれ違い、揉めて、争いヘトヘトになるもので「もういいや」と思うような「対話の可能性」なヤン・シュヴァンクマイエルな映像が頭に浮かぶ。
そして、すれ違うことを楽しむのもまた会話である。

 
■2026年4月13日(月)
■チャリ~ン♪

■2026年4月14日(火)
■一日一文章トレーニング。

「茶人は残念なことに茶茶色に染まった晩飯に侘び寂びな茶の心を感じるアーメン」

昨晩、フレンチな料理は作れませんが見た目だけでもフレンチっぽくなるように晩飯を作る。
先ずは先日から冷蔵庫熟成している豚ヒレ肉の表面をにんにくと共にパリパリと香ばしく焼く。
肉が焼き上がると一端取り出して、次にジャガイモ、アスパラガス、玉ねぎを良く焼き、それらに火が通るとピーマン、オクラ、椎茸などの野菜を追加して焼く。
本当はマッシュルームたっぷりな料理となる予定でしたが、マッシュルームを消費する前に椎茸があったので椎茸料理となる。
そして、肉と野菜をシャッフルしてキレイに容器に詰めると私の中のおフランス料理の完成だ。
どうだろうか、どこからどう見てもフランスやね☆

フランス料理はたっぷりとバターを入れるのが基本のようですが、バターは値段も高いし入れるとすぐにフライパンも焦げるし、焦がさないように焼こうと思えばたっぷりと大量投入しないと焦げるもので和人の食卓にバターたっぷりのハードルは高い。
なので、我が家はサラダ油オンリー、エッヘン!
バターたっぷりにコンソメやブイヨンフォンドボーといろいろとそれっぽいものを入れればそれなりにフランス料理に近づくかもですが、やっぱり家庭料理とは最終的に塩や醤油なのである。
写真を見てもわかるように茶色い夕飯の呪縛から開放されていることだけは大変素晴らしい。
この写真の見た目は「のど自慢料理」のようで、この写真が茶茶の真茶色であれば写真にアップすることもなかった。
まるでシャルキュトリーみたいでもあるが、味はザ・ジャパン。
そして、シャルキュトリーとはフランスの豚肉で作る加工食品のこと。
この茶色い誘惑から逃れる為にピーマンやアスパラ、オクラなどの緑色のお野菜が頑張って彩りオレたちは茶色い晩飯に勝ったー。
エイエイオー、エイエイオー。

「何だか晩飯が茶色いなー」と思えば、晩飯とはとんでもなく真っ茶茶な時もある。
この茶色に染まる晩飯からの大脱走とは古い映画でバイクに乗ってフェンスを越えるそんな料理映画はあったかな。
私の論呆では茶色に打ち勝つ方法は下記の2点。
一、秋の紅葉的な赤、オレンジ、黄色などの枯れ葉色を茶色と重ねて美しさを高める。
二、茶の精神に則り緑のお野菜を入れて食彩の彩りを上げる。
渋い茶色の組み合わせで茶色の深みが増すことは茶器の渋さを見れば一目瞭然。
そして、もしや茶色の晩飯が美しく思えないこともまたお茶の美的な精神に反するように思う。
また、汚い茶色のお椀から抹茶みたいな鮮やかさを生むのも、まるでシャカシャカと泡立つお茶の清涼感ある緑色と茶器の茶色のハーモニーである。
これが侘び寂びなのであろうか?と茶坊主は茶色い晩飯に美しさを見出すことのなかった自分の浅はかさを感じている。
お茶の会ではこのような茶色飯とお茶の心意気を伝えよう。
「茶色飯からの大脱出とは真茶々色の茶の渋さを感じ、そこを飛び越えてこそ見える世界の侘び寂びなのかな」・・・と・・・「そうどすなー(またこの人困ったことを言ってはるな)」・・・の醍醐味である。
メモメモ。

ということで

肉は先日から冷蔵庫熟成している豚ヒレ肉を使用してオールスパイスがよく効いた美味しいお味となる。
オールスパイスがお肉を美味しくすることは間違いないことで、そして、本当のオールなスパイスとは煮込み料理に入れるブーケガルニ1束がオールなスパイスなのかもしれない。
お味の方は前回の熟成肉の方が断然美味しい。
熟成度合いも重量250gの約2割の水分を飛ばし熟成されたお肉となる。
R080325 312g
R080402 289g
R080408 266g
R080413 250g
もも肉とヒレ肉の違いは何ぞやと、油が少ないと言えば少ないのですが豚バラ肉との違いは明らかですがももとヒレの味の違いはすこす難しい。
さっそく、豚肉の部位の詳細がわからないので大雑把に絵を描く。
ネットで調べるとそれぞれの絵で全部異なる部位の図で正解も分からず何だかモヤモヤ。
これだけそれぞれの部位の位置がまちまちであるならば寧ろ心地よいと言うか、または、精肉店ごとに肉の部位と定義が異なると思えば何だか面白い。

 
■2026年4月14日(火)
■シャシャシャカシャカお茶の月。
■2026年4月15日(水)
■一日一文章トレーニング。

コーヒーは入れて、淹れるもので、お茶は相手を立てながら点てるものである。
たぶん。
我が家のお茶は麦茶やほうじ茶、緑茶をブレンドしてやかんで煮出すお作法で、茶は点ててはいないものの、茶葉はブレンドされて煎じられお茶を注ぐ具合である。
でっかいおやかんにたっぷりのお湯を注ぎ沸騰させれば火を止めて茶葉をじっくりと煮出す。
それを冷蔵庫で冷やし、または、氷の入った魔法瓶に入れていつでもすぐに冷たいお茶を飲めるようにしている。
お茶系にまつわる言葉とは様々な表現があるもので、お茶を入れることは点茶(てんちゃ)の点から由来して「点れる」となる。
「点れる」ことを「点」と表現することはとても面白い。
「点」とは何かと考えればそれは始まりの点でもある。
そして、点はどのように生まれるかと考えれば2本線が交わることで初めて1次元的な小さな黒い点の誕生するもので、これは人をもてなす井伊直弼公の一期一会的な点の始まりにも通ずるようにも思う。
そして、茶を混ぜれば2次元な面となり、シャカシャカと泡立てかさも増えれば茶の面は3次元となりて茶にまつわる空間の美と人をもてなす時間と空間は広がる。

(1)人と人の線が交わり点と成すことではじまる。
(2)人をもてなし、湯を入れて面となる。
(3)茶を点てれば空間が生まれる。

全ては人と人の2本線が交わる「点」から生まれる「点れる」ことで、これは逆説的に考えると茶とは自分の為のだけに茶を入れていてはいつまで経っても「点」を生まないことを意味する。
よって、お茶とは誰かの為に入れてこそ初めて広がるお茶のロマンでもあり、茶で人をもてなすことはとても素晴らしいことだ。

そして、「淹れる」という言葉も謎。
この「淹れる」という言葉は俺の辞典に一切の記載がないもので、今やコーヒーを淹れると言えばこのような「淹」を使う雰囲気はある。
さて、「淹」の字とはどのような意味なのかと調べてもさっぱりわからないものである。
俺と淹れるは似ている漢字ですがコーヒーを入れているのか?淹れているのか?と困惑する。
よく似た漢字では“てへん部”の「掩」を見つける。
「掩」という字は味方を援護することの常用漢字以外の漢字で掩護のこと
意味は覆いかぶるように包むような事柄でコーヒーをドリップして湯を注ぐ行為もまた覆いかぶさるように包み込むように掩蔽(えんぺい)する感じでもある。
なので、この「淹」という字は「掩」の“てへん部”を水の“さんずい部”に改良した造語のような予感もする。
※真実は知りません。
毎日、お茶に紅茶、コーヒーと茶を注ぎ結構なことですが、上記のようなことを鑑みるならば、お茶とは美意識と他人に入れて人をもてなしてこそ点も生まれて世界も広がるお茶なのである。

ということで、

昨日は俺もコーヒーを淹れる。
淹れたコーヒーには牛乳を注いて苦みを抑えたミルクコーヒーをまったりと飲む。
コーヒーをちびちびと飲みテーブルを立った時にコーヒーを盛大にこぼす。
大いなる大人がいつまで経っても飲み物をこぼすもので注意散漫というか落ち着きがないというか、それは年齢を重ねても何も変わらない。
そして、コーヒーはなぜか自分の方向に向かってこぼれるものでテーブルから落ちたコーヒーは全部椅子の上にこぼれる。
椅子に一体化したクッションがテーブルからこぼれたコーヒーを受け止めてナイスキャッチと思い、コーヒーは砂糖も入っていないのでこのまま乾燥させればそれで良いかと思う。
しかし、こぼれたコーヒーには滅多に入れない牛乳を入れているもので乾けば何だかベトベトとするような予感。
なので、「しゃーないなー」と重い腰を上げて椅子のカバーを洗うことにする。
椅子を引っくり返しドライバーで椅子の座る部分の板を外し、そして、椅子板からカバーの布を取り外す。
この椅子がもし壊れたならば椅子板は野球のベースに加工出来るのではと思う立派な板でもあり、外した布は桶に湯を溜めてから洗剤入れて手洗いをする。
「じゃぶじゃぶ、じゃぶじゃぶ」と泡立てるように手洗いすると桶の中が見たこともない位に真っ黒だ。
毎日汚れが大変蓄積していたようで、外から帰った服で踏んづけて飲み食いもすれば椅子の上にも落ちるもので、こんなに真っ黒になるのも当然のことである。
こんなにも真っ黒な汚れとは直近でも見たこともない汚れでもあり、椅子の布カバーのお掃除は盲点である。
椅子カバーは二度洗いして天日で干してキレイとなる。
椅子カバーの洗濯中は毎度毎度の数分ごとに椅子の座る部分がないことにビックリして「危ない、危ない」と間違って座りそうで本当にどのような脳みそな構造になっているかなである。
先ずは、茶の心を云々と語る前に茶をこぼさないことが肝要である。

 

*デスクトップ画面用の画像です。
■2026年4月15日(水)
■メガネ鳥どり。
■2026年4月16日(木)
■一日一文章トレーニング。

「呪いの外れ宝くじ券(どこかに300円当選が混じる)を模写した」

今朝のコーヒーはドリッパーの引っ掛ける部分の片側が外れてコーヒーの粉と注ぐ湯がカップ内とテーブルにこぼれ溢れる。
これは毎日の風景であり、正に覆水(ふくすい)の「覆水盆に返らず(一度溢れた水は元に戻らない)」なのだ。
粉が入ったコーヒーとは舌触りも悪く不味いのでポイッと捨てる。
そして、新しいドリッパーを開封してコーヒーを注ぐ。
「ふ~今日のコーヒーも美味しいぜ」

「淹れる・いれる」「掩う・おおう」の意味がかぶせて包み込み覆うものであるとすると覆水の「覆」もまた覆面と全部を覆いて隠すものである。
どれだけいろいろな覆うような言葉があるものかと思うもので、我らとは常々日頃から様々に覆われるような事柄に面しているものかもしれない。
今度、気も向けば書き出してみよう。
「覆」は復刻(覆刻)や複製(覆製)とひっくり返して複写するような意味もあるようで、私の繰り返す失敗は覆うものだ。
そして、覆刻の「覆」は今や東から上って西に沈む太陽のように西の字を捨てて復刻しているのも面白い。
「淹れる」「掩う」の「奄」という字の意味が気になり調べると、これまた覆う意を持つ。
「奄(えん・おおう)」と覆うことは、気息奄々(きそくえんえん)と「奄」を「奄奄」と2つ並べれると息も詰まって生気の無い様子となる。
一度覆ったものの上にさらに何かを覆いかぶせるということを昔の人たちはあまり良しとはしなかったようだ。
「奄」が覆うこととなれば「奄」”にんべん部”なる「俺」と人で覆うことで自分のことを表す。
俺の上に俺を被せて俺俺となれば自己主張も強く、オレオレの犯罪のようでもあり、やっぱりあまり良い意味ではない。
覆いかぶさる上にさらに覆いかぶさることはどのようなことを意味するかと書き出すと下記のようになる。
・多い被さった下の布は意味の持たない布で忘れられて否定すること。(黒塗り隠蔽を良しとせずに二重線消しを推奨すること)
・布に重みがあるとすれば押しつぶされて下の覆ったものが壊れてしまうような布かもしれない。
・重ね着だとすれば重みはあるが暖かくなる。
・布を覆面だとすれば上面の下に別の本性の布がある怖い布だ。
どうせ覆い被るならば一度覆いかぶさったものは脱ぎ捨てて新しく覆いかぶさることが良いかもで、私も覆い失敗したコーヒーは勿体ないけれどもキレイに掃除してから新しくコーヒーを淹れている。

ということで、

私は宝くじの呪いに今掩われている。
去年の夏、ヘビのようなサボテン植物の夢を見て宝くじを買ってみたものの、3000円の宝くじは末尾当選の300円当選の定番な馬鹿頭を踏んだ。
宝くじに当たってブランド品を買い漁りサボテンの家も購入してと理想の計画も水の泡で2700円の損害である。
今はヘビっぽい夢を見たとしても宝くじは買わない呆則で早く300円も換金したい。
しかし、宝くじ売り場なんてなかなかないもので、わざわざ目的を持って行くような場所でもないし、宝くじ売り場を見つけても300円の当選券を持っていなかったりと当たり券の換金ハードルも高い。
最近は購入した場所の宝くじ売り場をちょくちょく覗くけれどもいつもシャッターが閉まっており換金はできない。
このまま放置していれば、あと4か月で支払い期限も終了する。
なので、わざわざ電車賃を支払い街まで出かけて300円を換金する話もするもので、300円換金する為に電車賃を支払うのは何だかカオスだねとなる。
ならば、行った先々の偶然で換金しようと思うものの宝くじのババ券を持ち歩くのも結構邪魔である。
よって、我が家ではこの宝くじ当選300円券を呪われた宝くじ券と呼んでいる。www
支払期間も1年間と短いし、外国みたいに当選者の実名発表も行われないもので透明性も薄そうで、この怪しくも呪われた宝くじ300円券が混じった束の呪いは呪い封じの模写で覆って成仏させる。
チーン♪
宝くじ画は結構上手に描けて満足であるーエッヘン。

 
■2026年4月16日(木)
■右パンチ!
■2026年4月17日(金)
■一日一文章トレーニング。

「とどのつまり、何の話なのかよくわからない話なのですが素敵な立体物を作った」

結局のところとは「とどのつまり」である。
つまり、「とどのつまり」という言葉が気になるもので「とどとどとど」と、とど松の「とど」も気になる。
とど松とは北の大地の最果て生える樹木のことを「とど松」と言ったようにも思うのですが、詳細は知らぬ。
気になるけれども何だかよくわからない「とどのつまり」であり、私の頭の中では哺乳類のトドがパイプを詰まらせたイメージを浮かべている。

つまり、あんまり関係ない「とどのつまり」ですが、

我が家の掃除機のローラーからカラカラと異音を鳴らし、パイプにゴミでも詰ませたようなドドの詰まりである。
よって、昨日、久しぶりに掃除機を分解して掃除した。
掃除機をお掃除することとは本末転倒な事柄でもありますが、掃除機とは時折お掃除してあげないとちゃんとお掃除も出来ない。
つい先日もお掃除機を分解掃除したような記憶もあるものの最近は全く掃除をしていないような気もする掃除機掃除である。
どのような道具でもメンテナンス無しには長持ちしないもので、先ずは手際よくパーツを外し、この世の髪の毛全部巻き取ったようなローラー部分に巻き付く頑固な髪の毛をハサミでジョキジョキとカットする。
中に入り込んで引っ張っても取れないような髪の毛はライターで「ぼッ」と燃やして消滅させる。
そして、ゴミの吸い取り道にもスポンジのような埃がしっかりと詰まっているもので、そりゃ吸引力が悪くなるのも納得である。
それらドド詰まり状態な埃の塊たちもプラスドライバーの先端でキレイに掘り出してお掃除して、おかげで手も真っ黒となって床に落ちた髪の毛や埃なども掃除機で吸い取る。
後は本体の目詰まりしたフィルターを歯磨きで丁寧にブラッシングしてあげてアルコール除菌で拭き取ればお掃除も完了。
とどのつまり、詰まったゴミは全部取り払ったのである。
まだまだ、昨日から水洗いもして乾燥状態のバラバラですが、後から組み直して吸い取り具合を検証しませう。

ということで、

私はすごく美しいカタチをした立体物を作った。(写真参照)
昨晩、アマゾンプライムのニャーニャーと島の中を猫ちゃんがただ歩き周っていているだけの番組を見ながら暇つぶしに折り折りと何だか変な構造物を作る。
猫に小判とは上手く言ったもので、何も役に立たない立体物を作れて私も大満足だ。
写真の立体は10面体ですが全部の面を開けば12面体となる。
通常立体物は内に空間を介するものだと思うのですが、この立体は10面体の時には内側に全く空間が無いように見える中心が点な立方体である。
そして、全部の面を広げて12面体にすると急に内側に三角錐的な空間を生み出して構造物も不安定となり壊れやすい。
この点から空間になる構造は、もしや先日の点から始まり点てるお茶の心かなと”こじつけ衛門”は思うもので、そして、しげしげと眺めてやっぱりこの図形のどこが茶的なのか皆目わからぬ。
そのカタチは花のようでもあり、または、平たい分子のようでもあって、踏んでも痛くない忍者の撒き菱のようでもある。
このような木の実は自然界で落ちていそうなカタチでもあり、内側の空間に注目すれば1次元から3次元に変容するのが面白い。
もっとしっかりとしたカタチに作れそうな方法も思いつくので今度再挑戦してみませう。

 
■2026年4月17日(金)
■とどのつまり、今夏はやっぱり行き着くところはトドなのである。シュワシュワっとビールのもーう♪
■2026年4月20日(月)
■一日一文章トレーニング。

「拙者、接写写真の面白さに気付く」

先日は防犯カメラに使用していたアクションカメラを掘り出しましたが、今度はPENTAX製の防水のカメラを掘り起こす。
いつから使用していないかと考えても全く使用していないカメラで、このように長期間放置された電子機器類は時折見つけてはフル充電してメンテナスを行う。
先ずはバッテリー電池を抜き充電して、次にパチパチとシャッターも押して「問題なーし」と動作確認をする。

このような久しぶりに使う電子機器を動かすには皆が嫌いだと思う定番の儀式はある。
それは何年何月何日何時間何分と日付や時間を一つづつ入力していく作業で、IT系の登録などでも鬱陶しくて面倒くさくて嫌い。
「あーーー今日は何日だべ?何分だべかーーー」と携帯電話の情報を確認しながら“分”の切り替わる瞬間を見測って案外正確に情報登録している。
本当に横着者なのか几帳面なのか全くわからないのですが、本物の横着者とはこのような日時や情報登録を適当に入力できる大物だと思っている。
拙者のような小物の横着者は面倒だの鬱陶しいだのとブツブツと文句は言っているもののキッチリと入力する。

このカメラはアウトドアや工事現場などでも使える防水防塵タイプで、特に拙者はプロ仕様や防水防塵とかのワードに弱い。
昔仕入れなどをしていた時もPROキーワードや実際にワーカーが使用するモノなどを観察して積極的に仕入れしていた。
そして、この派手なアウトドア・ガジェットな風貌は好みではないもののPENTAX製の一眼レフを愛用者でもありPENTAX製品に100%の信頼を置いているので購入したものだ。
いつもパパラッチの如く「パシャパシャ」と連射しながら一番キレイに撮れたと思う写真を選ぶものでシャッター音も好き。
背後の空間に広がる深度も大好きで「ペン+税」のネーミングは謎ですが一眼レフカメラにはスマホでは表現出来ない美しさはある。
勿論、アウトドアや工事現場にも行かないので、防水機能も使うことはない。
だがしかし、1回だけ水の中に沈めて撮影したことはある。
あれは確か大きな自然公園の人工の川の中にドキドキしながらカメラを水没させた記憶でパシャパシャと2回程シャッターを切って何だかよくわからない水のブクブクと底の砂利を撮影した。
それが唯一の防水機能を活用した記憶で、それ以外は雨も1適もかからない潔癖症の防水防塵カメラである。

ということで、

この週末この防水防塵カメラを使いて何か面白い使い道はないかと考え、拙者、この防水防塵カメラの1センチの密着接写機能を使っておもむろにあれやこれやと接写撮影を始める。
そう言えば、以前も接写撮影を楽しんでいたもので、スマホカメラの接写撮影とはまた違った味はある。
先ずはお昼に食べたラーメンの麺をメーンと撮れば結構良い麺が撮れる。
ラーメンの拡大写真は見たこともないもので、テーブルの上やキレイな十円玉、スイッチ2の(A)(X)(Y)ボタンも撮影する。
この防水防塵カメラは接写用のライトが標準装備されおり接写モードで撮影すると自動点灯で対象物を照らしてくれる。
それから、茶葉や植物界のお嬢様のメデューサのような根も撮る。
植物界のお嬢様の鉢を撮れば根元に苔の森が広がっており、スマホやモニターを拭くクロスも撮影して、モニター画面も接写するとこんな感じだ。
ドット柄、いろんな表面、PS4のコントローラー、NOW、マイ画、絨毯、麻の服、カーテン生地、画質の悪い印刷、成長する三つ葉の葉っぱ、虎くんのぬいぐるみ、ドキュメントボックスの表面、PS5のコントローラーと次々に接写する。

止まらぬ接写。

「あの~一枚写真を撮っても良いですか」と接写で撮影し始めたならば誰もがドン引きするだろう。
カメラとはレンズを向けられるだけで威圧感というか嫌悪感もあるものなのに、ぴったりとカメラ密着撮影となれば「何?何?何?」と怖い。
雑誌の写真が接写画像のみの商品写真だったらどうしましょう。
見たい部分が見えないことは何だかストレス。
賃貸の外観と室内写真がコンクリートや木材、ステンレスの接写画像しかなければ何もわからないと苛立つ。
「木を見て森を見ず」な「接写を見て広角を見ず」とは病院の謎文字並ぶ検査みたいな面白さでもありますが、知りたい情報の接写情報とは何だろうかな?
そして、拙者は拙写楽となりて暫くいろんなモノを接写する。

 
■2026年4月20日(月)
■カメラに動きを与える。
■2026年4月21日(火)
■一日一文章トレーニング。

「“とど”なる言葉には深い意味があるような気がして整理する」

「とどとど」と「とど」なる言葉には英語の「Todo」に似ているもので、今朝は早速やることリストの消化である。
「とどのつまり」とは「と」から「ど」までの前述の通りに最後に行き着く場所のこと。
そのような場所は偶然というよりも必然的でもあり、その人にとっての運命的な場所なのかもしれない。

「とど」の付く言葉を全部書き出してみたならば図のようになる。

1)「届く・とどく」はAからBに何かを届けるもので、これは自力というかボールを投げているような直接的な届け。
→外向的である。
2)「届ける・とどける」はAからBに直接時間や労力をかけて届けることや、また、Cなる他者を使い何かを届けるような他力の届けでもある。
→外向的である。
3)「滞る・とどこおる」はAが道を真っ直ぐに目的地に進むものの途中で道に迷うこと。
→辺境の境界線を彷徨う。
その滞る場所とは自分にとっての辺境や境界線上な場所である。
4)「とどまる」という概念はたくさんあるもので「動かない」ことを意味する。
→内向的である。
・「留まる」は「去る」の反対語で留鳥、留学、留守など去らずにとどまること。
※留守って何か不思議な言葉だ。
・「駐まる」は駐屯・駐在など。
・「逗まる」は逗留(とうりゅう)と旅行などで一箇所に長く留まること。
・「止まる・とまる・とどまる」は一つところで動かないこと。
※ひらがなの「と」はこの「止まる」の字から変化して「止→と」と変形したようである。
・「停まる・とまる・とどまる」は中止して暫くその場所にとどまること。
※「泊まる・とまる」は“とどまる”とは表現しませんが宿泊のこと。
5)「とどめ」は最後の命を奪うことで、これは命ある道の最後に行き着く場所。
→生と死の境。
6)「轟く・とどろく」はAが遠くのBに対して名声や何かの威光を伝えるもので境界線の内外にとどろく。
→外向的である。
7)「禁・とどめる」は禁足地などの選ばれた人以外に絶対に立ち入ることが許されない禁止された聖域のこと。
→内向的である。

「とど」は届けたり、滞ったり、止まり留まって、とどめを刺して最後の命を奪い、名声を轟かせ、禁止な場所をとどめるもので、私たちはこれら言葉を無意識に聞き分け使い分ける。
とどのつまり、「とど」とは移動範囲や距離、内と外の境を表現するもので、その方向は内や外、境界線、生死の宗教観を表していると解釈する。
「と」が「止」から派生していることや、「とどまる」ことの概念な言葉が多いことからもその重要性は推測できる。

昔に天皇陛下が南に生えるソテツの生える範囲が日本の領土であると言ったように、「とど」には穂哺乳類のトドやトド松などの北方域の行動範囲の境界線を表す言葉のように思う。
原始の昔に思いを馳せれば日本列島に「とどまる人」と「とどまらない人」がいたと考えれば、内向的な「とどまる人」は「とど」なる内に留まり、外向的で「とどまらない人」は「とど」なる先の外に向かって旅をしたのであろう。
「とど」なる概念は届け・轟くように外向的に積極的に外に向かって発せられるもので、留まる・禁めるは反対に内側に向かって内向的になる。
そして、滞るとなれば境界線上の曖昧な世界を彷徨うもので、生死を奪う「とどめ」は恐らく現世とあの世な宗教観を示すものかなである。
戦後の東西冷戦下の日本は境界線上の曖昧な日本かもしれない。
失われた30年は内なる国内に籠もったと考えればそのような「内向的なとど」なる30年かもしれない。
逆に戦前の日本は広い領土を有する他民族で形成されており外向的な日本でもある。
いつの時代も方向性とは一定ではなく、とどのつまり、その風も常に変わる。
そして、人の生き方も外向的・内向的・境界線上的・宗教的と人それぞれの「とど」を体現しているようにも思う。
たぶんな解釈です。

 

*デスクトップ画面用の画像です。
■2026年4月21日(火)
■ねこちゃん。

■2026年4月22日(水)
■一日一文章トレーニング。

「今朝の私は環境問題に開眼している」

ここ最近、鼻ムズムズとクシュンと鼻水もたーらりと落ちて鼻の粘膜も痛く完全に杉花粉な症状を発症している。
今年のスギ花粉は水切りヨーグルトを食べて腸も爽快で非常に楽な花粉症生活でもあった。
しかし、最近のアレルギー症状は酷いもので杉花粉を超えるしんどさ。
これはもしやと思いネット検索するとやっぱり黄砂が飛来していた。
図で見ると昨日ぐらい飛散しているようで、しかし、私のムズムズ鼻センサーは黄砂飛来前から何かしらの異変を感じる先見の明はある。
黄砂は大量ではないものの少し前から黄砂飛来の前哨戦は始まっていたのであろうか。
中国大陸から砂のような重い物質が簡単に越境するとならば、砂よりももっと軽い物質はもっと簡単に日常的に地球上の大気に拡散されると考えるのが自然である。
そして、そのような小さくて広範囲に飛散する物質をPM2.5と言うようだ。
PM2.5とはよく耳にするワードではありますが、最近はニュースなどでもあんまり見ないのか?関心が薄くて見えていないのかもしれない。
PM2.5は小さくて軽く大気の移動で通り過ぎて希薄化するのかもしれませんが、黄砂はPM2.5の約2倍の大きさがあって高高度まで上昇して地球全体に飛散してから落下する汚染物質である。
確かに、自転車のサドルやマンションの廊下などにスギ花粉と同じような黄色砂状物は付着している。
黄砂の問題点とは飛散する過程で汚染物質を取り込み遠く離れた場所に落下して汚染するものだ。
中国大陸の空気がクリーンであれば何の問題もありませんが誰もが思うように中国の大気汚染は深刻であり、そのような汚染された微粒子が黄砂に纏わりつき落下して土壌を汚染するようだ。
私のスギ花粉症を越えるアレルギー反応からしても体が黄砂を拒否していることは明白である。
そして、昨日から肌や粘膜に黄砂が付着しないように気をつけている。
遅い。
中国は何かしらの製品を製造して輸出して、日本はその製品をお金を出して購入して、同時に中国は製造時の大気汚染な公害も輸出して、日本はその公害も輸入するというアホアホな私でもビックリな仕組みだ。
これは正しく国際問題である。
因みに私たちを苦しめる自然由来のスギ花粉は30~40マイクロメートル程で、小さく小粒だけれどもPM2.5などと比べると十数倍ぐらいに大きい微粒子のようだ。

ということで、

わーは3月5日と5月3日はスコスの日であると制定する。

スコスを数字で表すと353で3月5日と5月3日となる。
大抵の記念日とは1日しかないものですがラッキーなことに353のスコスの日は2回もあるのだ。
そして、おまけにひな祭りや子供の日にも近くて便乗も出来て、ひな祭りや子供の日が近付く度に人は「あースコスの日やな」と思う。
たぶん

困ったことは2つある。

1つ、353のスコスの日を思いついた時には3月5日はもう過ぎていた。
なので、5月3日からしかスコスの日は実行できない。
確か過去データを調べると1月ぐらいからスコスを数字にすると353で「山GO山」とか言っていた。
そして最近、とても日差しも強く暑くもなって今年もTシャツを作ろうかと思い立った時に353の数字からスコスの日を制定しようと思う単純思考である。

もう1つは悩みは何の準備もなくぐだぐだな感じで始める計画の無さ。
大抵はこのような無計画に始まるスコスっぽさで、仕方がないので以前作ったスコスの不良在庫が冒険する愛と感動のスペクタルなストーリーの同人誌を再販することにする。
https://www.scos.gr.jp/ScosShop/html/products/detail/705
これは自分達で言うのは変ですがとても良い話だ。

もう一つはデッドストックのドイツ製の変な1本線の入ったノートも登録する。
https://www.scos.gr.jp/ScosShop/html/products/detail/706
流石にドイツ国内でもこのノートの新品も誰も持っている人はいないと思うノートで、私の中では変に思うところと格好良く思うところが入り混じる不思議なノートだ。
格好良く思うものは環境に配慮したマークで接写カメラで撮ったよ!!
「AQUA PRO NATURA(水資源を守るプロジェクト名) schont unser Wasser(私たちは水を守る)Zellstoff chlorfrei gebleicht(塩素不使用の漂白されたパルプの使用を謳う)」
「WELTPARK TROPENWALD(熱帯雨林保護や持続可能な紙利用に関するロゴ)Kein Ze llstoff aus den Tropen(熱帯産パルプを使用していないことを謳う)」
以前、エコをアピールする商品を紹介して欲しいと頼まれてこのようなエコマークを勧めたならば「何か違うなー」との反応で、私も「十分にエコじゃろーなー」とすれ違い、そして、余り紙を封筒に加工する封筒テンプレートを推したものだ。
アーメン。
このマークはカッコいいけれどもこの地球儀と方位磁石のデザインは何でこーなったやろうね。
ドイツ人と商談でこのノートを使用していたならば多分「オーマイゴッド」と懐かしくなる予感でもある。
罫線も1本線のフレームが付きで結構良い。

もっともっと、デッドストックを集めたいのですが黄砂舞う外に出るのが嫌で今格闘している。

 
■2026年4月22日(水)
■ぐるぐると撹拌。
■2026年4月23日(木)
■一日一文章トレーニング。

「拙者、西部劇に出てくるような鍋を作る」

厚みのある赤身のステーキ牛肉を一口大にカットして、玉ねぎ、ニンジン、ジャガイモ、マッシュルームなどをゴロッとサイズにカットする。
味はシンプルに塩、にんにく、コンソメ少々と隠し味のトマトを一欠片投入して、後は鍋のかさ上げの為に白いんげん豆、大豆、金時豆、ひよこ豆も入れてホットクックでぐつぐつと煮る。
これは誰に何と言われようともまさしく西部劇な映画に出てくる料理だ。
肉もほろほろと柔らかくて野菜もたっぷりと豆がお米のかわりを果たして大変美味しい。
特に豆と牛肉が意外にマッチしていてとても美味しい。
牛肉は素敵にステーキとして食べたいところをグッと我慢して勿体ないけれども煮込み肉として加工したけれども想像よりも美味しかった。
そして、この料理が映画の中のどのシーンに出てくるかと考えるものだ。
何か月もお風呂に入っていない汚い悪党たちが頬張る豆煮込み料理にしては上品でグルメすぎる。
主人公が毒ヘビや毒トカゲ除けをしてパチパチと火が灯る焚き火で作る料理にしても豪華すぎる。
馬旅のお料理とは空き缶を皿にして食べるものが一番しっくりで、拙者ガンマンは食べた後の空き缶や酒瓶は空中に投げて的撃ちの練習とする。
バキュン~バキュ~ン!
この料理は主人公の料理でもない。
ならば、何の西部劇料理かと考えるとタキシードを着た街の有力者の悪党ボスの経営するレストランのテーブルに「ゴトッ」と置かれるような料理かもだ。
悪党は数えきれない程に撃ち、腐敗した保安官も撃ってお尋ね者となった拙者(筆者)はパタパタドアをドカーンと蹴飛ばして行儀良く入店する。
先ずは悪党のボスに軽くご挨拶だ。
店内のテーブルでお食事する人たちはいつでも拳銃を取り出せるようにシーンと静まりかえり、拙者はバーテンダーに一言「バーボン」と言う。
すると、店のバックヤードから悪党のボスがご機嫌に出てきて奥の個室に案内され拙者を懐柔する時に出てくる料理がこれだ。
モグモグモグモグと大変美味しく写真を見ているだけで良い香りが漂う。
それにしても、あの西部劇感満載のパタパタドアも結構面白い。
あのパタパタやバタンバタンと開け閉めする様子はドアを開閉する人の今の感情をそのままドアの開閉音として体現するものである。
よって、このパタパタドアとはヤバい人の入店を判別するセンサー扉かもしれない。
現代のコンビニ扉にも必須なパタパタヤバヤバセンサーである。
日本でも引き戸の開け閉めの音でその人の感情具合は多少わかる。
また、旅籠屋や茶室などで天井や入口のドアも低くてしゃがんで入るような扉も多く思うもので、これは恐らく侍や浪人たちが気軽にブンブンと刀を振り回せないようにわざと低くしているように思うものだ。
これは拙者が西部劇な映画を観た感想でもあり、昔の旅籠屋を改造した居酒屋に入った時に感じたイメージでもある。
そして、そのようなお店に日本人が「そーっ」と入店すると、まるで忍者な感じでもあり「バーボン・プリーズ」な言葉にウェイターさんも「いつ入ってきたのか?」とビックリである。
パタパタドアはお店などでも従業員とお客様の導線を分ける保険衛生上に必要な扉として使用したこともありますが、あのパタパタする音がうるさいとか、何度も往復する従業員には開け閉めが面倒で不人気な扉でもあった。
そもそも、乾燥した大地では黄砂ならぬ砂も舞い上がり埃っぽいことを考えるとしっかりと開閉できるドアの方が良いような予感で、もしかしたら、パタパタドアには演技上の映像ウケの良さがあるかもしれない。
凄腕ガンマンが両手で「よっこらしょ」と重い扉を開け閉めしていたら何だか様にならない。

 
■2026年4月23日(木)
■フォーメーション。
■2026年4月24日(金)
■一日一文章トレーニング。

「昨日の恵みの雨は降り積もった黄砂を洗い流して、私の積もった汚染物も幾分洗い流すのであろうか」

先日の黄砂は衛星画像情報が発表される前から鼻ムズムズとアレルギー症状を感知する。
また、今回が今シーズン最後の黄砂である確証もないもので暫くはマスク生活となりそうだ。
スーハーとダース・ベーダー卿の如くフルフェイスの鼻水タラーリんとしないように頑張る。

どれだけの量の黄砂が積もったかと思うと僅かな数日間の黄砂の飛来で写真ぐらい量の砂塵は積もる。
写真参照
私は数日ぶりに窓を開放し網戸もガラガラと開けて久しぶりに植物たちの健康度合いを確認するもので、そうすると、網戸の掴む部分にも黄色い砂塵が積もっている。
もしや、これが黄砂なのかと目視で確認する。
そのような網戸を開け閉めする私の指先にも黄砂の塵が付着するもので「おえー」と思いながらもジャージのズボンで拭き取る。
毎日ノートパソコンに積もった埃を拭き取りますが、そのような埃の量と比べても数倍の量の黄砂だ。
これは早速接写カメラで「パシャパシャ」と密着撮影して「ふむふむ」と黄砂画像を眺める。
これを見てしみじみと感じる「もののあわれ」とはこのような砂塵が空中を舞えばそりゃ鼻もムズムズとアレルギー症状を発症させることも当然で、悪化もすれば喘息となるようなことも十分に考えることも出来る量である。
私はサッシに溜まる黄砂を拭き拭きとお掃除出来る程の人間性も高くなく、黄砂は自然現象で消えることを期待している。

横殴りの大雨でも降れば窓も洗浄されて、この降り積もる砂塵を洗い流すことが出来るのであろうか。
長距離飛んできた砂塵でもあるので大風でも吹けば黄砂は再び飛ばされてどこかに飛んでいく可能性もある。
若しくは砂漠のようにカラカラに太陽光で乾燥でもすれば砂は自然とサラサラに落下して消えるのかもしれない。
この砂塵がいつの何時のどのような理由で無くなるのか気になるもので、このまま観測を続けることにした。

指の先のモノに感情もうつればドタンバタンと相手が抱えるストレスや怒りも手に取るようにわかるもので、扉で無くともコップの置き方一つでも他人のご機嫌とは案外わかる。
私たちとは謂わばエスパーのようでもあり、他人の些細なモノの扱いの音で様々な情報を察知する。
ならば、私が網戸をガラガラと開けて植物たちの見聞を確かめている音とはどのような音色だろうか。
それは普通のガラガラとした音である。
引き戸を引いて物理的に鳴る摩擦音のガラガラ音で何の感情ものらないように思うものの、手に触れたモノの全てに何かしらの感情がのる立場に則れば、飛散する黄砂を怖く思う気持ちがその音にはのかっているように思う。
それは外界と部屋の境界線が無くなる恐る恐る窓を開放する身体延長線上の音。
ゆっくりと「ガラ、ガラ」と開ける音には感覚の鋭い人が聞けばそのように感じるかもしれない。

私たちは生まれた時から「物に当たるな」と心の感情とモノの扱いを厳しく教育される。
私もぷんぷんと扉にドーンと怒りを込めるようなこともあれば、その度に怒らてエーンと泣く子供時代だ。
モノに感情をぶつけることもできなく、悪態つけば言霊だと封じられ、食べて満腹にも抑えられなければ、そのような発散できない怒りの矛先がイジメや弱いものたちに向かう事柄が現代社会問題の根幹に流れているかもである。
心とは何かですが、ここでは人が触れるモノや情報の延長線上に心が宿るスタンスで文章を書いているもので、そのような気持ちで書くと実際にそのような事柄あるかもと思う。

昔の人たちは万葉集の「ものに寄せて思いをのぶる歌(寄物陳思歌)」と和歌を歌う時に物の風情に託して暗喩的に自分の思いを述べたものだ。
昨日の雨降った残り露が枯れれば、歌い人は歌に涙も枯れるような恋愛の涙に例えるものであり、日本人とは自分の感情を物にもダブらせるような感覚を古くから持っているように思う。
それを「もののあわれ」と言うものでもあり、同時にモノに写った感情も読み解くかもである。

 

*デスクトップ画面用の画像です。
■2026年4月24日(金)
■ピアノ半音奏者。

*デスクトップ画面用の画像です。
■2026年4月27日(月)
■一日一文章トレーニング。

「我ナフサ問題について考えた」

昨日は長~超~超時間爆睡する。
また、枕が合わない変な寝方もしていたもので寝ている時からもうすでに頭痛は感じていた。
「頭痛な時にはコーヒーだべだ」と1滴もこぼさない完璧なコーヒー道でお湯を注ぐもので、しかし、コーヒーを飲んだりとしても頭痛は一向に治らない。
なので、朝食も食欲もなくリンゴを齧りて水分補給にはコーラーを飲む。
炭酸はどうやら頭痛に良いという迷信を聞かされて半信半疑でコーラーを飲み、二日酔いのような頭を横にしながら血流を向上させる為の自転車の足漕ぎみたいな運動で体を動かしていたならば「ゲッポ」とゲップが出てすこす楽になる。
「なんでやねん」
そして、おトイレに行き快便もしたらならば頭痛も「スーッ」と全部晴れる。
「なんでやねん」
エーアイにゲップと快便と頭痛の関係性を聞いたならば「本当に大変でしたね、良くなって良かったです・・・ウンチクたくさん・・・便秘ですね」と便秘の可能性について語っていた。
「なんでやねん」

ということで、

昨日の頭痛上がりの私はテーブルの上でチョコベビージャンボを模写しながらおとなしく過ごす。
コンビニでチョコベビーの大きいパッケージを見つけて「かわいいパッケージだ」と、この可愛さを保存したく忠実に描く。
絵を描くことは一般的にイメージを作り出すような感じでもありますが、私の考えではこれは間違い。
※模写・デッサンの絵のことで空想画のことは知らんがキャラ画は日々の改良と熟成である。
独断と偏見の私見ですがほぼ観察力のように思うもので対象物を「じーっ」と見て大きさやバランス、色、チョコベビーの詰まり具合を観察してそのまま描く。
思うところは赤と白と黄色のストライプと文字も大きくてかわいくてスゲーデザインである。
小さなチョコが見える演出も良くてプラスチックケースもかわいい。
そして、<準チョコレート>って何でしょうか?
逆に、文章を書くこととは頭に浮かぶイメージをそのまま書き出す作業で、これは通常私たちが想像する絵と文章と真逆のような感じで面白い。

このようにして宝物のようなたっぷりのチョコが詰まったパッケージを手にとるとチョコベビーの粒粒は今話題のナフサなプラスチック素材のペレットにも見える。
ペレットはプラスチックを型に抽出して成形する素材のことで、日記とは今を生きるもので今こそ何かナフサについて何かを書きたい気持ちも高まる。
しかし、困ったことにナフサのことははっきり言って何にも知らないナフサーなのである。
チョコベビーのプラ容器を1振りして茶色いペレットのようなかわいいチョコベビーを3個出してエネルギーを注入する。

そう言えば、昔お店によく営業に来ていたおじいさん営業マンがプラスチック素材の原料の原産地のことについて語っていた。
このおじいさんは東京の下町でビニール(プラスチック)製造会社の営業マンでこれらを作る為の素材のほとんどは台湾が押さえていているみたいな話をしていた。
私たちがヨーロッパから輸入をしていたからこのような話をしたかもで、勿論、私からこのような質問もするようなことも無く、関心もないもので真贋もよくわかりませんが話の通りに受け取ると自由貿易の前提が崩れた半導体みたく外国依存の安全保障的な一面も感じる。
そのような話を思い出すと価格競争で安い価格を求めて国内仕入れをやめた会社が困る構造も見えるもので、また、一度取引を切られた国内業者は海外から安い素材が入らないからと言ってホイホイとすぐに問屋は卸してくれないものでもある。
なので、ナフサ関連でニュースとなった会社は政治力がないと短期的には改善出来ない可能性も考えられる。
世界の自由貿易体制は一般人の私から見ても確実に終わっているように見えるもので、自由貿易の基本とはヒトモノカネ3点セットが自由に移動出来ることで始めて成り立つ。
壊れた前提で書くとすれば、同質の自由に移動が出来てこそ成り立つシステムは自由に制限のある国を組み込むことで崩壊したようにも思う。
モノの次には人であり今は米国に入国するのが難しくもなり国策的にも緩い日本に今殺到しているヒトかもしれないものですがモノの次には確実にヒトであり、最後にお金が制限される未来も予想される。

おじいちゃん営業マンはいつも突然やって来て扉をガチャリと開けるもので、そして、奥の椅子に向かって一直線に歩き菩薩のような笑顔でこっちを見ながらニコニコと座っているもので、我ら「まいった降参」となる。
私は「こんにちわ、そーうどすか(あいよあいよ)」とカウンセラーの如く話を聞くもので、何の営業もしないし、これは熟練の営業テクニックなのかと追加発注でお帰り頂くものだ。
東京にはなぜ?京都人の大技のお茶漬け奥義のようなものがないのかと東京暮らしのアリエッタは思う。
江戸っ子風に全く嫌味のない「早く帰ってなー」の合図を考えたのですが今の東京だと罰則付きの法律を作りそうで怖い。
ぶぶ漬けとかユーモアかと思えば京都にお邪魔してぶぶ漬けが出て来たならば、私は確実に武勇を日記に「美味しいぶぶ漬けを食べた」と記すであろう。www

 
■2026年4月27日(月)
■満月に遠吠えする犬のピアノ曲。
■2026年4月28日(火)
■一日一文章トレーニング。

「トンカチをキレイに磨いた」

「トントントン」とトンカチをたたく機会も少ないですが家の道具入れに突き刺ささるトンカチを掘り出して磨く。
このトンカチはいつ何時に使用したかと考えても思い出せないぐらいの一般家庭では頻繁に使うような道具でもない。
しかし、何かを組み立て解体する時には重宝するもので開かないビンの蓋を叩くのにも使ったりもする。
トンカチを持つとずっしりとした重量感もあってハンマー部分は金属製ではなくゴムとプラスチック製のゴムプラハンマーとなる。
ゴムの部分で叩けばドンドン鈍くズッシリと重い叩き心地で、強化プラスチック部分で叩けばコンコンと金属で叩くよりもソフトな叩き心地となる。
このようなトンカチで叩くとスチール什器にキズが付かないものでトントン~カンカンとトンカチで叩きながら愛用していた。
どれだけのスチール棚を組み立て解体したかと考えてもかなりの数の棚を組み立て取り外したものである。

そのようなトンカチを手に持つと放置された積年の埃が積もるもので手も真っ黒。
こういう道具は軍手をして使うものなので汚れとかはそんなに気にならないけれども、家庭にあると素手で使うので汚れは気になる。
さっそく水で湿らせたティッシュで埃を落とし、アルコールで汚れを拭き取り、床に落ちた埃は掃除機で吸い取る。
最後はメラミンスポンジで金属部分の汚れを磨くとキラリと輝く鏡面の反射が蘇る。
トンカチがキレイになったゾ!
そして、そのようなトンカチをトントンとキレイに磨いていると頭の中に森高千里withカーネーションの「夜の煙突」の歌が鳴り響く。
さっそく、どのような曲だっけとPVを観るとメチャメチャかわいい。
ビックリ。
煙突にのぼって振り返ると家の灯りが見えるなんて、私にとっての肉の灯明のようだ。

道具を磨けば愛着も湧くものでシールの剥がれやキズも何だか誇らしい。
シールは使う前に全部キレイに剥がして使いたいタイプでもありますが、シールは剥がしてはいないので強粘着のシールだったかもしれない。
今からでもこのシールをキレイに剥がすことも出来そうですが、このような使い古した道具感に美を見出すぐらいのお年頃にもなる。
私も積年に積もる埃まみれで、最近はいい感じに使用感がある方が格好良く思う心変わりである。
なので、シールはこのままで良い。
そして、このようなキラキラとメタリック調のシールを接写で撮影する。
このトンカチはほとんど曲線で形を成すもので、唯一角丸でくり抜いたシールのみが直線的である。
手に持つ道具とは曲線的でエルゴノミクスな方が手にフィットしますが、デザインは少し奇抜である。
反対に直線的な道具にはシンプルな美しさはありますが面白みも少なく、手に持った時のフィット感も劣る。
どっちのデザインが良いのかと考えると、毎日使うプロであれば見た目よりも使い心地の方が正義かもだ。
手にフィットするエルゴノミクスデザインは未来的な形状であり、直線的なデザインはシンプルに削ぎ落とされた美があるもので、これらは2つは相反する
ペンにも直線的で見た目重視のシンプルなデザインと、手に持ちやすさを研究したような2通りの系統はある。

埋もれた道具を再び磨いて使い素晴らしい。
先日の放置されていた防水防塵カメラは最近は頻繁に接写撮影に使うもので、毎日使っているとバッテリーの調子も良いようで、ふむふむとその画像を眺めながら大活躍している。
そして、このトンカチも日常的にトントンと活躍したいと思うものですが棚を組み立てたりしない限り使い道も無く、手の平をぽんぽんと叩き肩や足つぼをトントンと刺激すると案外良い。
自分で背中まで叩けるのは良いもので、少し痛いのが難点で数回止めの肩叩きかな。
そして、埋もれた道具を掘り起こして磨いていると道具もイキイキと活躍し、道具の思い出や大切に使いたい気持ち、愛着もバク上がりで、やっぱり、心は指先の先のモノに宿るような気もする。

ということで、

心って何だろうね?ではありますが、私の中では心の範囲は自分の肉体を越えた指先の向こうまで広がる説が濃厚である。

 
■2026年4月28日(火)
■膨張圧縮。
■2026年4月30日(木)
■一日一文章トレーニング。

「モノや道具をキレイに拭き取り磨いて大切にしていると愛着も湧く」

正に言葉の通りに「愛着」とは「愛」も「着く」ものであって離れない気持ちでもある。
この愛着とはキズが付き磨き壊れ直す度に愛着も湧き立つもので、購入したばかりの美しい新品を愛でる愛着な感情とは若干異なる。
それは手にフィットして身体の一部として作用するような時の心と一体となるような感覚で、新しいモノに抱く愛着とは別もの。

水も温くなり今年もそろそろ毎日使うヤカンたちをボンスターでキレイに磨く時期だ。
このゴールデンウィークはヤカン磨きに、冷蔵庫の中のお掃除、冬用の羽毛布団の天日干しなどの大仕事を予定している。
ヤカンの表面に顔が写るぐらいにピカピカと磨けば、磨いた本人はヤカンを大切に使おうと思う愛着も湧きますが、ヤカンを磨かない人にとっては何の身体性とも結びつかない単にキレイになったヤカンだ。
ヤカンに飛んだフライパンの油汚れも気にならないだろうし、ヤカンの鏡面がくすんだとしても何も気にならない。
モノを磨く人と磨かない人にはドーバー海峡に匹敵する近くて遠い扱いの差はあるもので、これは他人の身体の痛みを共有出来ないことにも似ている。
対話を続けてヤカンをキレイに扱うようにお願いするぐらいが関の山で、このような共有できない感覚とは正に身体の一部の「心」かもしれない。
そのように考えると、職人が自らの道具をキレイに磨き手入れをして愛着を生み出すことは心宿るような行為でもあるが、反対に外部に清掃を頼んだりOEM製造となると急にモノに対する愛着も無くなることにも通ずる。
なので、道具から作る職人が凄い所以かもしれない。

このような愛着は一期一会な落書きにも生まれる。
面白い落書きが出来たならばいつもマスキングで貼って飾り、また、このような落書きとは私のアイデアの源泉でもある。
写真のボリューミーな髪型の絵は我が家の名画。
誰が何と言おうともこれは名画で我が家のモナ・リザの微笑みだ。
本物のモナ・リザではないけれども、微笑むモナ・リザが我が家に飾らているだけでも何だか儲け物で、何とも言えないゆるい感じがとても好きでいつも棚の横に貼っている。
右端の女の子は最近観ているアニメの「東島丹三郎は仮面ライダーになりたい」のV3の妹の画で最新の落書き。
アニメを観ながら手持ち無沙汰に模写するもので、もっと真剣に観なさいと言われそうですが楽しく面白いアニメである。
アニメーションは絶えず動いているので記憶に残るイメージを絵にしたならば、このような雑な画となる。
人間の記憶とはとても曖昧だ。
だけれども、どこかに愛着も湧くものが落書きでもあり、変な落書きであればある程にお気に入り画となる。
もう一度描いてみるかと思っても、もう二度と描けない緩さもあって好きな落書き画は飾っている。
棚に飾られない落書きでも全部捨てずに大切に保管しているもので、このような落書きはお掃除途中に出てくるとお掃除が中断してしまうやっかい面白い画でもある。
特に頭のでっかい名画は滅茶苦茶好きで、何が好きかと言ってもヘアースタイルも好きだし、寝袋みたいな感じも好きだし、モナ・リザファンに怒られるかもしれませんが本当にモナ・リザっぽく思う時もある。
m(_ _)mT
あまりにも好きすぎて長らく貼っていたので紫外線で退色して薄く消えかけるものである。

というわけで、

昨日の朝、少しかすれた水性マジックペンを使い、線は少し太すぎるかなー、線ははみ出ないように丁寧になぞって修復する。
恐らく、博物館や美術館も日々劣化する展示物をこのように修復しているようにも思うのですが、マジックで上からなぞって修復はしないだろうと思う。
頭のでっかい名画を修復して、これであと数年はこの落書きを維持できる。
修復して再び愛着も湧いてきたのであろうかと思うと「あれっ」なのである。
それは何だか日光東照宮の“見ざる言わざる聞かざる”のお猿さんの修復前と修復後の変化のような、薄くとも修復前のカスレて味もあって年季の入った画の方が良き風に見える違和感でもある。
もっと細い線の方が良かったのか、いやいや、白黒のコントラストがはっきりとするだけで我が家のモナ・リザの微笑みの味は消え失せたのであろうかと消滅しそうな儚い線の劣化の美学とはあるものかな。
最初にこれを描いた時にはマジックでこのようにハッキリとした線で描いていたもので線の強弱は関係ないかもしれない。
確かに自分で描いて自分の心の琴線に触れた。
我が家のモナ・リザは長らく飾られることで紫外線で薄くもなって偽学芸員の修復で復活したものの何だか最初の味が薄れたようで愛着という面ではすこす物足らない。
しかし、じーっと見ていると以前からこのような雑な感じであったと思えばそのような迷画でもある。

 
■2026年4月30日(木)
■ハンマー。