*デスクトップ画面用の画像です。
■2026年3月2日(月)
■野球大会!

■2026年3月3日(火)
■一日一文章トレーニング。

「コーヒーをこぼさず淹れる」

今日のような低気圧な雨の頭痛もコーヒーを飲めば痛みも消えて晴れやか。
コーヒーとはお薬のようでもあり朝の儀式でもあって毎度不思議。
人類は恐らく何千何百年とコーヒーや茶を無駄なくこぼさずに淹れる方法を格闘してきたもので、私も雨の日も風の日も毎日コーヒーを抽出しながらテーブルの上に1滴も落とさないように格闘している。
雨が地面を濡らすようにコーヒーの注ぎ跡も必ず残る。
そのような戦歴とは台拭きやティッシュペーパー拭き取るもので、私は「なぜ?コーヒーはこぼれるのか?」と悩む。
本当のところは全く悩んでいないのですが拭き取る作業がただただ面倒。
それは技の問題なのか?仕組みの問題?それとも物理呆則なのか?とNASAも揺るがす大問題だ。
無重力空間の宇宙船でお茶やコーヒーをポタポタ・ガッチャンとこぼす乗組員がいれば船内も水浸しで大迷惑。
茶も飛散して機械もショートすれば漆黒の闇の宇宙空間を彷徨い遭難することとなる。
お茶やコーヒーをこぼさず淹れ飲むお作法とは千利休から続くユニバースな空間を制する人類の叡智でもあるようで、人は人生に彷徨わないようにお茶を頂く。
これは「そうどすね」とお茶の先生に熱く語らなければならない重要事項であるメモメモ。
私はもう十分な大人であると言うのに、あちこちに湯やコーヒーをこぼして困った困った。
このままではスペースノイドにもなれないもので困った困った。
そもそも二番煎じの貧乏性を発しなければコーヒーの滴もたぶんポタポタぐらいで済む。
2倍の量のコーヒーを淹れたいと思うからこそコーヒーはこぼれ、このようなセコイ心がこぼれる量も増やす。
これは二番煎じなお茶を飲みたいと思うセコイ人間の代償である。

毎日コーヒーを淹れてその所作の悪さを観察しているとドリップする不織布は滲み出ながら図のようなAとA’の2点から抽出される。
そのコーヒーが出る導線とは約45℃ぐらいの角度で横に飛び出して流れ出るもので、水圧をかけて美味しく抽出しようと思えば勢い良くコップからはみ出る。
なので、このA、A’点を制御することが出来ればこぼれ水を制することが出来る。
コーヒーがこぼれる理由とは不器用な私の茶のお作法がすこす悪いこともありますが、そのほとんどはドリップの仕組みだ。
これを真下に抽出しようと思うと不織布のデザインを変える必要があるもので、一介の消費者がどうのこうの言う話でもない。
なので、市販の不織布はそのまま活用しながらこぼれない方法を考える。
昨日はひっかけ部分を引っ張りながらA、A’の注ぎ口が上から見て長方形の線上に来るよう淹れる。
勿論、力も余りドリッパーも動き安定しなかったので勢い良くこぼれる。
しかし、この方法で引っ張り注ぎ口の長方形の線上にA、A’点を維持固定できたなば完璧なコーヒー淹れとなるかもだ。
これはドリップの底上げ台を加工すれば出来るかもだ。
かもだ。

個人的に面白いと思う部分は平面的にコーヒーのドリップを真上から覗くと注ぎ口が長方形で、湯を注ぐと底面が4✕7センチ程の6角形に変形すること。
不織布のA、A’点は平面に見ると横に約2センチ伸びる。
不織布を折り張り合わせただけのモノが湯を入れると複雑な形状となることが面白い。
それもこれも不織布に接着された引っ掛ける台紙の型がそのような形状を作り出しているもので、これはコーヒーのドリップメーカーのこだわりのデザインである。
本当に世の中に作られる製品にデザインされていないモノは無いものだ。
写真のゴミは飲み終わったドリップの粉を落として形状検証の為に飾っている。
ウィルスやカニのロボットみたいで格好良い。
特にサビた茶色い感じが良い。

ということで、

まだ何にも解決していなくコーヒーを上手に入れる大問題も「さぞ考えています」風に書くことが真の座道でもある。
そう言えば、今日はひな祭りでもあり”お雛様”と”お内裏様”が鎮座している。
しかし、この座る雛人形とは江戸時代からの風習でもあるようで、それ以前は立った姿の”立ち雛”が一般的でもあったようだ。
カタチとはいろいろと変遷するものだ。

 

*デスクトップ画面用の画像です。
■2026年3月3日(火)
■宇宙のひなまつり☆スペースコーヒー。
■2026年3月4日(水)
■一日一文章トレーニング。

「ドリッパーにタイヤを付けてモビリティにしたよ☆」

今朝は新しいUCCの箱を開封して新しいコーヒーをドリップする。
新しいコーヒーの注ぎ口は10角形で最近まで注いでいたコーヒーは長方形でもあったのでドリッパーの形状とはメーカーごとに微妙に異なる。
何となくドリッパーの使いやすさ・使いにくさ等は感じていたものの値段ばかりを気にするもので、このようなメーカーごとの違いを観察出来てすこす嬉しい。
注ぎ口が広いと注ぎやすさもあるもので一投目のコーヒーの粉を湿らせる儀式で湯はこぼれない。
10角形の注ぎ口はドリップのひっかけ部分に斜めの折り線を入れることで広い口を再現しているようで、流石にコーヒー専門メーカーの研究成果のようでもある。
不織布とはカタチを持たない布でもありドリップさせる引っ掛けの型紙が折り紙のようにカタチを変化させる。
面白い。

私のコーヒー道は一投目からすでに的外れな場外ホームランでテーブルにこぼし、フィルターを通さずに湯を直接カップインしてブラックコーヒーを薄めてしまうこともある。
なので、的が大きいことは良い。
実は私は物凄く手が器用でもあり結構何でも作れて細かい作業も得意。
しかし、液体を注ぐという基本動作が苦手なようで器用貧乏とは正にこのようなことかもしれない。
さっそく器用貧乏を辞書で調べると、器用な為にいろんなことに役立つが一つのことをやり通さないので貧するようだ。
正にこの文章に体現されている。w

一般的にコーヒーをドリップしたならばポタポタと落ちないように気をつけて運びポイッとゴミ箱に捨てる。
なので、生活者とはドリッパーの形状云々に関心を抱かない。
しかし、我が家とはコーヒーの粉は植物の土に混ぜて再利用し植物たちにもコーヒーブレイクを提供している。
何という素敵な保護者なのかと思うものの、植物にコーヒーの残り粉や茶葉が良い事柄なのかよくわからない。
今のところ少々のコーヒーの粉や茶葉のカスを与えても枯れや弱りもないようで大丈夫なようだ。
発酵した茶葉であればほぼ腐った葉っぱのようでもあり土も増えて何かしらの栄養もあるかもで一石二鳥かなとも思っている。
※何の確証もありません。
よって、使用済みのドリッパーは数日間キッチン上に引っ掛けられて乾燥し春の土作り要員として溜めている。
お洒落な家人であればキッチンに使い古しのドリッパーが吊るされるだけで「キー」と発狂してしまうようなゴミである。
生活感丸出しとはこのような乾いたドリッパーとは主力級でもあり「これはなかなかいいドリッパーだ」と思えば乾いたドリッパーをカッコいいとお部屋に飾っている。
乾いたドリッパーが倒れば当然コーヒーの残り粉がこぼれ、そのような面倒事を処理しながら昨晩お風呂上がりにやっぱりこのドリッパーにはタイヤを付けたく思う。
厚紙に丸を描きハサミでジョキジョキ切ってタイヤを4個切り出して貼り付けるとモビリティに魔改造できた。
悲報!またゴミを作った。
このような工作物なゴミは捨てるのも勿体なく、最終的にサルガッソーな箱に仕舞われる。
そして、今はいろんなコーヒーメーカーのドリッパーの形が気になるもので、いろんなコーヒードリップを集めたい。
今まで何も気にせずにポイポイと捨てていたことが悔やまれますが、形状を比較するだけでの何だかヤバい収集癖発動させそうな予感でもある。
やばいやばい。
大してコーヒーやお茶の味の違いがわからないのにドリッパーの見た目の形状が気になる年頃でもある。

ドリッパーの尖った部分は折り曲げれば袋状となる。
我がよぼよぼな老後となれば、このようなロボットを連れ立ち重い食材や買い物袋はこの中に放り込んで運びたい。
買い物カゴがそのままモビリティように動くもので、ネギや大根もそのまま余裕で収納できる。
移動しない時にはドリッパーの如くペタンと小さく収納も出来て、バッテリーはそのように薄ペラくした時に邪魔にならない布部分に配置する。
モーターはタイヤに直接設置してステッピングモーター制御の4倍のフルパワーの力持ちである。
格好良い。
袋の部分に椅子を設置すれば街中に全くないベンチにも早変わりで、行きも帰りもこのベンチのような椅子に座りながら移動するのも面白そうだ。

 
■2026年3月4日(水)
■ゴゴゴ~午後のカフィー。
■2026年3月5日(木)
■一日一文章トレーニング。

「昨日からゴゴゴーと大風が吹いて今日もオオオーな大風である」

一昨日の雨の後はたくさんの花粉が飛散しているようで、おまけに大風吹いてシッチャカメッチャカな街の惨状。
こんなこともあろうかと私は雨の日に花粉症の運動不足を解消の為にたくさん歩いた。
丘を超えててくてくと歩き街を突っきりお買い物もして雨の中を遠回りしながらたくさん歩く。
おかげでなまった体も動かせて、体のあちこちが程よく痛くもなる筋肉痛で“痛”気持ちいい。
風の音とは外を歩けばゴゴゴーとビル風に増幅されて街路樹を揺らし、私の脳内ではマンガのようなゴゴゴーな文字が頭上を飛んでキャップが飛ばないように抑えながら歩く。
そして、建物の中に入ればビュービューと窓を揺らすタイヤを摩耗するような大風な摩擦音にドン引き。
悲しきかな、我々とは“すーむー”な音を聞きわけることの出来る国民性でもある。
そして、そのような大風の音を聞けば脳裏に黄色いスギ花粉の飛散が浮かぶ。
あーまいった、まいった。

眼球はゴロゴロと小さな花粉を感知して鼻もムズムズでクシュンと顔もぐちゃぐちゃ。
この時期の大風とはとても怖い、どうせ大風も吹くのであれば1回の風力で全スギ花粉を日本列島から吹き飛ばして欲しい。
花粉症を発症させない人たちとはこのような物理的な花粉の干渉をどのように回避しているものかと思うもので、私はこの時期になるといつも花粉症なアレルギーの身代わりを待望している。
病気などしてもいつも自分の真の痛みとは人に伝わらなくてジレンマ。
私はこんなにも痛たたーと苦しいのに他人には全く痛みは伝わらなくて困った困った。
このような苦痛を人やモノに痛み分けして共有フォルダに入れることができればなんと最高なことであろうか。
本当に人とは勝手なものだ。
オカルトな番組を観ていると人形に人間の念のようなものが移り私たちを怖がらせている。
あの人形から毛がのびた~手が動いた~目が動いた~と最高だ~。
特にそのようなお人形さんとは人型のお人形が多いような予感でもあり、我なら恐怖のお人形さんに花粉アレルギーを伝授して身代わりにしたい。w
ほれほれ、これが花粉症のムズムズだよってね♥
しかし、実際に念のこもったお人形に触ったことも無ければ生で見たこともないもので、この時期になるとスギ花粉のアレルギー身代わりお人形さんを妄想している。
そうすれば、気持ち良い日差しの中で春を感じ8✕4をシュッシュと大風でさえ気持ち良い潮風のCMのようだ。
そう言えば、立ち雛とは土偶っぽく見えるもので座する雛人形とは随分雰囲気が異なる。
立ち雛とは急に何かシャーマニズム的な何かを感じるもので、私はそのような立ったり座ったりするお人形さんの視点も気になる。
それは「視座」や「座視」のことであり、優れた人を見れば「あの人の視点はとても高いなー」と俯瞰するような目線の立ち位置を雛人形の目線にも感じる。
それが「視座」なのか「座視」なのかと迷うもので、さっそく、そのようなミラーワードな違いついて調べる。
自分ごとながらテキトースギるw

「視座」とは伝統的な辞書に記載がないもので比較的新しい概念のようで、主に社会的な立場で観察する視点のことの英語の(viewpoint)から派生しているようだ。
「座視」は側で見ているだけで何もしないこと。
街中のいざこざなどに私たちは座視して関与しないもので、実際には座ってはいませんが座するように手出しはしない。
座とは座る場所のことであり、星座の固定された星の位置も座でもあり、芸能の一団の座や中世の独占する組合の座も座である。
「座」とは頑として動かない状態や場所のことで、社会的な役職や立場や組織をベースとする視線のこと。
一方の「視点」とは「点から見る」世界のことでこれこそ正に(viewpoint)のこと。
「視点」は無数にある個人的な視線でもあり、「視座」は座の数だけ存在する専門的な視線の解釈でもある。
それが「視点」と「視座」の違いであると解釈する。
「座視」の反対語となれば「関与」のことであり、単に座って見る視線のことであれば「立ち見」の映画のようでもあって「視座」と「座視」は似ているけれども全く関係のない言葉でもある。
よって、「視座が高い」とは、社会的な地位からの目線で専門家の意見で、私たち一般ピオプルの「あーだこー」だと言うSNS的な意見とは「視点」である。

果たして、雛人形の立った座ったの立ち位置の目線とはどのようなものか?と思うもので個人的には立ち雛の方がシンプルですが親身なような気もする。
また、「視座が高く」ではなくて間違って「座視が高い」と書いたとしても、貶しているのか褒め殺しなのか全く動じない面白さを感じる。

 

*デスクトップ画面用の画像です。
■2026年3月5日(木)
■3月5日と5月3日は勝手に353でスコスの日。
■2026年3月6日(金)
■一日一文章トレーニング。

「的撃ちゲームから見た視点と視座」

聖護院大根の花は全部咲いた。
最後の6輪もの花も咲かせて高さも65センチ程に大きく成長し4センチ程の大きさのサヤ豆も付ける。
2豆入りが1サヤ、1つ豆入りが4サヤ、そして、小さな子供のサヤを3つ数える。
桜の花のような淡い大根の花びらとはとてもキレイですが、まじまじと眺めることでもなく倒れないように何となく飾られている大根の花だ。
以前、お花を愛でると言えば夜に咲いたキレイなユリ系のお花もありましたが、ヘビのように天高く登る大根の花はジャックと豆の木のようでもある。
何せ水耕栽培の皿は2Lのペットボトル飲料の底を切ったものを使用しているものでお洒落度という面では皆無。
ただただ、大根の美しくてキレイなお花がそのような生活感を全て帳消しするもので、現実とはお洒落で有名なあの人もあの御方たちでも皆、聖護院大根の葉をペットボトルの底で育てお茶のパーの袋をお洒落キッチンに引っ掛けて乾かしながら生活しているものだ。
たぶんm(_ _)mT
そして、それらが写真に写らないのは全てAIの力。草

散った花びらやおしべがポタポタ机に落ちて、まーまーまーと掃除機で吸うだけですが、お花を飾れば散ったお花のお掃除も必要となる。
美しさと苦労とは比例しているようだ。
そして、聖護院大根の実を受粉させたのは誰かと言うと勿論私ではない。
大根の咲き始めと後半の2回、聖護院大根の横で育てている三つ葉のタッパから気持ち悪い羽虫が2度湧き、それら小さな羽虫たちが受粉させたようだ。
丁度、その2度の羽虫の発生時期は春の陽気もマックスで暖かい日差しの良い時に虫も大量発生するもので、本当に恐怖の羽虫である。
著名な蚊撲滅運動家でもある私は眼光鋭くビシバシとそのような羽虫を潰す。
私は絶対に奴らを逃がしはしない!!
そして、最盛期にはあまりにも数も増えて三つ葉の密林の中にいる羽虫などは見つけてもマイゴッドハンドやフィンガーでは太すぎてもうどうにもならない。
なので、私は掃除機を持って奴らを吸う。
これで見える範囲の羽虫は全部吸い取り完璧だ。
蚊撲滅家は虫取りにダイソンは必需品かもしれないと思うもので、すると、次の日にまた羽虫が飛んでいた。
私は数が増えた羽虫に恐怖するもので、これはある意味呪われた生き人形物語よりも怖い話かもしれない。
もう掃除機では無理だと悟り、毎日の新鮮な水換え時に三つ葉を根や葉ごとに水没させる。
すると水没させる度に羽虫が水に浮いてくるもので、飛んで逃げようとする羽虫たちはマイゴッドハンドで叩き潰し水面で溺れている羽虫はそのまま排水溝に流す。
私がホラーなのか?羽虫がホラーなのかもうわからないもので、三つ葉と羽虫と私は三つ巴の地獄絵図を描きながら羽虫どもを一網打尽だ。
めでたし、めでたし。

ということで、

私の視点とは蚊や羽虫を探し走査して、虫を見つけると狙いを定めて進行方向を読み取りながら追いかけてバシッと潰す。
マイゴッドハンドの虫叩きの成功率は何割ぐらいの精度かと思うのの記録をとっていないのでよくわからない。
しかし、パンパンと叩いて「あれっ」と手だけがヒリヒリと痛いだけの見逃すことも多々あることで空振りも多く、的に当てることとはなかなかに難しい。

そして、私は「視点」と「視座」の違いを的に向かって撃ち抜くイメージで絵に描く。
「視点(ピンク色)」は無数の人々が的に多数打ち込むもので上手い狙撃手もいれば下手な狙撃手もいて一貫性はない。
的の上に無数あいた穴となる。
毎日幾多もの視点が的に向かって放たれるもので、これは正に雨降る如くの痕跡で、視点は利益誘導などと無縁なので正義感や道徳観などに影響されながら撃たれる。

そして、反対に「視座(紫色)」とは座の利益や道筋に則って的に撃たれるもので、それは大きく広く痕跡を残すものだ。
雨が降った「視点」の後に「視座」な座が数発打ち込まれれば、それは「視座」の目線しか可視化されないものだ。
最初から的に大きなブームのような面を塗りつぶすのが「視座」の仕組みでもあり、これが国民の利益や声よりも座的な声が大きく見える理由でもある。
政治家に多くの国民の声が見えない聞こえないのはこのような「視座」な塊しか見えていないから。
よって、通常国民の声が政治に反映されない事はこのような「視点」と「視座」の的あてゲームに置き換えるとわかりやすい。
国民の視点とは元から右とか左にないもので、昨今の世界情勢と同じく国民や国益を最優先するものだ。
それは国民の「視点」でもあり座的なロービー活動との乖離はますます相違する。
座の持つ「視座」が偏った方向を示せば、それに反発した位置に「視点」が集中することは当然である。
そして、注目や評判を得てそのようなあちこちに撃ち抜く的が一点に集中する時の「視点」がブームとなり、その時に初めて国民の「視点」とは可視化される。

 

*デスクトップ画面用の画像です。
■2026年3月6日(金)
■応援だー!
■2026年3月8日(日)
■一日一文章トレーニング。

「信じられないけれども野球場のファールボールを拾ったよ」

いやはや、昨晩の世界野球クラシック大会の日本VS韓国戦は凄かった。
大谷選手が瞬時にホームランだとわかるド・ホームランを打ち、たぶん荒川土手の野球少年だった鈴木選手がセイヤ~セイヤーと2本のホームランを打って、吉田選手がホームランで逆転して、やっぱりメジャーリーガーとは凄い。
そして、最後は周東選手が「シュートウーが取ったーーー」とファインプレーに歓喜するもので近所迷惑な奇声をあげながら私はガッツポーズで飛び跳ねる。
いやはや、観戦前はネットフリックスの少女アニメを観ながらスタンバイしていたもので、戦術予報士のスメラギさんの如く次に起こる少女マンガのプロットを予想観戦していたならば、野球が始まるといきなりド・ピンチでもあって頭も追いつかない。
東京プールも始まると我らにわかたちも急に頭の中がオータニ・オータニ選手となるもので、実は私は東京ドームで1試合観戦していた。
勿論、プレミアムチケットの日本戦ではなくてオーストラリアVSチェコ戦。
どちらも打っても勝っても負けても楽しい野球観戦で野球場に行くといつも緑と茶色のグランドを美しく思う。
「ファーボールが飛んできたら怖いね」と語りながらほのぼの野球観戦で、周辺には元野球部っぽい野球に詳しそうなおじさんたちがイッパイいるので「もしファールボールが飛んできたならばここの元野球少年たちが華麗にキャッチしてくれるよ」と話しながらベースボールクラシックを楽しむ。
すると、私たちに向かってファールボールが飛んでくるものだ。
通常の外野フライだとボールが空高く舞い上がると「ボールはどこだどこだ」と見失うのですが、私たちの方向に向かって飛ぶボールは放物線を描きながらしっかりと見える。
まさかこちらに向かって飛んで来ることはないだろうと思っているとボールは大きく空に舞いこちらに向かって一直線で「ヤバイ」どうしようと動揺する。
ボールが飛んで来たならば手を伸ばし「素手でキャッチしたろーかー」と話していたものの、実際にボールがこちらに向かって飛んでくると身をかがめて回避行動だ。
そして、肝心の周りの元野球球児みたいな人たちもお地蔵のように微動だにせず座っていた。wwwould
振り返りもしなければ、逃げもせず、何だか凄い、「ボールが来たー」と大騒ぎしているのはうちらだけでボールは私たちの頭上を飛び越えて後ろの座席の人に飛び込み「ドカドカンドカドカン」と激しい音を鳴らしながら音は止む。
「ファールボールなんて怖くてキャッチなんか出来ないなー」と思っていると「ドカン」と足に何かの物体が当たるもので拾うと大会の公式球であった。
「公式球を拾ったーーーよー」
野球観戦でボールをキャッチした人とは周りでも聞いたことも見たこともないもので、まさかボールをゲットするなんて思いもよらない。
公式ボールをまじまじと眺めると思ったよりも小さく格好良く、そして、ボールは思ったよりも硬い。
Rawlings 
★OFFICIALL BALL★ 
WORLD BASEBALL CLASSIC 
2026
と大会ロゴが印字されていますが文字がメッチャメッチャ滲んでいる。
先ず、頭に浮かぶシーンはピッチャーがぺろぺろと舐めた手でボールを握っているイメージ。
なので、こんなにも印字が滲むのはペロペロのせいかとも思うので一端ボールを触るのも止めて袋に仕舞う。
しかし、ボールのキズも汚れた色も使い古した味も格好良いもので野球の球は汚れていればいる程に素敵。
チェコVSオーストラリアを観戦するにあたり、もしかしたらひょっこりと大谷選手のサインが貰えるかもと痛い大妄想をいだき野球観戦をするもので100円均一(200円)で野球ボールを2個購入して用意周到だ。
用意周到の周到とは周東選手の周到なのかもしれない。
こういうサインボールとはかわいい野球少年しか貰えないものでボールにサインとはなかなかに難しきハードル。
だがしかし、そのようなサイン貰う用ボールがファールボールを呼び込んだかもと思うもので、ボールがボールを呼ぶことはスタンド使いがスタンド使いを呼ぶことに似ている。

ということで、

当然サインを貰えるような機会もなくサインボールは真っ白で卵農家の巨大容量卵入れに3玉並べると丁度キレイにディスプレイされて素敵だ。
一昨日の台湾戦でも昨日の韓国戦でもこのラッキーにも程がある幸運のファールボールを飾りながら野球観戦したもので、この3球とはもう我が家の家宝でもあり縁起物でもある。

 
■2026年3月9日(月)
■一日一文章トレーニング。

「ベースボールなのか野球なのかと思うこと」

昨晩の試合も最後の最後まで大変な試合でした。
ゲームは菅野選手・隅田選手・種市選手と好投し安定した試合運びのなかで、吉田選手の逆転ホームランでゲームが引っくり返り、私も飛び跳ねる。
野球観戦した時にホームランがない試合だと物足りないもので、やっぱり美しい軌道で外野席に飛び込むホームランとは偉大だ。
オーストラリアが走って守りまたは意表を突く攻撃でまるで日本のような野球をする時間も長ければ、球場を覆う重い空気もまた長い。
全ては一振りのバットが鳴らす「カーン」という快音によって霧散するもので、私はファールボールに飛ぶ「カーン」となる快音でも「おおー」と身を乗り出す。
野球のことは何も知らないのですが、たぶん、目をつむっていてもホームランの音は良い音だ。
もしかしたら、脳内再生される音なのかもしれませんがナイスピッチングでも見れば確かに「ドスン」とキャッチャーミットに吸い込まれる音が聞こえる。たぶん
野球とは視覚的にも球場は美しく、ゲームが動き出す時の音もまた美しい。

後半は周到選手が走り打って繋げる野球へと切り替わり流石のサトテル選手が長打を打って、私も勝利の変舞いを躍る。
そして、ゲームは終わった終わったと試合観戦を終わる準備をしていたならば大勢選手が淡々と2ホーマ撃たれて、私も芸術的にひっくり返る。w
ここまで、試合を観てきた感想は前半のどの打順からでも得点できるような力で押すパワー野球の後に、日本伝統のスモール・ベースボールが起動したようにも思う。
この試合で初めて相反する力のベースボールとスモール・ベースボールが混じり合ったような気もするもので1つのチームのカタチを見た。

ところで、

東京プールと見たり聞いたりする度にグループやブロックでなくてなぜ?プールなのかと気になる。
言葉とは概念でもあり、あまり聞き慣れない言葉をわざわざ使用する意味とは何かと考えれば、それは企画する人の思想が反映されているものだ。
さっそく、プールとは何かと調べると水溜りのプールのことで、またの意味は地底に眠る鉱床や共同の掛け金、一箇所に集める共有資源・資産もプールと呼ぶ。
よって、プールとは資源や資産のことでもあり大会を通じて新しい才能やファンなる資源を掘り起こし溜め決勝ラウンドに到達するものだ。
これはベースボールを盛り上げて発展させる道筋の意図を感じるもので、グループやブロックだと資源も分散がちだ。
このような造語に概念を込める事柄とは日本の社会の得意芸でもありますが、最近は横文字ばかりが跋扈するものだ。

因みに、ワールド・ベースボール・クラッシクのクラッシクとは古典的な意味もありますが優秀な、超一流の、模範的な、標準的な意味でもある。
これは世界の超一流の選手が集まり世界標準規格のルール元で行われる大会であるとも読める。

 
■2026年3月9日(月)
■リリィーとキットとキャサリンを描いてみた!!
■2026年3月10日(火)
■一日一文章トレーニング。

「ゲームコントローラ型のクッションを修理する」

昨日スーパーで一玉199円の超お買い得の白菜を購入する。
人間の頭よりもはるかに大きい馬の頭部ぐらいはあるかなと思うデッカイ白菜で、これを見て買わない手はない。
野菜とは快適なお通じの為にもたくさん食べた方が良いもので、実際にたくさんお野菜を食べた次の日はお腹の調子も良い。
なので、野菜とはいくらあっても良い繊維でもあり、私はエコバックに入れて「よっこらしょ」と自転車にハンドルに引っ掛けて帰宅する。
自転車はカゴ無し自転車で来たものでハンドルに掛けないと運べない。
そして、ハンドルに重いものをぶら下げるとバランスも崩れてふらふら。
ペダルを漕げば足でエコバックをキックしてしまうのでゆっくり走り、坂道はバランスを保ちながらよちよちと押して歩くハンドル捌き。
もちろん、白菜一玉(2kgオーバー)だけではこんなに重くはならない。
ちょっと牛乳を買いに来たついでのお買い物であれやこれやと選ぶ内に数も増える。
老後に向けて絶対に荷物運びのモビリティは必要不可欠。
何だかいつも重いものを運んでいるような気もするもので、徳川家康公が「人の一生は重い荷物を背負うて遠き道を行くが如し」が脳内を巡る。
家に着くと冷蔵庫イッパイで中に入らないもので、とりあえず大きな白菜は紙に巻いて冷暗室に保管した。

そう言えば、

少し前の寒い日に京都のニンテンドーミュージアムで購入した64コントローラークッションが焦げた。
何か微かに部屋に広がるもくもくな気配で、もしかして靴下が燃えているのかと焦るとデカデカの64コントローラークッションが焦げていた。
そして、焦(こ)げる・焦(あせ)るとどちらも同じ「焦」の字を使用して焦々(あせあせ)と焦げればやっぱり焦るものだ。
焦とは焦熱・焦点・焦心・焦燥と何か一点の方向性に収斂する何かのことで、焦げるも確かに全焼ではなく一点一面だけが焦げる。
クッションは足元を暖めていた電気ストーブにくっつき10センチ四方程を焦がし中のスポンジもシュリンクして溶けた。
いつもキレイに部屋に飾って大切にしていたものが焦げて私は大変ショック。
何より、このデカデカの64コントローラーもまた大きくて運ぶのが大変であった。
京都からの持ち帰りものと言えば、この前は大きくて重い聖護院大根に三十三間堂の長くて運びにくい矢のお守りを持って運ぶもので、その時もヒーヒーだ。
人とは動けば移動と共に大きな荷物も付随するもので正に兵站。
兎に角、運ぶのも大変だったゲームコントローラクッションも焦げればそのダメージも相当なもので、私は全てを忘れようと封印する。
そして、昨日、焦がした部分を修復したのでその封印を解くもので、溶けた空洞にメラミンスポンジを詰めて、布を貼るだけの縫製もない雑な修理ですが表面のグレー色も馴染んで良い感じ。
若干焦げ色は残るもののまーまーまーこれでいいやと納得する。
ゲームやコンピューターであれば消したり、巻き戻ったりと失敗前に戻ることは簡単ですが、リアルはそうはいかない。
過去とは巻き戻し不可避の現象でもあり修理や軌道修正しながら道を選ぶ。
修復後のキズとは巻き戻しの証とも言えばそのような感じでもあり修復でもすれば多少の愛着も湧く。
ガシゴシと激しく操作するコントローラーとは中古品で購入して使うにはちょっと無理だなと思う潔癖症ですが、自ら付けたキズであれば問題もない。
この修理したデカデカのコントローラークッションのキズもまたそのような使用感だと思うことにして、キズの数だけ歴史ありで、そう思うと愛用品のキズとはなかなか格好良き勲章だ。

 

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■2026年3月10日(火)
■がんばれ☆キラキラ☆
■2026年3月11日(水)
■一日一文章トレーニング。

「いやはや、昨日のチェコ戦も勝ったー」

昨日の試合で印象に残ったのは高橋投手・宮城投手・金丸投手・北山投手たちの全力投球の素晴らしい投球リレーと、岡本選手のファインプレー、そして、やっぱり周東選手の俊足と盗塁と満塁ホームランと村上選手の満塁ホームランがこの試合を決めた。
投球のことも野球のこともよくわかりませんが金丸投手の奪三振ショーも圧巻であった。
まだまだ高校球児のような若い選手が威風堂々な雰囲気を醸し出す投球も良い。
私のような視聴者が観るピッチャー像とはほぼイメージだ。
応援チームに自分が勝手に苦手に思うピッチャーが投げていればほぼ打てないようなイメージでもあり、走ったりバントしてとピッチャーをかき回すようなプレーを期待する。
そして、逆にそのようなピンチを消すのがファインプレーでもあって岡本選手のナイスキャッチな守備もとても良かった。
昨日、アメリカVSメキシコも観ていたのですが、その中でメジャーリーガーの有名な誰かがファインプレーでピンチの芽を何度も摘んでおり、そのようなプレーとダブる。
鉄壁な守備とは偉大だ。

今回のWBCを観るにあたり私は気分を盛り上げる為に事前に野球の勉強をした。
勉強の材料は「忘却バッテリー」のアニメでwww変化球等の野球の説明などはほぼ忘却したものの野球選手の気持ちを知る。
なので、少しやさしい。
何よりチェコVSオーストラリアの生試合を観戦するものでファールボールなどが飛ぶとあの辺が私たちの場所だと勝手に自分のテリトリーのように画面から球場の雰囲気も手に取るようにわかる。

バッターは反対に「ヒットを打ってくれーホームランを打ってくれー」との祈りの連続。
昨日の打線は良い感じに打てているものの打線が繋がらずに後半まで無得点。
そのような苦しい時間帯に内野ゴロを韋駄天の如くの俊足でセーフとなる周東選手の走りで沸き立つ。
恐らく、このようなアグレッシブなプレーによってピッチャーも動揺しチャンスとは生まれゲームは動くものである。
周東選手を観ているとイチロー選手のことを思い出すもので、昔に生イチロー(呼び捨て御免)を観たことがあったもので外野からレザービームな返球をした記憶は今も鮮明に瞼に残る。
そして、ゲームはやっぱりホームランが決めるものでホームランもまた偉大だ。
周東選手はホームランも打つのかーと思っていると村上選手のボールも外野席に吸い込まれホームランとなって、我もガッツポーズで歓喜する。
そして、客席に飛び込むボールに群がる人たちを観てチェコVSオーストラリア戦の元野球球児っぽい地蔵たちに囲まれた中で平和にファールボールが足元に転がって来た幸せを感じる。
野球観戦はなかなかいけない時もあったものですがここ数年は毎年野球観戦出来ているものでもあり、今年も絶対に野球場に行くぞーと思っている。

 
■2026年3月11日(水)
■ぴょんぴょん!
■2026年3月12日(木)
■一日一文章トレーニング。

「飾った人形(ピオプル)をひっくり返してピオプル全員を救出した」

キズ防止のケースの中に飾る携帯のシールや印刷物を探して何マイル、時折ケースを外しては中身を変えてと何かと素敵な飾り物はないかと探している。
ですが、これだと思うようなデコレーションにはなかなか出会えないもので何かを入れてはスグに飽き、中身のデコレーションは抜いて何を入れるべきかと彷徨う迷い人だ。
おかげで今は何の装飾もないシンプルな真っ白な板で何の飾りもないことはつまらない。
スマホ飾りとは自分の中の秘めた自己主張と考えれば学生証の透明窓にも似ている。
学生証の窓飾りに何を飾っていたかと思い返せば雑誌のオサレなモデルさんなどの写真を切り抜き飾いて入れていたような気もする。
気に入った写真があればハサミでジョキジョキと切って学生証に入れる飾り物でもあり、または、自作の落書きなども気に入れば切ってデコレーションしていた。
他の人は推しの有名人や好きなアニメなどを入れいたような気もするもので、何も入れていない人も多い予感。
携帯をデコレーションすることはアイデンティティに近い何かであり、他人に学生証の飾りを見られると「何を入れてるのか?」とあーだこーだと言われたものだ。
中高生にファッション雑誌の切り抜きとはちょっと変化球である。
しかし、自作の落書きを学生証に入れることはもっと規格外でもある。
今ではスマホに自作画を飾ることはすこす恥ずかしいことで、それだけ着実に成長している。
そして、
昨晩も携帯電話に入れる「何かおもしれーものはないかなー」と探すもので、古い箱をガサゴソと掘り出してくる。

すると、

箱の上に乗っていたプラスチックの小さな人形が落下するもので、小さな人形たちを床にぶちまける。
「あーあー、やってしまったー」
小さな人形たちは床から低い置棚の上や床にじゃらじゃらと散らばって落下するもので、棚上に落ちた人形を拾うと手からどんどん逃げて棚の隙間に吸い込まれていく。
我は呆然となりながら明日片付けようと眠りにつく。

ということで、

昨日は小さな人形たちを救出するべく机を動かす棚移動の大掃除。
人形(ピオプル)たちは以前販売していた在庫品でもあり、あまりにも好きすぎたので全部ワイがゲットした。
簡潔に説明するとケロッグのおまけのようなモノたちで母をたずねて三千里なマルコ造形の珍しきビンテージ品。
色もカラフルで収納ケースに納めると美味しそうなキャンディーにも見える。
一体一体の人形たちを拾ってはケースに戻し、何体の人形を落としたのだろうかとメチャメチャにたくさんのお人形さんたちを落としている。
このような棚裏棚下にはマジックハンドの先端に付けて取ろうと苦戦した形跡の粘着テープを落ちているものでそのようなゴミを捨てる。
また、私が描いた落書きや謎の工作ゴミも落ちているものでそれらもポイポイと捨てる。
埃だらけの棚下の大きな埃を掃除機で吸い取り、雑巾で細かい埃を拭き取って、これまた我のやらかしにより部屋は少しずつキレイになる。
これは掃除してキレイにしてから落として汚し、また再び掃除してキレイにするいつもの人生サイクルである。

というわけで、「オレはやった~やり遂げたものである」

全人形を拾って全ピオプルを救助して、これは米国16代大統領のリンカーンの民主主義の簡明な表現のような偉業である。
「government of the people, by the people, for the people, shall not perish from the earth」
そう言えば、あの有名な「人民の人民による人民の為の政府」後ろには「人民の為の政府は地上から滅びることはないであろう」と続くものでそのような言葉はあんまり翻訳されない。
この後ろに続く永続性とは英国であれば威風堂々な「Land of hope and glory(希望と栄光の国)」やglowly goes on forever(栄光は永遠に続く)となるもので、リンカーンの言葉とはピオプルこそが永続性の確信であると言っている。
中国の有名な「国は人を以って本となす、人が安けれ国安し」ということわざもある。
国は人で出来た本との表現も面白いものですが、人が格安であれば国も安いとは何だか鋭い。
これは正に失われた30年の結果を端的に表しているようでもあり、誰のための政治であったのかと弊政心から反省してもらいたい。

 

*デスクトップ画面用の画像です。
■2026年3月12日(木)
■ビューーーンー。
■2026年3月13日(金)
■一日一文章トレーニング。

「壊れたアップル電話の葉っぱ部分に真鍮芯を挿して繋ぐ」

昨日は文章を書きながら永続性を「かくしん」するもので、それが「確信」であるのか?「核心」なのか?よくわからない。
私は物事を断定できるような才も無ければ苦手なもので個人的には確信はしているけれどもリンカーンの核心を突いているかと思えばそのようなことも言い切れないと言うか、よく知らない。
「あーー、どちらかなー」と思いながら書いて後から気になる「かくしん」である。
文章を書いていれば思っている事柄とは忘れぬ内に一気に書きたいもので脱字誤字も日常茶飯事。
そして、書いた後から気になることは毎日の話の種不足の中でしっかりとボールをキャッチして繋ぐ一日一文章トレーニングである。

「確信」とは確かにそうだとかたく信ずることで“名詞や動詞”としても使われて、多くは個人的な意見や感想としての確信である。
「核心」は物事の中心となる重要な部分のことで“名詞”のみに利用される物事の普遍的な核心を表す。
「かくしん」は一方の確信では心情的に信ずるものでもありながら、もう一方の核心は真なる答えを貫く動詞とはならない面白さだ。
動詞とは物事の動作・存在・状態を表すもので、普遍性が動詞とならないことは日本語の曖昧な表現の特徴なのでしょうか。
生活を営む人々がいなければ国なんて存在し得ないものでpeopleこそが国の根幹であることは間違いなき核心でもある。
しかし、数百年前まではそのような国民主権なる概念さえも無い封建的な時代が続いた歴史でもあって今後も価値観とは揺れ動くものだ。
新しき常識とは良きアップデートとなることが期待されるもので、世の中とは常に不安定さと共存している。
そのような価値観の普遍性とは「かくしん」なる曖昧さに表現されるのが日本語の特徴かもしれない。
上手く表現できないのだけれども・・・。
昨日のリンカーン大統領の言葉の他に何かヒントはないかと調べると、第4代・5代ジェファーソン大統領の「あらゆる権威は人民に属する」というpeopleな言葉を見つける。
これは国民主権について語るものでヨーロッパ大陸からの様々の非難や注文で外圧をかけられた大統領が「まずは生きさせて下さい」と言ったことが有名だ。
peopleとは米国とヨーロッパとの関係上から生まれた重要な芯であることは間違いない。
そして、人が立つ軸の位置がpeople側に立つか否かの良い識別方法も見つける。

ということで、

昨日は「前髪を切った?」と聞かれるもので、私は「前髪が燃えた」と返す草。
これは現実の会話かと思うのですが現実の会話である。
people側に立つか?立たない?というお話でもありませんが、ただし1本の芯は通す。

それはプチ掃除でキレイになったついでにアップルの貯金箱電話の上に溜まった埃を拭っていると赤色のリンゴの葉っぱがポキリと折れて葉っぱを修理したお話。
アップル電話はだいぶんと古いビンテージ品でもありプラスチックの経年劣化も進んで脆いようだ。
そのような折れた葉っぱの接着面は3ミリ程でボンド接着したとしても、すぐに外れそうで心もたない細い幅なので真鍮線の芯を通しからパテや樹脂埋めで固定しようと考える。
先ずは電動ドリルでガリガリと真鍮線を挿す穴を開けるもののプラスチックが溶けてドリルの先に密着してキレイに穴は開かない。
ドリルの先に付着した溶けたプラスチックはライターで燃やし溶かしながら剥がしていると金属は熱して押し挿せば良いものではと考える。
さっそく、ペンチで真鍮を持ちガス台で燃やす。
しっかりと燃焼させないとプラスチックには刺さらないもので長時間温めてからプラスチックに挿すと今度はプラスチックを溶かしながら刺さるには刺さるのですが溶かす必要のないプラスチックまで溶かす。
この溶ける熱によってリンゴの葉っぱの接着面のカタチは変形するもので一応固定は出来たものの隙間は開く。
写真参照。
その真鍮刺しの隙間は土日にUVジェルで埋めて固定することにして、そのような真鍮を温めてプラスチックにぶっ挿す作業をしていると前髪も焦げて燃える。
前髪を触ると髪の毛がチリチリと焦げた球のようになっているので我のキューティクルも焦げて燃えて焦る。
ガスコンロに顔を近づけすぎかもと思うのですが、金属の線とはとても小さく細い線でもあって気を抜くと床にポロポロと落してなくすもので、多くの真鍮芯を挿す加工をするプラモデラーたちもまた前髪を燃やしながら芯を挿しているように思うものだ。

 
■2026年3月13日(金)
■リンゴの鍵♪

使用後。
*デスクトップ画面用の画像です。

使用前。
■2026年3月16日(月)
■一日一文章トレーニング。

「あ~あ~~アシンメトリ~だ~アメリカは勝ったな~」

昨日のwbcは大谷選手を観たいが為に見ているもので、いきなりの反撃の一発が出て大喜び。
また、流石のサトテル選手の長打から森下選手の逆転ホームランで私はもう「勝ったー勝ったー」と完全な勝利モードで大はしゃぎ。
しかし、ピッチャーが次々に打たれて逆転からの逆転負けで残念無念。
メジャーの選手とは確かに強力な選手でもあるもので、実際に予選リーグではメジャー招集選手もいなければ勝つことも難しかったであろう試合も多い。
しかし、名をあげるチャンスだと思えば阪神コンビの「野球が楽しい・打ってやるぞー」との感じはベネズエラチームのベースボールにも引けを取らないスーパープレーであった。
私も飛び跳ね喜ぶ。
勝ち上がりの試合とは全試合で活躍する選手とはほぼいないマイ呆則で、毎ゲームごとに如何にして新しいヒーローを生み出すかが重要だ。
ヒーロー無き勝利は相手チームの自滅しかないもので、ファインプレーしたり得点したりと新しいヒーローを生み出せたチームに勝利の女神は微笑みかける。
何よりベネズエラ選手はほぼ全員メジャーリーガーのようで恐らく年俸も高いはずなのに感情も剥き出しで勝利にも貪欲であった。
反対に日本チームは毎度感じる何か透かした感じ。
アニメ「忘却バッテリー」を観てあの透かした感じとは野球エリートたちが醸し出す雰囲気かもと思ったりもする。
※ポーカーフェースキャラもまた重要。
ベネズエラの選手は皆同じ選手に見えて誰が誰なのかさっぱりわかりませんが、大活躍してヒーローとなった選手もいるはずで、そのような危険な敵選手の活躍の芽を摘み取り試合をものにしてほしかった。
選手でもないのにとても悔しい試合でもあり、次にベネズエラと対戦する時にはしっかりとリベンジして欲しい。

ということで、

私は週末に壊れたアップル電話の葉っぱを修理する。
真鍮挿しで焦げて溶けたプラスチックをヤスリで丁寧に削りならして、葉っぱの真鍮部分を樹脂で固め、ついでに道具入れも整理整頓して万事完璧。
葉っぱはこのまま一体化して固定するとまた折れそうな気もするもので、今回は着脱可能式とした。
これでうっかりと壊したとしてもピンが抜けるだけの押しピンを挿せば秒で直るリンゴフォンだ。
また再びアップル電話が復活して良かった良かったーと、私は鏡の前に立ちて前髪が少しおかしさに気付く。
ボサボサと自然にするとあまり気にならものの髪の毛がまとまると何だか非対称。
これを格好良く言うとアシンメトリーで、仕方がないのでハサミを手に持ってジョキッジョキと前髪を揃えて万事解決。
そして、実際はそのようなはっきりと燃えた前髪ではないものですが、新しい画風も開拓出来て一気両得。
画も写真も汚れた感じが最近好みなものでツルッとした髪の毛は何だか今風の髪ではない気もする。
なので、激しくwbcに負けた鬱憤はぐるぐるぐちゃぐちゃと毛髪となり表現する。
もう一枚怨念のような画も描いたのですが使用前使用後と並べると面白いので拾ってくる。
やっぱり画がオサレで可愛いい方が良いもので、並べるとwbcに負けた直後からの気持ちの変遷が読み取れる。
紫色の顔もイケていますが画の雰囲気とはある程度感情となってカタチとなるようだ。

そして、ガスコンロの火は思ったよりも周りまで影響して燃えるようで危ないので燃えやすいものはガスコンロの周辺に置かないように、絶対に!!

 

*デスクトップ画面用の画像です。
■2026年3月16日(月)
■3月16日。
■2026年3月17日(火)
■一日一文章トレーニング。

「サスペンダーは何処に」

いつも出したり仕舞ったりと、出たり入ったりしているもので、今日なんて少し動いたならば汗ばむような陽気でシャツ1枚でも十分な春の陽気。
そして、この春はサスペンダーで過ごしたくも思うもので、あのサスペンダーはどこに仕舞ったのかと思うあれこれ。
サスペンダーはしゃがむとパッチンが外れ実用性はほとんどない。
ほとんど見た目だけのお洒落かもしれませんがサスペンダーを付けていたとしても全然お洒落でもない。
しかし、西部開拓時代のような長袖シャツにサスペンダーな服を着てこの春は過ごしたいもので、我が愛しのサスペンダーはどこに行ってしまったのかと思う。
そう言えば、お洒落の酒に一本線がないことに今頃気付き大変困惑している。
いやいや、前もこのようなことはあったっけーと思うものの、やっぱりお洒落の酒に一無しの驚きである。
我が一族は雑誌に書かれているお洒落さん(おしゃれさん)を「おしゃらく」と呼ぶのが定番で、お洒落さんお洒落さんと連呼していたのに酒の字に1本線が無いことにも気づかなかい。
酉の字は十二支の「とり」のことで、酒壺を象ったカタチのようでもあり、「一」の字の線が抜けたならば中身のお酒も消えて空っぽな感じでもある。
お洒落とはすでに飲んでしまって酒に酔った状態なのか?空っぽの酒瓶を持ち歩くような自酔いなのか?とよくわからない洒と酒瓶の関係に何という節穴なのかと一本線のない酒に猫に「シャー」された気分である

ということで、

さっそく、洒(シャ・さい)について調べる。
こちらも驚いたことに、洒は酒とは異なり単独で存在する漢字のようだ。
洒掃(さいそう)と水を撒いて洗い流し箒(ほうき)ではたいてすすぐことで、または、洒脱(しゃだつ)と物事にこだわらずにさっぱりとしていることを言う。
お洒落さんとは水ですすぐようなサッパリ感はあるもので、洒脱とこだわりがないというよりも滅茶苦茶こだわっているのがお洒落さんである。
あーあ不思議なお洒落の語源ですがこだわりの無いサッパリとした感じから楽々と楽しんでいるからこそお洒落なのかもしれない。
また、洒落(しゃらく)と言葉もあって心がさっぱりとわだかまりがないことを言う。
洒落は気のきいた様子や身なりや着飾ることの他に、文句を滑稽に言い換えることの“だ”洒落も洒落のようだ。
これはファッションが素敵なお洒落さんから親父くささのど真ん中の駄洒落(だじゃれ)までの所謂AmazonのAからZみたいに「“お”から“だ”まで」全部ストライクの洒落なのだ。
ご贔屓のピッチャーのストライクゾーンも“お”から“だ”まで採用して欲しいもので、洒落とはとても広範囲な洒落である。
また、洒洒落落(しゃしゃらくらく)と御経に出てきそうな洒落(しゃらく)の最上級もある。
お洒落(おしゃらく)と言う我が家の伝統も案外間違いではなかったようで、我も戸惑う。
洒洒落落とはあっさりとわだかまりもないことで、この言葉で思い出されるのが浮世絵の写楽さん。
写楽の名前も洒洒落落の響きをもじった名前だと考えれば、洒落さんとはとても気持ち良い人物であったであろうと予測できる。
若しくは、とても素敵で洒落た気持ち良い人物になろうと理想を突き詰めた名前だったかもしれないもので、しかし、写楽さんの活躍時期は寛政6年(1794年)のわずか10ヶ月の短い期間しか活躍していないもので、周りがあんまりにもクソすぎて洒洒落落といかない現実に「やーめたー」と断念してしまった写楽さんなのかもしれない。

ということで、

お洒落(おしゃらく)は“お”~“だ”までであり、私のサスペンダーはどこに仕舞ったのでしょうかと探すのである。
ガサゴソ。

 

*デスクトップ画面用の画像です。
■2026年3月17日(火)
■洒洒落落。
■2026年3月18日(水)
■一日一文章トレーニング。

「写楽さんの浮世絵を見る」

お洒落の「おー」から駄洒落の「だー」までの酒なし空っぽの酒瓶のような洒落とは間違いなく最高な面白さだ。
「お~だ」の「おからだ」で広範囲のストライクゾーンかと思いきや「ひーふーみー」と数えても僅か12文字だけでまたかわゆい。
洒落がまだ20%ぐらいしか網羅していないと考えれば、あと八割程度の洒落の概念がまだ未開発でもあると言えて、言語の深みもまだまだ。
こうなると、洒落な洒落者の浮世絵師の写楽さんが俄然気になるものでさっそくインターネット検索する。
「お~だ」な視点で「ふむふむふむ」と画を視ていると確かになる程に思う素敵な浮世絵。
勿論、本物の浮世絵は見たことはないのですがコピーや印刷物の写楽画は何度も見たことはある。
いやいや、外国の美術館で「なぜ?」浮世絵を置いているのと思って通り過ぎたような記憶もある。
昔に写楽さんの正体とは誰なのか?の推理小説のような本を読んだことがあるもので東洲斎写楽さんがとても不思議な人物であることは知っている。
その本では確か写楽の正体は確か喜多川歌麿だったか?他の有名な浮世絵師であったような結末であったような気もする。
ですがマジで何も覚えていない。
写楽さんが作る浮世絵の特徴は役者の顔を大きく描く大首絵という構図にデフォルメされた顔を描き手や体の傾きで動きを表現したもの。
何だか絵を描く時に手や体を直立不動の人生ゲームのような棒立ちしか描かないもので勉強にもなる。
背景の銀鼠色みたいな色も格好良いもので、この背景の銀色は雲母(うんも)の粉を混ぜた雲母摺り(きらずり)という技法のようだ。
前々から銀の屏風や襖絵などの派手でもあり上品なくすんだ銀鼠色が気になるもので、図工の背景で銀の絵の具で塗るものの全然あんな風にはならないなーと思う不満である。
プラモデルの塗料だと金や銀色は結構色再現度が高い金や銀色なのですが、絵の具の金や銀は全く異なる別色である。
写楽さんの浮世絵画は他の浮世絵画家の作品と比べても確かに定番を踏襲しないものであり、当時は賛否両論であまり売れなかったようだ。
なので、10ヶ月間と制作期間も少ないかもの写楽さんでもあり、写楽さんが「しゃらくせー」と駄洒落で絵をやめた予感も強ち的を得ていたりして・・・。
知らないけれども。
写楽さんの洒落とは一般ピオプルにはあまり届かなかったようですが海を超えてヨーロッパの画家には刺さったようで美術的には功績をあるようだ。
他の浮世絵と比較しても制作者の個性が前面に出ており200年以上前の作品とは思わせない現代的な一面も感じる。
何が古臭さを感じさせないかと思うとそれは写楽さんが持つ画風であり、他の浮世絵師と何が違うのかと考えても、やっぱりお洒落さは段違いのオシャレ度でもあって、駄洒落なセンスはちょっとわからないのですが表情の滑稽さや面白もあるようにも思う洒洒落落だ。
たぶん。

ということで、

いろんな情報を出したり入れと、直近では室内に入れて寒さを凌いでいた植物たちも3月15日(日)に外に出して、今日は写楽さん画をインプットして文章を書く。
人とは常に何かを「入れて」「出して」を繰り返すもので、そのような関係性が面白いと思うので、その仕組を図のように書き出した。
先ず出たり入ったりすることには、その出たり入ったりする為の空間が必要で、それは必ず3次元的でないと出たり入ったりも出来ないものだ。
留まる空間をその人が持つ創作するパーソナルスペースな引き出しであるとして、「出る」「入る」「留まる」の3つの動作で関係性を整理する。

出る<入る=(+)の効果で空間がイッパイになり100%で留まるともう何も入らない。
出る>入る=(-)の効果で空間は空間に余裕があるもので溜めたものが0になるもう出力するものは何も無くなる。
出る=入る=右から入ってそのまま左から出ていく反射神経のような空間上の増減は+-0で変化しない。

出る<入る=机の上がイッパイで書籍も積み上がり資料もたくさん調べて内面重視のタイプかな。
出る>入る=ミニマリストでもあり机の上もスーッと整然とキレイで外部要因重視のタイプかな。
出る=入る=ある程度のモノや情報に囲まれて活動スペース内に流れてきたものを溜めずに反射して反応するタイプかな。

のかな?

このような関係性は何か人やコンピュータが生み出したり学んだりするようなことにも似ている。
これは一見在庫管理の入出庫計算のようでもありますが、在庫管理の回転率は出ると留まるだけの関係性でもあるので回転率はアウトプットに特化した計算式でもある。
しかし、創作とはインプットとアウトプットが必要不可欠でもあり、留まる空間上の内側で熟成されたものがアウトプットとして表現されるものだ。
また、モノやコト、情報には移動速度もある。
入出力の速度が速いと回転率も速くなり、速度が遅いと停滞するような感じなのかもしれない。

 

*デスクトップ画面用の画像です。
■2026年3月18日(水)
■あいよー。
■2026年3月19日(木)
■一日一文章トレーニング。

「春眠暁を覚えずな真実」

春眠暁を覚えずと遅遅と起きる寝坊。
昨晩も11時頃にはもうすでに寝ている爆睡で、なのに、まだまだ眠い中高時代のような眠たさ。
窓の外を見上げればなかなか素敵な曇り空で、そりゃー布団から這い出ることも一困難だ。
全てはあの曇り空が悪いと処処期限切れの備蓄水を消費する為にいつものビーカーで湯を沸かす。
備蓄品の消費期限切れとは毎度私を悩ます事柄で、突如、備蓄しようと思い立ち、そして、ド忘れして期限切れとなるあの備蓄品。
全日本国民を悩ます共通の悩み事でもあり、以前、停電が起きた時に電気で水を汲み上げるポンプも止まり水道も出なくなったことを思い出すと水の備蓄は欠かせない。
なので、水だけは備蓄しておきたいと思う用意周東?さ?の「あれっ?」用意周到さだ。
そして、私は食器棚からコーヒーカップを出そうと勢い良く開けるもので、そうすると棚の前に置いていた折り畳みの脚立台が私の弁慶さんめがけてまっしぐらと飛び。
「あーあああ~~痛い~~誰がこのような場所に置いたのだ~~」ととても痛い。
足の弁慶も30センチのたんこぶを作るような痛さで悶絶し、書いている今も深々と痛い。
この痛みで眠気も一気に覚めるものかなと思うのの、やっぱり春の眠さとは偉大でまだまだ眠い。
足の痛さに耐えながら頭も眠気眼で自称コーヒーソムリエは気取りてコーヒーを作る。
水道水ではない水で作るコーヒーはどこか苦みが少ないように思うもので、いやいや甘いのか、いやいやブラックコーヒーが甘いなんてありえないもので、それは畑採れたてのお野菜を生で食べて「甘~い」を連呼するようなレポーターのようでもあるが、やっぱりどこか今日のコーヒーは甘い。
コーヒーの苦みも幾分まろやかになる感じでもあり、我は弁慶の痛みに耐えながら半分ぼーっと美味しいコーヒーを飲む。
やっぱり、今日のコーヒーは一味違う。
もしかして、茶やコーヒー、紅茶とは磨かれた水の方が美味しいのかなと思うもので、茶は水が命みたいなまたやっかいな茶道が私の頭の中を渦巻く。
御免m(_ _)mT候
私は「ユニコーンプロジェクトは完了しました」みたいに一人でパチパチと拍手するもので、これはここ最近では考えないぐらいに美味しく淹れれたコーヒーへの称賛の拍手だ。
そして、その拍手とは昨日独自開発したお寿司握りの拍手。
昨日の絵は浮世絵風に仮想のオレ球団のチームのエースを描くもので、そのようなエースが握るボールの握りとは如何なる持ち方なのかとあれこれ思案する。
100均で購入したボールを握りて魂混入し、あれあれ不思議とボールの持ち方は大体で正しいようだ。
ボールの持ち方を誰から教えてもらわなくとも大まかで正しく、このボールの持ち方はお寿司握りにも似ているものだ。
勿論、ボールの握り方を習ったことも無ければ寿司握りの握り方も習ったことも無いもので、大体のイメージのタイプだ。草
そこで、私は上手に描けたとパチパチと拍手するもので、そのまま自然とお寿司握り風の拍手となる。
お寿司拍手の誕生の瞬間である!!パチパチ!!
よって、今朝の私が淹れた美味しいコーヒーへの称賛をお寿司拍手でパチパチとするもので、2本指でお寿司を握るように拍手もすればパチパチの接地面も2本指の音もまたかわいらしい。
何よりお寿司を握るみたいに拍手するのが面白いものであり「今日も元気よく握っているねー」な気分だ。
1本締めだとパチパチは弱く指も痛いのですが二本指のお寿司拍手だと「あら一丁~」である。

というわけで、

曇り空の春はとても眠たく、私は寝坊して弁慶さんに怒られてイタイタで、消費期限切れの備蓄水で今年一番美味しいコーヒーを淹れて、お寿司拍手で称賛するというどーでも良い話をどーでも良い感じに文章に綴り、世の中にはこんなにもどーでも良いことで溢れているものだ。
あ~めん。

 

*デスクトップ画面用の画像です。
■2026年3月19日(木)
■1・2・3♪
■2026年3月20日(金)
■一日一文章トレーニング。

「あー我が愛しのパンチェッタ~~」

あ~やっぱり肉が大好きだ~☆

昨日の消費期限切れの備蓄水のコーヒーも美味しかったのですが、昨晩はどうしてそんなにも美味しくなったのかと思うパンチェッタを完食する。
美味しかったパンチェッタは全部消費してとても寂しいもので、また再びこの味を食せるかと思うと作れなさそうな気もして頭の中で作り方を回想する。
パンチェッタはいつも通りにパスタに入れてその他料理に入れてと豪快に使い調理していたものですが、途中からこのパンチェッタの美味しさに気付く。
なので、単独に焼いておつまみのように食することが一番美味しく、自家製のビーフジャーキーのような噛めば噛む程に美味しい肉である。
小さな四角い卵焼きのフライパンに油をひき弱火でじっくりと焼いて、表面にしっかりと焼き目がつくまで絶対に裏返さない我慢のステーキ焼き。
そして、焼き目がつけば一切れずつ丁寧にひっくり返して裏面もしかっり焼く。
ただただ、単に焼くだけのパンチェッタですが表面もサクサクと中身もギュッと締まる肉でもあれば噛む度に肉の旨味な肉汁が口に広がる。
たまに作ってもいるパンチェッタがなぜ?こんなにも美味しいのかと考えると、今回のパンチェッタは豚バラ肉ではなく、国産豚のもも肉を使用した。
また、今回は初めてオールスパイスという香辛料も使用した。
このオールスパイスが熟成時に異国風味を醸し出しているように思うもので、また、脂身の少ない豚のもも肉も案外良い感じだ。
私は特に豚肉やベーコン肉は火を通してカリカリに焼きたいタイプ。
以前、アメリカ旅行した時に、それまでは「肉は柔らかくて中がピンク色のミディアム一択なのだ・・・フン」とイキっていたものの、よく火の通ったステーキにカリカリのベーコン肉の肉ON肉体験してからは噛み応えのある肉も大好き。
ステーキ肉の上にカリカリベーコンの肉とは本当に変な気分ですが、特に豚肉はカリカリのカリカリ派でもありいつ何時でも豚肉にはしっかりと焼き目を入れてカリカリに焼きたい。

パンチェッタ作りは肉の熟成期間も必要なものでとても長い道のり。
先ずは、頻繁に作らないパンチェッタでもあるので作ろうと思った時には毎度作り方のレシピを調べている。
なので、作る度のその時々で違う作り方の予感でもあり、今回のレシピも何を参考にしたのかもはや不明でパンチェッタの成功体験を思い出す。
肉は水道水で洗って水分をよく拭き取り、ホークで肉を串刺しにして塩を塗り込む。
塩加減は丁度良かったのですが、塩の分量も間違いなく適当でテキトーに肉にすり込んでいた。
今回は調味料棚にあたりオールスパイスをふりかけ、最後にローリエの葉っぱも表裏に入れた。
ローリエは時たま入れているのですが、オールスパイスをパンチェッタに使用するのは初めて。
そして、肉汁の水分をドリップさせて、後は毎日肉が乾燥するまでクッキングペーパーで包み直して1週間程冷蔵庫内で冷燻乾燥させる。
そのような作業も途中では必ず忘却するもので「あっ!」と思い出した時に肉を取り出してドリップ時期も終了する適当さだ。
一応、肉には日付を書いたシールを貼っていたのですが調理が終わるとポイッと捨てるので記録は何も残っていない。
肉は流水で洗い塩抜きしてから水分を拭き取り再びクッキングペーパーに包んで乾燥させる。
そして、その数日後、もっと香辛料を効かそうとの自己判断でもう1回塩とオールスパイスをふりかけた記憶はよく覚えている。
それから何日経ったかのパンチェッタで再び乾燥で存在を忘れて突然思い出した時に調理する。
パンチェッタは熟成期間が長ければ長い程に美味しく思うもので、最後のパンチェッタが一番もぐもぐと食べて美味しーかったー。
このオールスパイスという調味料はいろんなスパイスを混ぜた香辛料ではないようで、一種類の実から作られた香辛料である。
流石のオールと名の付くスパイスかもですが単独で舐めても何の風味もありませんが香りはとても強い。
料理に訴求するものが味でなく香りというのも面白いのですが、スパイスとはそのようなものかもしれない。

ということで、

鮭の大辛のような塩漬けして冷燻させるような魚料理や日干し魚にもこのオールスパイスを使えば臭みも消しになるかもとニヤニヤと思う。
なので、次は塩漬けした魚料理にオールスパイスをふりかけて熟成させてから奥深かな洋風な魚料理を作りたい。
ニヤリ

 

*デスクトップ画面用の画像です。
■2026年3月20日(金)
■パックとスコス。
■2026年3月23日(月)
■一日一文章トレーニング。

「朝起きたならば布団の上に白い尻尾が落ちていた」

「大変だ!大変だー!」
誰の尻尾が取れたのかと寝起きから大騒ぎ。
落ちていたのは約6センチの白くて丸いモフモフとした尻尾。
これはもしや我が相棒たちの尻尾が取れたかと布団の上の2つのぬいぐるみたちの尻尾を調べると両方付いていた。
「ホッ」
一方は茶色いミジンコのような兎で尻尾は丸くついておりますが茶色のあんころ餅な尻尾がくっついている。
もう一方は猫のような猫で細長いロングなグレーの尻尾で首と胴体の綿が分離してもはや鉄アレイのようなぬいぐるみである。
はて?この白くて丸いボンボンは誰の尻尾なのかと探索すると、兎の柄がプリントされた平たいミニ枕の後ろにくっついた尻尾が取れていた。
何かのデジャブかな。
そう言えば、昨晩寝ている最中に後頭部に響くブチブチと縫製の糸を切る音を聞いたもので、私の後頭部が平たい兎の尻尾を引きちぎった。
この平面の兎枕も大変活躍しているもので、お風呂上がりのお布団の中でこのミニ枕を折り畳んで高さ調整しながら動画やネットなどを観ている。
良かった、良かったのか、良くはないものの、これはちゃんと縫えそうな感じの尻尾でもある。
これらぬいぐるみたちの実用性とは枕の高さ調整を担うものであり、枕の高さ調整とはなかなか困難な人生の難題でもある。
多くの人が自分にあった最適な枕を探していると思うけれども、結局は最後を迎えるまでに最良の枕に出合えないままに一生を終えるような予感でもあり、私は完全にフィットしない枕の高さをこれら枕の友たちを頭で踏み潰しながら高さを補完している。
いい大人がぬいぐるみと一緒に寝て本当に困ったものですが、快適な枕となる為の必需品は来る日も来る日も後頭部で踏み潰されて、その肌触りもまたとても快適である。
そして、枕が低すぎると思えばミニ枕を後頭部に間に差し込み高さ調整するもので、首元の隙間が落ち着かないと思えばそれら隙間をぬいぐるみたちで埋めてスヤスヤと快眠となる。
一説によればどのような環境のどんな状態でも結構どこでも寝むれるタイプでもあり、これら三種の神器がなくともすやすやですが、あのふかふかとしたぬいぐるみたちの肌さわりはまた良き眠りを誘うものだ。
「くんくんくん」
「あー何も匂いはしない」
「後頭部の匂もなし」
人間の頭とは実際に持つとよくわかるのですがメチャメチャ重く、他人の後頭部を嗅ぐと結構臭い。
そして、そのような後頭部の重みで毎日踏み潰されプレスされるのに嫌な匂いがしないことは不思議だ。
逆に良い香りもしないもので、無臭でもなく、これは自分では気づけない匂いや家の匂いの一種かもしれない。
突然、私がこのぬいぐるみを持ってきて匂いを嗅いでと言えば御免候。w
そう考えると、自分のおしっこでマーキングする犬は自分の匂いを知っていることなのでしょうか。
自分の匂いとは自分が一番わからないような気もするので、他犬の匂いを自分の匂いで消しているということはやっぱり消した自分の匂いは後から嗅いで「オレの匂いだ」とわかるのでしょうか。
それにしてもおしっこで匂いをつけたり消したりと、あの毛むくじゃらたちヤバイな。
今、まじまじとキャット&ラビットを眺め、毎日我が鋼鉄の後頭部で押しつぶされて顔も体もペシャンコであ~る。
寝相も悪く奴らとはいつも朝起きると四方八方に飛ばされて布団外にいることも多いもので、寝始めから朝まで常に踏み潰されている訳でもありませんが、毎日程よくプレスされて昔の香港カンフー映画のエンディング模様な細長い見栄えである。w
白い尻尾の主を探してまじまじと眺めて匂いを嗅いで、たまにはキレイに労いお洗濯もしてあげたい。
わいの寝汗に、よだれ、ヘッドの重みという三重苦を受け止めてこんなにも立派にペシャンコになった三銃士たちでもある。
そして、顔を見ればやっぱり笑ってしまうペシャンコ感で「あーかわいい、とても、かわゐー」のだ。
私は棺桶に入る時にはコイツラの鉄アレイみたいな猫を一緒に入れてケロと言っている。
これで枕の高さを調整する快適さで墓から這い出てくることもなく平和は保たれる。

 

*デスクトップ画面用の画像です。
■2026年3月23日(月)
■ヘッドプレス・夢の筆。
■2026年3月24日(火)
■一日一文章トレーニング。

「全て夢のお話」

夢の中の達筆はすらすらと一枚も二枚も上手投げ状態で文章を刻む。
「ヘイ」と「わんわんにも1枚座布団をあげんなまし」と案外、江戸っ子にも「ヘイ」か「へぇ」気質はあるかも。
「ヘイ」とは異国情緒の専売特許な挨拶ですがイタズラで「ハーイ」や「ヘイ」と知らない人に陽気に挨拶すればどのような反応が返ってくるのであろうか?
会社や学校、お店、役所で皆が「ヘイ」「ハーイ」とフランクに挨拶すればある程度の期間で馴染んで浸透する世界線なのでしょうか。
それとも断固拒否と水と油のように決して交わらない面白さもあるかもしれない。
「ハーイ」や「ヘイ」とは少し気恥ずかしく思う響きでもあり、波長やノリがあまりにも異なる。
わんわんも「ヘイヘイありがとうございます」と有り難く兎座布団を頂戴するもので、そうすると「ヘイは1回で」と注意される。
わーは兎座布団を積み上げる夢の中で「はいはいはいはぁ~いあいわかった~~~」と連呼するもので相手をさらに怒らせる能力を持っている。
この世の中に簡単に人を怒らす魔法の言葉があるとすれば、それは油を挿すように連呼する「はいはい」が効果テキメン。
YES&YESの上乗せの「YESYESEYES・はい」なのに何回も言うと相手を怒らせる不思議。
なぜなのだろうか?の英語の文章でも同じ言葉の繰り返しは見た記憶がないもので世界的にも同じ言葉の連呼はよくない言葉なのでしょうか。
同じ言葉を繰り返せば言葉は伝わっていない感じもあり、同時に納得していない意思もしっかりと伝わり、連呼する言葉には嫌々でしょうがなくやってあげている感じの「はい」でもある。
流石の「わんわん」な毛むくじゃらも「わんも1回で良いのかな」とも思うので、早速「は」行から始まる感嘆な気持ちの言葉を書き出してその規則性を探る。

「はぁ~」は大きくため息のように吐き出るもので、または、相槌。
わーも意味のわからないことを言われたならば「はぁ~」と同意した訳ではないが「はぁ~」となったり、てめぇーの言い分は意味不明だと「はぁ~???」と語尾に?を付ければ確かに言われた方は結構イラッとくる「はぁ~?」である。
「はぁ~はぁ~」は全速力で走り息を切らす「はぁ~はぁ~」で、知らない人がマイ境界内で「はぁ~はぁ~」していたならば恐怖だけれども、わんわんはいつもかわいい笑顔で「はぁ~はぁ~」と呼吸している。ヨシヨシ

「ひぃ~」は驚天動地の驚きや恐怖のことでGなどを見た時には皆「ひぃ~」となり、「ひぃ~ひぃ~」とグレードアップすれば痛みや震えまでよく伝わる。

「ふぅ~」はため息のことでがっかりとした時や、「ふぅ~」と心を落ち着かせて体の中に溜まる気を吐き出す時に使う。
レイザーラモンさんが「ふぅ~」していると思い調べたら「フォー」でしたが、「ふぅ~」はノリノリなリズムにも使える。
「ふぅ~ふぅ~」は息を吹きかけて火力を上げて、または、熱いものを冷ます熱冷ましな時にする「ふぅ~」な呼吸音で、「ふぅ~ふぅ~」と音楽に合わせてノリノリでもまたかわいい。

「へぇ~」は真顔な関心を表すようなやや感情や反応の薄い相槌や受け答え。
「へぇ~へぇ~」と連呼されれば「はいはい承知合点の助」のように「へぇ~」より逆に熱心さも伝わる感じですが、「へぇ~へぇ~」とイントネーションや態度の変化で無関心の極意にもなる。

「ほぉ~」は成る程と関心を得る「へぇ~」の最上級でもあり、「ほぉ~ほぉ~」は仙人級の人物から関心を得た時に得る言葉なのかな。

ということで、

「はぁ~からほぉ~」まで言葉を書き出してみましたが受け取り方次第で規則性は全く見つけれなかった。

こうして、夢の中の座布団も積み上がり私の眠る頭もだんだんと直立不動となってムックリと起き上がり、これが本当の「枕を高くして寝る」みたいなものかな。
毎日本当に意味不明な夢みたいな話を長文にしたためて自分でも大義であったと思う。
ただし、快適睡眠の枕の調整は差し込む系の座布団やぬいぐるみが最適解で間違いない。

 

*デスクトップ画面用の画像です。
■2026年3月24日(火)
■ラン・ラン・ラン♪
■2026年3月25日(水)
■一日一文章トレーニング。

「ゲームとは本当にしんどくて面倒だけども楽しいよね☆」

私もついにポータラーの一員となるもので☆ついにPSポータル(PlayStation Portal リモートプレーヤーPS5用)を購入する。
ポータラーとはとても弱そうな響きで、確かにポータルのことをポータブルと呼んでいたような情弱ぶりでもあり機器周りだけは熱心。
ほぼ何の機械かも知らない衝動買いのPSポータルは私の見ている範囲でも持っている人はあまりいないように思うガジェットだ。
値段はPS5のプロコン(DualSense Edgeワイヤレスコントローラー)とほぼ同じ値段で、画面付きでもあるので安いような気もする。
PS5のプロコンはすでにスティックを一つ壊して取り替えて、プロコンの効果はテキメンの新しいコントローラーを購入せずともパーツ交換だけで済んで大満足である。
なので、画面付きのコントローラーでも新しいゲーム体験もできるかもと購入する。

先ずは本体を開封して電源に挿して充電する。
充電の差し込み口は奥まった結構挿しにくい場所にあるのでゆっくりと丁寧に見ながら挿さないと差し込み口を壊してしまいそうな予感でもある。
そして、毎度恒例の説明不足の説明書を箱に終い、ネット上の賢いあいつの指示に従いながら初期設定を執り行う。
その通り実行するとインストール時間は結構長めでしたがスムーズに終了。

バットマンの秘密兵器のような黒い物体はガジェット好きにはハマりそうな形状である。
使ってみた範囲の何も知らない私が理解したPSポータルの機能は下記の通り。
(1)自宅のPS5本体とPSポータルをリモートコントロールで接続し遠隔操作で遊べる。
(2)ネット回線のある場所ならばPS5本体を起動せずともクラウド・ストリーミング接続でゲームを楽しめる。
そもそも、ストリーミングの意味もあまりわかっていないもので英語の意味を翻訳すると現在進行形で流れる川の水のように流れるデータを受信しながら楽しむゲームとなる。
私の中では川を流れる水の流れとはトコロテンである。
水の分子が押し合いへし合いトコロテンのように押し流れて川となるもので、ストリーミングもまた情報というデータをトコロテンを押し流しなら受信して遊ぶゲームの解釈。
間違っていたら御免m(_ _)mTですが、いきなりストリーミングと言われてもチンプンカンプンでよくわからないものだ。
そもそも、プロコンのデュアルセンスも今回この文章を書くにあたり「デュアルセンスって何やろね」と思う。
デュアルデュアルデュアルとオレの中の遊戯王が「オレのターンだ」と両手のセンスで渦巻くもので、小難しき言葉を使わなくともPS5本体やネット上のサーバー上のゲームから受信接続して遊べるゲームで良いような予感。
困ったことは遊べないゲームもある。
また、wbcで加入したネットフリックスのストレンジャー・シングスやワンピースを観ようと思ったならば著作権のどうのこうので観れなく、「あ~困った~の困ったである」。
実写のワンピースは麦藁帽子を譲るくだりですこす感動して戸惑う。
とりあえず、PSポータルはまだまだ使いこなしていませんが、ポータラーの効果テキメーンとなりたいものである。

ということで、

私は昨日から「効果テキメーン」のテキメンの漢字がわからなくて戸惑う。
効果テキメンとは日常会話でよく出てくる効果を瞬時に発動する魔法の言葉でもあり、あの人もこの人も効果テキメンを連発しているのに、いざ文章として書こうとするとさっぱりわからない。
日本人はひらがな・カタカナ・漢字に音訓読みと様々な言語を駆使しているとも言いますが、文章を書いていると口語と文語の違いもあって複雑な言語体系である。
私の今の文章の流行りは口語寄り。

効果テキメンは「効果覿面」と書く。

「何だ?これは?」のこれがポータラーのセンスを感じるデュアルセンス案件。
長い人生を生きて来た中でも「覿」のような難しい漢字は見たことも触れたこともないもので、このような難しい漢字は私の苦手な明治の文豪たちの文章に出てきそうな難字である。
左の「賣」という字は「売る」の旧字で、右の「見る」と合わせて商売の心意気を感じる。
商売とは見られないと売れないモノの基本である。
お店の中の商品陳列でも人が通ってよく目に付く場所一等地もあれば、不良たちがタバコをプカプカとグレるような場所もある。
そのような一等地に商品を置くと即座に効果も発揮して商品も売れるもので、なるほどの効果覿面である。
これは第十五条、一等地及び「商品面出し」とその他の商品もとより人間に関する呆則の、また一歩商いの極意に近づく。
私がこの小難しい誰も読めないような効果覿面をすらすらと書き始めたならば皆ビビるであろうな。
ウシウシシー

 

*デスクトップ画面用の画像です。
■2026年3月25日(水)
■ゆーらゆら。
■2026年3月26日(木)
■一日一文章トレーニング。

「出したり仕舞ったりと掘り出すモノもあれば仕舞うモノもあり」

最近掘り出したものはSONYのアクションカムの箱。
黒色とオレンジ色の多言語仕様のパッケージで、自転車を使用したイメージ画で印刷されている。
なぜ?この箱が残っているかと考えると謎ですが、恐らくこの箱が好きだったから今まで捨てずに残っていたかと思う。
飾れば何だかお洒落にも思えるデザインでもあり実際に箱を飾るとどこかアートな感じもある。
何よりこの13×8×18センチのサイズ感が良いもので、手に掴んだ時の幅の8センチの幅は一番しっくりと手に収まる大きさだ。
なので、このような手頃なサイズ感が今まで捨てられずに残っていた最大の理由かもしれない。

中には付属品のパーツが収納されておりカメラを固定する為のベトベトした粘着が経年劣化で溶け出し大惨事。
さっそく、私はそのようなベトベタをガイアカラーの溶剤で溶かし洗い流して、プラモデル製作の知識とはいつ何時でも役立つ。
次はゴム類が劣化しそうな予感でもありゴムとプラスチック、マニュアル書類と個々に分別して透明のビニールに詰め直す。
これによって、もし仮にゴムがベトベタ劣化しても他に影響を及ぼすこともない。
アクションカムを入れて保管する立派なプラスチックケースには現在トイ・ストーリーのエイリアン2体入れて飾っている。
それを箱に戻すと窓から覗くエイリアンたちがとてもかわいらしい。
また、天窓から光が照らされる感じがとても素敵。
箱も少し破れ紫外線による退色によって若干薄くもなる。
説明書の表記を見ると2013年と記載あり、そりゃ13年の歳月を経てばそれなりに経年劣化もするかもである。
もうこれ以上の劣化は何とも阻止したいものでUV被膜をもたらすような劣化防止を考える。
紙にトップコートを吹くことはいけるのであろうか?
いやいや、紙を保護するものと言えばニス塗りが定番でもあり、アクリル絵の具用のマットバーニッシュで筆塗りする。
全面を二度塗りのニス塗装で筆塗りの跡も良い感じ。
これで本当に経年劣化を防げるかどうかもわかりませんが紫外線による退色を防げたら良いな。

勿論、カメラ本体のバッテリーを充電すると問題なく使用できる。
試しに雨降る窓の外の観葉植物を撮りながら広角レンズの微動だにしない植物の静止画動画を眺めながら「あー春だなー」と思う。
無線好きにはたまらない画面モニターとカメラが分離したタイプのカメラで最大5台までのカメラをコントロールも出来る優れモノ。
わーたちはこのようなアクションカメラを何に使っていたかと言うとお店の防犯カメラとして使用していた。
今さらですがなぜ?防犯カメラにアクションカメラを使っていたのか不思議ですが、見た目が格好良かったからのデュアルセンスを感じる。

そして、

そのようなまだまだ元気に作動するアクションカメラの使い道もわからないまま、もしここでアクションカムを再び仕舞うと来年か再来年ぐらいにまたこの箱を掘り起こして来て「あーだこーだ」と言いながら同じことを繰り返す予感でもある。

アクションを行う予定もない。
日常生活のカメラもスマホカメラだけで十分。
時折、撮る動画も携帯のカメラの動画ボタンを間違って誤作動時の動画モードぐらい。
「さてどうしましょうか」の「どうしましょう」とアクションカメラの使い道について考える。

自転車に乗ってドリフト走行しながら(出来ない)荒川土手まで走ろうか?
いやいや何か事件が起きない限り絶対にそのような長時間撮影の動画を見直すことはないであろう。
アクションカムの箱のニス塗り動画を撮影してみようか?
何が面白いのかわかりませんが、もう塗ってしまった後なので無理。
絵を描き割り箸くっつけて人形が動くアクション映画を撮ったらどうであろうか?
それってアクションカムで撮る必要があるものなのであろうかと思うものの、映画とは最低限ストーリーがないと映画にもならないもので、また、何かしらの物語を考えてキャラも生み出さいといけない。
映像とは誰でも簡単に撮れて編集もできるのですが、自分の撮った思い出の動画とかは恥ずかしく封印したい・強い眠気も誘う動画である。
なので、普通に観て長時間拘束して没頭できるような映像を作れる人たちとは結構凄い能力の持ち主のようにも思う。

 
■2026年3月26日(木)
■はやく!動け!動いて!お願い!アクションカム!
■2026年3月27日(金)
■一日一文章トレーニング。

「正に驚き桃のき山椒のきである」

効果覿面(てきめん)の「覿」は面会の意らしく面会に応じて人に合うこと。
「売り(賣り)・買い」と商品を面出して品出しをして、初めて人の目に触れて「見た」と視認されて売れる商品の効果覿面である。
これは今も昔も変わらない商いの不変の呆則で、世の中に良い商品が五萬とあれども“売れる・売れないの”違いはこのような“目につく・目につかない”の違いの立地条件な「面」に由来することも大きい。
さっそく、立地とは何かと調べると【立地】とは地上に立つことで、または、領土を得ることもまた立地の面だ。
人生設計や経営的目線などの目的実行の為の土地利用もまた立地であり、これは自然条件や社会条件から読み取れば立地条件なる。
立地が領土の取得であるということは現代社会の経営的な目線とは多少異なるかもしれないもので、今や土地は不動産なお金のように扱われる。
戦国時代であれば敵陣の城を落とそうと考えるならば要なる立地条件の場所を攻略し徐々に敵の本陣に近づく為の布石のようなもの。
このような領土を得る立地に立脚すると外国人や日本人でも防衛や資源など安全保障な要所を自由に売り買いできる仕組みとは規制撤廃派で自由主義者の私でも国民生活に損害を与えるので反対である。
古の戦国武将たちでも驚き桃の木山椒の木だ、たぶん。

店内にも一等地や二等地、不良在庫の溜まるようなあまり人の目線止まらない不思議な場所は必ず発生する。
そのような場所の変化が立地なる概念に由来するもので、不思議なことに一等地なる良い場所でも一押しなる大展開をしたとしても一等地たる優位性が消失したりもする不思議。
これは長年の商いの七不思議でもあり、私の答えはモノや人には適材適所があると思うものだ。
不良在庫が集まるような場所で「これは売れるのか?と思う変なモノ」を見つけた発見がお買い物の面白くなる一要素であり、そのようなお店の一等地以外のデータに表れる不良在庫たちを如何に愛せて天秤に掛けられるかが商いの面白さかもしれない。
不良在庫とは本当に鬱陶しい。
けれど、愛する面を「見い出さない・見出した・見出す・見いだせない・見出そう」の五段活用を口ずさみ、やっぱり不良在庫は怖い怖い。
そして、最近の都市開発で街がキレイに素敵になったとしても何だか面白みを感じない街も多い。
このような事柄も上記に起因するように思う。
それはこのような適材適所を見つける努力がなされていないのか。
若しくは、全てを一等地として作り変え排除した呪いの代償かもしれない。

一等地たる立地とは何かと考えてみると下記のようにも考えられる。

・人口が増えている
・購買力のある人たちが増えている
・商業地の商圏が大きい広がっている
・街に求心力や集客力のある核店舗がある
・道路や交通手段が豊富
・駐車スペースが十分に確保されている
・ニーズが存在している
・数年先の未来を予測できるデータが豊富で安心して投資できる

などなど、かな?

これらが全部当てはまれば結構な優良な立地条件かもしれない。
ですが、このような条件で絞り込んだとしても該当するような場所とはあるのでしょうか。
人口は減少して生産人口も減少している。
また、商圏はあちこちの都市開発乱立でシュリンク傾向にもあり、グランドオープンでも盛り上がらない傾向も定番だ。
ニーズも金太郎飴のようにどこの街でも同じ店舗で街から街に商圏を移動するような理由も乏しい。
なので、街の顔となるような求心力や核店舗はとても重要である。
そして、勘が良い人なら気付くと思うのですが人々が移動する道路や交通手段とはとても大切な要素である。
最近はちょっとした駐車・駐輪も出来ない街も増えて自転車等の交通規制も風が吹けば景観も良くない三角コーン業者だけが売り上がるような状態なのかもしれない。
人の移動も制限するような法律も施行されれば人口減少で苦しむ経済に新しいムチを打つような感じでもあって、勿論、それは自由な人の行動に制限を与えるものでもあるので直接国民に鞭打つような事柄でもある。
このような事柄をよくぞ実施しようと考えたものであり、確かに、欧州など行くと自転車道が道路とは個別にしっかりと整備されて分けられているものの、車の数も人口密度も道の整備も桁違いの立地条件でもある。
そして、交通事故は毎年減少しているようで、例外はあるけれども人々の交通マナーも年々向上していると思う。
私なら人口も減って交通事故を減少しているならば規制緩和をする道利であろうと思うのですが、実際は規制強化は行われ本当に意味がわからなすぎて驚き桃の木山椒の木でもある。

※「驚き桃の木山椒の木」は「き」は「気」と「木」をかけ合わせた語呂合わせで、驚きたまげること。

 

*デスクトップ画面用の画像です。
■2026年3月27日(金)
■猫の電話。
■2026年3月30日(月)
■一日一文章トレーニング。

「写真は土日にネットフリックスを観ながらメモした落書き」

絵とは毎日同じモノを描いていたならば段々と上手にもなる。
また、同じモチーフで描けば描く程に絵にも生命のようなものが宿るもので、恐らくそれをキャラ立ちと呼ぶのだろう。
どのような絵でも一枚目一投目から完成したカタチとはならないもので、何個も何枚も描くことで徐々にカタチとして収斂する。
さっそく、この落書きたるモチーフの言葉が気になり辞書を調べる。
モチーフとはフランス語のmotifのことで芸術や文学を作る時の原動力となる思想や動機のこと。
また、楽曲を組み立てる最小単位の旋律のこともモチーフだ。
血走るウサギ画が芸術か文学と考えてもそのような事は全く無く、描く時の思想や動機を考えてもよくわからない。
逆にこの血走ったウサギ画に社会問題が含まれていたならば驚き桃の木山椒の木ではあるもので、ウサギは描きたいから描くのである。
一つ言えるとすればリズムたるウサギさん画はあるかもだ。
生活を一つの楽曲とするとの旋律の中で血走るリズムとは哲学のようでもある。草
人は生きながら人それぞれが持つ旋律を奏でていると思えば素敵な音色を奏でたいものである。

これらはネットフリックスの映画やドラマを観ながら落書きした残骸であり、このようなメモは捨てるにも捨てられない宝物でもある。
兎に角、メモ書きとは後から見返すと変なメモがたくさんあって、そして、かなり面白い。
自分で書いたメモ書きが時間の中で熟成され、さっぱり何のことか?の意味不明でもあり、香ばしい文面がそのままタイムマシーンのように保存されている。
なので、古いメモ書きとは過去からの手紙のようなものである。

私は映像を観ながら手を動かし未来の自分に対してのメモ書きを残す。
これはどのような脳の仕組みで描けるのかわかりませんが、内容はしっかりと視聴しながらも、線に迷いも無くしっかりと描くものだ。
メモ書きとは一般的に映画の気に入ったフレーズやシーンがあった時にサッサとメモする内容なのに絵であることが面白い。

実際にこのメモ描きは映画の雰囲気について描いている。
一番左上のパイレーツは実写版ワンピースを観ながらイメージの中のMOBの海賊を描いたもの。
頬はやせ細り眼光鋭くバンダナを巻いた海賊の定番の姿で、実際にこのような海賊はいないと思うのですが私の中の海賊イメージだ。
そして、右上の筋肉隆々のウサギさんは極悪女王を観ながらホークやチェーン攻撃にも負けない強いプロレスラーなウサギを描く。
凶器攻撃してくるプロレスラーは怖いのですが、血走りウサギが目を血走らせながら頭部から流血していたならば、私は間違いなくフライパンを持ってリングに乱入しウサギさんを回収するだろう。
キャラクターたちの血の滴りとは誰もあんまり見たくもないものである。
ホークで流血とは絶対にホークの先に何かマジシャンの仕掛けがあるなーと思うもので、怪我する・しないのぎりぎりの境界線の技に我ドン引きする。
下の3枚は無の境地に至りながらの落書きで、この時はもはや映像の中に我の意識はない。
とりあえず、この週末は映画にドラマとアニメといろいろと観すぎて頭の中が凶器攻撃のようだ。
ストレンジャー・シングスにエノラ・ホームズ2、化け猫あんずちゃん、極悪女王、呪術廻戦、葬送のフリーレン、推しの子、ジョジョのスティール・ボールラン・・・とあらゆる分野の映像作品を絶え間なく交互に観てとても疲れる。
これはもはや、ネットフリックスが終了するまでに気になる作品は全部観たいと思う私の気合と根性の記録でもあり、落書きをしながらリフレッシュしているようでもある。

そして、

このようなウサギ画をたくさん書いていると他人のiPadにも血走るウサギを落書きするもので、最新のiPadにチャチャッと乱雑にウサギの画も上手に描くと「ふむふむ」と納得の出来栄え。
そして、流石の最新型なのか丁寧にiPadはウサギの画を「疊」な漢字に自動変換してくれるもので我の迷画は消失する。
血走ったウサギが「疊」になったと話しても何のことかサッパリ伝わらないもので、自分の中だけでじわりじわりと面白い。
ちなみに「疊」は「畳」の旧字のようで、多くを積み重ねた重なりのことを言う。
座敷に敷く畳に、石畳、お店を畳むようなことも畳みである。
因みに、私が好きな時時・時々(ときどき)、徐徐・徐々(じょじょ)と同じ言葉の重ね合わせのことも畳を使う畳語(じょうご)と言われる。
また、連綿、彷徨(ほうこう)、などと同じような意味の熟語を重ねて強調することも畳韻(じょういん)と呼ぶそうだ。
私は血走ったウサギが畳まれて旧字の「疊」に自動変換されてビックリですが、時が来れば一折、二折、三折と畳まれたメモ書きを再び開いてニヤリとするものだ。

 
■2026年3月30日(月)
■筋肉ぶるぶる。
■2026年3月31日(火)
■一日一文章トレーニング。

「捨てないメモ書きは未来の自分に送ったタイムマシーンのメッセージである」

ここ最近は毎日たくさん映像を観過ぎて超・超・超のインプット超過。
それも一つのお話を連続して観ている訳でもなくアクションを観た後に血しぶきが飛び、美しい映像に感動したかと思えば英語の長い語りに口もポカーンとなる。
私は娯楽作品を観ていると言うのにとても疲労している。
最近はゲームも全くやっていないぐらいの、も~う~無理な限界も感じている。
そのような映画やドラマを観る原動力とは何かと考えると、それは期限切れが迫り気になる作品は全部観たいとの邪(よこしま)な部活魂である。
「気合じゃーおら~」
「おら~おら~根性出てこいや~」
と、映画やドラマを観ることとは、こんなにもしんどいコトだっけ?
そういや、サブスクの最終日の数日とはいつもこのような感じでもある。

このような超インプット状態の中の落書きがアウトプットであるとすれば、落書きはインプット超過に対する体の自然な対応のようにも思う。
たくさん入ってくる情報を自分の中で消化するにはある程度は頭?や体?心の中?にキャパシティとなる空洞も必要で、これはお腹がイッパイでもう食べることもできないことにも似ている。
もう消化できないとすれば左から右へと横流す感じであろうか?
それだと空間に空きは生まれないもので、消化するとなれば落書きでアウトプットして空洞を開ける自分の中のバランスのようにも思う。
それはインプットの限界に達しつつある足掻きとも言えるし、落書きでアウトプットする自己改善を行う自然現象であると思えばそのような感じでもある。
他人から観れば映画を観ながら立ったり座ったりと、または、食べて飲んで落書きをしてたりと落ち着きもない。
何の科学的根拠もありませんが、自分の行動を俯瞰すると「もうこれ以上観ることはできないぜー」の、だけれども一通りは観たい情報空間を広げるアウトプットの落書きのようにも思う。
今やエンターテイメントな情報とは湯水の如くでもあり、もはや広告などにもつけ入る隙間もない程の食べ物に例えると超過の肥満のようでもある。
情報が超過する肥満とは何と表現するものであるかな?
とりあえず、私はもう映画やドラマ、アニメでお腹がイッパイである。

というわけで、

ここで過去からのメモ書きを1枚拾う。
写真のメモ書きは過去の私から現代の私に届くタイムマシーンのような手紙のメモ書き。

「ひろって下さい。下さい、」と句読点も少しおかしいですが今、拾いて、まじまじと見てまた面白い。
鉛筆の小さな字で「1号」と書かれており、この手足や目鼻口がついたウィンナーみたいな絵は「何だ?これは?」のさっぱりとわからないメモ書きである。
ハサミで切った切り口も適当で、これこそ捨てずに残すメモ書きの醍醐味でもある。
その横にある人の顔も謎。
けれども自分が書いた正真正銘のメモ書きでもあり、ウィンナー1号みたいなモノは一応鉛筆で下書きをしてから、その下書きから随分とズレながら細いインクペンで清書している。w
このような絵に下書きが必要なことも面白いもので謎が謎を呼ぶ拾いもの。
おそらく、名探偵ホームズの事件現場にこのようなメモ書きが落ちていたならば事件はとてもややこしく迷宮入りで、寧ろ、人生とはそのもの迷宮かもしれないもので何かを拾いながら道しるべとなるメモもまた必要だ。
メモとは道標でもあり初心かもね☆
私も当時の気持ちを思い出すものの何も思い出さないもので「ちゃんと拾ったよ」と思うだけのメモである。
放たれたボールをちゃんと拾うことはとても大切なことである。
「拾う」という事は私の大切なポリシーにも則するものだ。
私は拾ったメモ書きを再び箱に仕舞いながら数年後に再びこれを見て「何やこれは?」と面白くなる繰り返すであろう。
捨てないメモ書きとは未来の自分に送信するタイムマシーンなメッセージであり、何のメッセージかも皆目わからないのですがしかと受け取ったのである。w

 
■2026年3月31日(火)
■フォースでひろうメモメモ。