■2026年5月1日(金)
■一日一文章トレーニング。

 「モナ・リザ画を鑑賞していると聞こえる音楽はある」

昨日ヴゥ~♪ヴゥ~♪コッコロコッコロと鳴き声が聞こえるものでその方向を見上げると架線の上にキジ鳩が一羽止まっている。
ガタンゴトンと騒がしく電車が通り過ぎた後の束の間の静けさの中で、鳩は長閑に歌うものだ。
私はスマホをポケットから取り出してパシャリと写真を撮る。
それはまるで楽譜のようだ。
何の楽譜かと言ってもよくわかない楽譜ではありますが、それはとても美しい譜面である。
ドはどれかな、レはどれかなと楽譜が読めないのですが何かの曲には聞こえきそうな感じの風景でもある。
そして、私の脳内では「My First And The Gimme Gimme」の「Mona Lisa」が流れている。
https://youtu.be/5xjCUVoazy4?si=nhcEd45GEXcH_aJz

「ヴゥ~♪ヴゥ~♪(鳩の声)モナリザモナリザ♪」

この曲はモナ・リザの絵を観るといつも頭の中を流れる曲だ。
昨日は我が家のモナ・リザ画をまじまじと見ていたので、すっかりとジメジメな音楽が流れている。
ヴゥ~♪ヴゥ~♪と言う鳩の鳴き声も何だかモナ・リザ的。
昔にルーブル美術館で本物のモナ・リザを観たことはある。
厳重に守られたガラスケースの中で小さな絵を見たような記憶ではありますが特段たる思い出もない。
しかし、印刷物のモナ・リザを見るといつも頭の中に流れるのはこの曲だ。

「ヴゥ~♪ヴゥ~♪(鳩の声)モナリザモナリザ♪」

モナ・リザとは誰なのか?
モナとは氏名のことではくマダムのことでリザ夫人の絵となるようだ。
そして、モナ・リザの絵を見ていると流れるジメジメな歌はMona Lisaの歌。
なぜ?リサがリザと濁りて発音するのか皆目わかりませんが「Mona Lisa」で「モナ・リザ」読みで良いようだ。
それだけ謎に満ちた微笑みでもある。

さっそく、私はCDを掘り返してジメジメの歌を聴く。
そして、CDを見つけて開封するとCDが飛び出すもので落ちないようにギリギリでキャッチする。
ケース内でホールドする留め具は折れておりCDはカラカラと自由運動して飛び出す。
危ない、危ない。
CDケースは落としたり衝撃を加えると中のホールド部分が折れてしまう。
よく聴くCD程にケースの中のホールド部分も折れるもので、時折、昔から新しいケースにお引っ越したくも思う。
さっそく、ネット検索すると丸ごとCD空ケースや中のトレーだけでも売っているもので、固定するシールのような便利物もある。
しかし、空ケースや中のトレーだけを購入したとしても「COMPACT disc DIGITAL AUDIO」なロゴが無いものでそれはそれで少し嫌だ。
やっぱり、ロゴはあった方が良いし、そのまま放置の折れたままのCDでいいやと思う。

笑顔とはとても偉大である。
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/7/76/Leonardo_da_Vinci_-_Mona_Lisa.jpg
万人にいつまでも微笑みかける人と考えても、モナ・リザさんは長年絵画を通して孤独に神秘的な微笑みで人々を魅了してきたもので、その功績は偉大だ。
モナ・リザさんの笑顔をじっくりと見ていたならば少しばかりの般若のお面のような鬼を含むような笑みにも見える。
または、写真の時の「ハイチーズ」のニッコリ顔のようにも見えて、もし、モナ・リザさんが歯を見せて笑っていたならば、どのような感じになるのだろうか。
口の中が見えると開放的かもしれないもので神秘性は減少してしまう予感である。
そして、絵の具のひび割れがとても素敵な感じでもあり、無数のひび割れた絵の具のノイズによりこの絵の魅力はましましに増し上がる。
ツルッとした表面であれば魅力も半減し、昨日の紫外線で薄くなった我が家のモナ・リザ画の修復でもツルッと感じに味を感じなくなるのものだ。
ノイズがないものはデジタルデジタルとしたツルッと感でもあり、ノイズには聴きざわり、見ざわりな心地よくないノイズも多いものですが反対の心地よいノイズというのも確かにある。

 
■2026年5月1日(金)
■A.走る。
■2026年5月7日(木)
■一日一文章トレーニング。

「やかんを磨き私の心も幾分晴れやか」

おれはやった、やったのだー。
ゴールデンウィークは何故か朝5時頃から早起きしているもので、普段では絶対に起きない時間帯から活動していた。
朝5時から活動することは朝も4時ぐらいからもぞもぞと布団の中で動くもので今日は7時起き。
徐々に朝型となる予感の何だか妙な早起きな休日である。
そのような休日な空気も溢れる街に響く音はただ一つ「ゴシゴシ・ガシガシ・ジャージャー」とやかん磨きの音。
近所迷惑にもならない磨き音は「トーキョーは朝の5時」とただただやかんに磨きを入れるだけの無心の音。
私は心を静かに無となりて丁寧にやかんを磨く。
何かを磨くと心とは何なのかの心は妙に落ち着く。
これやもしや茶道、書道、剣道、合気道、柔道、華道・・・と続く「磨き道」かもしれない。
やかんは漢字で書くと薬鑵(缶)のやかんで、やかん磨きとは夜間ではなく早朝5時から磨く薬となるやもしれぬお作法だ。
朝からこんなにも活動的に動きさぞ有意義なゴールデンウィークとなったのかと思えば、上野とか言う汚い街に行っただけの本当に何でもない祝日でもあった。
羽毛布団は天日干してふかふかとなる。
しかし、まだまだ肌寒く思う時もあるのでまだまだ夏布団には切り替えていない。
もうすこす季節も進む梅雨入り前にもう一度天日干しして冬布団を完全に仕舞いたい。
そう言えば、毎日の我が部屋の室温水温データによると令和8年5月2日(土)に季節の変わり目を計測した。
そして、令和8年5月4日(月)には今年始めての室温のカラカラ乾燥も計測した。
冷蔵庫の中のお掃除はちょっとやる気がなくて来年の寒い時期にすることにしたが、やかんはまるで小豆洗いのような勤労ぶりを発揮してキレイに磨く。
小豆洗いは単にジャラジャラと小豆を洗うだけの人畜無害の妖怪で、我が家の皿洗いの業務は小豆洗いの妖怪業者にお願げーしたい。
つまり、私はゴールデンウィークの最中、朝もトーキョーの朝5時から熱心に一年間の積もり積もった油汚れとサビをゴシゴシと磨いたもので、私の指は長時間風呂に入ったようにしわしわとなる。
そして、我が家のでっかいおやかんは1つはお茶作り用で、もう一つはお湯沸かし用の2つの大谷流派の二刀流で、最初のやかんは眠気眼に何の考えもなくガシガシと磨く。
円を描きながら磨き、縦や横とサビや油汚れを自由な方向に磨けば磨き目の方向を揃えることもないもので若干鏡面度も曇りがち。
さっそく、パシャリと接写用カメラでその磨きぶりを撮影すると磨き目は揃っていない。(写真参照)
2代目のやかんからは磨き目が一定になるように磨き鏡面度も上昇する。
次のやかん磨きの時には磨き目を揃えて磨こう。
覚えているかな。
そして、スチールにこびり付いた頑固の汚れやボンスター磨きの届かない細かい場所は爪楊枝を使ってこすり落とす。
取っ手の金具の裏や隅々まで爪楊枝でこすると尖った先端が筆のようにふさふさとなり、その木製の繊維がさらに細かい汚れをこそぎ取りキレイに落とすもので結構本気のピカピカ。
やかん磨きにボンスターと爪楊枝は必須の理でお陰様でおやかんはピカピカの新品のようになる。
いやいや、新品は言い過ぎの年季の入った良く磨かれた愛着も深まるおやかんである。
やかん1台の磨き時間は45分ぐらい。
エルデンリングナイトレインの1ゲーム×2台分の90分の長丁場だ。
途中、チョコベビーやコーヒー飲む休憩時間を挟み磨き終わってもまだ7時台の超朝活となる。
ふむふむ、このようなヒルズ的な意識が高い朝活をしてしまい我ながら怖い。
因みに、こんなにも大切に使っているおやかんは何のお洒落度も無い街の金物屋で普通に売っているリーズナブルな日本製のおやかんです!!

と言うことで、

昨晩の晩御飯は美味しいハンバーグであった。
ジュージューと草履みたいな大きなハンバーグをピチパチと油でしっかりと焼き目を入れて焼くと油がキレイに放物線を描いてやかんに飛ぶ。
「あーあー」
磨いた直後のやかんにハンバーグのパチパチ油が飛べば何だかショック。
さっそく我はやかんの表面をアルコールで拭き取り、油が飛ばない場所にやかんを避難して移動させる。
あと幾日程、そのようなやかんの汚れを気にかけるような日々も続くものかな。
もはや、私はやかん磨きの朝活も出来る程に意識も高くもなり、いくら愛着がましましと言えども油飛びも気にせずにやかんは気楽に使いたい葛藤との板挟み。
これからの季節は水もぬるくもなってやかん磨きも気楽に実施できる。
汚れたらまた再び磨けば心も落ち着く「磨き道」でもあり気楽に使いたいおやかんである。

 

*デスクトップ画面用の画像です。
■2026年5月7日(木)
■おしゃべりなバード。
■2026年5月8日(金)
■一日一文章トレーニング。

「ゴールデンウィークにしたことは全く吸引力の無くなったダイソンを修理する」

いやいや、最初は壊していたと言うべきなのか分解していたならば自力で何だか直ってしまった掃除機である。
掃除機は電源を入れると「詰まりエラー」が表示されるもので、これは電動ブロワーで吹いて内部掃除した後に壊れてしまった全く吸えない掃除機である。
目詰まりエラーはブロワーの勢いで壊してしまったのかと思っていたもので掃除機は何年もの間、部屋の文鎮として置かれていた。
使えない掃除機ほど邪魔なモノもない。
どうせ捨てるのであればモーターや基盤、バッテリーを取り出してから捨てようと思っていたもので、これはゴールデンなウィークに取り組む案件でもある。
さっそく強力なモーターを取り出す為に分解を始める。
まだまだバッテリーも劣化も感じられなく、これらパーツは取り出して何かの二次利用したい。
さっそく星型のねじを回して掃除機をバラバラに分解だ。
最近のパソコン類や外国製品でも特殊形状のネジは結構使われることも多いのですが、そのようなネジを使う理由も多少気になるので今度調べてみよう。
パーツを外して掃除機の中心部分をパカッと開けると中には細かい塵がたくさん溜まっている。
この溜まる塵が故障の原因のようで、これだけの細かい塵が内部に溜まればそりゃー目詰まりエラーも起こるものだ。
開封した1本のネジに細かい塵がたくさん蓄積していたもので迷探偵はこのネジ山が細かい塵の侵入口だと推測する。
使っている間にネジは緩んだのか、出荷段階からの緩みの可能性もありますが、内部に溜まった塵はパンパンと叩いて取り出す。
頑固に残る塵は電動ブロワーで吹き飛ばすと本来ゴミが溜まってはいけない内部はこれでピカピカ。
もう1度元に戻して組み立て直せば何だか動きそうな予感でモーターや基盤を取り出すのを止めて再び組み上げる。
ネジもしっかりときつく閉める。
そして、電源を入れると普通に作動して直った!直った!良かった!良かった!
壊れた掃除機を使用している間は今の軽い掃除機を使用していたもので、この掃除はこんなにも重たかったけーなーと思う。
ネット情報によると壊れた掃除機は約2.6kg、今使用している掃除機の重さは約1.7kg。
時折、母が「掃除機が重い重い」とよく言っているもので、なんで掃除如きが重いのかと思うものの、軽い掃除機に慣れると鉄アレイの如く重い筋トレ掃除機である。
その差たった900gなのかと考えてもほぼ1kgでもあり、やっぱり持つと目茶目茶に重くも感じる掃除機だ。
持論ですが、重い段ボールや在庫をたくさん運んできた経験から言うとモノを持って重いと感じる時には握力の減少を感じものだ。
握力をグワーッと力入れてこの3kg弱な掃除機を持てばそんなに重く感じないもので、手の筋力というか握力や足の地面をしっかりと掴む力は老後も維持したい。
それでも、次に買う掃除機は重量1.7kg以下の重さの掃除機を選びたいもので、この修理した掃除機は現役復帰して再び置き場に困り事務所に持っていくこととする。

ということで、

ゴールデンウィークの暇人は修復したダイソンをデスクにドシンと置いて模写した。
結構、保証期間外のすぐに壊れて放置状態も長く続いた掃除機で何の愛着も思いれも全く無いものすが、見た目の形状が面白いので詳しく観察する。
描く部分で面倒な部分は吸引するパイプ部分。
あのうねった部分を正確に描く手間はなかなかの大変さで、この絵の半分はこのパイプ部分に時間をとられているような気もする。
このパイプは内部構造にすればもっとすっきりとしたシンプルな形状にもなりそうですが軽薄短小とコンパクトしようとすればする程にこのようなパイプ部分が見える形状となるかもで、それがダイソンらしさのデザインかもしれない。

  

*デスクトップ画面用の画像です。
■2026年5月8日(金)
■にゃんだむ。
■2026年5月11日(月)
■一日一文章トレーニング。

「フレイルって何や?」

我が家の室温湿度データは去年・一昨年とカラカラ乾燥を感知することはなかった。
冬も終わって次の冬までカラカラ乾燥の表示を見ないものかと思っていたらここ数日カラカラ乾燥を計測する。
「何だか嬉しい」
カラカラ乾燥して嬉しいとは変な話でもありますが、こうもカラカラの乾燥を計測しない日々が続くと気候変動な一端も感じて一丁前に私も心配していた。
私がどうのこうのと心配しても環境を変える影響力は皆無ですがデータを取って適応するぐらいが関の山。
で、今年は5月に入ってからの5月5日39%・9日33%・10日34%30%と3回のカラカラを計測する。
因みに、去年の5月5日46%47%・9日53%57%・10日65%68%となる。
天候にも左右される大雑把な比較対象でもあり、また、室温湿度データは暑い時や寒い時には空調管理された室温湿度を計測しているので外気の湿度とは一致しないデータでもある。
ですが、気密性も低い長屋的な集合住宅の外気の影響とはそれなりに受けるものだ。
そして、今は窓を100%開放する外気を取り込む垣根の無い時期で、この計測ではカラカラの乾燥とは39%以下の湿度となる。
さっそく私は保湿クリームを塗って寝むるものでクリームをヌリヌリと特に手はカサカサと感じている。
関係ないかもしれませんがキッチンテーブルの木も何だかカサカサと乾燥気味で昨日油引きの油を塗り込んでツルツルな表面となる。
カラカラとジメジメのどちらの方が好きかと考えてもカラカラとした性格の一長一短もあるものでジメジメとした湿っぽさも伝統的ですが結論としてはその中間の快適が最適解である。
しかし、カラカラの乾燥したテーブルに油を塗り込んでいるとキラリと輝く表面の美しさもあるものでカラカラな空気の下で油をヌリヌリもまた良い。
ずーっとジメジメと湿った水分に触れすぎると水ダコのような水ぶくれとなり、ずーとカラカラでもミイラのようなビーフジャーキーのようでもあって、時折カラカラに乾燥した表面に油で拭き取る艶も良い。
そして、最近の空気もカラカラに乾燥すればマイ鼻もムズムズと鼻水たらーりと何かのアレルギー症状を感知する。
空気も乾燥すれば微粒子もよく飛ぶかな。
上は先日の黄砂飛来の後にサッシの一部を拭き取り接写撮影したもので、下は今朝の写真で比較すると何やらの飛散物が増えて蓄積していることは確認できる。
ムズムズと反応するマイ鼻水センサーは結構優秀だ。
何やら目視で見ると黄砂っぽい黄色にも見えて、写真で見ると少し緑がかった花粉のようにも見える。
飛散物の微粒子が増えて降り積もっていることは確認できる。

ということで、

日々室温湿度を計測していると肉体も日々加齢していく。
そして、最近そのような加齢する虚弱状態のことを「フレイル」と言うようだ。
「あーあ」また恒例の横文字の季節が来たのかと老人にフレイル云々と語ってもたぶん馬に念仏のように伝わらないように、私にも念仏なのだ。
なので、さっそく「frail」とは何ぞやと辞書を調べる。
「frail」は体や道徳的にか弱い虚弱なことを言うようで類語では「feeble(弱い・弱々しい・無気力な・微弱な),weak(弱い),fragile(壊れやすい)」的な概念となる。
体の弱さだけでなく道徳的な弱さの意味を持つ言葉は引っかかる意地悪さを感じるもので、同じく性格の悪い私も老化という自然現象を道徳的な事柄に昇華したいのかとも勘ぐりを入れている。www
横文字で何を語ろうとも恐らく何も伝わらないものですが制作者の意図は確実に読める。
それが言葉というものが持つ恐ろしさなのか、これから老いる人々に対する未来も予見できるものだ。
フレイルには(1)健康→(2)プレ・フレイル→(3)フレイル→(4)要介護となる考えのようで衰えのサインを見逃さずに様々な活動をしようと啓蒙するものだ。
確かに加齢すると筋肉も落ちて掃除機でも重く感じたりもするもので、要介護とは避けたい道である。
そして、先日私の書いた握力もフレイル予防の一種の予感で、勿論、科学的にも微粒子的にも微量子的にも何の根拠もありませんが案外重いものを持つ時にいきなりそれを持つと重すぎる時のフレイル対策なのかも。
力を発揮する前に全力の力をもってグーでググッと握力の力を振り絞ってから重いものモノも持つと結構案外軽く持てるもので、アニメ等でも戦う前にグーをググッと握る画面のアップから戦闘は開始される力を発揮する前にはぐーの力のあるあるの呆則である。
同じく足も潔癖症の手を守る為に両足で揺れる地面を掴むように踏ん張れば足の握力も増すようで、つり革も持たずに筋力アップできて一石二鳥のフレイル退散なのであ~る。
エッヘン!

 

*デスクトップ画面用の画像です。
■2026年5月11日(月)
■ネバネーバー。
■2026年5月12日(火)
■一日一文章トレーニング。

「関の山とはどのような山のカタチをしているだろかと思いを馳せる」

関の山とはこれ以上は出来ない限度のことで、人の限界を表す境界線な言葉をまた見つけて嬉しい。
関の山を使う言葉自体も大抵は見栄を張るような言葉で強くアピールする限界点である。
関とは恐らく街道を結ぶ関所のことで役人や豪族が国境や要所を通行する人やモノを管理する場所のことで通行困難な難所となる。
そう言えば、関西・関東も難所な関門の関所の文字を持つ言葉で不思議なり。
西の関の難所、東の関の難所と読むとこれもまた国境の境界線を表す言葉だ。
関西はむかしの百人一首にも出てくる逢坂の関(滋賀県)より西の土地のことで、また、箱根の関より西の土地のことを指していた。
現代では名古屋以西の京阪神のことを言う。
京阪神とは京都・大阪・神戸の三大都市のことで、京阪神な関西には名古屋以西の三重・奈良・和歌山・滋賀などは含まれていないのかなと思ったりもするので、三重県の雰囲気は名古屋圏内のような気もするよくわからない関西の境界線でもある。
ちなみに、近畿で意味を調べると京都を中心とした地方となるようで京都・大阪2府と兵庫・和歌山・奈良・三重・滋賀となるようだ。
大阪都構想とは詳しくは知らないけれども近畿地方の覇権なる都市の競いなのかもしれない。
むかしの関東は逢坂の関より東で、または、箱根の関よりも東で、現代では東京・神奈川・埼玉・群馬・栃木・茨城・千葉の一都六県を指す。
このように考えても境界線とはその時々で境なる場所も移動して、それもまた面白い。
逢坂の関とはどこかと気になりますが人が行き交い分かれるような曖昧な雰囲気のイメージで歌の世界の概念のような実体のない場所のような気もする。
そして、その逢坂の坂道もまた関の山みたいな山を登る坂道な感じで関とは上り坂道だ。

日本での関所が廃止されたのはいつの頃であろうかと調べると織田信長が領地内の関所を廃止して人の往来を自由にしたことが始まり。
その後、豊臣秀吉が京都の公家等の利権でもある関所なども廃止して全国の関所を無くしたのですが、徳川時代に再び身分を確認する通行手形のようなものが生まれてその自由度は後退する。
通行手形には通行税のような税金は無いようですが身元確認によって人の往来を制限する法律でもあり手形発行による謝礼的な特権はあったようだ。
また関所破りのような通行手形無しに関門を突破するような人々もいたようで、国の境をしっかりと管理したいと思う諸藩は方言なる言葉の違いで境界線を作り外の人と中の人を区別したようだ。
徳川の人の移動に関する制限は豊臣時代に想像を絶するような国の境を越えるような人々の大移動の揺り戻しかもしれない。
徳川の通行手形は現代の外国人労働者やオーバーツーリズムと似た社会問題の解決策であった可能性も考えられる。
それにしても、16世紀の戦国時代の国を盗ったり盗られたりの時代に多くの戦国武将たちは関所を固めヒトモノカネ的な移動を管理して制限しようと考えていた中で、その反対にヒトモノカネの自由な移動を保障する経済的な政策を実行する織田信長の偉大さを感じる。
昔は凶暴であまり好きではなかったのですが知れば知る程にその立派さを知る織田信長公である。
例えば16世紀の通行税を考えるならば群馬から東京に作物を出荷しようとしたならば群馬の国の境の関所で出国する税金を支払い再び入国する埼玉の国の境の関所で通行税を支払い、歩きやすい埼玉街道の要所を通れば道路の通行税を再び支払って江戸っ子が群馬産の作物を食べる頃には高騰する作物を買う感じだったかもしれない。

ということで、山なのである。

青々と生い茂る日本列島の大山脈を眺め仰げばその先は見えない関の山であり、そして、そのような自然の偉大さに匹敵するような法の関を築くのもまた人でもある。

 
■2026年5月12日(火)
■にく。
■2026年5月13日(水)
■一日一文章トレーニング。

「ホントのホントでたまーに開く英語の辞書がすこす経年劣化を感じるもので昨晩お手入れする」

何せこの辞書は「革装」の装丁で何と読むやらの私は「かわそう」と読む表面の革張りのなかなか立派な辞書である。
(写真参照)
さてさてと「革装」は「かくそう」と読むものかなと調べれば「かわそう」で正解であった。www
革の本とはおとぎ話の世界の本のようでもあり当時本物の中二であった私も革の本は憧れの本でもある。
これは若かりし頃に父に連れていってもらったお洒落な古本屋で買ってもらった本である。
古本には感心は薄いものの何かの専門書や外国の画集、写真集、絵なども飾られたほぼ筋トレ系ブックたちを凄いなーと眺めていたならば、そのような凄そうな本の上にポーンと1冊無造作に置かれた辞書を見つける。
私はそのような辞書を手に取るとこれはビニールケースに包まれた新品の辞書でこれが欲しいと思う。
その理由は表紙が紙やビニール製ではなく革製で値段も普通の辞書を買うよりも安かった。
なぜ?お洒落な洋書に混じって辞書なんて売っているのかと不思議に思うものですが、今思うと誰か凄い専門書の収集家の先生の遺品に混じった辞書ではなかろうかとも思う。
先生がお亡くなりなると家族は本の整理に困るという話はよく聞く。
紙を運ぶことは大変な重労働でもあり、これこそ握力をにぎにぎと溜めて力を発揮しないと運べないものである。
愛着のある重い本は小さくコンパクトに纏めることもまたフレイル予防なのかと、いやいや、終活なのか。
いやはや、なんでも「活化」して我らとは何だか切ない。
革装丁の辞書は本物の中二にとっては正にお洒落なものですが文字がお洒落に小さすぎて普段は学校指定辞書を使っていた。
なので、この辞書はほとんど使わない辞書でもあるがお洒落なので東京まで連れてきた相棒でもある。
「辞書はやっぱー革装やな~」と思うもので時折出しては単語を調べている。
ページをめくると丁寧に“まえがき”に魚の落書きを2匹描くもので1匹は鯛で、もう一匹はカツオなのかの丁寧な仕事ぶりだ。
そして、最後のページはキレイに剥がした古切手を貼りデコレーションもしている。
背にはABC索引を手書きして、辞書とは案外背に「あいうえお」や「ABC」など索引を印刷されていないものも多い。
我が家の辞書を調べても国語辞典以外は印刷されていない。
パラパラと頁をめくると調べた単語のremindやrequireに蛍光ペンで線引きしていて何か面白い。
「やっぱり本の表紙は革装丁に限るな~」と触り心地にうっとりだ。

経年劣化でカサカサとハゲそうな予感の革の表紙の辞書に油を塗ってメンテンナンスをするもので、今日の辞書はとても良いグッドコンディションである。
昨晩は下駄箱をガサゴソと以前ドイツのスーパーで購入したシュークリーナーを掘り出してくる。
先端にブラシとスポンジが付いていてこれはどうやって使うものかなーとサル学の被験者のようにあれこれと使い方を探る。
ヨーロッパに行くと現地の人たちは皆靴をピカピカに磨き履いているもので「やっぱー靴はピカピカやな~」と1回も使用しない靴磨きの裏面の説明書きを写真に撮ってドイツ語を翻訳する。
すると薄い革には使っちゃ駄目と書かれているので他の革磨き方法を探す。
先ずはハンドローションを表面に塗ると革に馴染む良い感じ。
しかし、もっと革に馴染むローションが欲しいものでありボタニカルなナチュラルローションを塗り込む。
成分は水、ヤシ油、セテアリルグルコシド、オリーブ油脂肪酸ソルタビンと本当にボタニカルなのかと塗り込む。
ボタニカルとは植物由来のことでこのローションはグリセリンのような白くネバネバした何かを白さが無くなるまで伸ばしながら塗り込むと辞書から甘くて良い香りがする。

たぶん復活ということで、

オレはやったーついにやったーのである。
往年の古い革製の辞書にボタニカルなローションを塗り込み皮も柔らかくなる感じ。
この辞書は紫外線が当たらない場所に置き、これからも長く大切に使っていこうと思う。
辞書はネットで調べればすぐわかる時代だけれども辞書での調べものもまた良い。

 
■2026年5月13日(水)
■ゴロゴロとひと雨ふりそうだ。降っていた。
■2026年5月14日(木)
■一日一文章トレーニング。

「かわ・かわ・かわ・かわゐい」

触り心地の良い革装(かわそう)された立派な本には高級感に相応する中身の詰まった情報が必要だ。
私も何か世界に一つだけの革に包まれた御本を作ってみたく、さっそく、朝から革表紙に釣り合う御本の内容を思案する。
革装の本の中身は変なキャラクターの一騒動だと軽すぎる。
やっぱり、どろどろとした人間模様の重厚さが必要で重~すぎるぐらいが丁度よい。
レザーショップで革を購入して革製本でもすれば芸も軽すぎもので、私は昨今世間を騒がしている熊退治をして社会貢献しながら熊の革を手に入れて革装の本を作りたい。
内容も熊革の装本が出来るまでの物語で、先ずはどうやって熊を仕留めるかと大問題。
どうやら大きな熊は300kgな巨体に立ち上がると2m超えの高身重となり鋭い爪と大きな巨漢の高速突進で攻撃してくるようだ。
何の準備もなければ筆者はすぐに殺られて革装となるのは私自身だ。
前編は熊に殺られた私が革装となるホラ話で、この革装丁の本は人の革で出来ていますよと超怖い。
なので、筆者は再び蘇って、先ずは金太郎探しや、美味しいきび団子を買ってまったりと食べる温泉回となる。
どこのきび団子が美味しいかと猿やキジ探し、犬も仲間にする。
象でも倒せるダーティハリーな拳銃でもあればすぐに物語も終われるかもしれないもので、いやいや、熊の革装にお似合いな話とはドストエフスキー的な長編物語とはならない。
そして、勝手に山に入って熊退治でもすれば野生動物愛護な何かの罪状となる予感で目には目を野生には野生をと、鷹と凶暴な犬の一団を調教する物語が始まる。
空と地上から熊退治を実行して熊の革を調達する。
そして、ラスボスは環境団体との壮絶な戦いとなる。
私は熊のボスと和睦してバディーとなりて偽善者たちと戦う。
敵の敵は味方の最終的に熊に愛着も湧いた普通の紙製本を作り壮大な熊退治のSFハウトゥー本となる。

あ~熊は怖い、人間革の本も怖くて、自分も何だか怖い。
これはホラーだ。

そして、私は“革”と“皮”の使い分けもよくわからない。
さっそく辞書で調べると、「皮」とは毛皮な毛のくっついた“かわ”のことで、その毛をとった“かわ”を「革」と表現するようだ。
そう言えば、“かわ”には毛の生えた「皮」と毛のない「革」があるもので、私の身の回りには“かわ製品”も少ないもので考えたこともない”かわ”である。
そして、足の速い神様の韋駄天の「韋」も“かわ”のことのようで、なめして柔らかくした「韋」を「なめしがわ」と呼ぶ。
「皮」「革」「韋」と全部へんなる部首の異なる分類の同じ“かわ”のことで加工順の見た目の違いで言葉も変化する。

皮→けがわ・ひのかわ部
 →自然のままの毛のついた皮。

革→かわへん・つくりがわ部
 →毛をとり人工的に加工した革。

韋→なめしがわ部
 →なめすことにより韋駄天のように崇高に輝く韋。

“かわ”に手を加えて加工すればする程に自然の“かわ”から人の手が加わった美しい“かわ”となる。

ということで、

「革」を見ていたならば「革命」なる文字のなぜ?革命が“革・かわ”なのか?とても気になる。
あれこれと思案していると熊退治な脳みそは“かわ”は何度もなめす古くからの知恵を見つける。
毛皮なる毛を剃って革命となることは昔の人は革命を表面上のことであると表現しているように思う。
革命とは見た目の毛を剃った状態であり、これは中身に一切変化を及ぼさないことと言っているのが面白い。
実際に表面上のすげ替えることと言えばそのような感じで、中身や本質とは何かと考えると核である。
核とは何か、核を自覚しようと思っても夢のような覚えざる曖昧模糊とした知覚でもあり掴みどころのない「覚」である。
“かわ”とは何か、それは恐らく境界線を流れる見た目の変化のことで情報の解釈である。
昨日の植物性のボタニカルにしても何が植物性なのかよくわからない成分で、何がどこまで植物性なのかと思ってもボタニカルな情報だけが先行するもので中身はよくわからない。
そして、今、話題のポテトチップスな件も2021年から植物由来のバイオマスインクの環境由来のインクに切り替えていたようで、どうして今更ナフサ云々なのかもよくわからない。
これは不思議なことでもありますが石油も植物性と言えば植物性でもある。
“かわ”はありのままの毛のある“かわ”であったり、表面を剃って加工して、なめしたりと中身な本質を表さない表面上を流れる一種の様々な加工状態な見た目の情報である。

たぶん。

 

*デスクトップ画面用の画像です。
■2026年5月14日(木)
■かわー。
■2026年5月15日(金)
■一日一文章トレーニング。

「鎌倉でゲリラ豪雨に降られてずぶ濡れとなる」

昨日、鎌倉風情の残るお寺を参拝する。
「ぷ~ん」と草の香りが漂う新緑のキレイなお寺を散策して、さて何を祈るかと「こんにちは~え~こんにちは~え~」と我参上候の挨拶の舞いを祈る。
お寺や神社でのお願いごととは何を祈るかといつも悩むもので制限時間内の願い事とはうだうだくねくねと歯がゆいよくわからない祈りを唱えるものだ。
いやはや、何年ぶりの鎌倉かと思うもので人も車も少なくてとっても良いお寺日和。
お寺に来ると隅々まで見て回りたいもので靴も脱いでノリノリにお邪魔をする。
そして、再び靴を履いて外に出ようかと思うと足はつる。
左足の靴を履こうと靴に足を突っ込んだ瞬間に左足に激痛が走りて「イタタイタタ」と、とりあえずヤバイ痛さなので今度は右足から履こうとすれば右足の筋肉がひっくり返る。
「イタタイタタ」
両足がつって我はジ・エンド何々である。
寺参りとは脱ぎやすい靴必須の理でありますが、今回は鎌倉に行くということで私は履きにくくてお洒落な靴を履いて来た。
そして、往年の横着者は靴の紐を結び直すような手間をかけないもので立ち姿勢のままの強引に靴ベラで足を押し込んだことが原因でもある。
足をピーンと伸ばした状態の靴に突っ込む無理な体勢が足をつらすようで、私は「たんまたんま」と他人にはわからない筋肉の裏返す激痛に痛い・痛い・ヤバイ・ヤバイ・どうしよう・どうしようとなる。
両足がつればもう歩けないものであり絶望する私の最後の砦はメンタムだ。
このような事もあるものかとバックにメンタムを仕込む僥倖で、メンタム業界の回し者ではありませんがほとんどの体の痛みはメンタムを塗れば大抵治る。
とりあえず、足の筋肉にメンタムを塗りたくり激痛も収まり、私は1足1足丁寧に靴紐を結びながら結構の長い時間をかけてただただ靴を履くだけの長い時間を費やす。
そして、生まれたての雛のようによちよちと歩みを進め、さて、これから山のてっぺんまで参拝できるべーかなと思案していると、どこやからと雨の音が聴こえるもので、すぐに地面に大粒のポツポツとした雨跡がつく。
とりあえず、屋根のある休憩所に避難して足の痛みをいたわりながら雨が止むのを待つ。
すると、雨はどんどんと激しくなりピカピカゴロゴロと物凄いゲリラ豪雨となる。
欧米人のツーリストはこのような雨でも合羽を羽織りて山上へと登っていくもので雷の怖さとは世界共通の理ではないのでしょうか。
もし、足がつっていなければ元気に山の頂きを目指して歩いていたもので、今頃は山頂や山腹で雷や大雨でずぶ濡れに怯えて過ごしていたものかもしれないことを考えると、足はつって痛かったけれども足がつって助かることもある。
私は雨宿りしながら雨に濡れる寺の風情を眺め雨の匂いをクンクンとぼんやりと過ごす。
そして、雨は止むどころかピカピカドンドコとますます凄い雨となる。
そうすると、一羽のハクセキレイもピョンピョンとやって来て木陰で雨宿りをしている。
奈良の鹿が人と一緒に雨宿りする動画を観たことがありますが小鳥にも雨宿りな概念はあるようだ。
そう言えば、お寺に参拝してバケツを引っくり返したようなゲリラ豪雨に遭うことはこれで3回目で、2回は京都のお寺でのゲリラ豪雨で雨が小降りになるまでぼんやりと過ごすものである。
その内の1回は京都知恩院の人っ子一人もいない山門でゲリラ豪雨に降られていつもは観光客で賑わう山門の下で羅生門の主人公の如くごろりと寝転び雨が止むのを待った素敵な思い出だ。
もう1つの京都の寺でのゲリラ豪雨は本当に物凄い雨で流石にタクシーを呼んだ。
1時間以上待ってもますますピカピカゴロゴロと雨は激しくなるもので雨雲レーダーを見ても止みそう感じもなく少し小降りになった時に駅に向かって歩き始める。
小ぶりとは言え服はビチャビチャに濡れて化学繊維の乾きやすい服を着ていたことは良かった。
そして、コンビニも何も無い道を駅に向かって歩くと「車祓い」の看板のある辺りで再び地面を叩く白き矢の如くの雨の雨宿りで、また小降りになった時に歩き始める。
傘指す団体観光客の一団を追い抜き、アーケードのない商店街を抜けて駅に着いた頃には雨はかなり小降りとなっていた。
正に大降りになって出る雨宿りみたいで東京に戻ると雨の気配は一切なくてずぶ濡れの服な違和感でもある。
私は鎌倉のゲリラ豪雨でびしょ濡れとなって、何だかいつでもどこでも何かをやらかす騒がしさだ。

 

*デスクトップ画面用の画像です。
■2026年5月15日(金)
■コロコロ。
■2026年5月18日(月)
■一日一文章トレーニング。

「皮を鞣すこととは皮を腐らなくすることである」

以前、長年使いカサカサな持ち手となった貝印のミニ包丁を油引きして復活させましたが、今度は持ち手が割れて隙間が開いきたので修理する。
前回修理した時にも少し隙間が開いていましたが、その時は木をやすった木くずを木工ボンドと混ぜて穴埋めした。
しかし、そのような自家製のパテ埋めも洗っているうちに剥がれ取れてしまうようで写真のような隙間が空けばこの穴の部分から劣化しそうな予感でもある。
さっそく包丁1本修理して~と木工用のパテを購入するかどうかと思案する。
先日、木工パテを見にホームセンターに行ったのですが他のモノが気になって本筋の木工パテを買うのも見るのも忘れて家に帰宅する。
ボンクラに買い物リストは必須である。
冷静に考えると僅か1センチぐらいの細い隙間を埋める為にわざわざパテを購入するのもどうかと思う。
これは以前からよくオススメ動画が流れてくる挿し木を芸術的に埋めするトリビアを実践する時である。
パテ埋めには縁がなかったと、さっそくカマボコ板を用意する。
カマボコ板は捨てずに取っておくのが我が家の決まりで良かった。
カマボコ板の側面からカッターナイフを挿すと薄くキレイな板状の木片が切り出せるもので、これを穴埋めの材料とする。
細い穴にピッタリと合わせて切り出せるのかと思うものの、ここを削りここも削ってと地道に削っていると何だか適当ですがそれなりに収まる。
そして、その穴詰めの木片には高分子の木工用ボンドでたっぷりとつけて穴に差し込み、はみ出たボンドはキレイに拭き取る。
接着が乾いたならば今度は木片の余計な部分をニッパーでカットして、細かい部分はカッターナイフで慣らそうかと木を削っていたならば木が割れて剥がれてしまう。
再び割れた木片は木工ボンド漬けにしてから中に戻し穴埋めして、カマボコ板とは少し柔らかい木であるようだ。
道具とは手入れして直せば直す程に愛着も湧くもので修復の跡の色違いを含めても愛おしい。
再びボンドが乾いたならば今度は削り負荷をかけないようにヤスリで木のバリを削り落とす。
こうして表面を削り地均しものがこの小包丁だーエッヘン。
包丁もそろそろ研ぐ時期かなとも思うもので、あちらこちら刃の歪みもある。
夜な夜な愛用の包丁を研ぐ小話とはなかなか面白いホラー話で砥石が欲しい。
しかし、砥石とは滅多に使用しないものなのに値段も高くヤスリの番数みたく荒削りから表面の艶出しみまで数種類もあって揃えるのも大変だ。
餅は餅屋と砥ぎ屋さんにお任せするのが良さそうですが、自分で刃を研ぐストーリな経験を捨て難きことで、さて、包丁砥ぎはどうするかなのやっぱり研ぐ経験はお金では計り知れない。

ということで、

肉や野菜をサクサクと切る包丁ですが、そのような動物の皮を剥ぎ取るナイフもまた包丁だ。
部首から視る「かわ」は「皮」「革」「韋(なめしがわ)」と三種類見つけましたが革を加工する業界では“なめす”ことを鞣す(なめす)と書くようだ。
恐らく人生で始めて見て聞いて書く鞣す革の字で、これは革を柔らかくすると書いて鞣すとなる。
工場の工程は原皮を水漬けにして1日洗いキレイにしてから、次に毛を取る為に強アルカリ性の石灰に漬けて皮を柔らかくして毛穴を膨らませてから毛を抜くようだ。
バリカンのようなもので毛を剃っているのかと思いきや製革の工程とは科学的である。
毛が抜けた皮は何ミリとさらに薄くスライスする分割作業に入り必要な革素材として加工していく。
その後の工程とは耐久性や耐熱性など伝統的なタンニン鞣し、金属で鞣すクロム鞣しなどと様々な手法で革を丈夫に柔らかく平滑性や色を染めてと必要なカタチへと職人さんが仕上げていく。
最初の剥いだ原皮には肉片も付着しておりそのまま放置していると腐ってしまう。
生物から取り出した皮が腐らないことは冷静に考えると不思議なことだ。
皮を鞣す行為とは皮を革にして腐らなく加工のことで、これは死んだ生物の肉体が腐敗する常識を鞣すことで腐らせない永遠性を取得する意味である。
そのようなことを知ると韋駄天の「韋(なめしがわ)」部首が高貴に捉えられる所以も理解できる。
即身仏としてミイラと仏様となるお坊さんもいらっしゃいますが、これは「皮」から「韋(なめしがわ)」となる腐らない道筋のようにも思う。
そして、そのような悟りを開いた境地な事柄も表面上の“かわ”として本質的な中身とは別物であるという線引きもまた何だか深い。

 
■2026年5月18日(月)
■太い筆。
■2026年5月19日(火)
■一日一文章トレーニング。

「極太の筆をゲットした」

人は1本の葦(あし)にすぎない。それは最も弱きもので、それは考える葦である。
byパスカル

この文章は私でもなぜかよく知っている名言で、葦とは沼や水辺に生える多年草のこと。
なぜ?人が葦なのかと考えてもその真意はわかりませんが、葦は風が吹けば一斉にザワザワと揺れる草であり、葦原の中からは得体の知れない何かや大熊が出てきても不思議ではない怖さもあって、また、水が引き冬枯れもしてしまう存在でもある。
葦の1本1本は脆弱で簡単にポキっと折れてしまう外部の影響をもろに受けるか弱さである。
しかし、まとめて葺けば屋根となり簾や床の間に生ければ人の生活をより良く豊かに彩る草にもなる。
フランスにそのような葦の文化があるかどうかはわかりませんが日本的にはそのような使用用途もあるもので。1本1本の葦には考える凛とした尊さと儚さを見出したのかもしれない。
※気になるのは「葦」は”草へん”に”なめしがわ”!!

ヨシとアシの違いも気になるもので調べるとほぼ同じ草のようだ。
日本語のヨシアシとはと善悪を決めない良し悪し(ヨシアシ)な語呂とも似ている。
伝統的に日本人にはヨシアシな響きが心に刺さるかもでパスカルの名言も私的にはそのような理由で刺ささるような気もする。
※時折、私は葦のことを蔦(つた)と言い間違えています。草
「良し悪し」とは良いこと悪いことではありますが、会話の中で使用すれ、良いことも悪いこともいちがいには決められないニュアンスでもある。
昨今、善悪とは白黒明らかに色濃くなるもので、これは世の中を照らす光があまりにも強すぎる為に起こる現象ではなかろうかとも思う。
ヨシとアシと言えば真っ直ぐ伸びて頭を垂れるイネ科のことで十五夜とお月様とお団子、ヨシやアシなススキを生けて月見団子することは日本のおとぎ話な基本でもある。
お月様を見ながらお団子を食べたのはいつ頃かと思っても月見団子するような風流には生きていないもので、小さい頃に月夜に照らされた明るい庭をわいわいと遊ぶぐらいが関の山。
都会に住んでいると月の明るさを感じることはありませんが、月夜とは周囲を昼間のように明るくて照らすものである。
そして、そのような明るい月明かりでも文字でも読もうと思えば暗すぎて読めない良し悪しつけることの出来ない明るさでもある。
ヨシやアシの境界線とは文明との狭間という側面はあるかもで、人にはたまには明かりの弱い世界で生きることも必要なのかもしれない。

ということで、

横着人は最も弱き1本の葦ではありますが、それは考える葦でもある。
byパパ・スカル

筆書きの良さは強弱の線や面塗りにかかる時間が速いこと。
ただし筆を使う度に洗うことが面倒で横着人にはハードルも高い。
そこで考える葦の横着人は筆を洗わない方法を考えるものでカートリッジ式の筆ペンを愛用している。
このペンは時折話題にするお気に入りのペンで墨汁でつけペン状態にしながら使用している。
もう何年も使用していますが筆がヘタることもない。
そして、横着人は大きい面積を黒塗りする時にもっと極太の筆ペンが欲しいと思うもので以前から太書き用のカートリッジペンを狙っていた。
普通に売っていた時にはいつでも買えるだろうと放置していたならば、いざ買おうと思う時は売っていないもので黒インクの代わりに朱肉インク用の太筆カートリッジペンを購入する。
カーリッジを軸から開放すれば何だかひび割れから朱色インクが液漏れしているもので、とりあえず、カートリッジの蓋も開けてプラモ用のインク瓶に朱肉を流し込む。
そして、カートリッジはキレイに洗浄してピカピカの空っぽタンクにする。
朱肉とは習字の授業で上手に書けたと思う渾身の一筆に先生があれこれと「ここが良い、ここをハネる」と余計なメッセージを書き込むもので、私は「せっかくの書になんてことをしてくれるのだー」と朱肉の第一印象はあまり良くない。
赤と言ってもほぼオレンジ色でそのようなインクの用途も思いつかないもので、とりあえず塩漬けにした。
そして、私は太筆のノリをキレイに洗い流し墨汁につけて大きな字を書く。
最初の字は「留まる」の「留」。
もともと学校の授業レベルの習字で上手に文字を書けること自体が無理難題。
そして、文字も大きく書けば誤魔化しも効かないものであからさまの汚字となる。
字のキレイさとはその人の心のキレイさを表すようなことを聞く度に若かりし私は「アハハ~そうですか~」と不気味な笑みで心を痛めていたものだ。
しかし、大きく成長もすれば図太くもなり汚字とは味だと言う屁理屈理論でもはや馬耳東風。
人には得手不得手とはあるものだ。
それにしても、でっかい文字、太い線には迫力があるもので、そして、大きな黒面も一気に塗り込めることもできて横着者な葦な奥義を一つ増える。

 
■2026年5月19日(火)
■面塗り塗り。