*デスクトップ画面用の画像です。
■2024年5月1日(水)
■一日一文章トレーニング。

「アメリカ文化の特徴は世界観の構築にあります」

アマゾンのFalloutを観ています。結構、グロイお話で観る人を選ぶお話でもありますが3話まで観た。(私は結構好き)Falloutは昔、PS3で遊んでいましたが16年ぐらい前のゲームでもあるので流石に内容は覚えていない。さっそく、遊んでいたゲームを棚から掘り起こしてくると「ゲーム オブ ザ イヤー エディションのFallout3」です。中を開封すると説明書が入っており少し感動です。最近のゲームでは遊び方の説明が書いた冊子は入っていないことが多く、このような説明書が入っているとうれしいものであります。「サバイバルガイド」と書かれた説明書を見ていると、イラストや写真もたくさん使用されており、それだけでもうれしいのにデザインやレイアウトもまんまFalloutの世界観が再現されております。この冊子を見るだけでも、このゲームの作り手たちの愛が伝わるものであります。覚えていることと言えば、ヌカコーラーや手にはめるPIP BOY 2000端末機のこと。PIP BOY 2000は昔、アメリカのギークサイトみたいなところでリアルに再現されたものが売られており、とても欲しくなり悩んでいた記憶です。毎度のことですが「これを買うのか?買わないのか?」と考える沼にはまり「端末機は装着することも、飾ることもないだろう」との結論に達して結局買わなかった商品でもあります。PIP BOY 2000は端末を操作するとレトロなジャズな音楽やラジオのようなものを流すことが出来て、その音楽を聞きながらルンルンと世紀末のオープンワールドをてくてくと歩き、スーパーマーケットなどに陣取る敵を攻撃して素材を集めしていました。ほぼ、何も覚えてはいないものの、そう言えば、高層ビルの屋上から通行人をライフル射撃している土地のヤバい支配者みたいな人に雇われて街に埋まっている不発弾を起爆したような記憶もあるものだ。何だか無茶苦茶なゲームであるものの、とりあえず、何をしたら良いのかわからなくて物騒なオープンワールドを彷徨い探検しながら遊んでいた感じでもある。ゲームの基本はものを拾って、武器に加工し、敵を排除して、困っている人を見つけたならば手助けをするという王道みたいなゲームでもある。どこからどう見ても悪側と思われる支配者の手助けとはよくわからないものではありますが洋ゲーではそのような強者への手助けはよくあるシチュエーションでもある。今、ディズニーワールドの本を読んでいるのですが、ディズニーの基本文化も園内を散策して、キャスト(ワーカー)がゲスト(お客様)の困っている姿を見つければ、駆け寄って手助け(クエスト)を実行するという企業文化でもあります。その意味では世紀末のFalloutもネズミーランドの世界も見せるものが違いはあるものの、広い意味では大きなディズニランドを散策していることと同じであります。そして、このゲームの良いところは細かい部分までしっかりと作り込まれた世界観があること。これもネズミ文化と同じで、PS3のゲームなので今その画面を観たらガタガタであるとは思いますが、当時は凄くキレイに見えたものであります。そして、それはディズニランドにも引けを取らない細部まで作り込まれた世界でもあり、やっぱり、世界観とは誰も気づかない細かい部分まで作ってこそ、その世界に対する質量やリアリティを増していくものであると思われます。Fallout3にはそのような作り手の愛情を節々に感じますし、当時のFallout3、Oblivion、スカイリム、レッド・デッド・リデンプション、バイオショックなどの洋ゲーにはこのようなディズニー文化に通ずる「世界観を作る」というアメリカ文化の一端を感じるものであります。

 

*デスクトップ画面用の画像です。
■2024年5月1日(水)
■暴走もぐら。

*デスクトップ画面用の画像です。
■2024年5月2日(木)
■一日一文章トレーニング。

「ゲストがキャストにもなる世界は恐らく最強です」

ディズニーランドには毎日何万人のお客様が来園します。
そして、そのほとんどの「ゲスト:客」が顧客満足度をMAXに高めながら自宅に帰っていくことは驚くべくことでもある。
私達は通常、日々クレームがないように精進するものの、このような顧客満足度を高める何かが身近に発見することは出来ません。
たくさんの人がいれば、人混みに揉まれて待たされうんざりとするもので、また、多くの事柄をこなすとなればロボットのような行動で消耗していくのも人という生き物でもあります。
確かにディズニーランドでアトラクション待ちはありますが、待たずに進めるプライオリティ・パス(ファーストパス)という抜け道もある。
不満への短縮ルートを持っていることは大切だ。
そのような満足度を高める方策が「キャスト:働き手」が持つディズニー文化でもあるようで、特別に細部まで作り込まれた世界観もその一要素でもある。(ざっくりと読んだ解釈)

このような広大な世界観とは一人の人間が作ることは大変なことでもあって、多くの叡智を結集して作品を作るというのがアメリカ的な文化かもしれない。
直感的ではありますが、米国の大型作品にはたくさんのプロデューサーが名を連ねているものを見かけます。
Falloutなどを観ていても最後にたくさんのプロデューサーの名前が並び、これは多くの人の意見やアイデアを結集させて作っている作品であることはわかります。
悪い意味だと没個性的と言えるかもしれない。
一人の人物の個性によって作品を作るとなれば、それはとても特徴的な作品となりますが、一人で世界の隅々まで構築することは困難でもある。
日本の作品だと一人の作家性に束ねられる作品が多いように思います。
勿論、多角的な意見に集約されるとは思いますが最終的に一人の人物の創作物として吸収されて、別の人のアイデアがカタチとして残ることはない。
米国文化とは時に個人の才能と資金力で面白い作品を作っているようにも感じますが、案外、面白き作品になるように多くの人たちとの議論の末に作られているものかもしれない。(勝手な分析で確証なし)
そのような意味では「個の能力で作る日本(個人主義)」と「集団の叡智を合わせて作る米国(集団主義)」と通常のイメージと真逆でもある。
多数の議論を交わすこととは自分では気づかない異なる視点や面白い事柄に気づくこともあるでしょう。
1CPUよりも複数CPUやデッカイGPUのような感じで多数の目線があることは強みでもあります。
意見は多ければ多い程、良い解もあるのかもしれない。
そのような意見を戦わせる議論の場であるとすると、会議に来てメモだけして意見を何も言わないことは何とも不気味なことでもある。
日本だと全会一致で均等に責任を負わせるようなことが善き場でもあり、余計なことは言わないことは美徳でもある。
全会一致の良いところは皆が納得しているということであり、悪い意味だと責任の所在が明確でないことでもある。
何かを普通に議論していれば普通に反対意見もあるもので、米国的な考え方だと全会一致の意見には何か欠陥があると考えて不採用にする考え方もあるそうだ。
そして、面白き世界になるように多数の意見を集約して一つにまとめたとしても、最終的に周回回って再びやっぱり日本的な一人の作家性に戻ってくるようなメディウスの輪にも見えてくるものである。
多数を一つにまとめることは難しいことで、そこで、ゲストをキャストになるような仕組みが必要なのかもしれない。(オープンソースみたいな)

「キャスト:働き手」「ゲスト:客」の関係性を考えていると、ゲームの中で遊ぶ私はゲスト(お客)でありながらも、キャストでもあるような不思議な感覚になります。
ゲーム世界で困ったNPCキャラクターの問題解決を行えるのは自分自身だけであり、そのような意味では私はキャストのような立場もある。
広義に於いてゲームを購入する客でもありながら、ゲーム世界に浸る内にゲーム内でバイトをして、お金を貯めアイテムを購入し、荷物を運び、使い走りの労働まで行うのである。
そして、協力プレイヤーを召喚や敵対者の侵入により、皆でわちゃわちゃとその場を提供する主:キャストにもなる。
ある意味ゲームはゲストからキャストへと頭の中をうまくチェンジ出来ないと楽しめないものであり、バグが発生した時に批判している時はお客目線であり、バグ発生で情報共有したり良い環境になって欲しいと思った時にキャストになったような気もするものだ。
キャストを英語で調べると、「cast」で映画、演劇、番組のキャスティングのこと。
これは場の世界で演じる全ての演者のことを指す言葉でもある。
今まで私はゲーム内で「演じている」と考えることはありませんが、考えてみるとハマっていたゲームの世界では役を演じ一人のキャストとして楽しんでいたようにも思うものでもあります。

 

*デスクトップ画面用の画像です。
*デスクトップ画面用の画像です。
■2024年5月2日(木)
■多角的な視点。

*デスクトップ画面用の画像です。
■2024年5月3日(金)
■GW:後半。

*デスクトップ画面用の画像です。
■2024年5月7日(火)
■一日一文章トレーニング。

「人は歩み移動させることで価値(かち)を生み出し、同時に徒(かち)なる虚しさも生み出すものなのかもしれない夢の話」

GWGWGW(ぐうぐう)と海に思ひつつ寝ればや〜〜〜と決して海まで辿り着くことはできない遠き海でもある。ゴールデンウィーク中でも辿り着けなかった海には、結局、夢の中でも辿り着くことができないようでGW開けの夢は結構な悪夢でもあった。夢の内容は知らない人達が狭い我が家に大勢泊まりにやって来て、素泊まりカオスの臨時宿泊所となって小銭を稼いでおりましたが、GWも開けてやっと皆帰宅したと喜んでいたら、キッチンの鍋から私のお気に入りの服、フィギュアまでごっそりと宿泊者たちが盗み帰り家の中が空っぽとなっておりました。私は朝起きて「大損だ」と棒立ちで、あいつらは絶対に許さまじきとメラメラと闘志を燃やして怒りの朝を迎えて目覚めます。朝のおトイレついでにお気に入りの服を見つけて「あったあった」と夢で良かった安堵するGW開けの朝でもある。

ということで、

ゴールデンウィーク中に海まで行けなかったことは我が瞳に数点に曇りを作り出したのかもしれません。川を上り下るには川まで行く必要があって、それだけでも十分な距離を移動するものでもある。なので、車が走る車道を大きな河に例えて川沿いを歩く解釈もあるものだ。てくてくと道を歩いて下り途中で寄り道。ソフトクリームを食べて、北の丸公園で手作りのおにぎりを食べようと近づくと国立公文書館で今話題の紫式部・源氏物語の夢見る光源氏展(無料)を見つけて拝観します。展示内容は昔の人が夢見た夢は単なる夢ではなくてお告げや不思議な夢だと考えていた内容で、夢に関連する本物の古文書と解説があります。私は先日、2000円札の裏面に古文章を見つけて読むように頑張ってもいたので、その成果もありミミズが這ったような達筆な古文をすこす読めて感動でもある。

思ひつつ (寝)ぬればや 〜〜〜(小野小町)

読めた部分は「つ」です。
「つ」は「徒」を崩した文字で書くこともあって画像のようなほにゃららと書く。
それが読めただけでもうれしいものですが、当然全部読める訳ではありません。
ほとんどは読めないものの、先日の浅知恵を使いて文字を追跡します。
「れ」や「は」も難しいのですが、「れ」は連想の「連」から、「ば」は「者」が崩れて「む」のような仮名を書きます。
これらはとっても難しく、誰からの教えもないので自分流の解釈で間違っているのかもしれませんが、筆跡から解釈すると図のようになる。
細かくしっかりと書き込まないといけない漢字のパーツはほにゃららと省力するのが平安流の美学かもしれなくて、元の字の漢字がわかるとその漢字のカタチをなぞるように字は崩されているものでもある。

「つ」を「つ」の仮名を書かずに「徒」の字を使って書くことは不思議なものだ。

「徒」にはいくつかの意味があり下記のような意味になる。

1)御徒町のように「かち」と読み「歩くこと」を意味する。
2)「あだ」と読めば、努力の結果が虚しいこと。
3)「いたずらに」と読むことも出来て、徒食(としょく)のような無益な意味となる。

漢字の意味は足で「土」を踏んで道を行くという、かちで行く意味と音をあわせたものである。
無益や虚しさの意味の由来はよくわかりませんが、徒然草(つれづれぐさ)にも何か虚しさはあるものだ。
その虚しさを表す文字が「徒」である。
勿論、徒然草は全部読んだことはありませんので詳しくはわかりませんが、普通に何の迷いもなく「つれづれぐさ」と読んでしまう不思議でもある。
よくよくと考えてみれば、「徒然草」を「つれつれ」と自然に読んでしまうことはおかしなことである。w
今も昔も日本人は「草」が好きなもので、日本語の音訓仮名カタカナの無茶苦茶さとは英国王が離婚する為にプロテスタント(改革)の国教会を作るぐらいに同じ島国の大いなる神秘性を感じるものだ。
島国には本質以外の何か別の本質はつきものなのかもしれません。
「つ」は歩くことの無意味さを語っているのかと考えてみると、辞書に「影徒随ニ我身一(かげいたずらにわがみにしたがう)」とあり、影がただ私の身の回りについてくるだけの虚しさのことを言っているようである。
小野小町の一文は「思ひつつ」の「つ」を「つ・徒」の字にすることで、夢の虚しさや無益さを表現しているのかもしれません。
よって、歩くことの「つ・徒」の意味に常に虚しさが内包していることは昔の知恵でもあり日本文化の一片かもしれない
私は人には動く動物でもある宿命でもある移動することで人には新しい(価値・かち)を生み出すものと考えていましたが、カチには別の(かち・徒)なる伝統的な虚しさも発見して困惑します。
人は歩み移動させることで価値(かち)を生み出し、同時に徒(かち)なる虚しさも生み出す者なのかもしれません。

 

*デスクトップ画面用の画像です。
■2024年5月7日(火)
■吸引力。

*デスクトップ画面用の画像です。
■2024年5月8日(水)
■一日一文章トレーニング。

「生けている桜の枝から藻が生えて(w)光合成の酸素を出している姿が美しい」

今朝の室温は23.1℃・湿度68%。寝ていたら暑くて布団を剥ぐのですが、暫くするとやっぱり寒いと布団をかぶるような室温です。昨日は雨で今日も曇り空。そのような天気でもあるので気温は上昇することはありません。暑いけど寒く感じるのは暑さ寒さの中間地点・季節の境目にいるからなのかもしれません。これはある意味、今が最も快適な気候なのかと思うのですが、GW開けのこのような曇り空で気分も上がらないのであります。「カモーン太陽」。

写真は燦々とおひさまが降り注ぐGW中のひととき。春がくる前の冬に桜の花を咲かした枝は数本の新緑を生やしてまだ健在です。希望としては枝から根が生えて土に植えたいと思っているのですが、そのような兆候はまだない。なので、ビンに枝を挿し植物界のお嬢たちの側に置いて「元気に育て〜」と願掛けながら生けております。しかし、日に日に桜の枝の元気も無くなり、少しずつ葉を落としていくものです。どうしましょう。そのような桜の散った枝を捨てずに透明のガラス瓶に入れて生けておりますが、水に浸かった枝から藻が生えてきた。藻はどこから生まれたのかはわかりませんが水の中はビン底に緑の草原を作り出すような感じの繁殖力でもある。放置していると手入れの行き届かない水槽みたいな緑色の水となるので、ヌマエビの投入や付着した藻をキレイに洗い流そうかとも思うのですが、藻が生えていることで良いこともある。それは花瓶に太陽光が降り注ぐとプクリプクリと光合成した酸素を藻が放出すること。太古の昔、地球はこのように少しずつ小さな光合成を重ねて空気ある世界を作ったのではないかと思うぐらいの原始的で美しい光景を見せてくれます。

因みに、藻の光合成で生まれる酸素が水面に上昇していく様子はやはり「プクリプクリ」だ。
プクプクな擬音に速度感覚や質量の大きさ、発生する場所の差異などイメージの差があることは面白い。
言葉とは何だかスゴイ。

プクリ・プクリ:小さな気泡が異なる場所から一つ一つ「プクッ」とゆっくりと上っていく感じ。
プクプク:小さな気泡が一箇所から一定間隔の速さで「プクプク」と上っていく感じ。
ブクッ・ブクッ:大き目な気泡の塊が異なる場所から一つ一つ「ブクッ」とゆっくりと上っていく感じ。
ブクブク:大き目な気泡の塊が一箇所から一定間隔の速さで「ブクブク」と上っていく感じ。
(ボコボコ、ポコポコ)

プクプクと水中から泡が立ち、花瓶の表面にたくさんの小さな泡を浮かべます。そして、その小さな泡が水面で割れると生まれたての新鮮な酸素が空気中に放出されます。葉っぱでも光合成は行われるものの、このような水中と違い生み出される酸素のカタチは見えないものです。このような藻から酸素が出る様はキャンピングファイヤーの炎の揺らめきを見るように心が落ち着くものがある。捨てる藻に何だか新しい価値を見出すものですが、藻の困るところは放って置くとすぐにガラス面に広がり汚くなること。マリモのような固体の藻が欲しいものだ。曇った今日のような天気でも藻にいくつかの酸素玉を付着させているので光合成はしているものと思われます。太陽が当たっている時みたいな活発な泡立つ酸素の放出には見ているだけの癒やし効果があるので、やっぱり「カモ〜ン太陽光」です。それにしても花瓶に藻が生えるとは何だか\草/なことである。花瓶に水槽みたいな藻は生えないものだと思う。

 

*デスクトップ画面用の画像です。
■2024年5月8日(水)
■雄叫び。

*デスクトップ画面用の画像です。
■2024年5月9日(木)
■一日一文章トレーニング。

「藻は太陽光に照らされてプクプクリと光合成し、火祭りは冬になると赤く紅葉して暖かな炎のような見た目で鉢を温めます」

昔、実家から持って来た多肉植物の名前を検索すると「火祭り・クラッスラ」という品種のようである。アフリカ原産でアフリカ大陸と縁もゆかりも無い我が実家の庭に自生していたことは不思議なものだ。おじいちゃんやおばあちゃんが多肉を買ってきて植えるということは先ず考えられません。母がそのような植物を買うことも考えられない。考えられるのは私が買ってきて植えることでありますが、そのような記憶もない。昔、スーパーで売られていた小さなミニチュアサボテンを買ってもらい、それを育てて、今や放って置きのメガトン級のヤマタノオロチのように大きく育っているものもありますが、多肉植物を買った記憶はないものだ。そのように考えると土地にもともと自生していたのかもと思ったりもする。鳥がくわえて運んで来た可能性もある。この多肉植物は家の隅っこのムカデなどが徘徊してそうな暗くてジメジメとした気持ち悪い場所にひっそりと生えていたものである。今も自生しているのか?はわかりませんが、東京のベランダでそれらは分家された株により元気に繁殖しています。鬱蒼と面で覆う多肉の森は、とても不気味な群生であるのですが、寒くなると真っ赤に紅葉すると美しい高山植物のような姿を見せてくれます。私もこの真っ赤な紅葉が大好きで、この植物を引きちぎり東京まで持って来たのである。この真っ赤に紅葉することとは「火祭り」の名前にピッタリだ。写真は夏用の緑色になった火祭りですが、寒くなると真っ赤に変色して火を吹いているようにも見えるものだ。このような和名からも、この多肉植物は遠い昔にアフリカ大陸から運ばれて来たのかもしれないものかと思ったりもします。モノの移動させる交易とは人が持つ基本的な特性でもある。江戸幕府の鎖国的な時代はとても歪な時代でもあって、これらは人々から富を奪い権力を中央に集めるだけの間違った政策でもあります。火祭りな植物を眺めていると江戸時代以前には交易が盛んで遠くアフリカ大陸や世界中からいろんなものが運ばれていたのかもしれないと思うことは出来ます。鉢イッパイに広がる多肉植物が鉢から溢れ出るように外に飛び出そうとするもので、自ら動くことの出来ない植物でさえ、地を這い、枝を伸ばし生息域を広げ移動を試みるものであります。一昨日は移動することは価値あるものであると共に、徒なる無益や虚しさも同時に見出すものと書きましたが、やはりその通りでもあり、鉢の外に新天地な土は無いとしても植物とは外に広がる移動をもって世界を広げようとするものであります。

ということで、

「火祭り」について辞書で調べました。火祭りとは火をたき、神あるいは祖霊を送迎するお祭りのこと。有名な火祭りだと京都の鞍馬(くらま)の火祭りや、富士吉田市の浅間(せんげん)神社の火祭り、和歌山県那智(なち)の火祭り、島根県出雲大社の1月1日の火切り臼(うす)、火切り杵(きね)の神事などが有名なようではあります。それぞれの神事の意味は知りませんが、機会があれば何かの火祭りを見てみたいものでもあります。火祭りな植物を自宅の庭に植えることによって赤く美しい紅葉を愛でるとことができ、また、火祭りとは我が家では便所草と呼ばれていたぐらいに(ヒドイね)排除すべく雑草でもありました・・・確かに見た目は他の多肉に比べると物足りない多肉感でもあります。ただ、昔の人であれば紅葉する赤い姿から火事のないような「火祭り」という願掛けのような有り難さを見出したのかも知れません。私も名も知らぬ「火祭り」という名の雑草を気に入り東京まで持ってくるぐらいでもあるので少々の神々しさを感じるものでもあります。

 

*デスクトップ画面用の画像です。
■2024年5月9日(木)
■かわいいぶるぶるブタ。

*デスクトップ画面用の画像です。
■2024年5月10日(金)
■一日一文章トレーニング。

「我がベランダに自然と生えた\草/不死鳥は雑草として抜きます」

いやはや、ザ5月という感じの体の気怠さ。
何だろうなの5月である。
気候的にも暑さ寒さの真ん中で快適のど真ん中でもある。
晴れては曇り、暑くなれば寒くなるという何ともハッキリとしない心持ちにもなる季節でもあるので、これは気温変化が大きい故の疲労なのかもしれません。
そこで、そのような時はノリノリなサルサなリズムに合わせてアミーゴとサビ入力します。

ということで、

不死鳥です。
メラメラと燃える炎により我が身を燃やし復活する不死鳥の如く蘇る5月。
ネタ不足のアンニュイな5月の「もぐランド(ベランダ)」の中の植物たちがキャストなのか?ゲストなのか?と毎日のどうでも良いことを考えます。
植物たちは愛でたく我が家に迎え入れられたゲストでもありますが、毎日一緒にいればキャストのようにも思うものだ。
キャスト・キャストで家族かもしれない。
キャストであれば自ら自然に働く文化でもありますが、我が家の植物たちはよく出来た植物ばかりで皆、放って置いても勝手によく育っております。
病気も無く、病害虫も無く、無病息災で何よりだ。
冬の寒い時期は放置状態なのですが、暑い時や私が喉が渇いた時には毎朝毎晩と水やりの水分補給も欠かさない。
そう言えば、草むしりもするものだ。
四葉のクローバーを見つけてはむしむしリと。
タンポポなどは2〜3日で急に大きく成長するので発見次第に引っこ抜きます。
そして、今、我がベランダの植物の中で一番の雑草だと思われているのはこの植物でもある。(写真参照)
名前は「不死鳥・カランコエ」。
不死鳥とは「フェニック・Phoenix」のことでエジプト神話の太陽の象徴とされた霊鳥の名前がついた多肉植物。
この植物も「火祭り」同様のアフリカ生まれの植物でもある。
ローマ時代には500〜600年周期で香木の炎の中で自らの体を焼き死んで、その灰から再び蘇生して空を飛ぶ不死鳥であると考えてられていた高貴な名前を持つ植物でもある。
ハリー・ポッターでも観たような気がする。
最初、この植物は1本も生えていなくて、突然、このような恐竜時代を彷彿とさせる格好良い植物が自然に生えて心トキメいたものである。
火祭りと同じくどこから湧いてきたのか?不思議な不死鳥だ。
なので、ラッキーな新種かもしれないと大切に育てていたならば大繁殖して今や雑草として10本単位ぐらいで間引かれます。
※全部は抜かない。
恐るべきことは抜いて抜いても増えてくるし、抜いた植物をそのまま放置していても、まーまーまー奴らは枯れることはありません。
試しに使っていない鉢に入れて放置していますがまだ枯れそうな予感はしないものだ。
その名の通りの不死鳥でもある。
なので、この植物には滋養強壮的な何か秘密のパワーが隠されているのかと思ったりもするものだ。
だからと言って、食べようとは全く思わない植物でもある。
そう言えば、多肉植物を主食にするような生き物はいないような気もするので、多肉植物とは食べてはいけない植物なような気がするものだ。(知らないけれども)
不死鳥のほとんどは小さな多肉植物として育ちますが、去年・一昨年には70センチ以上の巨木となって化け物級に育つ不死鳥もありました。
そのボス不死鳥は工事のついでに処分したのでもういませんが、不死鳥はこのようにゾンビの如く復活してくるので放置していると他の植物を駆逐する可能性もあるものだ。
なので、今年も鉢に生えた不死鳥たちを適当に間引きます。
雑草・不死鳥とは我がもぐランドのキャストなのかゲストなのかそれは問題でもある。
ゲストとして迎えたこともなく、キャストかと思えば今や雑草待遇でもある。
私はゴミを拾い、雑草を抜き園内をキレイにするキャストで間違いないような気もしますが、よくよく考えると植物とは全く動かないのでヘルパーさんのようにも感じるものだ。
私は動かない植物たちの世話をしながら、昨日、白菌鉢に水やりをしていると1本の茎だけが窓を閉めた室内でダンシングフラワーのように踊っていました。
ホラーです。

徒〜く(つづく)

 

*デスクトップ画面用の画像です。
■2024年5月10日(金)
■またゴミを作った。(ハッピーゴミ)

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■2024年5月11日(土)
■一日一文章トレーニング。

「徒〜く 太陽が眩しすぎます サングラスは必需品です」

昨日は太陽が眩しすぎたのでこのシーズンはじめてのサングラスを装着します。サングラスを持ってお出かけしていたことはグッドジョブなのですが「太陽が眩しすぎる」的なフレーズも好き。サングラスをかけると東京リゾートな気分にもなり、すこす気分もアガるものだ。ただ、サングラスから見える色眼鏡の世界は何かしらのフィルターに包まれたように感じるものだ。普段、移動の際は明日に書く内容やテーマなどを探索しながら移動するのですが、サングラスの色眼鏡をすると視界も霞んで発見力も落ちるものだ。あれこれと考えながら移動すること自体がおかしなことではありますが、色のフィルターで見える世界がぼやけることにも違和感があるものだ。そこで、ゲス種収集の為に眩しくともサングラスをせずにクリアな視界を取るのか?実利の為にサングラスを選ぶのか?と二者択一に立たされます。そして、私は間違いなくサングラスを選ぶものである。観察力が落ちたとしても気合いと根性の何とかの誇張と妄想スパイスも加えて一文章を書き上げるのであります。

後から知ったのですが大規模太陽フレアが発生しているようです。太陽からの電子と成層圏の電子がものスゴイスピードでぶつかりあって、どうにかなるのか?という難しいお話でもあります。あの太陽の眩しさが太陽フレアだと考えると妙に納得してしまうこともある。短時間ならともかく長時間外にいるとサングラスは必須でもあり、このように太陽活動も活発であるとすれば今年の夏も暑い夏となる予感もして覚悟を固めるものです。大規模太陽フレアが発生していることを知らない私は燦々と照らされた陽向道をてくてくと進むものでありますが、まだまだ日陰を歩くフェーズには来ていないことも確かなこと。ちなみに日陰ゾーンを競って選択するような境界線は恐らく梅雨明け数日後の「サマー」な強い日差し以降だと思われます。

ということで、

植物の不思議なお話です。

昨日、お部屋の植物も強い光に照らされて茎の先端がお辞儀してうなだれておりました。そのような姿を見ると植物が枯れてしまうかと、すぐに水やりを行うものでもあります。植物界のお嬢様もそうなのですが、寒い暑い、水が足りない、日差しが強いとの要望が多い植物も多いものであります。これら植物はあまりよろしくない環境の変化にぐったりとうなだれて教えてくれるので、小まめにチェックしていると緊急事態がよくわかります。彼ら彼女たちは秒の見た目で最悪な現状をアピールしてくるもので、我慢の仮面を被って細胞レベルで回復不能な損傷を受けるよりはアピールしてもらった方が有り難くは思うものではあります。ただし、自然環境で生きれない箱入り感はあるものだ。そして、このようなわかりやすさとは一種の有能な才能でもある。

植物にたっぷりの水を与え、眺めていると茎を左右にふりふりと動かして動いているように見えるものだ。(捏造ではなく本当です)風が吹いているのかもと窓を見ると窓は完全に閉まっていて「何で動いているの?」となる。植物は動かないという呆則(常識)はあるものだ。その植物の動きは科学番組などで植物がスローモーションで動くような映像とは異なって、ダンシングフラワーのようにフリフリ・フリフリと1本だけでノリノリに動くものである。恐らく、茎が水を吸い込む過程で茎揺れを起こしているのではなかろうかと推測しますが、このメトロ茎ノームの不思議なところは他にもお辞儀してクタッとした茎もあるのにもかかわらず、その1本の茎のみが左右に大きくフリフリと動いてダンスしていることである。「あ〜何だか不思議だな」である。もしかしたら、「サンキュー・ペルパーさん」と私にお礼の信号を送ってくれているのかもしれません。動く茎にも飽きて、暫く、目を離していると茎の水分が先端まで行き届いて真っ直ぐになります。そうすると、茎の横揺れももう停止しているので、動く茎の秘密は水吸引による揺れで間違いないと思われます。ですが、他の茎にも等しく水は行き渡っていると思うのに1本の茎だけダンシングすることはとっても不思議なことであります。あの揺れはヘルパーに対するのオシャレなルンルンな挨拶だったという解釈にしましょう。

この植物はお花屋さんで購入して、マッド暇人に大根の白い共生菌を塗布されて、本来であれば花枯れしてポイッとゴミ箱に捨てられるところを千利休みたいな侘び寂び感を感じる風貌であった為に枯れた茎を花瓶に挿したまま(運気悪そう)飾っていたらならば、何故か新葉が息吹き、茎から根も生やして、土に植え替えられて、今も元気に大きく育ち中でもある。そして、最近は特に何か神々しい風貌にも見えて、もし仮に何かしらのおしゃべりなサインを私に送ってくれたとしても何も不思議ではないものだ。ただ、私に何の意味かわからないことでもあり、もしかしたら肥料をねだっている可能性もあると思い、今朝の水やりにはハイポな栄養分も一緒に供給しておきました。この5月の気候の良い成長期にもっと大きくなって欲しいものであります。

 

*デスクトップ画面用の画像です。
■2024年5月11日(土)
■ミュージックON=ボタンを押したくなる。

*デスクトップ画面用の画像です。
■2024年5月12日(日)
■一日一文章トレーニング。

「ドドドドドドー(とスタンドの波状攻撃をウケた)」

「モリモリモリモリ〜杜王町レディオー♪」
「一昨日から地球規模に発生しています大規模太陽光フレアの影響は杜王町でも数々の電化製品に影響を及ぼしています・・・」

強い太陽光は燦々と窓から降り注ぎ、北海道では低緯度オーロラが見えたようでもある。
いつか、私もオーロラを見ることは可能なのでしょうか。
私は日本列島も南は種子島から北は角館までしか行ったことがないのでオーロラを見るクエストはなかなかに難しきこと。
オーロラは美しき光景ではありますが宇宙から届く様々な危険な光線から大気が私達を守ってくれている証拠でもある。
そして、その美しさが危険な光と表裏一体であることは興味深いものだ。
何か危ないものと触れると摩擦と防御で怪しく美しく光る呆則とはあるものでしょうか?

ところで、

我が家でも窓際で使っている古いノートパソコンも太陽フレアの電子戦攻撃によって不具合を発生させます。
そのようなことは信じられないものではありますが、確かにそれはパソコンの起動時に「ギギギ・ゴゴゴゴ」とレッド・ホット・チリ・ペッパーな不気味なギター音を発生させながら恐怖音を奏でます。

ホラーである。

早速、録音もしたのでぜひそのスタンド音を聴いて欲しい。=)))
https://www.tumblr.com/enpitoroys/750230635745017856?source=share

そして、本家レッド・ホット・チリ・ペッパーズももうすぐ来日するようなのですが、勿論、彼らが奏でるメロディーでもない。

異音に耳を澄ませていればノーパソのディスク読み込み部分から鳴っているようで、もともと古いパソコンでもあり、もうディスクも使えないので不使用としていましたが、どうやら太陽フレアの攻撃によりその部分が通電・誤動作しているようでもある。

とりあえず、家族がBIOSからディスクの完全無効を行いレッド・ホット・チリ・ペッパーなスタンドを封じます。
電気には電気の対応で怖い音は消えて、ひとまず良かった、良かったであります。
そして、試しに再びBIOSからディスクを有効にすると再びレッド・ホット・チリ・ペッパーが現れて、そのようなON・OFFを何度か繰り返していると、その内に何故か異音も消える不思議でもある。
不調な電気製品の直し方とは、静電気も含めて完全放置による内蔵電気を空にしたり、何かをON・OFFを繰り返したり、再起動することで直ることもあるものだ。
グッバイ・スタンドであります。

ノートパソコンのディスク部分は長く使用していると絶対に壊れる運命にもあるので新しいパソコンには内蔵していないものである。
必ず壊れてしまうディスクやSD等の読み込み部分はUSB外付けに限るものでもあり、新しいパソコンでは余計なものが何も付いていなく、薄くて、軽くて、よりシンプルでありながら値段も高額となるものだ。

ということで、

太陽フレアの影響が我が家の窓際にある古いパソコンに影響があるとは思いもよらないものですが、世の中とは見えない事柄と複雑に結び付くこともあるものだ。
特に電気関係はビリビリと目に見えなくて、遠くのものや、いろんなものと接続、帯電したりと不思議也。

 

*デスクトップ画面用の画像です。
■2024年5月12日(日)
■Keyボー。

*デスクトップ画面用の画像です。
■2024年5月13日(月)
■一日一文章トレーニング。

「磨く人と磨かない人の価値観の差はあると思います」

ザーザーと夜の3時頃に大きな雨音で目覚めて布団から這い出て窓を閉めます。そして、朝起きてからも、やはりの雨でこの数時間で結構な量の雨が降ったようにも思うものだ。そして、このような強い雨であれば、ベランダに溜まった花粉や黄砂の跡なども雨力本願の洗浄力で流して欲しいものであります。

そう言えば、一昨日ガラスや鏡などもキレイに磨きました。ガラスや鏡の磨きにはガラスクリーナーは必須でこれ以外でキレイにならないものでもあります。スプレーをシュッシュッと吹きつけてキュッキュッーと磨いて、洗浄液をキレイに拭き取れば大体ピカピカの奥まで深い鏡面仕上がりとなります。

磨き掃除をしていて思うことは、磨けば磨く程に心が落ち着く瞬間があること。ガラスや鏡の面がキラリと輝く瞬間に私の心の中の薄暗くくすむ薄皮も一緒にむけるような気がします。そのようなピカピカと光り輝く有り難みとは磨いた本人にしかわからないことでもあり、磨かない人にとっては日常風景そのものでほぼ気にならないことと思います。

ものを磨くことの不思議は磨くことでモノに対する愛着も同時に生まれることであります。ものに対する愛着とは大切に使おうとかと思わせるそのような気持ちのことで、野球選手であればグローブやバットを磨き良きイメージの念を込めて磨くことになるのかもしれませんし、普段の生活で使う道具を磨くことでも敬意とは生まれるものであります。それは磨かれる層から発掘されて溢れ出てくるようなものであり、如何に大切に扱っていたとしていても磨かれるモノと磨かれずに大切にされるモノとは雲泥の差の呆則はあると思います。

恐らく、世の中には「磨く人」と「磨かない人」の2種類の人がいます。そして、そのような心境の変化を整理してみると多分下記のようになります。私は気付いた時に磨く気まぐれに「磨く派」と面倒状態の「磨かない派」の、その両輪の狭間を行き来するような感じでもあります。なので、その両方の気持ちがよくわかります。

「磨く人」
磨く手間がしんどいのですが磨き始めると結構ハマる。
磨くと心も妙に落ち着く。
自分で磨く経験をすれば磨いたモノを大切に扱うようになる。
少し汚れたならばウズウズと追い磨きしたくなるものであり、同時に誰かが磨いてくれれば良いなとも思う。
当然、磨かない人に圧をかける。

「磨かない人」
磨く手間がないので楽ちん。
くすんだものには無関心か目をつむり、指摘して、圧倒的な他力。
キレイに磨かれたものを見ること、触れることにはやっぱり爽快な気分にさせるもので、それらの共有はある。
自分で磨く労力や経験もないので、大切にモノを扱う発想はない。
少し汚れたとしても気にならなく、自分で磨くという発想もない。
磨いた人の圧を感じると反発します。

磨いたものに対する思いとは磨いた本人にしかわからないもので、この経験なくして磨きの真髄を共有することは出来ません。
「磨く人」と「磨かない人」の価値観の差は海峡程の深い溝はあるのかもしれません。

ところで、

最近なぜ、そんなにモノを磨いているのかと言えば、先日、久しぶりにソフビが欲しいなと思いネットオークションを見ていたならば、ピカピカ光り輝いている古いソフビを発見してワックス掛けされるソフビも良いものだと思いました。古いソフビ等は経年劣化でクタクタとした感が良いものであるとの考え方が一般的ではありますが、キレイに磨かれたものには別の良さも感じるものだ。さっそく、私も飾っているソフビにタミヤ・ワックスを塗り込んで磨きを入れました。良いのか?悪いのか?人それぞれだと思うのですが、何かベトベーターな感じもするものだ。プラスチックには良い感じなのですが、ソフビ用にはソフビ用のワックスがあるのかもしれません。モノを磨いてキラリと輝く魅力に取り憑かれるものでもあり磨く波及効果も広がれば、家中ほんの少し明るくなるような気もするものだ。(太陽フレアの影響かもしれません)

そのオークション結果は私の予想の数倍以上高くなるもので結果をチェックして学習しました。我が家にもそのような珍しきものはないものかと思うのですがレアものはないものだ。そして、そのような古いソフビの結果でも驚きますが、新品ソフビの値段上昇でもビックリします。昔、私が購入していた頃のスタンダードサイズ新品で約6000〜7000円ぐらいで(それでも十分なお値段)、今や10000円〜12000円ぐらいもする感じでもあるので40〜70%程のインフレーション(価格上昇)です。ソフビなどは昔から海外需要も強く、安くなれば購入する人も多々いると思うので、この相場が早々に下落することもないような気もするものだ。

 

*デスクトップ画面用の画像です。
■2024年5月13日(月)
■てるてるボウズ。

*デスクトップ画面用の画像です。
■2024年5月14日(火)
■一日一文章トレーニング。

「とんでも生きボウズを作ってしまいました」

いやはや、昨日の雨は凄かった。
上から下までびしょ濡れのスゴイ雨でもあったので、てるてる坊主を作ります。

てるてる坊主とはよくよく考えると怖い感じの形状でもある。テイッシュペーパーの中にテイッシュを詰めて輪ゴムで止めて顔を描き願掛けするものだ。何やら、西欧で見る布のお化けのような風貌でもある。文化的な意味の知らない異国人がこのてるてる坊主を一見すると間違いなく不気味に思うものだろう。この場所には封筒やら袋やらイッパイあるもので、さっそく、それらを使っててるてる坊主もどきを作ります。

因みに、まともなAIにてるてる坊主のカタチの理由について質問すると、
1.頭が太陽の形をしていて晴れを願う太陽崇拝を表しているようだ。
2、白い無垢な色は神聖で願掛けするのにもふさわしい。
3、てるてる坊主はシンプルな形状なので世界中で愛されているようでもある。
4、ユーモラスで形状は子供心を掴かみ、且つ、簡単に作ることが出来る形状となる。
真贋の程はわかりませんが、日本以外にもてるてる坊主な太陽信仰?はあるのでしょうか?AIと私とは似た者同士であり適当なことを堂々と語るものであります。なので、話し半分ぐらいが丁度良いものだ

普通のてるてる坊主だと面白くないので細長い縦長封筒を使って懐かしい牛乳パックな人形を作ります。先日、ハッピーゴミを作ったように今、紙で人形を作ることがマイブームです。顔のデザインは深海魚のイメージ。5月5日の役目を終えた鯉のぼりたちがどこを泳ぐかと思えば、雷魚のように水の底に潜っていた感じもある。逆さ吊りとはあまりよくないようですが、魚に上も下も関係ないので水底を這うような魚の顔を描きます。

さっそく、雨降る外に向かって吊るして撮影しようとすると、てるてるボウズが外方向に向いてカメラに顔を見せてくれません。紐を固定するマスキングテープを反対に貼り替えてカメラに向くように細工しますが、やっぱり外側を向いてこちらを向かない。貼り方を変え、テープで加工し、赤と黄色の重りを付けたりといろいろ試すのですが、やっぱり最終的に窓の外の方向に向くものであります。(お手上げ)

「そんなにも外が見たいのか?」と仕方がなく外が見えない壁面を使って撮影します。そうすると、やっとコチラを向いてくれることが出来て「怖っ!!」である。動画用に動きをつけて数枚パチパチと撮影して完成させて、再び窓のカーテンレールのところに貼り付けるとやっぱり外に向かって眺めているものだ。「恐い!!」天気を願掛けしたところで、雨雲の動向はもうすでに決まっているものでもあります。そして、本当の恐怖は晩ごはんを作っている時に起こります。鍋に食材を投入していると、てるてるボウズの首が何故か、「くるり」とこちらに向いてホットクック鍋の中身を確認してからまた再び外に向かって眺めるものである。「恐怖!!」まるでチャッキーやエクソシストのような首の動きでもある。どちらも観たことがない映画なので正しき表現なのかはわかりませんが、確かに生きボウズは晩ごはんの仕込みの中身を「フッ」とチラ見してから再び外の景色を眺める吟遊詩人モードに戻ります。

牛乳パックのような形状を作る時に私の生意気で膨らましたので生きボウズとなったのかもしれません。息を吹き込む時に私は何かの念を送ったのであろうか?いやいや、只、「ふう〜」と生暖かい息を吹き込んだだけである。今朝はレッド・ホット・チリ・ペッパーズがホット・チリ・ペッパーズなのではないかと疑心暗鬼になりながら焦って目が覚めたものでもある。略して「レッチリ」なので「ホッチリ」とは呼ばないので誤字ではないと思うような、そのような薄っぺらさでもある。生きボウズな神秘を生み出せるはずもない。とんでもないものをこしらえてしまったものだと思いながら、昨日は日の丸必勝風の「アップル信者」ハチマキを作ったらどうだろうか?などとも話してもいたので、この生きボウズさんも同時発売するのが吉かもしれない。

ということで、

昨晩は生きボウズの挙動不審によってざわざわとしたのですが、今日も植物界のお嬢様の上にぶら下がり雨も上がった街を眺めているものであります。見晴らしは良くないので、そのうちに景色を眺めるのも飽きてこちらを振り返ってきたら怖いものでもある。「どうしよう〜〜」このまま生きボウズの背中を見ながら育っていきたいものだ。

そう言えば、

昨晩、YouTubeで映画「告白 コンフェッション」という予告編を観た。
映画の予告編を最後まで観ると映画の全ての内容がわかってしまったような気もして、「圧倒的気まずさを刮目せよ」じゃないのです。
死を覚悟した秘密の告白から玉ねぎ、包丁と映画の内容の全てが簡潔に纏まり、私も「何かすごく気まずい気もするものだ、観てしまったオレが悪いのか?」。\草/

 

*デスクトップ画面用の画像です。
■2024年5月14日(火)
■アンダンテ。
■2024年5月15日(水)
■一日一文章トレーニング。

「藻の光合成の観察記録です」

プクリ・プクリと光合成する様子を見ていると癒やされます。
桜の枝に纏わりつく緑の藻は美しく、5月の強い太陽光線がガラス瓶を透過する度に水辺の全てがキラキラと光り輝き出します。
それは子供の頃に小魚を追った光り輝く水路の美しさに近いものだ。
そのような小さな藻のユニバースを作りながら学んだことをメモします。

この美しき光合成を見る為には二酸化炭素の投入が必要です。
二酸化炭素がなくなり太陽によく当たったとしてもこのように光合成出来ないものだ。
光合成に二酸化炭素は必須で、光合成は藻の細胞の中の葉緑体に光エネルギーが照射された時に水と二酸化炭素を利用して酸素とブドウ糖の集合体(デンプン=グルコース)を作り出します。
光合成の化学式は下記のようになる。
6CO2+12H20→C6H12O6(デンプン=グルコース)+6H2O+6O2
6の二酸化炭素と12の水分子を使って光りの光合成を行うと生命活動に必要な(糖分・デンプン=グルコース)と6の水と6の酸素を生成する式でもある。
C6H12O6は化学的にはグルコースと呼ばれますがデンプンと同じことです。
自宅にはヨウ素液はありませんので調べることは出来ませんが、光合成の後の水にヨウ素液を入れると恐らく青紫色に変色すると思われます。

面白いところだと、このグルコースと以前に書いたシクロヘキサンC6H12(ベンゼン環)は酸素O6の(ある・なし)の違いだけでもある。
6個の炭素分子は酸素を持つか否かだけの違いでこのようにも異なるもので、グルコースは棒状の壊れやすい形状なのですが、シクロヘキサンは強固な炭素結合の形をしております。
また、
藻が発生した状態で暫く放置していると水の表面に油分が現れてくることはありますが、あの油分はベンゼン環の化合物ではないかと思ったりもするものだ。
実際に石油は水素と炭素から構成されており、成分の30%は芳香族化合物(ほうこうぞくかごうぶつ)と呼ばれるベンゼン環から出来ております。
なので、藻類から石油を作るということは、恐らく、このように藻類を滞留固着することで生成するのだと思われます。

赤潮などの内海なので時折発生する現象でもありますが、これは陸地から流れ込む栄養分が滞留してプランクトンを大量発生させて、温度などの気象条件が合った時に起きる現象でもあります。
因みに、日本での赤潮の発生件数は昭和51年の299件をピークに令和4年では59件と減少傾向にある。
この藻が光合成する小さな世界にはプランクトンはいませんが、光合成で大量に発生するデンプンの栄養分が閉じ込められているように思うものだ。
そして、その栄養分が藻を大量発生させて、毎日、絶え間ない赤潮のような水の汚濁を作り出すのではなかろうかと思ったりもするものだ。
なので、水の汚れと二酸化炭素の注入の為に毎日の水の入れ替えは必要です。
不思議なことは、光合成は曇った日でも微弱ながら光合成すること。
そして、曇った日の方が翌日の水の汚濁のペースが早いものだ。
もしかしたら、これは日光がよく当たる時には光合成することに全エネルギーを使用していて、曇っている時には光合成もほどほどでもあるので藻の繁殖にエネルギーを振り分けているような気もするものだ。
どうなのでしょうか?

ということで、

人も水も藻もやっぱり移動させて撹拌させないと固く結合してベンゼン環のようになってしまう呆則はあるものだ。
移動させないと空間は濁り、滞留させれば燃焼させる薪のような素材を作れるようなイメージを持ちました。

 

*デスクトップ画面用の画像です。
■2024年5月15日(水)
■石油王になりませう。
■2024年5月16日(木)
■一日一文章トレーニング。

「ビン詰めされたものは良いものだ」

昨日、直射日光でたくさん光合成した二日目の藻の瓶の中に炭酸水を入れます。
炭酸水は二酸化炭素と水で出来ているので光合成を促すことが狙いです。
おそらく、前日にイッパイ光合成したので水の中にはもう十分な二酸化炭素はないものと思われます。
なので、このまま放置していても光合成の量は少ないので炭酸水を投入します。
炭酸水の味はレモン味。
お風呂上がりの1杯のソーダ水とは至福の時間でもありますが、藻たちにもご褒美の水をあげることも良いものです。
何せ私が炭酸水を飲んでも単なる水分補給ですが、藻に炭酸水をあげると光合成で酸素を放出します。
ボチャボチャと炭酸水を入れると水流で藻が舞って、効果は数分間で普段の倍以上の爆光合成の成功です。
ぷくぷく・ぷくぷくとあちらこちらから酸素の泡が立ち上がってキレイなものだ。
「ずーっ」と見ていた訳ではないものの酸素の泡は絶え間なく吹き上がります。
ただ、光合成を促すのに炭酸水を入れることは少しチート感があるものだ。
そして、入れた炭酸水がレモン味でもある為に、今朝の水は不気味に透き通るキレイな酸性でもある。
藻たちは大丈夫なのか。
藻に必要なものは太陽と水と二酸化炭素とヘルパーさん(私)です。
我いなくなれば、おまいら全部枯れてしまう関係でもあるので、人間が蟻みたいにちょこまかと余計なことをして動く意味もあるものだ。
藻を育てていると良いと思うことは酸素が可視化されること。
日当たりの良い場所にそれなりにたくさんの植物があるので、総合的に判断すれば我がベランダはCO2削減に微弱ながらも貢献できているように思うものだ。

ということで、

昨晩、同じガラス瓶の中のユニバースでもあるポット飯を作ります。
GWの遠足の時にお弁当代わりにポット飯を持って行こうと思いましたが、作るのが面倒臭くておにぎりに変更となったものを作ります。
ポット飯はガラス瓶の中にご飯やおかずを入れて蒸し上げて、食べる時にはコップを持ったままカップヌードルみたいに食す料理でもあります。

1)先ずは大き目の耐熱ガラスコップの中に炊いていないお米と水を入れます。
2)米と水の比率は70・70ぐらいで入れましたが、水はもう少し多めでも良いのかもしれません。
3)そして、水の浸かったお米の上に角切りのじゃがいも、にんじん、しいたけ、トマトものせてホットクックの蒸し機能で30分くらい炊くと完成です。

超簡単!
本当にお米が炊けるのかと思いましたが、何だか普通にご飯は炊けるものである。
味付けも何もしていないので無味ではありますが、お塩をちょろちょろとかけて食べるとそれなり美味しいご飯の出来上がりです。
ご飯と野菜がワンカップにまとまり健康的なお食事でもある。
このガラスコップで食べる良さは見た目の面白さと、コップ一つでご飯と野菜、肉などを食べることが出来ることである。
ちゃんと味付けさえすればもっと美味しくなると思われます。

 

*デスクトップ画面用の画像です。
■2024年5月16日(木)
■パトロール中。

*デスクトップ画面用の画像です。
■2024年5月17日(金)
■一日一文章トレーニング。

「第一歩とは全ては草から始まるものかもしれません」

草草と今も昔も日本人は草が大好き。
草とは木のような木化した組織のない植物のことを指し、また、現代では「草・www」と笑いの意味としても使われることもあります。
古くは枕草子や徒然草、〜草子と草の付く作品は多いものだ。
枕草子の漢字の意味はネット検索すると枕元にノートを置いて夢で見たものを記録する日記帳(草紙)のような意味のようでもある。
この前の公文書館の展示でも昔の人達は夢をお告げのようにも感じていたようで、それは物語の中の伏線にもなります。
また、このような人が見る夢を鑑定・占うような職業の人もいて、昔から夢診断のようなものはあったようだ。
私が見る夢は荒唐無稽なのか何なのか?今朝も何かの夢を見てはいましたが何も思い出せない夢でもあります。
そして、迂闊にも吉兆な夢を他人に話すことで、他人に夢を盗み取られるという宇治拾遺物語という物語もあるようだ。
最近ではモノではないものは人から盗めば良いみたいな考え方もありますが、昔の日本人は夢の思い出でさえ人の持つ所有物と解釈していたのかもしれません。
そして、ノーラン監督のインセプションも夢を盗むような映画でもある。
個人的には枕草子とは「草枕」と草を枕にして旅をすることの倒語のようにも見えてきて、人生と言う名の旅の記録をつれづれなるままに書いているようにも見えたりもします。

ところで、

「草」です。

「草」の意味は粗末な「草屋・そうおく」、「草蘆・そうろ」と自分や家をへりくだって語ること、「草臥れる・くたびれる」と実際のみすぼらしさや疲れを表現したり、「草昧・そうまい」と世の中が開け始める未開な状態や、「草創」と新しく始める「草分け」、「草莽・そうもう」と在野(民間)なる草むらで仕官しなかったり、「草稿」「草案」と文章の下書きと使用して、「草書」「草体」「草仮名」と文字を崩して書くスタイルであったり、「草草」と忙しい様や慌てる様子、簡略の記号として文章の終わりに添える言葉でもある。
ゼエゼエ)))
いわば、「草」の文字の持つ言葉は幅広くイッパイの意味がある。
昨日の「藻」は水の中に生える草ではありますが、「藻思・そうし」「文藻・ぶんそう」と文章を作る文才のことや、「藻屑・もくず」と水草の屑や海で死ぬことの例えでもあって、こちらの水草も、また幅広い言葉である。
「草」とは雑草なる無価値でどうしょうもないものではありますが、昔の人は「草」の中に「現実と未来を繋ぐ」とキラリと輝く何かの可能性を見出そうと考えていたのかもしれません。

先日、

間引き乾燥させ処分した不死鳥の多肉植物は全然枯れることはありません。
ただ、そこに横たわり日干しにされる植物を見ていると雑草とは言え、少々かわいそうになるものでもあります。
そこで、空いた鉢に雑草だけのパラダイスを作って植えることにします。
正に佛の救済でもある。
不死鳥を助けもしたので、おいどんがタダで助けることはないのでピンチな時には不死鳥なる雑草が助けに駆けつけるトレードオフでもある。
その鉢にはコバンソウとオオバコの雑草を植えて草を育てようと思っていたのですが、雑草なのに何故か根付かない鉢でもあります。
これまでの経験則から行くと、植物を育てるには1本1株では寂しくてあまり育たないもの。
なので、雑草は雑草同士でももりもりと草莽としてこその草でもあります。
雑草を育てるとは本当におかしな話しでもありますが、不死鳥を並べ鉢を生命で満たし賑やかにするとコバンソウやオオバコを元気に育つかもと思う算段でもある。
おそらく、最初の一歩は草創と始まる「草」でもあります。
来年の春にはコバンソウやオオバコがおいどんのベランダでも生えれば良いものです。

 

*デスクトップ画面用の画像です。
■2024年5月17日(金)
■スピーカー。

*デスクトップ画面用の画像です。
■2024年5月18日(土)
■一日一文章トレーニング。

「ポット飯の実験はまだまだ続きます」

朝起きて、窓を開け、植物たちに水やりをしていると「チュンチュン」「ガーガー」「ピャーピャー」と姿の見えない鳥たちが大騒ぎのハッピータイムのお時間です。最近はそのような定番の鳴き声に加えて「クルルルル〜コッコロコッコロ」とド鳩の鳴き声も聞こえてきます。ここの周辺のどこかに鳩が巣を作っているものだと思うのですが鳩の姿はどこにも見えません。去年はキジバトの鳴き声が遠くや近くから聞こえてくる風情はあったものの、今年はキジバトの鳴き声は聞こえないものだ。そして、街に喧騒が広がってくると、鳥の楽園のハッピアワーのお時間も終了します。それにしても、鳥たちとは単に朝が来ただけでワイワイガヤガヤとうれしいものである。人が鳥や犬から学ぶとすれば朝が来ただけで、尻尾ふりふりと喜ぶようなリアクションなのかもしれません。

ということで。

タコのお時間です。
特売のまるダコを購入するのは幾年ぶりのことでしょう。
10年ぶりぐらいかもしれません。
モーリタニア産の茹でダコ、素晴らしい!!
とりあえず、2本の腕を切り落とし、3本の腕を冷凍保存して、後はお皿にのせたまま冷蔵庫に入れて保管します。
暫くは全ての料理がタコ尽くしとなる美味しい毎日が確定です。
20センチメンタルぐらいはあるタコではありますが、冷蔵庫に入る場所もなく強引に収納しているとお正月に食べずに残しておいた数の子を発見します。
食の種も、話しの種も仕込んでこそ、のちのち活きてくるのが呆則です。
忘れるぐらいに滞留し、「良くぞ残っていた数の子さん」と対面すると、今まで本当に食意地を張らなかった自分自身を絶賛するものでもあります。
数の子は塩漬け保存されているので結構保存が効きます。
真夏の暑くなる前に食べるのも良いかとも思うのですが、食通共を唸らせるには季節外れに食べることで唸らせることが出来る秘策食材なのかもしれません。
数の子はいつ食べるのか?それよりも生ものの「このタコが=」のお時間の方が重要です。
タコは一口サイズに切り、先日作ったポット蒸し飯に置いて食す魂胆である。
前回は根菜類だけと、味なしでもあったので、今回はタコや鳥肉も入れて少々の薄味の醤油味を効かせながら和風なお味に仕上げようと考えております。
先ずはじゃがいも、さつまいも、大根、にんじんを細切りにして、コップのフチにキレイに並べます。(写真を参照)
そして、切ったタコと、鳥肉、砂肝は小さく一口サイズに切って野菜の壁の真ん中にモリモリ盛って上に椎茸をデコレーション。
これをおかず版パフェとと呼ばずに何と呼びましょうか。
早速、ホットクック鍋に入れると、上にボリュームが増えた分フタが閉まりません。
段々と雲行きは怪しくなります。
蒸し台を取り除き、カップ飯の上に余ったタコの腕1本も一緒にのせて蒸し炊きにします。
約30分の蒸し炊きを終了させるとコップの上に置いていたタコの茹で汁がご飯の上に溜まって微妙な感じになるものだ。(失敗だ〜w)
蒸す前はパフェの宝石箱であったものが、蒸し上がると「あれっ」となる。
確かに、具材の味は大変美味しいものではありましたが、ご飯の炊きは1回目の実験よりもうまく炊けていないものである。
原因はご飯の上に具材をみっちりとのせすぎたような気もするものですが、今回は野菜を細切りにして大根やタコの水分も大変よく流れ出てコップに溜まるものであります。
カップ飯の上に置いて一緒に蒸したおいたタコ腕1本からもよく茹で汁を落ちたような気もする。
料理に余計な横着を実行するとそのまま全部結果となって表れ出るのかもしれません。
このだし汁自体は大変美味しいのですが、ご飯が美味しく炊きあがっていません。
ご飯と具材、別々に調理すれば美味しく作ることが出来ますがポット料理の醍醐味は野戦料理のように一つにまとまって調理することにあります。
イメージとしては崎陽軒のシュウマイ弁当のようなご飯の出来が理想的ではある。
このポット飯の良いところは油を全く使用しないこと、少量ずついろんな具材を食べることが出来て、すこす少ないかなと思う量でも結構お腹がイッパイとなるのも良いところ。
ガラスコップから見える食材のコントラストも美しく、そして、何より洗い物が大変少なくてとても楽ちんでもある。
これは世の為、自分の為、時短の蒸すだけの美味しいポット飯になる予感は捨てていないので、さらに実験と研鑽を重ねて「ポット蒸し飯」を完成したいと思います。

 

*デスクトップ画面用の画像です。
*デスクトップ画面用の画像です。
■2024年5月18日(土)
■バンギャ会議。
■2024年5月19日(日)
■一日一文章トレーニング。

「源氏物語のあらすじをまとめます」

源氏物語のあらすじの上っ面だけを読み理解しようという魂胆である。
そして、そのようなあらすじだけを読んでいると光源氏17歳から頭の中が「女女女女に女」オンリーで何だ?この物語はと思うものである。
政権の中枢がこのような感じであるならば、そりゃ武士の時代がやって来るのは必然でもある。
むしろ、紫式部はこのような駄目な貴族社会をあからさまに描くことで世の中の新しき胎動を生み出そうと考えたのかもしれません。
とりあえず光源氏18歳の【若紫】まで纏めます。
タイトルは女に関連する言葉にもなっているかとも思ったりもするのですが、おそらく全部このようなお話だと思います。
これはシェークスピア12夜にも通ずるほったらかし状態になりそうな予感もするのですが、ここは頑張り話しの種不足を照らす光源としても光源氏を消化したいと思います。
一方で800年ぐらいに書かれた宇治拾遺物語には様々なエピソードが書かれています。
古文を読むのであれば個人的には宇治拾遺物語が面白そうだと思ったりもするものだ。

「源氏物語のあらすじ」

【桐壺】
・桐壺(きりつぼ)帝と桐壷更衣(こうい)の第二子として光源氏が生まれる。
・桐壺更衣に似ている藤壺(ふじつぼ)と仲良くなり慕う。(初恋)
・光源氏(15歳〜16歳)で元服し、左大臣家の葵の上(あおいのじょう)を妻とするが、年上の妻に馴染めずに藤壺に思いを寄せる。

【帚木・はばき】
・光源氏17歳、頭中将(とうのちゅうじょう)ら4人の男仲間で五月雨の夜会(雨夜の品定め)を行い、頭中将の中流貴族の女が良いという話しに興味を持つ。
・頭中将の中流貴族の女は妻の嫌がらせにあい音信不通となっているようだ。
・その他、「家を治めるのは国を治めるよりも難しい?」や、良き妻の話しなどを学ぶ。
・紀伊守(きいのかみ)のお屋敷で若い後妻でもある空蝉(うつせみ)と出会い夜に忍び込び仲となる。
・再び逢瀬を願うのだが境遇の違いや身分の差等の理由により強く拒絶される。

【空蝉・うつせみ】
・光源氏同年17歳、空蝉にぞっこんとなり、再び出会う為に空蝉の義理の姉でもある軒端荻(のぎばのおぎ)と碁を打つという理由を作って空蝉に会いに行く。
・光源氏は軒端荻と比べても冴えない空蝉を見てさらにお熱を上げる。
・そして、その夜忍び入るのですが空蝉は上着だけ脱ぎ捨てて逃げる。
・光源氏はかわりに軒端荻と情を交わすのですが、空蝉のことが忘れられずに脱ぎ捨てられた服を盗んで持ち帰り歌を歌う(?)。

【夕顔・ゆうがお】
・光源氏同年17歳の秋、妻・葵の上との関係は冷え切り、かねてから忍び通いしていた六条御息所にも息が詰まる。
・光源氏は夕顔の宿に教養ある謎めく女君がいるとの噂を聞き、身分を隠して仲となり、通い続ける。
・8月15日の夜に夕顔を荒廃した廃院に呼び出すと物の怪が現れて夕顔は死んでしまう。
・その事件により夕顔が頭中将の言う中流貴族の女であったことを知る。
・光源氏は夕顔の娘・玉鬘(たまかずら)という女児がいることを知り、この子を引き受けたいと申し出るのですが断られる。

【若紫】
・光源氏18歳の春、病を患い北山に祈祷に行く。
・そこで、藤壺にそっくりの少女・若紫に出会い、その子供を使い藤壺に逢瀬する。
・藤壺は光源氏の子をご懐妊することとなり、二人は罪の深さにおののく。
・若紫が継母によって連れ去られると聞いた光源氏は若紫を強引に連れ去る。

ということで、

光源氏17歳は平安時代の強烈な太陽光フレアに当たりすぎたのではという感じでもある。
ざ〜っと読んでも、恋しているのか? 妊娠させたのか? の2択みたいお話が続き、今後の展開は若紫を自分好みも女に育てていくというお話になるようである。
はて、光源氏とはどのようなツラをしているものなのでしょうか?

 

*デスクトップ画面用の画像です。
■2024年5月19日(日)
■まるダコは友も呼ぶ。
■2024年5月20日(月)
■一日一文章トレーニング。

「重箱の隅をつつくことで世界は広がります」

土曜日の太陽が燦々と降り注ぐ時間帯に冬布団を干して夏ふとんに移行します。
白色に反射する太陽光は眩しすぎるのでサングラスをしながら布団を並べていると下界を歩く通行人と目があって気まずいものだ。
当然、布団を干す前には霧吹きでコンクリートに生息する赤い宝虫どもを洗い流してから布団をパンパンと叩いて天日に干します。
このような光景とは正に、「春過ぎて 夏来にけらし 白妙の 衣ほすてふ 天の香久山」の百人一首のワンシーンと同じである。
この句は春と夏の間の強い日差しの洗濯風景を語ったものではありますが、遠くからマンション山を眺めれば天日に布団が干された家具山のように見えるものだ。
私達は世界に瞬時に繋がる最先端板端末機は持っておりますが、基本的な生活スタイルでは平安の昔からそんなにも変わりない単に布団干すだけの天日干しでもある。
それにしても、土曜日に全ての冬と決別出来て良かったものだ。
昨日はポツポツと雨降る曇り空の中で布団を干すことは出来なく、今日はジメジメとした大雨の中でもカラリとした心地よい布団の中で目覚めることができたものだ。
天気の良い日にふらふらと外出していれば、このような干された布団の気持ち良さは味わえなかったもので、布団を干せて良かった良かったである。

ということで、

「このタコ=」です。
どうやらマイ・タコ画の足が10本あるようで、タコ足は10本なのか?8本なのか?毎度のデジャブのようなお話しでもある。
「何を言っているのか!とタコの足か腕かは10本あるのが常識である」
文明の利器の板を叩きながらタコの足の数を調べると、
「このタコ〜がの足は8本です エヘッ」
イカの手か足か通信端末は10本でもあるので、それは大枠で捉えれば大体正しい。
因みに、あの有名な「このタコ=」も「このハゲ〜」なフレーズであったようで惜しいところで間違っております。
アバウトな記号な形のタコの絵が10本だろうと12本あろうともタコで間違いないものであり、公文書でもなければ単なる日記の重箱の隅をつつくのも如何なものかと思うものだ。
ただ、隅っこをつんつんとつつくことで話しの輪も広がり、新しい話しの種が生まれる呆則はあるものだ。
そのような意味に捉えれば、重箱とは隅っことつついてこそ世界も広がり、重箱の器も大きくなるものかもしれません。

「重箱の隅をつつく」を辞書で調べる。

・「重箱で味噌をする」:物の用途性能を無視し適さぬ用い方をすること。
重箱で味噌をすり下ろす状況とは私がよくやるようなことである。

・「重箱の隅はようじで洗え」「重箱の隅はようじでせせる」:事はあまり細かく詮索すべきでないことの例え。

・「重箱の隅は杓子で払え」:あまり細かいことはうるさく言わずに、大目に見なさいということ。
私の隅っこ叩きとは隅っこの隅まで届かない杓子ぐらいの大雑把も確かなことである。

それにしても、肝心の「重箱の隅をつつく」との言い回しが辞書に記載されていないことは不思議なことだ。

重箱とは高額な器でもあるとも思うので、洗うとなれば隅っこまでキレイに洗うだろうし、中心に美しく飾られるとなれば隅っこまで気にするなと言いたい気持ちもわかるものだ。
これは立場や視線の相違を表しているのかもしれません。

 

*デスクトップ画面用の画像です。
■2024年5月20日(月)
■たこ墨汁。