■2022年10月1日(土)
■一日一文章トレーニング。

「物語の次数」

 物語とは一本道。何かしらの出来事があり完結に向かう唯一の道。そのような1本道の物語にネットワークな次数に置き換えて考えることは少しおかしなことです。しかし、読み手にとっては単なる一本道であっても製作する創造主にとっては、物語とは複数のお話をパズルのように組み合わせてノードとノードを繋ぐネットワークを通して構築する作業に見えます。なので、物語を要約しそれを次数順に展開を並べることで左から右に繋がる物語のネットワークな道筋を見出すことが可能です。その道筋は作者が正解と考えた物語の道筋。勿論、全ての物語がこのような手順で書かれた訳ではないことは承知しております。多くの文豪たちは直観や勢いで書き進み文章の構造から物語を構築しているい訳ではないと思います。それでも、試行錯誤する段階で製作中の物語はネットワークを網の目のように張り巡り、点と線で形作られていると考えることは自然なことです。この「一日一文章トレーニング」のように製作中の考えが記録に残っていれば1次資料としての考察の手助けにはなりますが、ほとんどの消費される物語には完成された商品があるだけとなります。クリエイティブな人々は大抵、過程や行程が重要だとは言います。ですが、実際に製作の内情をオープンに開示している人は見たことがありません。ほとんどの物は見える範囲だけの情報となりブラックボックス化しております。恐らく、内情を明かすと「これっぽいものを作って」とか「こんな感じで〜」みたいな物真似や何かのコピーだらけが氾濫したカオスなものが出て来るので中身を明かせないと言う方が正しいのかもしれません。そうすると、皆が馬鹿にするAiの方がよっぽど予想外のものを短時間で創作する可能性は人より高いように思えます。物語の作り方や考え方を学習させれば偶然的で実験的なものが幾多の試行錯誤の上に突然発明される可能性は残念だけども人よりも高確率な気はします。

 次数の話に戻ります。「ごんぎつね」を執筆中の新美南吉は頭の中で「2次:ごんぎつねが兵十にうなぎを奪われる。」と考えたかもしれません。そうすると、物語は全く違った話になります。母きつねにウナギを食べさせたかったごんぎつねの逆襲激(劇)みたいなお話になったかもしれません。そうすると誰も知っている名作「ごんぎつね」は存在していなかったことになります。文章をネットワークの次数で分割することとは所詮、展開の組み合わせであります。それでいて、世の中は時短だ!倍速だ!早送り!ということで常に次数を減らすことが求められます。※私がせっかちだけかもしれません。そもそも、物語とは粗筋も前もって公開した方が消費者にとって親切ではなかろうかと思ったりもします。「ごんぎつね」も次数の粗筋を読んでから読む方が頭に入ってきやい気もします。いえいえ「ネタバレ」とは絶対の禁忌です。「ネタバレ」を嫌がる人とはどんな人なのか考えます。先ずは製作者。話がネタバレすると消費が減ると考えるかもしれません。物語のファン。自分が見る前に物語の内容がネタバレすることは何か嫌なことです。あとは、何となく「ネタバレ」が嫌だと思っている人たち。だけれども、よくよく考えてみたらヒーロー物語は最終的にいつもヒーローが勝ちます。逆にヒーローが闇落ちや死んでしまうという話となれば、一般人はどうでも良い話なのですがファンにとっては炎上してしまう要因になります。そう考えれば、突拍子のない物語展開とはあまり存在しないものであり物語の展開とは常に定形の話の量産という現実が見えてきます。ということは、物語とはネタバレを心配することもなく大体決まり決まったお話ということになります。例えば、人はなぜ?毎回同じ戦隊や水戸黄門的なものやジブリを観るのでしょうか?それは知っている未来をなぞるだけのことのように思います。人は知らない道を走ることは緊張感があってしんどいことは思いますが、知っている道を走ることはラクチンな事です。事前に写真で見たり聞いたりしている景色の方が突然見た景色よりも「知っている・知っている」という感動がある場合も多々あります。知らない道をブラインドされている状態で2時間走ることは人によってはとても苦痛かもしれないが、知っている道を2時間走ることはリラックスして走れること。人はビックリとさせられたり、予想外の出来事が起きることとは案外嫌いなものです。そのような考えに軸足を移すとある程度「ネタバレ」していない物語というのはあまり良くない物語なのかもしれないとも思います。どうでしょうか?

 
■2022年10月1日(土)
■ゴゴゴゴ〜侍カンフー。
■2022年10月2日(日)
■一日一文章トレーニング。

「物語の次数」

1次)夕焼け空をスタスタと歩く。
2次)スマホ女子を追い抜く。
3次)影を踏まれることは何か不愉快なことである。
4次)スマホ女子に追い抜かれる。
5次)点滅信号でスマホ女子に追い抜くがスマホ女子も走り出して再び追い抜かれる。
6次)赤信号でスマホ女子に追いつく。
7次)夕焼け空をトボトボと歩く。
×ボツ(最近の幽霊話し)※またの機会に。

次数の概念を使い文章を書くということは多分こういうことであると思います。
あらかじめ粗筋のキーワードを書き出して文章を書き進めます。
キーワードとはネタバレな内容であります。
上記内容を読めばここから以降、文章を読む必要ありません。
それはより詳細な目次みたいなものかもしれません。
大体の粗筋が描かれているのでそのイメージに沿って文章を読めばより深い読解イメージを構築できるのかもしれません。
これらは少し前に話題になっていた時短や倍速を含む一つの消費形態に沿ったカタチです。
また、イメージ戦略の一つとも捉えることもできます。
何かしらの正しさを表すものではなくて実験的な試みです。
以下、上記内容に沿って文章を書きます。

 キレイな夕焼け空を眺めながら私は帰宅を急ぐ。道は長い直線道路。透き通った青空、オレンジに白、赤と紫の雲が空を彩る。天然の美術館を眺めながらスマホしながら歩くギャルを追い抜き、老婆を追き、その他たくさんの人々を追い抜いて私はてくてくと歩みを進めます。どうでも良いことでありますが、今日は影が目立つので追い抜く人々の影を踏まないように歩きます。影とは言え、自分の影をわざと踏まれることは何か嫌なものです。人の頭の影をわざと「ふみふみ」踏まれたならば人はイラッと来るのでしょうか。人を怒らすことが得意な私がまた新しいイラっとスパイスを拾います。そもそも、自分の影なんて気にすることはありませんが立ち止まるとカゲとは案外目立つものでもあります。電車待ちの長い影が視線の先で隣のおっさんとキスみたいに重なっていたらそれは気持ち悪いこと。おっさんには全く悪意はないことではありますが不愉快な出来事なので、さり気なく横移動を試みるでしょう。痛みも何もないのに時と場所によってはカゲと私はある意味一心同体なのかもしれません。本当にどうでも良いことですが影を踏みつけられる感情とは何とも不思議な感覚ではあります。私はそのようなことを考えながら人の影を避けながらサッサと歩を進めます。

 暫く歩き大きなスーパーがある辺りで先ほどの追い抜いたスマホギャルが私を追い抜いて行きました。だいぶん前に追い抜いたギャルは左手のスマホをまるでハンドバックをルンルンと持つように私を追い抜いて行きます。私の歩くスピードは結構早い方ではあります。毎日、頭の中で「ぶつぶつ」と何かを考えながら結構な速度で歩いてます。追い抜くことはあっても追い抜かれることはあまりありません。若かりし頃に坂道で電動自転車のBBAに抜かれる悔しさを若干感じたので目の前の小さな信号機の青が点滅しているのを目指して小走りでスマホギャルを一気に抜き去ります。「ててててー」すると、スマホギャルも点滅する信号機に向かって走り出して私は再び一気に追い抜かれます。ここの信号機は狭い道路の信号機ではあります。ですが、車の抜け道でもあり通行量も多いので赤信号で立ち止まりたくない信号機でもあります。そして、その走りと共に一気に数メートル離され、その距離はどんどん広がります。年齢の差でしょうか。残念だけど足の長さかもしれません。最近の若い子らは皆足が長い。足の長さが異なれば、歩く歩幅も異なります。歩幅の差を埋めるものは歩く回転数かもしれませんが、もはや私に元気に歩く気力はありません。追い抜き、追い抜かれる展開とは負けず嫌いなようにも見えますが、私の性格は人に負けたとしてもほぼ全く気になりません。私はスマホギャルに影響されずに私の道をてくてくと歩きます。そんなことを考えていると大きな交差点で再びスマホギャルに追いつきます。信号は青信号になり、私はいつものペースよりもさらにゆっくりペースでトボトボと歩きます。スマホギャルと距離はみるみる広がりますが、それはそれで良いのです。夕焼けなお空は様々な色が混じり合いとてもキレイな発色をしています。私はそのような空を眺めながら歩道の階段をスタコラと上ることが好きです。

 
■2022年10月2日(日)
■反応を探りながら影を踏む奴。
■2022年10月3日(月)
■一日一文章トレーニング。

「とまどい」

枝豆のつづき
野菜や果物の出荷規格表なるものをネットで見つけます。
これは都道府県単位で毎年策定している作物の出荷基準です。
枝豆は
2粒以上のものがA品
1粒以上のものがB品
なので、1粒入りが混じることや虫食い欠損の有無等でB等級となります。
量目基準が1袋200グラムで20入り×50パック箱入りや、250グラムや300グラム等それぞれの地域によって出荷の基準は異なります。
これら出荷規格に合わないものは廃棄処分となることもあるようでB品にはこの限りではないと記載がある地域もあります。

ということで。

先天的な要素が大きいと思われる農耕的な2マメ3豆のサヤの違いを狩猟採取的であるヤドカリ的な引越しで克服できるのか?この週末にたくさんのヤドカリ動画を観て考えました。
ヤドカリのお引越し映像、ヤドカリの飼育方法、不動産屋がヤドカリに最良に計算された家をプレゼンとするプロジェクトなお話、ヤドカリの鳴き声、脱皮に失敗して死んでしまうヤドカリ、ひっくり返って起き上がれないヤドカリ、ヤドカリの種類・・・いくつものヤドカリ動画を観ると大体ヤドカリの映像とは全て同じように見えてきます。
結論から言うとヤドカリ生活とはサヤを拡張する器とは少し異なる気もしますが、それは農耕民と狩猟民の考え方の違いとも捉えることができます。
そもそも、1個3.6グラム程の豆とは人に置き換えるとどんな意味があるのでしょうか?
脳みその量か?何か新しいものを受け入れるキャパシティー(引き出し)のようなものか?
多分、ヤドカリは目の前に器があればその器を物色して試乗します。
合わなければ元のサヤに戻り、気に入ったならばそのままその貝を利用します。
何か枝豆スタートの視点と全く異なる異質なもので、育成しないヤドカリの器(サヤ)とは最初の入り口で少し戸惑います。
それは資源を食い尽くす収奪的な資源産業が日本に少ない理由や価値観と似ているような気がします。
資源国をヤドカリ的と捉えるとそもそもの最初の入り口から見ている景色は異なります。
日本国とて古くは戦国安土桃山時代から金の採掘による資源国な産業もあり、今もお魚が好きで漁業も盛んな狩猟民族的な一面もあります。
いずれにしても枝豆は「静」であり、ヤドカリとは「動」な器を持っています。

ヤドカリとはカニは同じ仲間ではありますが大きな違いがあります。
カニは左右5本の手と足を持っています。
ヤドカリは左右4本の手と足(5本目は退化若しくは見えない位置にあるようです)。
カニは横歩きのみ。
ヤドカリは前後左右にも歩ける。
木に登れるヤドカリもいます。
そして、生物界でも最強クラスの握力を持ったハサミを持つ危険なヤドカリもいます。
皆がカニの王様だと思っているタラバガニは実はヤドカリです。
タラバガニのように貝殻を背負わないヤドカリもたくさんいます。
カニとヤドカリの違いとは見た目ではなかなか判別しにくいようです。
ヤドカリは住処である貝殻を結構頻繁に引越しますがお気に入りの家を見つけることは難しいみたい。
なので、他のヤドカリから力ずく器を奪うヤドカリもいるようです。
また、交尾をする時には雌の貝にしがみつき重くてバランスの悪い住みにくい家にしてから雌が引越しの為に殻から出て来たところを狙うというクズな一面もあります。
「ヤドカリ的な生活」とは狩猟採集民的な生活であり生物とは往々にしていろんな生存戦略があるものです。

 
■2022年10月3日(月)
■ゴゴゴとなる。
■2022年10月4日(火)
■一日一文章トレーニング。

「いい香り」

いやはや。
今朝は何も思いつくことはありません。
ノートパソコンの前に広がるのはオレンジ色の香りだけ。
オレンジ色の香りとはキンモクセイの香りです。
朝起きてよたよたな足取りでトイレに行った後に、窓を開放するとキンモクセイの香りが部屋になだれ込みます。
昨日はキンモクセイの香りは全くしませんでした。
キンモクセイの香りには空気の塊で香る感じはします。
キンモクセイを漢字で書くと金木犀。
確かにオレンジなかわいい花をたくさん付けて黄金の樹木と言っても間違いありません。
そして、犀の字。
この塊で香るオレンジの香りは確かに犀の突進の如く香りです。
犀には鋭い固いと意味もあるよです。
星のような不思議な響きでもある金木犀とは面白き漢字也。
キンモクセイは良い香りです。

 
■2022年10月4日(火)
■イヌ。
■2022年10月5日(水)
■一日一文章トレーニング。

「迷いというか迷走」

 今朝はすごい夢をみた。垂直離着陸する旅客機で旅をする夢。機内に乗るとゴーと景色がそのまま上に上昇して真っすぐ空の上を飛行する。3列10席程のオスプレイのようなプロペラ機ではない未来の小型飛行機。私はニヤリと笑いながら「まさか落ちないような」と思いながら乗っていました。勿論、飛行機なので行先を間違っているはずもないだろう。

 私は目の前にやって来た電車に迷わず乗ってしまう癖がある。先日も東急東横線で目の前にやって来た電車に飛び乗ると目的の渋谷方面でなく大岡山駅に到着。「乗る電車を間違っちゃった☆彡」ということで反対行きの電車に乗りかえて次の駅が自由が丘なので「よしっ」とそのまま乗車していたら「この電車は二子玉川行きですヨ」とのアナウンスがあって渋谷方面とは真反対方向に進んでいることに愕然とします。それなりに長い期間都内に住む都民でありながら、スマホや検索手段も持っている大人であるにもかかわらず東急東横線で迷子となる。このまま東横線から抜け出せなくなってネットニュースに「東横線で迷子になる大人が発見される」とのなかなかの記事を思い出しながら、結局二子玉川から渋谷に一直線出ることはできました。このルートは何度も乗ったこともあるルートではある。渋谷では何か美味しいケーキでもお買い物してから帰宅しようと考えておりましたが電車移動に疲れてそのまま一直線帰路に着く。

次数2)自由が丘→渋谷・・・秘密の邸宅
次数5)自由が丘→大岡山→(自由が丘通過して)→二子玉川→渋谷・・・秘密の住処

 東京の電車のことは実際に乗らなければ何のことかわからない話しではあります。東急東横線方面の電車とはたまにしか乗車しないややアウェイな電車ではあります。ですが、南千住からの電車でも目的地の日暮里でなくて浅草に到着したりして???な状態の時もあります。要は日常的に使用する電車以外の電車に乗ると常に迷います。電車の進行方面が同じで途中で枝分かれするタイプは特に難易度が高い。乗り場がここだと思い電車が来たら迷わず乗ります。それは乗車するホームが上階下階で分かれていても同じく難易度が高い。たぶん、行先の地名に土地勘がないので間違いに気づかないのかもしれません。そもそも行先の案内を見ていない可能性もあります。乗り換えもややこしい。乗り換えの駅が地下から一度地上の道路に出て、駅の入り口を探してから再び地下に潜り別の電車に乗り換えるパターンもあります。見知らぬ地上に出たならば、それはほぼそれは迷子と変わりありません。流石に外国の電車ではそのような事はないかと思うのですが、外国の電車は入って来るホームが適当なので鉄道情報の看板をよく確認しないとそもそも電車に乗ることができません。確認していても直前で入車するホームが変わり皆走っていることも多々あります。いやはや、行先を間違わないように一人で電車に乗ること、一人で電車に乗ることが嫌なこととは何か最低限の大人の素養が欠けているような気もします。

 何故?乗る前に迷うことをせずに、乗ってから迷うのでしょうか?それは何か可笑しなことであります。乗りながら迷っているということは「この電車で正しいのか」と一度止まって確認していないことになります。これは育った環境の電車が一本道なのでやって着た電車に乗るという培われた習慣なのかもしれません。考えるよりも体が先に動いてしまうと言うことはカッコ良く言うとアスリート的でもあります。そして、時短意識だけは強いので「特急・急行・普通」の選別には少しこだわりがあります。なので、速いのが来たら迷うよりも乗る方が勝ってしまうのかもしれない。そもそも、明後日方向の電車に乗っていることで所要時間は数倍かかっております。仮に間違って乗ったとしても線路は各方面に繋がっているので結局目的地に繋がります。東京の電車は選択肢の可能性がたくさんある。これはメリットでもありデメリットでもある。電車に乗ること自体が苦手なのかもしれない。東京に初めて一人で来た時の帰り道「のぞみ」でなく各駅停車(なかなかの次数を稼げる)の「ひかり」に乗って帰宅していました。「ひかり」と「のぞみ」が区別できなくて座席にちょこんと座るぼんくら度も持ち合わせております。(かわいらしい('Д'))ま〜時間はたっぷりあるのでいいのだけれども。東京生まれ東京育ち以外には東京の電車とはとてもややこしい。恐らく、電車内の地元民風のすまし顔で乗る人たちの数人は、私みたいな普段使わない電車に緊張しながら間違い乗車する似たり寄ったり人達だと思っています。たぶん。

 
■2022年10月5日(水)
■名犬ゴゴゴ。
■2022年10月6日(木)
■一日一文章トレーニング。

「ぶるぶる・そわそわ」

 いやはや。寒くなりました。昨晩はFitzの中から急きょ長袖長ズボンの寝巻を掘り出して就寝。今朝起きるとすっかり寒くて夏用のお布団では少し寒い。次の良く晴れた秋晴れの日には夏用・冬用の布団を干してお布団の入れ替え儀式が必要です。いつものように寒くなった朝にトイレに行く為に立ち上がると長ズボンがストンと下にズリ落ちます。「あれっ」この長ズボンのパジャマはこんなにウェストのゴム緩ゴムだったでしょうか。すっかりと忘れた長ズボンパジャマのゴムの緩さ。冬の間でもお気に入りでなかったサブパジャマを衣装ケースから選び出したようです。内ひもを結べばズボンはずり落ちません。ひもを結ばなければゆるくてリラックスして寝ることもできます。どちらを選択するのか?それは運命を大きく変える人生の選択かもしれません?パジャマの長ズボンのひもをいちいち結ぶことは面倒なこと。なので、寝る前にギュッと引っ張り絞り朝起きたらパジャマがずり落ちることとは自然の呆則に近いことのように思えます。

 昨日は夕方から寒くて半袖のシャツではもう十分に寒かった。行き道は蒸し蒸しとした雨で半袖でも十分。ですが、帰り道の雨の半袖はもう寒くて冷たい雨となります。(途中で止みましたが)季節は入れ替わり。一昨日の蒸し暑い大風でキンモクセイのかわいらしいオレンジの花はすっかり飛ばされて坊主頭となります。香りの楽園は本当に一瞬の出来事でした。昨日は雨だったので登山靴を履いて移動しましたが、そんな頑丈で防水な登山靴で踏みつぶされるものは銀杏です。一昨日の風で大量の銀杏も落下して、そのような道に落ちた銀杏たちは皆にグシャグシャと踏みつぶされて街は程よく銀杏臭くなります。今日から長袖のシャツ+薄い上着の衣替え。また、衣装箱から秋ものを掘り起こさなければなりません。

ところで。

 昨日の電車で迷子になる話。Twitter で「電車 迷子」で検索すると多くの人が電車で迷子になっていました。(笑) 行先確認せずの乗り間違い、本を読んでいての乗り過ごし、そもそも、普段乗らない電車に乗ると多くの人たちは電車でプチ迷子となっております。何か安心。新宿駅や東京駅の人人人の人の波。普段使わない人にとっては右や左への人の大移動が機械的な精密コンピュータのように大移動しているようにも思えますが、その内の何割かは単に道に迷っている迷子人であることに間違いはありません。なので、物凄いスピードの人の波の幾人かは行先を間違えて進んでいる迷子な人もいると思えば人の波にも違った視線を見つけることができます。人の波がわーと早ければ、その波に逆らうことは難しく自分の歩行速度も速くなります。そのような普段とは違う高速なスピードで歩きながら瞬時に正しい正解を導き出すことは難しいこと。そして、そんな人波に流されて辿りつく「ここはどこ?」なビーチが迷い人の生まれる場所であります。1次の1行程で済むところが4次の4行程と無駄な行程が増え、それはまるでPの文字を作り出しています。これを仮にネットワークのP回路と名付けると人は常に最短ルートを進んでいる訳ではありません。後ろ向きに進み時に横にそれて遠回りしながら電車のネットワークを迂回しながら最終目的地点向かいます。選択肢の多さはネットワーク混雑や切断を解消するネットワークの強さの手段でもありますが、時に迷子人を生み出す複雑さでもあります。P回路を進行中の気持ちとは「そわそわ」で落ち着かず終始「そわそわ」な感じ。人とは常に「軌道修正」=「そわそわ」しながら人生の道を歩んでいるのかもしれません。ずり落ちるパンツは最短ルート。私の足はP回路。(適当にまとめたm(__)m)

 
■2022年10月6日(木)
■お座りできたの〜。
■2022年10月7日(金)
■一日一文章トレーニング。

「物事を単純化することは脆弱性だとも言えますが・・・図を描いてしまいました」

安定した暑さから急に寒くなることは安定が崩れ去った不安定な状況です。夜明け前が一番寒いと言います。確かに寝起き前の朝方はとても寒くていつもより早めに目を覚ましまたが、昨晩の寝る前も十分に寒かった。感覚的にはほぼ同じ寒さです。なので、昨晩は毛布を引っ張り出してきて簡易的な冬支度で就寝。それでも毛布だけだともう寒いので羽毛布団を出す時期なのかもしれません。今夜はホコリ舞う羽毛布団を出す大イベントです。

ということで「ずり落ちるパンツは最短ルート。私の足はP回路。」の相関図を考えていたならば、それは何か世の中の縮図のようなものを見つけることができます。ネットワークが密に繋がることはそのネットワーク自身が強固になること。どこか一部分に猛烈な負荷がかかったとしてもそれらを分散する機能を持っています。また、一部の繋がりが攻撃によって遮断されたとしても密に複雑に繋がったネットワークはそれらを迂回して常に人や物、情報を目的地に運ぶことができます。このような状況は所謂、ネットワークが強固な状況にあると言えます。そのような多様な複雑なネットワークな繋がりは私たちのような生身の人間にとっては多種多様で安定的な選択肢を得るというメリットがある一方で「迷い」も一緒に得ているように思います。その一つの形態が「電車 迷子」というカタチで現れ出ます。恐らく、AIの役割とはそのような最短ルートを補助して、私たちが路頭に迷わない道しるべとなってくれることのように思います。ですが、AIバトラーがまだいない現実の選択に於いて目的地のルートは自分で調べ、誰かに教えてもらい、迷い、偶然の発見の中から最短ルートを開拓していくものであります。そのようなネットワークが密になればなる程に、そのネットワーク内で迷子になる人も増えていく比例関係を推測して上記のような図を描きました。これは何かしらの数値やデータを持つものではなく、あくまでも経験上の感覚的な図です。たぶん、このような図を描くことが世の中を「見える化」する一つのカタチのような気もします。ネットワークが密の反対にあるものはノードとノードの繋がりはとてもシンプルで管理も簡単、メンテナンスも容易なネットワークがシンプルな状態です。しかし、ネットワークが密ではないので攻撃に弱く、迂回ルートがないので一通路が攻撃などで遮断すると全て人流物流が滞ってしまう可能性があります。人生の迷う人の数の反対にあるのは決まり決まった人生の人の数です。左に行けば行くほど江戸時代のように武士は武士、商人は商人、農民は農民と家業を引き継ぐイメージです。私たち自由で強固で一見複雑な社会という恩恵を受ける一方で人生の迷子人となる人の数を増やしていることになります。(これにはAI以外の何かの救済バックアップなシステムが必要です)政治家の2世3世というのはもはや家業であり決まり決まった宿命の元で後援などの事業基盤や資本、その他様々なネットワークを構築しています。これは普通の人が数日で構築できるようなものではないのでネットワークが密であるという位置にあると思われます。言うなれば人生に迷うことなき左上の方の安定した位置。そして、面白いと思うことは左端上が安定、右端下が不安定だと仮定すると社会の一端を見るような気がします。安定とは社会が安定することであり社会の発展が停滞することと表裏一体です。このアベノミクス約10年が民主党政権による国民の失望からの安定志向が高まった結果だと考えれば何も発展しなかった10年とは必然だったようにも思えます。(日本の停滞は100%政治の責任。なので、直接民主主義のサイコロ民主主義で国の行く先を決める方が100倍ましだったと個人的には思います)逆に不安定とは不安定が故に何か大きな進化や発展の胎動が動き始める状況とも言えます。勿論、不安定で安定を形成することもなく、そのまま不安定なまま崩れていく状況もあるでしょう。何を選択するにしても一長一短ではありますが、迷うことは良いことなのかもしれなくて右上方面を目指す以外に後ろ向きな選択肢は個人的には考えられませんのでAIの普及はそのような迷いを取り除いてくれる立派な執事になってくれると私は予測します。たぶん。

 
■2022年10月7日(金)
■イヌの動き。
■2022年10月8日(土)
■一日一文章トレーニング。

「くたくた」

ニュースによると今後暑さが若干戻って来るらしいということで羽毛布団を出すことを延期。
羽毛布団の出陣は次の寒くなったカラッと晴れた日に出しましょう。
ところで、昨日の大雨はすごかった。
予期せぬ大雨。
傘がひっくり返りそうな位の突風に「あらよほらよ」とアクロバティックな傘と体の動きで傘の中に吹き込む風の塊を外に逃がします。
風が強いので傘を畳んで歩きたいと思えども終始横殴りの大雨。
傘は必須です。
そのような雨では最強と謳われた登山靴でさえ中まで浸水してリュックも服も何もかもびしょびしょとなります。
リュックの中にはiPadとアイデアノート、エコバックとちりめんじゃこ、きのこ、キャベツが入っています。
家に帰るとアイデアノートの一辺が濡れて使い物にならない位に浸水しており、このヨレヨレのノートはノート終いとなります。
アイデアノートは携帯用とカバン用の2冊ありますが、カバン用はA5のリングノートでリング穴のスペースにシャーペンを挿すことができるのでペンケースを持ち歩かなくても良いところがお気に入り。
そのような台風到来?規模の雨風ではありますが何故か歩行する人は多かった。
大抵の雨の日とは歩いている人は少なくて快適に歩けるものです。
なので、雨の日に歩くことは好きなのですが昨日は雨の量も歩く人も多くて、傘を避け、水溜まりを避けて狭い歩道を歩くと普段以上に疲れます。
路上の雨の避けるひさしある部分でタバコを吸う人や歩きたばこの人も多い。
これは多分、大雨で洗われる新鮮な空気でたばこを吸いたいというところなのかもしれません。
車の数もここ最近見ないぐらいの通常の3〜4倍ぐらいに多かった。
金曜日の大雨なので車が多いことは当然かもしれません。
自転車の数も多かった。
合羽を来た、傘を持った自転車がビュンビュンと走り抜けます。
自転車もやっぱり普段と変わらないぐらいの数が走ります。
昨日10月7日(金)は台風クラスの大雨だったのに人、車、自転車も大変多くていろんな障害を避けて歩くことに大変疲れた一日でした。

 

■2022年10月8日(土)
■イッヌの表情。
■2022年10月9日(日)
■一日一文章トレーニング。

「噛めば噛むほどに」

一昨日の大雨の日のリュックにはさり気なくキャベツが入っていました。
帰宅時の寄り道スーパーで買ったものであり人の頭やラグビーボール程の大きさと重さがあるキャベツです。
それは間違ってもこのような嵐の日に買う必要が全くないもの。
それでも、読まない無意味な分厚い本を持ち歩くことよりも幾分意味があります。
本であらば雨水を吸ってよれよれの湿気た本になったでしょう。
現にアイデアノートはヨレヨレの使い物にならないノートになりました。
持ち歩きたいと思う本というのはそれなりに好きな本なのかもしれませんので、そのようなお気に入りの本が水浸しになることは少しショックなことであります。
それでも、大雨の日に大きなキャベツをリュックに入れて持ち歩くこととはそれは何かおかしなことではあります。
先日の台風時の呆則は「台風の時には長いフランスパンを買わない」ことでした。
そんな教訓は1寸も生きてはいません。
ただ、スーパーでそのキャベツを見たならば買わない選択肢はあり得ないこと。
先ず重量がずっしりと重くて立派である。
何よりも見た目が薄き緑色に濃い茶色が混じりあって美しい。
この色合いを上手く表現できないので写真参照。
キャベツの見た目から美味しさを知る方法は知りませんが、直感でこのキャベツは間違いなく美味しいキャベツだと確信できます。
料理研究家も美食家の魯山人先生も思わず買ってしまうキャベツだと思います。
キャベツの色合いも立派ではありますが葉脈もなかなかに立派。
葉脈とは水分や栄養分の通り道。
そのような栄養素を隅々まで届ける通り道である葉脈の枝分かれが大樹の姿であるこは面白いこと。
これは間違いなくネットワークの姿であり植物の葉っぱの一枚一枚に自然の神々しいメカニズムを感じます。
店頭に並ぶキャベツはどれも良い風格ではありましたが、その内の一つを手にとってレジに向かいます。
ついでに、特売の秋っぽいキノコとチリメンジャコも購入します。
チリメンジャコをしつこく漢字変換キーを押していると「縮緬雑魚」と変換されます。
「縮む面(つら)のざこ」の響きが気になったので辞書を調べるとチリメンジャコは「ちりめんざこ」がなまり「縮緬雑魚」→「ちりめんじゃこ」となったようです。
確かに見た目には縮んだ干からびた顔をした顔をしています。
雑魚と言えば魚の文字がつく言葉でイワシの稚魚であるが故に雑魚と言えば雑魚に間違いはありません。
秋と言えばチリメンジャコにスダチをかけて食べるととてもおいしい。
おばあちゃんがスダチ+チリメンが好きでそのように食べていました。
チリメンジャコを大きな口の中に放り込みご飯と一緒に食すとご飯は何杯でも進みます。
噛めば噛むほどに海の香りと旨味がお口に広がることを小さい頃の私は鯨になった気分だと表現していました。
クジラのお食事とは多分、このような感じなのだと思います。
縮んだ幾多の魚の顔の中に大きなイワシに成長できなかった魚たちの苦しみと無念な叫びの表情を見出すことができます。
歪んだ体、歪んだ口、大きな目、目がない骸骨のような小魚。
それらはお寺にある生き仏(即身仏)な表情を見出すことができます。
そのようなことを考えると食とは急速に萎えるものではありますが、そのようなことの為に「いただきます・ごちそうさま」と手を合わせて食べ物への感謝を示しているのだと思います。
生きることとはその分の何かの生命や資源を収奪していることであります。
何かの生命を喰らえばその分だけの何かを遺さないといけないようにも思うのですが「ボーっ」と意味もなく無駄に生きているのもまた人生というものでもあります。
私はキャベツの立派な大樹の紋様をバリバリと噛み砕き、イワシの稚魚の無念な表情と目が合いながらも鯨のようにそれらを噛みしめます。
そのようなこととはなかなかに言葉にすることが難しいことではあります。

 
■2022年10月9日(日)
■犬の顔に眉毛をつける。

■2022年10月10日(月)
■一日一文章トレーニング。

「自己満足」

「さあ、お前の罪を数えろ!」
「ひーふーみー」と罪と積みプラはタワーと積み重なって数えきれません。

 あまりにも暇すぎる連休の週末に放置状態の仮面ライダーWサイクロンジョーカー(右)のプラモデルを完成させます。25cmぐらいあるビックサイズ。このプラモデルは飾る場所に困るのでパーツの仮組みとスプレー塗装されたままほったらかしでした。追加でシルバーとゴールド、パープルメタリック色で細かい部分を手塗りで仕上げて組み上げると質感もキラキラと素敵です。(自画自賛)いやはや。肩を引っぱり出してゴリラポーズで撮影する仮面ライダーWは少し震えるぐらいの完成度です。とは言っても、やはりプラモデルを組み上げても飾る場所に困ります。スッキリした部屋にしたいと思っているのにゴリラポーズのWが鎮座している部屋とは少し考えようものです。ミニマリストな家に遊びに行き勝手に仮面ライダーWのプラモデルを置いて帰る手段もあります。そうすれば、次に遊びに行った時には最低限のモノしかないスッキリしたお部屋が仮面ライダーがたくさん並ぶオタ部屋に変身しているかもしれません。お洒落で素敵なお家が子供の趣味によって仮面ライダーやプリキュア色に染まっていくことと似ています。または、バザーで販売する手もあります。真剣に要らないものはバザーで販売したいけども、売れる気がしないところが怖いところ。しかし、このWゴリラたちはなかなか良い出来なので手放したくはありません。さて、お洒落に飾る方法はないものでしょうか。

 (左)は仮面ライダーWルナトリガー。ルナトリガーは大昔に作ったもので無彩色の素組み状態でコレクションケースに埋もれていました。サイクロンジョーカー(緑+黒)の金ピカ仕様があまりにもカッコ良かったのでついでにメタリック塗装を施します。本当は分解してキレイにスプレー塗装しようかとも思いましたがガッチリハマって分解できなかったので手塗り塗装します。手塗りはムラが発生するのでモデラーにとって嫌われ気味な塗装方法です。個人的にアクリル絵の具でプラモを手塗り塗装することはありますが、それはアクリル絵の具の隠蔽力で色ムラを目立たなくするので使用理由が異なります。特にメタリック塗装となればスプレー塗装一択な感じで手塗り塗装とはほぼ考えられません。さっそく、メタリックマスターと言うメタリック・パール系の薄め液を買ってきて粘り度を薄めて塗装します。下の塗装を溶かしながら良い感じのムラに収まるように何度か塗り重ねると予想外に手塗り塗装は味があって素敵な感じ。手塗りの色ムラ感は着ぐるみ感もあります。筆塗りもそれなり良いかもです。

ところで。

 「手塗り」と「スプレー塗装」とは日本人の性格をよく表す対象なのかもしれません。前述したようにモデラーにとって手塗り塗装とは嫌われる塗り方です。できればスプレー塗装でムラなく綺麗に仕上げたいものです。その原因の全ては筆ムラ。その根底にある価値観とは色とはムラなく塗るという教育にあるかもしれませんし、古い工芸品を見てもムラなく均一なキレイな表面を好む国民性なのかもしれません。しかし、安土桃山時代の陶器にはムラや歪みに価値観を見出した時代もあるので、もしかしたら大量生産するという工業製品や社会に於いてのムラを禁忌する現象なのかもしれません。それを新品信仰ともいうべき時代の写し鏡な価値観として捉えることもできます。もし、家の壁をペンキで塗る時に壁がムラだらけならばそれは何か嫌なことであり「味わい深い壁である」と感じることはほぼありません。ボディーカラーがムラだらけの新車というのはやっぱりそれも気持ち悪い。版ズレない完璧な商業的なキレイな印刷が好まれる一方で酷い版ズレの海外のゆるい印刷物を好む私もいます。そのような印刷具合とは現代日本の印刷機ではもう表現できない技術でもあります。人の価値観とは移り変わる流行のようなものであり、ないものねだりの感じもしますが、手塗りのプラモ塗装で自分自身の固定観念が一枚剥けて新しい価値観を見つけることができたようにも思います。キラキラと光り輝くメタリック色の手塗り塗装はマイブームの予感です。

 
■一日一文章トレーニング。
■犬に丸みを持たせる。
鼻を付ける。
だるま犬っぽい。
 
■2022年10月11日(火)
■一日一文章トレーニング。

味覚への挑戦」

「文章とは面白くて、ほんの少しの知的心のスパイスをもって簡潔に書きたい」
最近入力する文字数は1500文字ぐらいを目標に文章を書きます。
2000文字以内の文章を長文とは言えるのかどうかわかりませんが、慢性的なネタ不足の中で毎日作文するとなればそれはそれでなかなかしんどいこと。
しかも、一度書いた後に削除する文章もあるので実際の文章量とは相違します。
書き手からしてみれば文章の量とは自己満足な文字空間であることに間違いありません。
一方で読み手にとっての長文とは読むことがしんどい空間です。
なので、初心に帰りシンプルで読みやすい文章を書く方法についても考えておりますが、文章量と読みやすさは反比例するように思えます。
そこで、いくつかの改良点を考えて、それなりに構造の変革を試みております。
改良点は「タイトル」に心の感情的なものを記載すること。
こういうのは料理に例えるとわかりやすいのかもしれません。
以前の「タイトル」は文章を書き終わった後に名詞的なものを適当に選び出して書くことが多かったのですが、文章を創作するということは心の栄養素かもしれないと考えると幾分の心の叫びみたいなものも必要なような気もします。
「一日一文章トレーニング」とは眠りから目覚めた後に真顔で淡々と文章を打ち込む作業。
迷いや結論無きことも多くて必ずしも本心であるとは限りません。
所謂、言い切り構文では書けないことは毎日言い切る能力を持ち得ないことを意味して、それら文章は無感情な文章であるとも言えます。
かと言い、いちいちの出来事にエモーショナルを爆発させることもできないので、せめて「タイトル」だけでも個人的な感情の片鱗が現れ出れば良いかもしれないと考えました。
毎日異なる創作メニューの献立を考えて調理することはなかなかに難しいこと。
生クリームたっぷりのフランス料理を作り続けることが無理であれば、時には実験料理やまずい失敗作も作り幅を広げる必要があります。
そこで、本日は実験料理。
こういうのは書かないと絶対に伝わらない取組みの一つだと思います。

下記はそのようなことを考えながら書いた「タイトル」の一覧です。

・2022年10月3日(月)「とまどい」
これはヤドカリのアグレッシブさに戸惑っていました。結局は人とは言え、同じ生物として共通点はあるものだと最近は心変わりしております。(開始日)

・2022年10月4日(火)「いい香り」
これは金木犀の良い香りです。本当に数日の儚い香りでした。

・2022年10月5日(水)「迷いというか迷走」
これは電車で迷い人になることについて書く自分自身にも迷っています。

・2022年10月6日(木)「ぶるぶる・そわそわ」
これは気温が寒くなったことの震えと迷い道を修正する時の心の心境です。

・2022年10月7日(金)「物事を単純化することは脆弱性だとも言えますが・・・図を描いてしまいました」
これはまた良いことを書いてしまった思いながらもその反対にある本心について書いています。

・2022年10月8日(土)「くたくた」
これは大雨に濡れてノートも私もくたくたです。

・2022年10月9日(日)「噛めば噛むほどに」
これはチリメンジャコの噛みしめるうま味とヤドカリ話に続く感謝して食事しないとと思う心。

・2022年10月10日(月)「自己満足」
これは自己満足な世界。こんな些細な楽しみの為に人は生きているとも言えますし、楽しみの中から新しい発見もあるものでそれを「自己満」と表現します。

さて、今朝の「タイトル」は何と表現しましょうか。
そんな風にハードルを上げると「タイトル」はとても難解になります。
いづれにしても日々一歩一歩です。

 
■2022年10月11日(火)
■少恥ずかしがり屋な(改)イヌ。
■2022年10月12日(水)
■一日一文章トレーニング。

「二度も濡れてショック」

ズボンの後ろがお漏らしのように濡れていることは嫌なことです。
仮に後ろにいる人達がもう二度と出会わない人達であっても、私のようによく観察している人は稀にはいます。
メタリック塗装用のメタリックマスター500mlを買いに家電量販店にやって来た連休のエスカレーターには団子のように人が上り下りします。
そこを私は濡れたパンツで通り過ぎます。
当然、ほとんどの人のお尻はドライ。
どこを見回してもこの街のどこにも私以外にお尻は濡れていません。
まーいいや、用事はさっさと済ませて帰宅しましょう。

そして、

昨日、自転車に乗ったならば、まだサドルが濡れておりました!
前回程ではないにしても程よくウェットにパンツを濡らします。
このように何度もズボンが濡れるようだとパンツが濡れることとは日常事のようになります。
サドル横には数本の切れ目があって、そこから雨が流入してサドル内部に水を溜めているようです。
自転車の椅子とはそれなりのクッション性があります。
そのクッションが水の吸収性も良いみたい。
表面はサラサラとしていても椅子に座ると体重の重みで水が表面に染み出て出てきてズボンに伝播します。
サドルを新しいものに取り換えるぐらいならタイヤの溝も擦り減ったことだし、随分乗ったような気もするので新しい自転車に乗り換える時期なのかもしれません。
大体に於いてサドルというネーミングも何か抜けていて面白い。

ところで。

先日の塗りムラのことで「ムラ」の漢字がわからなかったので調べました。
ムラとは「斑」と書きます。
赤ちゃんのお尻に染み出る蒙古斑(もうこはん)と読んでいたものが「ムラ」でした。
二人の王に挟まれた中央に文人が佇む姿。
「王」の漢字の大きさよりも小さい「文」の字はムンクさながらの叫びのような声を発してるように思えます。
確かにムラがある漢字です。
意味は
(1)濃淡、厚み、大きさなどが一様でなく不揃いであること。
(2)出来・不出来の差が大きいこと。
(3)気の変わりやすいいこと。
これだけのマイナス三要素を持ち合わせていれば皆が忌み嫌うだけの理由は十分にあります。
なので、「斑」に美学を見出すこととはなかなかにハードル高きことのように思えます。
一方で西洋絵画の鑑賞、製品や街など見ても西欧には斑(ムラ)意識は持ち合わせていないような気もします。
寧ろムラがあることに美学を見い出す作品も多い。
「ムリ・ムダ・ムラ」
それはその通りではありますが、標語とは人の意識を支配する何かを持っているようでもあり怖いですね。
「斑・ムラ」とはアジア人特有な感覚なのかもしれません。

 
■2022年10月12日(水)
■イヌバンキング。
■2022年10月12日(水)
■一日一文章トレーニング。

「案外面白く書けるかと思ったがそうでもなかった」

全ての道は一歩道で繋がっているのかもしれません。
下記はここ最近の記事にした出来事を時系列順に整理したもの。

1次:仮面ライダー・サイクロンジョーカーをメタリックカラーで手塗り塗装する。(満足)
2次:仮面ライダー・ルナトリガーを手塗り塗装する為にメタリック塗料の粘り気をサラサラにしたいと思う。(願望)
3次:持っているはずの薄め液が見つからない。(探索)
4次:薄め液が見つからない理由は先日のお片付けでいつもの場所から移動してしまい込んだので、置き場所不明となる。(掃除による掃除の為に忘却)
5次:家電量販店に薄め液を買いに行く。(行動)
6次:自転車に乗る。(移動)
7次:パンツがお漏らしみたく濡れる。(恥ずかしい)
8次:メタリック・パール塗装用の薄め液を店頭で発見する。(発見)
9次:薄め液を購入して家に帰って服を着替える。(トホホ泣)
10次:無事に仮面ライダー・ルナトリガーをメタリック塗装する。(格闘中)
11次:持っているはずの薄め液を再度探すが見つからない。(もやもや探索)
12次:本棚の本が気になり本を捨てる為の本の墓場を作る。(とばっちりの断捨離)
13次:読んでいない本を見つけて読み始める。(発見・読書)

ここ最近の出来事を次数で書き出します。
すると、全ての出来事がワールドワイドウェブ・リンクのように行動・思考の道筋がネットワークで繋がります。
全ての起点はメタリック塗装の容器なのかもしれません。
それ以前にも仮面ライダーのプラモデルもあります。
それらを完成させようという動機もある。
何かをする為に何かをする。
何かをしたら何かの現象が起き。
何かをしようとしたら何かが見つからなかったので、とばっちりの本棚の本を捨てるモードへと繋がります。
そのように考えればネタは無限とも言えます。
どうしようもないくだらない内容ではありますが。

本は重く面出しで鎮座しているので、目に付きやすい分いつもとばっちりの削減対象になります。
本当に捨てなければならない物たちは箱にしまい埋もれた物たちなのかもしれません。
けれども、本は箱に入ることもなく目立つが故に断捨離の対象となります。
もう二度と読まないだろうと思う本を集める場所を作り、その場所を「本の墓場」と名付けます。
我が家の第???次焚書事件。
定期的に起きる整理整頓・お掃除モード。
真っ先に集まる本たちは実用書や自己啓発的な本。
読んでもいないし、今後も絶対読まないだろうと本がぽつぽつと「本の墓場」に集まります。
二度と読まない本の判断基準だとほとんどの全ての本は削減対象となりそうですが、本を掴んだ瞬間に「これは・・・ちょっと・・・」と躊躇する自分がいます。
その考えでいくと雑誌とかはもっと捨てにくい本であります。
雑誌とはアイデアの宝庫だし、暇な時にペラペラとページをめくって眺めていたい。
そんな感じで集まった雑誌はそれなり場所もとり重量も重い。

本棚に二重に横積みに置かれた本は読む気力も探す気力も湧きません。
テトリスみたく空間を埋めるゲームです。
これらを先ずは改善する必要があるのかもしれません。
「無理・無駄・ムラ」・・・。
家庭内に「ムリ・ムダ・ムラ」の掛声は少し怖い。
「ほうれんそう」でさえ怖い。
義務ではなく何でも話すし文章にも書くけれども。(Openマインド)
美術書を数冊置いてステキな置物をゆったりと飾る本棚空間にするには、たぶん、半分以上3/4ぐらいのほとんどの本を捨てなければなりません。
今やすっからかんの本棚とは憧れの境地。
そのような感じで本を識別していると本棚の奥から「神のこどもたちはみな踊る・村上春樹1300円」を見つけます。
この本は本棚の奥で22年間ぐらい塩漬けになっておりました。
読んでもいないし、持っていることさえ忘れられた本。
奥付を見ると2000年の発行の初版です。
初版の響きとは消費者にとっては何か良い響きです。
製作者にとれば重版を重ねている本の方が勲章のような感じかもしれません。
ということで、本を読み始めます。
本のお掃除は一時休戦。
お掃除中に雑誌をペラペラとめくったり、懐かしいなと思ったりすることは厳禁です。
このようにして、本のお掃除はストップし我が家の第???焚書事変は一時休戦中。
「本の墓場」には数冊の本が置かれてはおりますが、もっとシビアな目線でいらない本を集める必要があります。

 
■2022年10月13日(木)
■犬っぽい体をつけました。
喜ぶイヌ。
■2022年10月14日(金)
■一日一文章トレーニング。

「天井の蜘蛛」

昨日の朝、パンとナシを食べながら天井を見るとクモがいました。
5ミリ程の小さなクモ。
白い天井に褐色のクモは日の丸弁当のようにすぐに発見できます。
せめて擬態して天井色に色を変えることができるのならば、こんなにもすぐに見つかることはなかろうに思うのですが、クモはいつだって堂々と現れ出ます。
人間の世界にこんなに堂々と現れる昆虫はクモだけかもしれません。
※厳密には蜘蛛はクモであって昆虫ではありません。
皆が嫌いなGもハチも蝶々も人を避けて警戒しながら行動しているように思われます。
ちなみに我が家でGは未だ発生したことはありません。(本当)
実家では手の平サイズの手足の長い大クモがサッサッサーと機敏な動き現れ出て「ギャ〜はは〜助けて〜」と恐怖していたのと比べても都会のクモは小さくて小粒である。
私はみずみずしいナシを食べながらクモに向かって警告します。
「ごはんを食べ終わったら掃除機ですっちゃいますよ」と。
流石に叩き潰す勇気はないので掃除機で吸っちゃいます。
しかし、クモ微動だにせず。
やはり、人語は理解できないのであろう。
沢山付いている目に向かい只ならぬ危機が迫っていることの眼力と妖気で送る。
しかし、やっぱりクモは無反応。
寝ているのかもしれません。
私がクモに対してこんなにも強気である理由は朝のクモだからです。
夜グモであれば「お主!運が良かったな!」と思いながら100%見逃します。
夜グモを殺してはいけないという謎の迷信はググっても私を説得するだけの根拠は見つかりません。
しかし、それでも夜グモには自身の行動を制限する何かがあります。
多分、それは道徳感。
夜のクモを殺生してしまうと将来の自分に何かしらの悪いことが起こるかもしれないと思う迷信。
けれども「そのようなお化けや迷信なんて信じね〜」と強気に夜グモに立ち向かえる自分はいませんので、そういう事柄は根っからのMADサイエンティストにお役目を任せるとして、私はお天道様が明るい内のクモだけの成敗に専念します。
私はやっぱり、何だかんだと価値観や道徳観、標語に縛られて生きているのだとつくづく思います。
この夜グモを殺さないという私たちの行動が、クモが人を恐れないで堂々と人前に現れる学習効果をもたらしているのかもしれません。
なので、安全圏である夜グモの経験則を持たない日本以外にお住まいクモたちは人間を見たならばサッサッサッーと逃げていくのかもしれないとの仮説を持つこともできます。
それとも、クモは生態系の頂点に立っているので何も恐れる必要はなく威風堂々としているだけかもしれません。
そのようなことを考えながら朝食は終わり、その時はやって来ました。
私はダイソンに短い先端ノズルを差し込み「強モード」でクモを吸い込います。
掃除機の先端がクモに近づいた時点でクモは動きの反応を示しましたが、ダイソンの吸引力が落ちない力によって吸い込まれて透明容器の中をグルグルと回転しています。
「あ〜」すごい遠心力で目が回り、私には決して蜘蛛の糸は下りてこないだろうということは確信できます。

 
■2022年10月14日(金)
■イヌのヒーロー正面図。

■2022年10月15日(土)
■一日一文章トレーニング。

「久しぶりのねこ♪二匹いたねこ♪一匹は黒猫で、もう一匹は茶猫♪墓場と下町に住むねこ♪一匹は目つきワルな柄悪野良猫でもう一匹は丸々としたお上品な猫♪一匹はカラスの大群に囲まれて、もう一匹は植木鉢に囲まれた♪そんな猫の前を今日も墓場のランナーと散歩中の猛犬が走り抜ける♪久しぶりのねこ♪二匹いたねこ♪(歌詞:久しぶりのねこ)」

すっかり鉛色の良い天気。
雨降ってサドルがまた濡れているような気もします。
そこで、昨日は自転車を使わずの歩いての移動。
そして、街と墓場にて久しぶりのねこを二匹見つける。
この夏場には一度も見かけることはなかった猫。
猫とは見かけない時には全く見かけないのですが、見かける時には2匹ぐらい見る時が多いような気もします。
猫が街の中を散歩したくなる季節はあるものなのかもしれません。
おそらく、雨も降り空気も洗われ涼しい良い季節となりました。
どこかの家に住み着いていたかもしれない猫たちが外に這い出てきたのかもしれません。
外気温が暑い寒いという理由で住み良さ気な家を見つけて棲みかとする猫とは何とも若干憧れる生活でもあります。
昔、凍えるように寒い日に「ミャー」と鳴く猫がドアの前にお上品に座り店中への入店を求めていたことがあります。
野良猫感は全くないスラっとした普通の猫ではありましたが、私はそのような猫を「m(__)mダメっ」と入店拒否しました。
何とも人でなし。
猫の毛が落ちる、ノミもいるかもしれない、店に住みついてしまったらどうしよう、商品の上を歩くかもしれないなどと考えてのお断り。
猫は「わかったわ〜」とすーっと立ち去って行きましたが、野良犬とかネズミでは怖すぎて絶対にムリなので猫にはそのような怖さのハードルが低いようには思えます。
そのような感じで猫とは人や家を選び我が住処としているのかもしれません。

1匹目の猫は墓石並ぶ細道にて見つけます。
墓石の横で丸くなる目つきの悪い黒猫。
その周りには10羽程のカラスが群れて集まりカーカーと騒がしく鳴いています。
そのような地獄のようなカラスの鳴き声の真中で黒猫1匹。
カラスに攻撃される訳でもなく黒い奴らの親分のように地面に丸くうずまっています。
私はそのような黒い会議風景の写真に収めようと携帯を出したならばカラスの群れは「わーっ」と飛び立って会議は散会となります。
流石に墓場を住処とするだけの黒猫なので微動だにせず堂々としています。

もう一匹は下町の猫。
茶色の丸々とした少し大きめの家猫だと思われます。
植木鉢が並ぶ家の前でじっとしています。
日は照ってはいないので日向ぼっこをしている訳でもありません。
何をしているのか?ただ、座っているだけ。
そんなことを言えば、私だって何をしているの?との感じです。
我が人生と猫の人生、どっちもどっちな人生のような予感。
猫と私、猫がこちらを意識して警戒監視していることがピリピリと伝わる距離感。
なのに、わざと視線を逸らし、目を閉じたもりもしながら何か微妙な興味ないアピールをしてきます。
「オレはお前に関心はない」
「なので、お前もオレのことはほっといて立ち去れ」
と言うような感じ。
私はそんな猫を写真に撮って路地を前に進みます。
すると、前方からお洒落ガールの散歩する犬が「はーはーはーはー」と爪で地面を引っかきながら這うように散歩してきます!!
猪突猛進。
猫ちゃん危険!
安泰とはほんの束の間な出来事であります。

 
■2022年10月15日(土)
■イヌの進化。遠吠え。
■2022年10月16日(日)
■一日一文章トレーニング。

「三」

「でも そんなんじゃ だめ ほら そんなんじゃ ほら ふわふわり ふわふわり」
と恋のサーキュレーションを口ずさみながら、ふわふわと飛ばない重量感のあるホコリをかき出します。
季節の終わりにサーキュレーターを分解してお掃除。
ワンシーズン回しただけで、こんなにものほこりや髪の毛が溜まるものかと思います。
1)先ずは機械を分解。
2)大雑把にホコリを書き出し。
3)本体をアルコールでキレイに拭き取り。
4)お風呂場にてフィルターやファンをゴシゴシと洗剤で洗い流す。
5)そして、最後に来季に向けてモスボール保存する。
ついでに、お風呂場の溝と床壁等もお掃除。
オレはやった、全てをやった。
でも、エアコンのフィルターをお掃除することは忘れていた。
内部洗浄はしたけれども。
これは毎度のお決まりのお掃除構文。

昨日の文章は「平行構文(=)」と呼ぶべく文章の構造で書きました。
1)ハカバの黒猫→2)目つきワル→3)カラスに囲まれている→4)カメラ撮影にカラスが逃げ出す
1)下町の茶猫→2)お上品→3)植木に囲まれる→4)オサレ姉の散歩する猛犬が突撃していく
と色違いの猫の話を同じ次数で平行して作文します。
これは横着にとってなかなかメリットあります。
違う猫の話を同じような構造で二乗にして文章数を膨らますことが可能です。
それに加えて単なるぐうたら文で終わることもなく何か脳内にてミックスされた余韻も残ります。
恐らく、イコール大なり小なり≠と「>=<」という他記号の文章でも作文は可能なはずです。
次は他記号のカタチで書いてみましょう。

円安について。(米国FRBの決定)→(日本爺の同じ発言)→(米国統計発表)→(日本爺の同じ発言)→これは毎度毎度のコントのような構文の形態です。この構文の内容差を比較すると何か無策が際立っており悲しい限り。その差を考えれば円安方向に引っ張られることは仕方がないことかもしれませんが、先日、国連か?何かの?海外のたぶん偉い人が世界の中央銀行が何の対策も施していないとのニュースがありました。確かに自国のエゴが際立つ世の中に先鋭化しているような気はします。(これは非常に心配)普通に考えればこの状況化でレバレッジをかけて大金をつぎ込むことは自殺行為のようではありますが、このように何度も同じことを繰り返せばインサイダー取引な暗号発表かもしれないと思ったりもします。(絶対にダメ!ジコ責任で)新着情報だと「自分が退任後の2〜3年も金利は変わらない」というような預言者的な未来予測もラインナップに加わります。(ニュースの切り抜き発言しか見ていませんが・・・)パンデミックも予測できないのに未来を予測できるということは「オレは人事を知っているぜ」という失言を堂々と発表しているようも思えます。これは官邸なめられすぎです。というか上場企業でも相場を左右する発言は普通にお縄で厳禁なので、ある意味何かが欠如している可能性もあります。世の中には為替を安定しようと日夜努力をする人達もいる中で何か人をあざ笑うオウム返しのような発言がマスコミに切り抜かれていく状況は何か異常な感じではあります。江戸時代なら主君押込。爺の言いたいことはもうすでに国の隅々にまで行きわたっているはずです。おそらく、小学生でも知っているはず。インフレ円安方向への国民資産を減価する方向への毎度のオウム返し発言は少しおかしいと言うのが私の個人的な感想。それは今話題の崇高なマスメディアや学者がバカにするわいが大好き「感想」!!です。本人の考えていることを否定するものではありませんが世の中の影響を鑑みれば別な言い方もあるのではないかと思ったりもします。そこで、何を言っているのか全くわからない日銀構文や日銀作文(日銀文学でした!!)というようなものがあったと思いググってみますが応用例を見つけることとができませんでした。何だっけ?何かどっちつかずの構文形態というのも眠気を誘う面白いカタチであります。今度書いてみましょう。書けるかな?

いやはや。
それぞれ全く毛色の異なるお話を「三つの平行構文」で書きましたが、流石に何も統一感はありませんでした。

 
■2022年10月16日(日)
■服を着た犬。
■2022年10月17日(月)
■一日一文章トレーニング。

「だぼっとしたメタリック塗装」

手塗りのメタル塗装でプラモデルのSDガンダムGアーマーを塗装しました。
これは未塗装のままの素体で埋もれていたもの。
大きいサイズのプラモデルは組み立てると飾る場所もなく邪魔になりますが、小さいサイズのプラモデルはまだ飾る余地はあります。
なので、私のガンプラ歴史を語ると1/144(一般的なサイズ)からスタートして→SD(小さいプラモ)→1/144に戻り→MG(大きくリアルなプラモ)から→SD(最近はあまり作っていませんが)と変遷しています。
ガンプラを知らない人にとっては何のことかわからないと思いますが、物理的な容量(棚の問題)から作るものがどんどん小さく先祖返りしています。
厚塗りのメタリック色は見た目にも超合金のような重量感もありキラキラと反射してきれいです。
ただし、色ムラはそれなりにあります。
近くで見ると、色の厚みムラ、線の塗りムラ、微妙な配色ムラが散見されます。
そこで、先日書いた色ムラの価値観について再考します。
英語の色ムラ的な表現には「spots」や「uneven color」等の単語が出てきます。
「spots」は顔に出来るシミ、牛の黒白の模様、インクがポタポタと地面に落ちる感じなどにも使われる言葉で色ムラ感はありません。
「uneven color」には色が均等ではないということで色ムラに近いような感じ。
そこで「uneven color」を画像検索すると私たちが考える色ムラよりも美しい色の混じり合った画像がたくさん出てきます。
やはり、西欧人にとっての色ムラとは私たちが考える不均等でマイナスなイメージな色ムラとは異なる美的感覚を持っているように思います。
このキレイな色ムラの感覚はデジタルで絵を描いた時に感じることはできます。
デジタルで色ムラのないキレイなベタ面を塗装することは簡単で空間に色を落とすだけの一瞬の作業です。
しかし、その一方で色ムラの無いキレイな絵には何か物足りないものを感じる私も存在します。
現実の世界で塗ることができれば絶賛レベルのキレイな塗装であるはずなのに、モニター越しの完璧な塗り面には面白味を感じない価値観の差が発生することは面白いことです。
逆に色ムラがあった方がステキ。
実際、スコスHPに貼っている単色イラスト画のほとんどは均等なベタ塗りを採用しておりません。
拡大してみるとわかりますが微妙に色ムラは存在しています。
それはわざとです。
そうすることで、やや自然で人間味のあるデジタル画像となるように塗装しています。
おそらく、私たちの目は完璧を目指して様々な角度から精査しますが、デジタル空間で生成される寸分ない本物の完璧を見た時に生理的な拒否反応を示すのだと思います。
そのようなリアル生活の中の色ムラとモニター越しにわざと作り出す色ムラに気づくことは変化の胎動がすでに始まっていることを示唆しているようにも思えます。

 
■2022年10月17日(月)
■上のイヌがベタ100%の完璧な単色塗り。下のイヌがやや色ムラのある塗り。
個人的には下のムラあり画像の方が味があるように思います。
 
■2022年10月18日(火)
■一日一文章トレーニング。

「表情とは体を表しているのかもしれません」

昨日はムシムシとした一日。
気温は高くはありませんが湿度計を見ると70%超えの湿度。
このようなジメジメとした天気なので長袖服の表面は小雨で湿り、服の内側はじんわり湿度による汗で湿ります。
今朝もカーテンを開けると雨。
天気予報によると本日は寒くなるようなのですが、どうなのでしょうか。

昨日のこと。
雨で濡れた車道をイカツイ顔の車が一台通り過ぎて、その後ろを軽自動車が4台が小気味よい均等な間隔で走り抜けます。
私はそのような景色をアヒルの一団の走行に見えて面白く思います。
なぜ、機械である自動車を湖面を泳ぐアヒルの親子のように見立ててしまうのでしょうか。
それは多分、車の顔。
ヘッドライトを目に例えると流れゆく車の車列は生き物のようにも見えなくもありません。
夕方になりヘッドライトに灯りがともればナマズなどの深海生物が水の底を走っているようにも見えます。
移動中の暇な時間、自動車の顔に注目すると自動車の顔は当たり前ですが千差万別の様々な顔を持っています。(裏の顔はない)
そのような自動車の顔をメモります。(図参照)
どんだけネタ不足が深刻かと言うと自動車の顔をメモするぐらいのネタ不足。
走る車の顔をメモするのは大変です。
自動車の顔を観察すると圧倒的に吊り目顔が多い。
ほとんどの車がツリ目顔の車と言ってもいいかもしれません。
真四角なお目目は昔ながらのオーソドックスなタクシーや軽トラック、ハイエースなど。
ポルシェの目はやっぱり丸目なのですがつり目でかっこ良い。
フィアットも丸目ですがややつり目です。
レクサスはマーベルやベルセルクの狂戦士みたいな斬新な割れたフェイスですがやっぱりつり目。(かっこいい)
たまに、かわいい真ん丸お目目の自動車が走ってくるととても新鮮でホッとします。
車とはこんなにもツリ目顔で怒ったような顔の車が案外多いものだと改めて気づかされます。
何かこんなにもつり目顔の車が多いと車道とは不機嫌でイライラ空間に染まってしてしまいそうではありますが、このつり目顔の意匠には意味があって空気抵抗の風切りの役目を持っているようです。
最近「イカツイ顔の車が走っているな〜」とは思っておりましたが、そのような顔の車は意外に少なくて普通のカタチのつり目顔の車が多い感じ。
今 車」で画像検索したならばつり目のカッコイイ兄弟がイッパイ出てきます。
安直な「今 車」での検索には笑ってしまいますが、旧車も幾分混じってはおります。
道路にも古い車と新車は混載して走るものなので今の道路状況に近いと言えば近いような気もします。
つり目が令和な今の流行りということは間違いないようです。
ポルシェやレクサスなどの高級車のつり目はかっこ良くて、安い車のつり目はほどほどにダウングレードな価格相応なつり目となるので、デザインとは価格なのだと改めて確認できます。
ならば、
バブル時代の車とはどんなフェイスだったのでしょうか?
気になるのでさっそく「バブル時代の車」で調べます。
「バブル時代の車」のwww。
バブル時代の車は丸目のかわいい顔や、たれ目顔の車が多いように思います。
これも何か面白いこと。
どちらも狩猟動物な顔ではありますが、今の車をキツネ顔と表現すればバブリー時代の車はタヌキ顔です。
目じり部分がひょっこりと下に下がるデザインが多いような気もします。
もちろん、今みたいな際立った未来的なデザインのつり目はまだありません。
車のフェイスデザインとは単なる流行かもしれませんが、ファッションでも黒い服が流行ると景気が良くなる?(反対?)など景気の動向と何か密接に関係があるかもしれないと勝手な仮説を立てて勝手に調べますが特に何も発見できません。
ファッションの流行はストリートから生まれてくることも多々あることではありますが、車のフェイスデザインとはほぼメーカーのデザイン室からしか生まれないものであるのでデザイナー次第なのかもしれません。
つり目フェイスの不機嫌な顔ばかりだと笑顔は少なくなります。
勝手な意見ではありますが、たれ目、スマイル、おとぼけ・まぬけ面の自動車が街を走っていると笑顔がこぼれて街が癒されるのかもしれません。
デザインにはお金がかかるとしたならば、好景気の時にはデザインにも惜しみなくお金をかけることが可能なのでユニークなデザインが街に溢れることになるかもしれなくて、そのような意味に於いては偏ったデザイン、単調なデザインなど目に見えるもののデザインと景気の関係は何かしらの関係性を体現しているのかもしれません。(わからんけど)

 
■2022年10月18日(火)
■環境負荷ゼロエミッションおとぼけエレクトリックカー。
■2022年10月19日(水)
■一日一文章トレーニング。

「足りないもの」

昨日のこと。
地面を見ながら黙々と進んでいると微かなキンモクセイの香りが漂ってきます。
「おやっ」と空を見上げると先日、花を咲かした後に大風で飛ばされた儚い金木犀がオレンジ色の小さい花を再び咲かせています。
あの金木犀もあの金木犀も2度咲きの金木犀です。
2度咲く金木犀とは何か不思議な感じがするので調べると、金木犀の二度咲きは稀にあることのようです。
この辺りの確認できる金木犀はほぼ100%二度咲きしています。
以前なら稀なケースだった2度咲きが広く分布していることは何か面白いこと。
金木犀が2度咲きする理由はわからないらしい。
ならば、勝手に考えて、考えようぞ、聞こえし者よ(by スカイリム)ということで。
私の直観を働かせます。
植物が花を咲かせることとは蓄えたエネルギーを大放出する大きなイベントであると思います。
なので、そのような大きなイベントを2回実施できることは、私たちにとって暑くてぐったりとした猛暑の夏は金木犀にとってそれなりにエネルギーを蓄えることのできた良いシーズンだったと思われます。
この夏の暑い猛暑、太陽光、温度、秋の長雨などをしっかりと体内に吸収することで2度目の開花を可能としているような気もします。
ネットを調べると本来、稀であった金木犀の2度咲きは常態化しているような感じもするので、これらは気候変動の一つの兆候なのかもしれません。
1回目の開花は2022年10月4日(火)なので15日後の月の半分で再開花です。
今回は窓を開けてもキンモクセイの香りは漂ってきません。
香りは1回目よりも弱く、空間の塊で香る感じではなく「プ〜ン」と漂う感じ。
「プ〜ン」との表現は何か臭い感じがするので違うかも「ツーン」も違う「ほわ〜ん」かな?
いずれにしても、クンクンと野生な嗅覚で嗅がないと拾うことのできない程の小さな香りです。
小さな香りでも「二度咲き」とは何か良い響き。
人生に於いても二度咲きとは何とか再現したいものであります。
私の場合には、ふつふつと溜まるマグマのようなものが溢れ出す必要があるのかもしれないと思うのですが、若い頃のように何か熱く熱される情熱的なものがないのが痛い。
本来ならこの猛暑な夏もクーラーの効いた涼しい部屋にいるのではなく金木犀みたく直射日光を存分に浴びて野性的に走り回るべきだったかもしれません。
私の二度咲きに必要なものは時間も気にせずに燃やせる情熱ではありますが、肝心の薪が弱い、その為には金木犀みたく栄養素をたくさん蓄える必要があるのかもしれません。
燃え尽き症候群とは自分の体を薪として燃やし尽くして燃え尽きてしまうことなのかもしれません。
なので、金木犀の二度咲きはたっぷりの栄養素を外界から拾い集めることの必要性を示唆しているのかもしれません。
「行くぞ 行こうぞ 聞こえし者よ(by スカイリム)」
ゲーム脳なところはありますが、サンキュー・キンモクセイの香り。

 
■2022年10月19日(水)
■星降るキンモクセイ。
■2022年10月20日(木)
■一日一文章トレーニング。

「熱を発生させてバトンタッチしていくお話は面白いかもしれません」

寒い。
室温19.9度・湿度53%。
たいした寒さではありませんが寒くて目が覚めます。
薄い毛布にくるまり芋虫となる、いやいや、エジプトの地下に埋葬されるミイラの如く毛布にくるまれてぐるぐる巻きとなる。
今晩は羽毛布団を出動させます。(確定事項)
この朝方の寒さは一方的に熱量を奪っていきますが寝ている私の体は一方的に熱を奪われている訳ではありません。
寒さに対抗して体を保温しようと発熱している感じもします。
寝起きの体温を測ると36.2度で平温と変わらず。
血流が良くなり走った時のように体中に血がめぐっているのかもしれません。
とりあえず、寒くて、寒くて、目覚めた寝起きの私の体はポッカポッカで不思議と温かい。
寝ている間も温度調整をこなす人の体とは本当に有能です。
暑ければ布団を蹴り、または汗をかいて熱を放出する。
寒ければ丸くなり体自体を保温しているようでもあります。

この調子に無意識レベルでも文章を書くことができたならば便利なこと。
先日、「」のカタチで文章を書こうと考えた日の晩、私は夢をみました。
その夢の中で寝ながら文章構成を考えていました。
この話は不思議なお話で「>」のカタチの(1)が紅海の海の色ムラの話で、(2)がデジタルの色ムラとリアルの色ムラの価値観の相違の話、(3)で(1+2)に結びつき夢の中で一つのお話がまとまります。
私は夢の中で「なるほど」「ラッキー」と満足しておりましたが、結局、朝起きたら紅海の色ムラの話がよくわからなくて、ネットで調べると紅海の語源の意味には赤潮にも関係するようなのですが、紅海について何をどう書けば良いだろうかと思い思案するのですが何も思い浮かばず断念。
(1)紅海のお話はまるまるカットして(2)のデジタルと色ムラは相性が良いという日々思っていることだけのことを書きます。
(3)のまとめは多分、(2)のまとめとそんなに変わらないことではありますが、付け加えると、デジタル上の100%のベタは100%のベタではありますがモニター上の走査線やモアレ等も存在するので見え方は100%なベタになるとは限りません。
勿論、理論上は拡大すれば永遠に100%のベタは連続しますが。
デジタル素材とはモニターの技術に左右されるのであれば、単色ベタ塗りよりもあらかじめ製作者の方で色ムラ塗装した方が素材感や質感もアップすることでもあるし製作意図に忠実であるとも言えます。
このムラを作る行為は次数行程一手間増えるのでデザイナー泣かせなのかもしれません。
「このムラは違うだよなー」とか言われた日には「おまえにどんな色ムラの違いがわかるのか」と夢の中で架空の落とし穴に落としましょう。

「熱量の移動」と「紅海の色ムラ」が一点に収斂していく・・・。
「熱量の移動」は右から左へ循環し、また、外気温は体内温度との差により熱量は拮抗し移動していきます。
「紅海の色ムラ」ももしかしたら、赤潮とそうではないキレイな海の色の色ムラの温度の差があるのかもしれませんがよくわかりません。
ということは、この文章のカタチは「=」であります。
そんな文章のカタチを見ていると(1)で生まれた熱量(黄緑色)が(3)−(2)とただリンクを伝わって伝播していくだけの文章のカタチも面白かもしれないと思います。
次数を重ねれば重ねる程、熱量とは回りと同じ温度になってしまい何の話しか?と面白い感じ。
「鉄は熱い内に打て」と諺はありますが、正にその通りで素早く行程をこなさないとすぐに沸騰する熱量はどんどん奪われて減価していきます。
そうなれば、素早く遠くへつなぐバイパスを接続する必要があります。
「バイパス構文」とは良い響き。
何のことかな?熱量が低い私が書くことは何かおかしなコトではあります。

 
■2022年10月20日(木)
■熱量減少の可視化。バイパスの重要性。
(1)は発案者の熱量で(8)に届く頃には周辺の空気ぐらいに希釈します。
 
■2022年10月21日(金)
■一日一文章トレーニング。

「何でもない話」

いやはや。
昨晩は羽毛布団の出動で寝始めから寝起きまで暑かった。
暑い寒いと騒がしいことは、それは「揺り籠から墓場まで」に文句を言っているような贅沢な悩みかもしれません。
暑すぎるのも考えものなので今晩は外気を少し部屋に取り入れて室温を調整しましょう。
ところで布団模様について。
布団の模様は何故こうも淡い花柄などの模様が多いのでしょうか。
和室の家にピッタリな着物柄という感じもしますが微妙に伝統的でもない謎な雰囲気を醸し出す花柄です。
好きか嫌いかと言うと間違いなく嫌い。
この柄を採用するぐらいなら単なるピンクやブルーの無地でも良いのではないかと思ったりもします。
これは個人の美的センスのようなものなので万人がそうではないかもしれません。
結局、冬布団本体は布団カバーを被せることになりますので中身の柄はどうでも良くて「ふわっと軽くて暖かい」そんな機能性が大切な話ではあります。
機能性には申し分ない話なのですが、もう少し異なるデザイン柄を採用してくれた方が良いのにと布団出し入れ時に毎回思う。
そのような柄を変えたいと思う人は当然いるとは思うのですが、布団の柄には一度それで走り出すと変化することが許されない様式美のようなものがあるのかもしれません。
さっそく、布団模様が気になり、その理由をグーグル先生に「布団 柄」と入力すると「布団 柄 なぜ」と出てきます。
皆、気になり調べているようです。
しかし、読めど納得する理由は見つかりません。
そんなシンプル需要のギャップを埋めるのがIKEAなどの存在であります。

10月末のハロウィンに向けて飾り棚の中も少しハロウィンっぽくディスプレイします。
オレンジの背景に2本のロウソク、布を被ったお化けを飾ります。
布のお化けって漫画みたいなお話ではありますが、オーストリアの旧市街、雰囲気ある伝統的なホテルでヒラヒラと舞う布を見て固まったことがあるので今や白い布でさえも少し怖いかも。
幽霊がいるのか?いないか?ってそれは本当にわかんないことではありますが、私の不思議体験は一人よりも複数人と体験していることが多いので「今の何?」な皆で共有したものは見間違いではありません。
何かしらの現象はそこで起きたのだと思います。
生命(生命なくとも)にはコロナ放電によるキルリアン写真などの不思議なものを撮影することもできます。
空気も目に見えないし、光だけの反射されるものだけが全てではない可能性は十分に考えられますが布がひらひらと浮遊することは光に反射したものを見ているとも言えるのかもしれなくて良くわからないことではあります。
でも、風のない密室空間で人畜無害な布がひらひらと漂ったのはホントのこと。(笑)

横の時計はジウジアーロデザインの時計です。
最近、しまい込んでいたものが出てきたので飾ります。
ジウジアーロについて何も知らないのですが名前だけは知っていたので何かスゴイデザインだろうと思いネームにつられて購入しました。
そのデザインについて何を語るか・・・
その隣のSDガンダムのプラモデルと色合いが似ています。
いやはや、あっという間に年末がやって来ます、恐ろしきこと也。

 
■2022年10月21日(金)
■近道を考える犬。
■2022年10月22日(土)
■一日一文章トレーニング。

「私が考えるセンス・能力のある人」

紙粘土で造形物を作ろうと考えて紙で骨組みを作ります。
ハサミを使い厚紙を適当に真っすぐに切って棒状の素材を作る。
次にそれらをくるくるりと丸めて輪っかを作って木工ボンドで接着する。
そして、輪っかと輪っかを繋ぐ梁のようなもので固定しながら空想上の立体物のカタチを組み上げます。
そのようにして作ったものが写真の立体物。
全て粘土で埋めると重くなるのでこのような骨組みで空洞を作ります。
針金にひもを巻きポージングさせながら肉付けの芯を作る方法もあります。
しかし、今回は何か張り子のような感じで作ってみたいと思いこのようなカタチで製作します。
さて、何ができるのでしょう。
人の肉付けする想像力とは何かスゴイものがあります。
このような雑な骨組みからも何かしらのイメージを構築は可能です。
骨組みとは何かの立体物の基礎の基礎となるもののような感じがして、骨組みを構築した時点で大体の形状は固まっているとも言えます。
なので、およその外観とは架空の薄いスキンを被せていくことで形状予測可能。
このことは現状社会の骨組みを正確に読み取ることができれば、未来は予測可能であるかもしれないとの仮説を立てることはできます。
人口密度の幅を考えれば、将来より高層な建築物が立つ可能性を予測できます。
変わったオーナーが予測に反して密度幅を超えない場所に高層建築を建設するとなれば、それはバグの一種であってバブル経済の兆候と見なされるかもしれません。
そのような便利な現状の骨組みとはどのように見出すことができるのでしょうか。
データや統計で読み取る、そもそものカタチとしての骨組みを読み解く。
骨組みとはカタチが生成していく過程で見えなくなくなっていくものであります。
骨組みが見えるのは初期の一瞬であり、完成したものの骨組みを見る為にはレントゲンやCT、図面やCADを通してみるしか方法はありません。
設計段階で不具合があれば、それは永遠にバグとして内面に残り続けます。
オープンに開かれた社会が強靭である理由はこのような骨組みがブラックボックスではなくて様々情報が複合的に重なり合い検証できることにあるのかもしれません。(どうなんでしょうかね)

ところで。

子供の頃にも当然流行るゲームはあります。
そして、皆が購入するゲームというのは大体決まって同じ話題作なゲームです。
それらはヒット作であり、みんなが同じゲームを同じように遊び、時には情報交換しながら共に攻略しています。
それは今のようなマルチプレーのない時代ではありますが同じ遊び場で遊んでいる感覚はありました。
ですが、中には一歩も二歩も上を行くマニアックなゲームで遊ぶお友達もいます。
それらゲームは大抵、駄作な感じでもあり普通の子供なら名前も知らない、選択肢の一つにも選ばれることのないゲームたちです。
マニアックな子供たちも当然話題作を抑えながらも+αでマニアック路線を堅持しており、今考えればその選眼は子供ながらに恐るべきセンスを持っていると思われます。
私なんかが遊べば「何?このクソゲー」と数分で飽きてしまうようなゲームでも、そのような子供たちならば何度も何度も楽しそうに遊びます。
それは才能とかセンスです。
今なって思うと、そのような人たちこそ本当の意味でゲームが好きだったと思います。
最近は珍しい中古ゲームの価格が高騰しています。
生産数が少なくてあまり流通していないゲームは作り手にとっては悲しいことではありますが中古ゲーム市場では高額な値段で取引されています。
ならば、私もそのような物を持っていないかと考えたりしますが、当然、私はほぼヒット作しか買わないので、そのような珍しいものを所有しておりません。
値段の高騰にすぐにマイセンサーが反応して目の色が変わる眼力はあるのですが、子供の頃から普通のセンスしか持っていないので、そのような未来を見越した価値観はありません。
勿論、マニアックな子供たちも遠い未来にこのソフトが高騰するという予測できる訳ではありません。
今ではレアであるソフトを買う?買わない?の選択の違いを考えた時に、私はそれを「ゲームを愛する心」ではないかと思います。
ゲーム好きな素養の上にそのゲームを持っていることであり、お金では測れない人生の延長上にレアゲームが存在していると思われます。
昔から好きなものを大人になった今でも好きであり続けること、それはもうセンスであり才能です。
受験や思春期に、それらから離れることは当然あることですが、またそこに舞い戻ってくることもまた才能。
こうして何か一つのことに情熱を燃やし続けることのできる人は本当に凄くて尊敬できます。
このような「好き」が社会に受け入れられていく時に本当の世の中を動かす原動力の一つとして機能するのだと思います。(この考えには自信がある)

ところで、センスと能力の違いは何でしょう。
「センス」とは感覚・勘・判断力のこと。
何かしらの行動に伴う内面に育つものの感じ。
「能力」とは成し遂げる力、知識・情報・意図に基づいた心の働き、作業遂行に必要とされる資格。
後天的に開発されていく感じです。

 
■2022年10月22日(土)
■こんなカタチかな?
■2022年10月23日(日)
■一日一文章トレーニング。

「姿なき声」

今朝はタイトル名から書いてみた。
先日のようにタイトルに感情をのせるような書き方だと文章が完成してから「ん〜・・・タイトル名を何にしょう」と結構な長い時間悩むことになります。
考えることは頭にとっては良いことなのかもしれませんが寝起き頭にフル回転することは良いことなのか悪いことなのかよくわかりません。
車でも機械でもいきなりのトップスピードはよくないことです。
よくよく考えてみると最初はボーと書き始めて、何も書くことのないことに気づき怖くなって頭もフル回転になる感じなので、いきなりのトップスピードではないのかもしれません。
これは朝飯前の「一日一文章トレーニング」ではありますが、現実的にはこれっぽっちの朝飯前感もない苦行です。
朝起きて夢に頼り、何か面白いネタは何かないかと野犬のように日々クンクンと嗅覚を研ぎ澄まして見つけてきた文章を構築、最近は追加のタイトル名に頭を悩ませながら書いています。
【朝飯前】に「たやすいこと」の意味を付与した奴はどこのどいつなのでしょう。
はっきり言うと「朝飯前」にやることとは、なかなかに大変で容易いことではありません。
朝飯前にやることを容易いと言い切れる人間ってどんな面しているのかと気になりますが・・・いやいや、若干、中二臭も感じるのですが憧れもあります。
毎日、習慣的に書いて描けば「朝飯前に書ける」ようになるものだと思ってはいましたが、書けば書く程に何か苦痛と書くことのハードルも上がっていくような感じがして、朝飯前に作業を終えることは一生来ないような気がします。
そして、私は無駄に文章作成工程の一つを増やしているので今朝は頭のタイトルから書きます。
今日はタイトル名「姿なき声」。
これはアイデアノートに記載された一行のフレーズ。
いよいよクトゥルフ神話に片足をつっこみ闇の一党について書く時が来たのかもしれないと思いますが、何のことのない大木の下でかわいく立ち姿でおにぎりを食べるビジネスマンのお話です。
そこは例の鳩の盛り場で砂がサラサラして人も少なくておにぎりを食すにはとっておきの場所ではありますが、問題があるとすれば鳩がよく交尾していることと樹の下に入るとハトが上に逃げてハトの糞を落としてくることです。
しかし、私の行いが悪いのかリーマンの行いが良いのか、おにぎりを食べるビジネスマンの元には鳩は一羽もいません。
鳩が木の枝から見下ろしてくる絵面は私の中では微妙に怖いシチュエーションなので、私はそれを他人にも体験して欲しいと強く願っております。
地面を見ると相も変わらず鳩の羽根はたくさん落ちているので、季節が変わってもハトたちはこの辺りを利用していることは間違いありません。(ホームズな推理)
これがおにぎりを食べるリーマンの物語であればこの瞬間にワッサワッサとコッココッコロと鳩の大群が大木に集まってくるのですが、その変わりに木々の上の方で聞きなれない鳥の声がしております。
その鳴き声は南洋のジャングルのような鳥の鳴き声で和風ではない鳴き声。
寒くなってきたので南に下る渡り鳥の一団なのでしょうか。
木々を良く見ても葉っぱに遮られて姿は全く見えません。
そして、その鳥たちは四方八方の木々の一番先端の高い所からキンキンと頭に響く鳴き声で鳴きます。
ハトの盛り場は姿の見えない声によって占領され、そもそも鳥たちにはテリトリーを占有するという感覚がなくて面白い生き物であります。
危機を察知するとバサバサと飛んで逃げるようではありますが、安全圏の枝の上から怖い顔でフンを落とす能力もあります。
大木の下でおにぎりを食べるサラリーマン、いないハト、見えない鳥を探す私のそんな一風景。

 
■2022年10月23日(日)
■布。
■2022年10月24日(月)
■一日一文章トレーニング。

「りんごの季節」

りんごが美味しい季節です。
最近、りんごをよく食べます。
ほんの数日前まではブドウの季節。
りんごと梨と言えば、見た目はほぼ同じなのに味は全く異なります。
りんごと梨どちらが好きかと言えば、梨を食べれば一口ごとに梨のみずみずしさが口に溢れて、それはリンゴの水分を凌駕しており梨は好き。
梨と比べればリンゴの水分とはスカスカではありますが、りんごを食べればやっぱりリンゴのサクッとした甘スッパさは美味しくて好き。
アメリカの西部劇など見ていたならばホテルなどにリンゴが山盛り置かれている感じが好きです。
我が家ではそれを真似してダイニングテーブルにも小さなお皿にリンゴを飾っております。
鑑賞用のリンゴ。
しかし、常温のままで食べるりんごよりも冷やしたリンゴを食べる方が個人的には美味しいような気もするので、飾られたリンゴから一個づつ冷蔵庫に冷やしてから食しております。
なので、りんごの冷やし忘れが多発してリンゴを食べられない時も多い。
一日の最初に果物を摂取することは体にとっても良い感じがするので、ここ数年位、毎朝とは言いませんが頻繁に果物を食べるようにしています。
そのようなリンゴの季節の小さな変化について記載します。
りんごは食べても美味しいのですが、食べた後にもおいしいこともがあります。
それは皮を剥き、芯を取った後のりんごのゴミから良い香りがすること。
それらを大きなゴミ箱に捨てるとゴミ箱の中がリンゴの香りでイッパイになります。
リンゴの香りのするゴミ箱とはなんとも素敵。
ゴミ箱を開ける度に「うわ〜」となっていた臭い匂いがリンゴの香りで満たされます。
以前、大きなゴミ箱に車の消臭剤を設置したり、又はとても匂う時には消臭スプレーでシューとして匂いを消したりもしておりましたが、リンゴのゴミがある時にはそのようなことも不要な位に良い香りを充満させます。
流石にニラ根や焼き魚を捨てるとリンゴの香りも負けますが、今の季節のゴミ箱は甘くて良い香りが漂っております。
今までもその時々の旬ないろんな果物を食べてきたのですが、りんご程にゴミ箱から良い香りが漂わせる果物ゴミはなかったような気もします。
ゴミ箱が一番匂う夏場の暑い時にはリンゴはありませんので、涼しくもなり単にゴミ箱自体の匂いも減少している可能性もあります。
リンゴを食べても甘さや味以外の「香り」を感じることはありません。
それなのに捨てた芯や皮のゴミが良く香ることは不思議で面白いことです。
密閉した容器に入ったりんごが開封される時にフワッと漂うリンゴの香りがゴミ箱の中で再現されている感じもします。
もしかしたら、りんごとは圧力をかけると香りを拡散させやすい果物なのかもしれません。

 
■2022年10月24日(月)
■ザウルスの顔。
■2022年10月25日(火)
■一日一文章トレーニング。

「狐のフン」

鉛色の空は結構好き。
昨日は小雨、視線の先の遠い空はとても濃厚なグレー色に染まります。
ひんやり冷たい風、オシャレをしたくなる季節です。
襟を立てて忙しくもないのに忙しい風を装って鉛空の元をスタスタと歩く。
何か運気上昇局面の映画のワンシーンのよう。
雨は傘をさす必要のない程度の小雨ではありますが多くの人は傘をさして歩いています。
横着一直線は当然、この位の雨に傘をさすことはありません。
両手は常に開けておきたい。
多少の雨は持ち前の油分によりはじく防水仕様。
すると、突然、上空からビチョンと何かの落下物。
「おっと危ない」鳥フンです。
傘をささない私を狙うように上空からのクソの落下物。
私は上空を眺め鳥フン落下の犯人を捜します。
しかし、そこに広がるのは薄くて明るい雲、くも、クモ。
それ以外は聳え立つ電柱と建物だけで鳥の姿は見えません。
鳥は雲の上空を飛んでいるのでしょうか?
UFOを探す人のように上空をキョロキョロと眺めていると、小雨は降っているけれども急に太陽の光が差してきて天気雨。
小雨がスワロフスキーガラスのようにキラキラと輝いてキレイです。
いわゆる「キツネの嫁入り」。
物語「蜘蛛の糸」だと、ここは地獄で上空から雲の糸が降りてくるワンシーンであります。(ドロロ♪)
私はダイソンでたくさんの蜘蛛を吸い取っているので救済のクモの糸は降ってきません。(ダイソンも同罪)
UFOに拉致られる一本の光ぐらいなら可能性はあるかもしれない。
ところで。
【狐の嫁入り】を辞書で調べると、この天気雨以外にもう一つ意味がありました。
きつね火が列を作って並ぶこと???
きつね火が列を作るとはどういうことでしょうか?さっそく「きつね火」を調べます。
「きつね火」とは鬼火のことでキツネの口から吐く火だと思われていたようです。
火を吐く狐なんていうジッポー風のデザインに採用したい形状です。
そもそも鬼火って何でしょう?ということで、まだまだ調べると鬼火とは夜、墓地や湿地帯で青く光る火のことで「火の玉」のこと。
小雨が太陽光によってキラキラ輝く様を昔の人はキツネ火が連続している様子と重なり合わせて表現したのかもしれません。
「まー」いづれにしても、狐にとって私という者はおちょくるには格好の素材かもしれません。
結局、鳥フンを落とした犯人を見つけることはできずに先を進みます。
名探偵失格。
そもそも探偵であったことも一度もない。

 
■2022年10月25日(火)
■ギョギョギョギョーギョギョギョギョー、ギョギョギョギョ〜ギョギョギョギョ〜、レッツ♪キツネダンス♪
製作済のTHE尻尾を付けるのを忘れた。まーいいや。
■2022年10月26日(水)
■一日一文章トレーニング。

「桜と横着の関係性」

歩いている人の誰も気づかない紅葉。
日常の小さな変化とはネタ探しに貪欲な者ぐらいにしか見えないものであります。
ここのところ寒かったので墓場の桜の木々が茶色や黄色、赤色に紅葉しています。
このあたりの植物では一番乗りの紅葉です。
墓場の桜の落葉は始まりましたが、アーバン(都市)桜の紅葉はまだまだです。
やっぱり、墓場や水辺は体感でも数度分ぐらいはヒンヤリと良く冷えるので植物界の流行の最先端を走っています。
冬枯れの延長上の紅葉なので、お世辞にもキレイな紅葉とは言えません。
真っ赤や真黄色に紅葉する木々と比べても桜の紅葉は雑で汚い。
写真にも撮ろうとも思わない程の雑な紅葉。
桜の木々の紅葉とは横着に葉っぱを脱ぎ捨てていく感じがして何らかの共感を呼びます。
たぶん、桜の木々とは横着一族の仲間なのかもしれません。

ところで。

昨日の柔道一直線をもじって横着一直線と書きましたが「横着一直線」を検索すると面白い記事を見つけました。
http://netgeek.biz/archives/20836
「横着人にあるあるな19のこと」。
httpに(s)が付いていないのでリンクを貼っておりません。m(__)m
これは横着人にとっての讃美歌かもしれません。
どの角度から見てもお褒めの言葉で溢れています。
あまりにも良い風に解釈されているので背中が痒くなります。
横着にお墨付きを与えられているようでもあり多少の恐怖も感じます。
それは仕切る者がいない大グループがその後、全員O型だったと知って多少ドン引きしながらも納得するような感じ。
桜と横着の関係性は紅葉の横着ぶりによく表れ出ています。
桜には二度の注目はいらないとの開きっぷりなのかもしれません。
天気も悪く鉛色の空が続き少し寒くなったからとは言え、今日みたく真っ青な青空が広がる光合成のチャンスはまだまだあります。
なのに、もう葉っぱを落として閉店冬眠状態に入ることは少し早すぎてもったいないような気もします。
ですが、桜は早めに葉っぱを脱ぎ捨てて休息に入るからこそ次にキレイな花を咲かせるのかもしれなくて、そのような考えに立脚すると来年の桜の開花には特別な感情が生まれそうです。

<桜の特徴>
紅葉落葉が早い。(意外と早い)
桜の葉っぱは美味しくて虫に食われる。(横着も多分美味しいはず)
落ち葉が鬱陶しい。(キチンとしないウザさはある)
春にキレイな花を咲かせる。(横着もたまに花を咲かせる)

桜は横着の鏡なのかもしれません。
■2022年10月26日(水)
■ほれほれ。

■2022年10月27日(木)
■一日一文章トレーニング。

「張り子の恐竜を製作中」

紫芋、伝説のツチノコみたいな造形、今製作中のカミモデル
私たちがハリボテに持つイメージはあまり良い物とは言えません。
所詮ハリボテ、しかど張りぼて、ある程度紙を塗り重ねるとそれなりの強度も持ち合わせることができます。
何層ぐらいで骨格の代用となる硬い表面になるのかはこれから実験していくことになります。
本物ではない、本質ではない等の意味を持つハリボテとは若干マイナスなイメージを持つ構造物ではありますが、それは真っ当な人の持つ感覚だと思います。
しかし、私の経験だとおそらくハリボテは紙素材ゆえに軽く、そして、相応の強度を達成することも可能であります。
強度の王様カーボン繊維なども張りぼての親戚な感じもします。
前回は骨格が見えない構造物の脆弱性について書きましたが、一方で骨組みの意味の成さない表皮の硬化でもそれなりの骨格の代用を果たす可能性は十分にあります。
ただ、それは変化に対応できない強固の物体であり、正にハリボテ。
火に弱く、見栄えだけは立派に装うことができる構造物なのかもしれません。
骨格が見えないブラックボックスな虚構で塗り重ねられたハリボテとはこの世の中にいくらでもあるはずで、それらは塗り重ねれば塗り重ねる程に日々、強固・頑丈に立派になっているのかもしれません。(白く聳え立つ巨塔みたいなイメージ?)
私はどちらかというとオープン寄りなので、それは大変!張り子の検証が必要です。
建築だとちゃんと柱が必要になりますが最近は3D立体プリンターで作る建築というものもあります。
ケースバイケースかもしれませんが、そうでないかもしれません。
世の中の変化とは様々な角度からやってきます。
実際は恐竜を作りたいだけが正解なのかもしれません。
いづれにしても、恐竜とは誰も見たことのない生物ではあり化石の骨格を組み立てて肉付けしていくことで太古に生きていた生物の外観を予測できます。
これはやっぱり何か未来(過去)予測と通じる何かがあって、そのような絶滅した恐竜を作ることがここでの味噌。
現在、恐竜張り子の表皮は2層目。
1)軟骨のようなぐらぐらな骨組みは変幻自在で意気込み次第で様々な骨格を作ることができます。
2)1層目(ベース)はブヨブヨな表面硬度で力を入れればすぐに形が変形するぐらいの柔らかさ。
3)2層目はボコボコとした表面硬度で持った時に形が崩れない柔らか程度の箱ぐらいの強度。(24g)
紙は強度が増しそうなので和紙を利用しています。
最初は一枚一枚筆でのりを塗ってから貼っていましたが、端っこが塗れないし、どうせボンドは手に付くし途中で面倒になったので直手で木工ボンドを溶かしたお湯に紙を付けて効率化を図ります。
こういう作業は作ってみないとわからないもので、作るからこそいろんな製法のコツが見えてきます。
また、自然にできるボコボコとした表面の歪みは面白いのでこれを利用して肉付けしていきたいと思います。
できるかな。

 
■2022年10月27日(木)
■恐竜の頭部を尖らしてみた。(三角形)

■2022年10月28日(金)
■一日一文章トレーニング。

「ヨーロッパから吹く風」

 LEGOのパッケージはシンプルなデザインで好き。最低限の文字と写真と配色でイメージを膨らますことができます。なので、パッケージを壊すのがもったいなくて開封できないのもレゴの箱。私の家にはレゴが2つあるのですが両方とも箱のまま未開封で保管されています。一つは大きめの箱の建物のレゴ。組み立てると飾るところがないので組み立てていません。もう一つがカボチャの絵が描かれたハロウィンのレゴ。このレゴは小さな箱で昔、ハロウィンの時期に購入しました。年中飾られており常に目に入りますがハロウィン時期になると開封しようか?しまいか?と毎年悩むことになります。結局、レゴのデザインがかわいいので開封できないのですが、よく見るとハロウィンっぽくない感じもします。確かにカボチャの上には座っています。カボチャの絵もあります。カボチャの顔と思っていた顔は肌の色をしているのでカボチャよりもジャガイモのような感じです。裏面の4コマの物語を見てもハロウィンっぽさが全くありません。

(1)鳥の丸焼きを食べたい。
(2)落ちている鶏肉を見つける。(ヤッホー)
(3)鶏肉はマラカス(楽器)でした。
(4)マラカスでジャグリングしている。
何だ?これ?

 ということで。

 ネットで「LEGO 40204」をググります。すると、パッケージには書かれていないサブタイトル名が出てきます。それが「ピルグリム(巡礼者)」。巡礼者って何?と深掘りすると、どうやらアメリカ初期の開拓民である「ピルグリム・ファーザーズ」と呼ばれる人達に関係するレゴかもしれません。この黒ずくめの尖がり帽はピューリタン(清教徒)と呼ばれる人達の服装で、映画「Vフォー・ヴァンデッタ」でもこのような帽子に黒づくめの格好で権力に対する抵抗の象徴として描かれております。※画像検索するとピューリタンの服の色は常に黒色とは限りません。イギリス国教会の「一人の国王、一つ信仰、一つの法、一つ〜・・・」とスローガンを掲げることへの反発。カトリックからの離脱をしない宗教改革に不満を持った人々がイギリスから新天地のアメリカ大陸に移住することになります。その人達がピューリタンです。この清教徒と呼ばれる信仰の特徴は契約信仰と呼ばれるようなもので神様と契約した特別に選ばれた人間であるという発想があるのが特徴のようです。どこの世界にも特別に選ばれた人間であるとの考えの人達は一定数どこにもいるものです。考えや行動が選ばれたものであるが故な・・・です。アメリカに入植した最初の宗教難民であった彼らはインディアンを駆逐して住処を築いていく米国史の1頁目なお話。私たち日本人にとっての神様とは契約する云々な感覚はなく日々の愚痴やお願い、感謝を一方的に聞いてもらう存在だとは思うのですが、それと比べても契約云々は少し重い。なので、口約束で言った!言っていない!と喧嘩になるのが日本と言えば日本。神様と契約する考えがあるからこそ悪魔とも契約できるというお話で、米国の成り立ちにもこの思想は強く影響されていると書かれていました。どうなのでしょうか。最近では有名な絵画に食べ物をかけて汚す環境テロみたいなニュースもありますが、それに付随する思想もそれら系統に似た思想を感じます。古くはマルクス等の絶対的信仰までヨーロッパから定期的に発生する概念とはその他の国々にとっては迷惑な話ではあります。それにより世界中の国々は強い影響を被ることにはなるのですが、これはヨーロッパのマーケティング志向の強さというか、人間の何か一つのことを信じやすい特徴を体現しているのかもしれません。そのような意味でもヨーロッパで起きていることに注視することは必要なことだと思われます。開封できないLEGOの箱からいろいろ調べて巡礼者のように道なき道をを辿ってみました。

 
■2022年10月28日(金)
■絵画を塗りつぶす。
全部塗りつぶしたら何の作品なのかわからないので適度な塗りつぶさない空間も必要です。
塗る潰す練習もやっているのかも???
 
■2022年10月29日(土)
■一日一文章トレーニング。

「TRUE GRIT 大好き」

「悪しきものは追われなくても逃げる」箴言28章1節。
そのような言葉で始まる映画が好き。
臆病が故に私の逃げ足も人一倍早い。
それは良いことなのか、悪いことなのか。
皆が「ジブリ」や「君の名」を何度も観るように私にも何度も観る映画があります。
その一つが映画「トゥルー・グリッド」。
「Grit」とは勇気や闘志のことで「真実の勇者」のお話です。
一種私の大好きなヒーローものなお話。
父の敵討ちをする物語も好きなのですが登場人物、服装、音楽や西部劇なセットの全てが好き。
何度観ても飽きない作品とは製作する方々が隅々まで真剣に作り込んだ結果の集大成でもあり、そのような作り込みがどっぷりと世界観にハマれる要素なのかもしれません。
で、昨晩、映画の中のリンゴの置き方が気になり観なおしました。
何度観たことなのかこの物語、そして、何度観ても楽しめる面白さ
映画に登場するリンゴは日本ではみないような真っ赤なリンゴです。
欧州の地下鉄でイケメンが齧りながら歩いている例のあのリンゴ。
数えるとボウルに8個ぐらい飾られています。
ネタバレのない範囲で語りますが、主人公は父の死体を確認した後に「枯れた骨の谷に行ったエゼキエルの気分」なことを語っているシーンの裏にリンゴ。
何のことなのか?さっぱり全く意味がわからないのですが、とっても好きなセリフです。
エゼキエルとは旧約聖書に出て来る預言者のようで父の遺体を確認しに来たら葬儀屋に料金をぼったくられて、昨晩は4人の遺体と一夜を共にすることになり、それが多分、骨の谷で父の遺体確認することが予言者の如く何か悪い虫の知らせどおりなアクシデントを表現しているのかもしれません。
主人公は本当に変わっていて面白い人です。
これら玄関に飾られるリンゴは馬の大好物でもあるので旅の出発の際、主人公がいくつか持って出発します。
そのような3回ぐらいしか映らないリンゴの印象が深く残るのはリンゴの赤色が理由なのか?西部劇の白・黒・セピア調な世界唯一なカラフルな赤、主人公の優しさを表す心の心臓としての真っ赤なリンゴなのかもしれません。
そのような印象に残る真っ赤なリンゴ、我が家のリンゴは6個置きでガラスボールに入れています。
下のリンゴには傷防止用のクッション材をそのまま付けたまま置いているのでお洒落度はありません。
取り外した方が良いのかもしれませんが、取り外すとリンゴとりんごがぶつかり合う接点で変色するかもしれません。
しかし、最近のリンゴのクッション材はカラフルでキレイ。
昔は白一色だったような気もします。(緑だったけベージュだっけ?思い出せません)
ダイニングテーブルにリンゴは素敵なリンゴ。
素敵に安定的にリンゴを飾れる容器が今少し気になります。

 
■2022年10月29日(土)
■揺れるりんご。
■2022年10月30日(日)
■一日一文章トレーニング。

「吾輩のリンゴいずこに?」

齧られたリンゴマークのIT企業のロゴ、木から落ちたリンゴから万有引力の発見、古くは知恵を授ける禁断のリンゴの実に、毒リンゴを食べるお姫様のお話もあります。
物語の中の真っ赤なリンゴには外見上の印象強いイメージの他に何らかの記号としての意味が創作者によって込められていると考えることは妥当なことであります。
それは良くも悪くも変化の兆し。
私たちの文明文化はりんごを媒介として様々な変化を体現してきたのかもしれません。
なので、わざわざ物語に登場するリンゴとは新しい展開が発生することを暗示する記号であることは間違いないことです。
とはいえ。
ここでのリンゴとは何かを意味するものではありません。
それは単なる「一日一文章トレーニング」の中のりんご。
リンゴが物語に登場することに対する分析的な視点。
昨日の追記、「枯れた骨の谷に行ったエゼキエル・・・な気分」とは旧約聖書の一説のようで死者を蘇らせるお話のようです。
そもそも骸骨となり土に還る直前の死んだ人間をわざわざ蘇らせる意味はよくわからないことではありますが「トゥルーグリッド」の主人公は極悪死刑囚3人+善良で正義感強い父の遺体の4人が眠る谷底で全てを分け隔てなく蘇って欲しいと願う、やさしい気持ちをリンゴを通して表現したのかもしれません。
私の中でもこのような訳のわからないフレーズは数個ぐらいは用意しておきたいものであります。

ということで衣替えの季節。

衣装ケースの中身を夏物と冬物で交換しました。
このTシャツはもういらないGone(ゴーン)。
このシャツも小さくて窮屈なのでいらないゴーン。
この穴の開いた靴下もいらないゴーン。
イギリス議会の一幕のように夏物たちがゴーンします。
Gone の響きは結構好き。
ゴーンと言えばお寺の鐘の音の音色です。
しかし、同時に日本語の響きでもゴ〜ンと何か物が去っていくような感じがする言葉の響き。
夏物のTシャツを整理するとこの夏に一度も着なかったTシャツがたくさん出てきます。
一度も着なければ、捨ててしまおうバンドTシャツと思うのですが、これらはいろいろな思い出があってゴーンと捨てることはできません。
これらは丁寧に丸めて枯れた(僻)ヘキザエル?の底に埋めましょう。
写真のように並べると緑、白、黒、紺にビビッドピンクにブルー、グレー、黄色に赤色がカラフルでキレイです。

 

 
■2022年10月30日(日)
■色いろいろ。
■2022年10月31日(月)
■一日一文章トレーニング。

「帰ってきた音楽(Back to Music)」

昨日、使用していないミニコンポを設置。
ミニコンポの本体はSONY製で、スピーカーはKENWOOD製。
CDの他にカセットテープやMDも聴くことができます。
MDは自分で作ったものや、人から貰ったものもあるのでMDが再生できることは少しうれしい。
いつか設置しようと思っていたのですが往年の横着により度々の延期。
本体とスピーカーが別々メーカーであることには理由があります。
SONYのミニコンポは昔にお店で使っていたものでお店の開店祝いに人から頂いたもの。
ミニコンポはお店でヘビーに使用していたので定期的に壊れます。
そうすると新しいコンポを購入して、同時に壊れたものを修理して保管することになります。
そのようなことを繰り返しているとミニコンポ本体3台+スピーカー2セットの音響機器ローテーションが完成します。
あと2台はエアパッキンに包まれたままで事務所でモスボールの保存状態。
それは何か安心感というか少しうれしい。
メーカー修理に出すとパーツ僅かだと言われたので、これらが壊れるともう修理は不可能だと思われます。
ということで、音楽と言えば「ようつべ」からのみのNo Musicな我が家に音楽がやってきました。
とりあえず、先ずは設置。
スピーカーの右左がよくわからなかったのでLRの表示を見てスピーカー位置を決定。(多分あっていると思う)
電源をコンセントに挿すと本体にカチッと通電の音がして電源ランプが点灯します。
さっそく本棚に置いてあったCDを本体に入れてPLAYボタンを押すと「あれっ」右のスピーカーは無音で(私から見て左)左側のスピーカーからのみ音が出ています。
配線がおかしいのだろうと思い、再び電源を落とし束ねた状態のスピーカー線をほどき接続部分をぐりぐりと確認。
再度、電源を入れてPLAYボタンを押すと左右両方から音が鳴りました。
良かった、良かった。
ちなみに、ミニコンポ復活に最初に聴いた音楽はYouth Groupの「skeleton jar」。
骨の壺とは骨壺のこと?
日曜日の午後温かな日差しにまったりとハマる曲でした。
 


 
■2022年10月31日(月)
■恐怖のゴーストペン。ハッピーハロウィン♪