■2022年3月1日(火)
■一日一文章トレーニング。

「電柱」

いやはや3月です。
春は駆け足でやって来ます。
朝、カーテン越しにチュンチュンと鳴いていた鳥はスズメではなくムクドリです。
さっそく、一眼レフの望遠で撮影。
キレイなムクドリの写真が撮れたと思っていると、ピントは電柱に合ってしまいボケボケの写真となります。
ムクドリのクチバシのオレンジ色と青い空に映える一枚となる予定だったのに残念。
鳥は動きが早くすぐに飛んで逃げてしまう、だいたい遠くにいる、枝や電線などの障害物があるなど、鳥の写真を撮ることは難しいことです。

でも、電線の写真には興味をそそる何かがあります。
タテ・ヨコ・ナナメと線が走り、電柱パーツのカタチも何か面白い。
普段、電柱なんてものを意識して見ることはないし気にかけることもありませんが、この線の繋がりがインフラとなって私たちの生活を繋いでいます。
ドラム缶のようなものは変圧器で上の線が高電圧、下の線が低電圧、さらにその下が通信線等となるようです。
1本の電柱にも用途による多層なレイヤーがあり面白い。
これらは物理的なノードそのものです。
ごちゃごちゃのように見えて意外と整然と並んでもいて空間的にも何か面白い。
電線は美的感覚に偏りのあるアートなのかもしれません。
車が通る大通りの電線は地中に埋没しましたが、電線が地中に潜る境界はどのようになっているのかも気になります。
この写真は電線に気づきを起こさせてくれる「怪我の功名」なのかもしれません。
「線路は続くよどこまでも」との歌はありますが「電柱は繋がるよどこにでも」です。

 
■2022年3月1日(火)
■電気が流れる。
■2022年3月2日(水)
■一日一文章トレーニング。

「3月に入り新しい変化が次々と」

いやはや、3月に入り花粉の季節です。
目もゴロゴロ、鼻もムズムズな季節が到来。
昨日から肌がピリピリと私の花粉センサーが少し感知し始めましたが花粉アレルギーのない方々が羨ましい限りです。

ところで、夜明けも明るくなります。
3月に入り急に空が明るくなるのが早いです。
6時頃に目が覚めて空が明るくなるのを見れば、冬の朝も夜も弱い冬眠型から、いつもの朝型へと戻っていくような兆候を感じます。
朝型生活がはじまれば、朝から何かを作ったり充実ライフが過ごせそうです。

令和3年(新)500円玉を初ゲット。(時代遅れかな?)
側面のギザギザがナナメ線なのですぐに新しい500円玉だとわかります。
ナナメのギザギザは一部線の形状が太く変化しているので単調な斜め線ではありません。
表面は異なる金属素材を合体させたバイカラー技術で作られているので表面の見た目も明らかに異なります。
1ユーロコインのようなハッキリとした色の分かれ目ではありませんが、日本らしい淡い金属の輝きです。
他にも偽造防止の技術がつまっているようです。
こういうの観察するのは初めて手にした時の儀式のようなものです。
また後でじっくり観察したいと思います。

世界に目を向ければコロナ禍はもうすでに過去の出来事となりつつあります。
ウクライナを侵略するロシアとそれを支援する国々への経済制裁と移り、
最大の行事としては米国FRBの金利引き上げから今までの常識がコロナの次の景色へと変わるのかもしれません。
3月に入り新しい変化が次々と ですね。
時代には乗りたいのですがネタがないです(泣)

 
■2022年3月2日(水)
■エルデン・リングは面白い〜な〜。
■2022年3月3日(木)
■一日一文章トレーニング。

「道端の靴」

灯りをつけましょ ぼんぼりに
お花をあげましょ 桃の花

今日は雛祭り。
アニメの「ヒナ祭り」は結構、面白くて好きです。
関係のない話です。

ところで。

先日、道端で靴が落ちているのを見かけました。
このような靴が1足、道に落ちていることは時折見かけることです。
大抵、ビジネスマンの黒色の革靴が1足。
道の隅に1足、ちょこんと置かれます。
子供の小さなかわいい靴なども落ちていることもありますが、それは移動中、お母さんが気づかずに落としてしまったのだと理解できます。
そして、大体、落ちた靴1足は車の交通量が多い大きな幹線道路で見かけることが多い。

幼少の頃から道に落ちている黒い革靴を見かける度に事件事故の痕跡なのか?と考えたりもします。
事件事故にしては落ちている頻度が多いような気もします。
酔っ払いが靴を1足落としていくことも考えられます。
泥酔の線は濃厚なような気もしますが、怪しげな宗教やビジネスマンのゲン担ぎ、厄落とし的なものとも考えられます。

子供にとっては靴が道に落ちていることはシンデレラな出来事です。
※実際に靴を落とすおっさんはシンデレラなのかもしれない説・・・あるのかもしれません。
なのに、現実は黒いおっさんの黒靴が騒がしく車が行きかう殺風景な道路に落ちていています。
何とも不気味。
そのようなことで私は小さい頃から黒い革靴が道端に落ちているのを見つけるとザワザワとした気持ちになります。

Google 先生で調べたら道に落ちている靴についてたくさんの仮説を見つけました。
車の土足禁止で置き忘れる。
バイク走行中に脱げてしまう。
結局のところ、理由はそれぞれありそうですが謎は深まるばかりです。
靴屋さんには靴の片方だけ売って欲しい(1足では販売していない)との要望もあるようなので靴を片方だけ落とす人はいるようではあります。
靴の落とし物は皆が気になる出来事なようです。

 
■2022年3月3日(木)
■おっつシンデレラ。カバンの馬車。ズボンがすごい。
■2022年3月4日(金)
■一日一文章トレーニング。

「椅子収納はダメ!!絶対に!!」

数週間前までは足先が寒くて震えていたのに、すっかり春の陽気。
植物界のお嬢も新芽をぐんぐんと伸ばす程に元気なので室内から外に出ることとなります。
なんだか部屋もスッキリ。
部屋がスッキリすると言えばMY中の禁止事項があります。
それは椅子に服やものを掛けないこと。
椅子にフリースなど羽織るものを掛けることは便利で一時的な収納機能を果たします。
ですが、
部屋全体で俯瞰すると椅子にものが掛かることで何かごちゃごちゃとした圧迫感を感じます。
部屋はいつもキレイでありたいと願う思いで極力何も掛けないことを心がけます。
秋冬春は特にそのような椅子についつい掛けたくなるものが多くなります。
極寒の時期は特に暖かいものが椅子に掛かることで座ることも温かくなります。
実際に、この文章を書いている今も椅子にパーカーが掛かっています。
m (__)m
椅子は夜寝る前に一時的な収納となります。
寝るので誰も見ることはありません。
寝て起きて(昨日の考えは今日の考えとは限らない)考え方は180度変わるものです。
このような文章を書きながら自分自身の適当さを痛感しますが、これは☆極力☆椅子にものを掛けないと思う私の意気込み・心意気。
何事も自分に課した「呆則」は常に私自身を縛り付けるものではありません。
椅子に何も掛けないように、文章も何も書けないのでは困ります。
何も思い浮かばない朝に何か椅子にものを掛けないことで一文を書くことはできれば、多分、OK。
ということで「椅子収納はダメ!!絶対に!!」なんてことは決して言えませんが、椅子にものが掛からない方が部屋はスッキリとします。
正直なところ、「テキトー」な要素がなければこのように毎日文章を書くことも難しいことなので「話半分」が良き落としどころデス。

 
■2022年3月4日(金)
■いろんな椅子。
イスな音付き >>> PLAY
■2022年3月6日(日)
■一日一文章トレーニング。

「残飯コーナー」

「春はあけぼの やうやう白くなりゆく山際すこしあかりて 植物界のお嬢の夜は寒さ故に再び屋内に戻りてぬくぬくと」
ということで、植物界のお嬢にとって3月の夜はまだまだ寒いようなので室内に戻ります。
そして、日中は強い春の日差しの中で日向ぼっこ。
ま〜何だか手間のかかることです。

ということで。

継続して一つの文章を書き続ける為には何か新しい概念が必要です。
そして考えたものが「残飯コーナー」。
頭の隅に日常生活で拾ったどうでもいいようなことを保管・熟成させて、最終的に一つの文章に書き起こしてみましょうという考え。
日常取るに足らない事柄となれば、わざわざ文章として書き起こす必要のないものとなります。
「No Value」的なものに自分なりの新しい価値観を見つけ出すことができるのかの検証となります。
最初は「残飯ショップ」というネーミングで考えていたのですが、いざ文章に書きだすと「残飯ショップ」…リアルに気持ち悪いので「残飯コーナー」に置き換えました。

「No Value」と言えば。
以前、私たちのお店の前でスーツを着たサラリーマンと海外出張の外国人のビジネスマン(ラフな格好)と店前でホウキで掃除する私の3人の出来事がありました。
当時は近くに●●●ナルドなどもあり毎朝、店前には大量のタバコの吸い殻と食べものの残骸、飲みかけのドリンクなどを後始末する必要がありました。
ゴミは無視するともっとたくさんのゴミを溜めることとなるので毎朝の掃除。
それでなくとも、イライラするし汚いし溜まるゴミ袋を開けるとこの世の終わりに近い世紀末的な悪臭が広がるので一日の中でも嫌な作業でした。
そんな時、日本人ビジネスマンに連れられた外国のおじさんが私たちのお店に興味を持って入ろうとしていたら、その連れのスーツのおじさんが「No Value」と一言。
お店の人が目の前にいる状況の中で「No Value」と平気で話しているのを聞いて、外国のおっさんも私も二人ともビックリ。
英語ならわからんと思ったのかもしれませんが、わいでも「No Value」は知っております。
着ているものの良し悪しで人間性は計れないし、そのような些細なところから人間性を垣間知ることができるのとは何とも言葉とは冷酷です。
私がしつこくいつまでも忘れずに記憶している経験でもあるので「No Value」とは嫌いな言葉となります。

「残飯コーナー」は毎日のどうでも良いことを溜める頭の中の保管庫。
「残飯コーナー」は捨てて忘れられるような「No Value」に光を見いだすこと。
「残飯コーナー」は繋げる、バトンタッチ、異なる角度から視るというシークエンスな概念と連携することで、ネタ不足なんて言葉は存在しなくなる可能性もあります。
もしかしたら、「残飯コーナー」とは残飯を漁る「どぶねずみ」のようなものなのかもしれません。

 
■2022年3月6日(日)
■ネズミ警戒中。
■2022年3月7日(月)
■一日一文章トレーニング。

「なんしき こうしき エンジョイぜい」

先日、道を歩いていたら男子中学生二人が「なんしき こうしき エンジョイぜい×なんしき こうしき エンジョイぜい」と何度も何度も大声で話しながら歩いていました。
マスクの定着した世の中で子供たちの大声は久しぶりに聞くような気もしたので歩きながら耳に入ってきます。
「なんしき こうしき エンジョイぜい」とは何となく語呂の響きの良い言葉です。
「なんしき こうしき エンジョイぜい」とは一体、何のことを意味するのでしょうか。
そこで「なんしき こうしき エンジョイぜい」の意味について勝手に予測します。

1)軟式・硬式・エンジョイ勢
2)何式・公式・エンジョイ勢

1)3月は卒業シーズン。4月からの新学期が始まり高校での部活動をどうする?というような会話の中で「軟式・硬式・エンジョイ勢」のどれを選ぶ?早く答えて頂戴よ!的なフレーズなのかもしれません。軟式と公式で分かれるものはテニスだと思われて、「エンジョイ勢」とは学校生活をエンジョイする学生生活を意味するのでしょうか。部活をやらないのであれば「帰宅部」という言葉になると思いますが、今は「エンジョイ勢」的な言葉で語られることもあるのかもしれません。

2)「何式・公式・エンジョイ勢」は受験モードの時に塾や学校の数学先生が標語にする口癖。「この問題は何式で解く?その公式で間違いないのか?エンジョイしているか?」との意味。先生は物真似の対象となることが多いので語呂のいいフレーズは頭に定着します。語呂にこだわるのであれば「その問題 何式 公式 楽しき」とラッパーのようにキレイに纏めることもできます。

2通りを予測してみましたが、これは永遠に答えのわからない事柄です。勿論、グーグル先生の中にもその答えはありません。このような文章が昨日書いた「残飯コーナー・残飯ショップ」的な文章です。

対人戦のダクソやエルデンリング等のゲームの世界でも「エンジョイ勢」とはたまに見かける存在です。彼らはゲーム内を本当に楽しそうに遊んでいます。「エンジョイ勢」と協力プレイすると実際に本当に面白い。それはゲーム内の動きとか行動とかのことで、ここを登ることができるのを知っているか?的なことから始まり、水溜まりの中でじゃぶじゃぶと変な動きで遊んでみたり、皆でヘンテコな装備に仮装するなどアホなことが多すぎて本当に面白い人たちだと思います。実際に彼らはゲーム内を好きで研究し尽くしている人達でもあるので学ぶことも多くてゲーム内の攻略の勉強にもなります。人生でも知らないことをたくさん知っている「エンジョイ勢」というのは最強の人達なのかもしれません。

 
■2022年3月7日(月)
■鼻高々。鼻ぺろぺろ。
■2022年3月8日(火)
■一日一文章トレーニング。

「冬枯れの木々」

いやはや。
花粉が嫌嫌(いやいや)。
目はごろごろ。
鼻はマスク生活でだいぶんと改善したような気もします。
三寒四温の言葉の通りに春は冬の寒さと春の陽気を交互に繰り返しながら徐々にやって来ます。
上野公園の不忍池の鴨も北へと帰る季節。
鴨数も大幅に減ります。
桜の蕾はまだまだ屈強で息吹くまでには時間がかりそう。
以前、冬枯れの木々にノイズのようなカッコ良さを見出しましたが、一般的には逆光で見る枯れた木々が一番美しさのではないかと思います。
白と黒のコントラスト。
空の美しさと細かい枝々の分岐。
それら枝分かれするカタチは何か情報ネットワークのようにも思えます。
地面から伝わる大きな潮流は太い幹を流れ末端の細い枝に届き、触れ合う小さな枝々を通して他の木々へと伝播。
やはり、都会のような密集とした場所の方が情報伝達スピードが速いのにはそのような理由があるのかもしれません。
また。
空を見上げる時にいつも感じることなのですが「私は深海生物だ」と。
海老やカニのような生物と同じ深海の生物。
重力の底に這いつくばり歩き、冬枯れたサンゴの木をぬうように歩く。
そして、それらサンゴの枝先さえも一生辿り着くことはないであろうと木々を見上げる。
冬枯れの木々もそろそろ見納めです。
 
■2022年3月8日(火)
■ズンズンズン♪ドンドコドコドコ♪ズンズンズン♪ドンドコドコドコ♪
■2022年3月9日(水)
■一日一文章トレーニング。

「4番目の猫」

「4匹目のどじょう」ならぬ「4匹目の猫」。
谷中霊園の墓地で発見。
赤味のかかった茶色に黒のまだら模様が特徴。
昨日は寒の戻りで寒かったので手をXに交差させながら丸くなります。
エサやりのおばあさんがやって来たのか?
そのおばあさんの後をついて歩いて行きました。
そのおばあさんの後ろには以前観察した1匹目の黒猫もいて2匹は飛んで弾むようにおばあさんの後ろを追いかけます。
やっぱりエサ最強。
鋭く遠くを見る猫目「お前なんか知らん」利益を生まないものには見向きもされません。

ところで。

「2匹目のどじょう」をネットで調べると他人の成功や作品を盗む2番手を狙う人や事柄を意味します。
どじょうのことわざで言えば「柳の下にいつもどじょうは居らぬ」もありますが、こちらは柳の下で一度、どじょうを捕獲したからといって次も捕れるとは限らない「一度良い事は何度も続かない」という意味。
「どじょう」がラッキーな対象であることに少なからずの疑問はありますが、日常で使われることわざとしては「2匹目のどじょう」方が多いような気もします。
「3匹目のどじょう」ならまだしも、それ何周回った?な「100番台のどじょう」的なものもよく見かけます。
人はある意味、往々にして見たものしかカタチにできないし描くこともできません。
イノベーターと呼ばれる多くの人たちは失敗や間違いを重ねて偶然の発見や使ってみてからの使用感から何やら新しいかもしれないぞ・・・という小明を見出します。
いわゆる冒険心。
取引の範疇であるお金に呪われている人は多分イノベーターにはなれないような気もします。
質より量で「一日一文章トレーニング」を行うようになってからそのようなことは体感して感じます。

 
■2022年3月9日(水)
■4匹目の猫模様。
■2022年3月10日(木)
■一日一文章トレーニング。

「企画会議2」

2回目の空想会議が行われました。
1回目の空想会議はコチラ

■お話

{企画者}
皆様おはようございます。先週の会議に引き続きまして「前例のないコラボ企画」進めるにあたり広告宣伝部の協力のもと数人の匠(たくみ)をリストアップしてリサーチさせていただきました。広告宣伝部から2店舗。私の方から2店舗、提案させていただきます。さっそくですが(ア)さんお願いいたします。

{広告宣伝部の(ア)}
広告宣伝部の(ア)です。さっそくですがこのような大役をいただきましてうれしく思います。「前例のないコラボ企画」ということで、先ずは初めて入社した当時のエピソードが思い出されます。新人研修と当社商品の購入層のリサーチを兼ねまして大手スーパーで実演販売をさせて頂いた時のお話です。その時は新たな気持ちとお客様視点からの様々なご意見やご要望を頂きました。今回このお話を頂き、その時にまとめた資料を再読しながら「前例のない匠企画」を考えるスタート地点はこのリサーチのリポートにあるのではないかと考えました。企画書のグラフは購買層の年齢と性別、どんな時に食べるのかを集めた資料となります。主に30〜40代の主婦が中心となりまして、スーパーということもあり主婦の方が多く土日の休日に食べられることが多いとなります。実際もその辺りの購買層が多いと考えられます。そこで、私は今回の企画は若い層にターゲットを絞り若者推しの匠とのコラボから新しい客層を獲得できればと考えました。そこで、若者層の毎日のお食事に欠かせない色や味、カルチャーを詰め込んだ匠が次のページ2名です。{紙をめくる音}

一人目はフランス料理の匠「ララ・フランス」のFさん。
もう一人がバーガーショップの匠「ドンドンハンバーグ」のGさん。
のお二人です。
「ララ・フランス」さんの料理は見た目がかわいく色も鮮やかな料理が特徴で若い女性の方には人気です。気取った店構えでもなくカジュアルなフランス料理店となります。最近では人気のYoutuberなどのテイクアウトの料理を食べていられて大きな話題になっております。我が社の商品にも彩りや新風、話題性もあり若い女性層などを狙うとすればF匠はオススメな方かもしれません。

「ドンドンハンバーグ」G匠のハンバーグはアメリカサイズのハンバーグということでボリュームが特徴的。若い男性層にはボリュームの訴求が一番ということで、若者の心を掴むには量で胃の満足度を掴む必要があります。味は勿論、絶品です。チーズや特製のピクルスやベーコンが少し変わっていて匠曰く、米国東海岸風の型にはまりながらも遊び心の多い味となりヴィジュアル的にも新しいものとなります。

{専務}
・・・次、企画者君。

{企画者}
えー・・・。引き続きまして「前例のない匠企画」を進めさせていただきます。広告宣伝部との協力ということで(ア)さんとも打ち合わせさせていただきまして宣伝部はデータ方面から商品企画部は味覚方面から切り込んでお互いに良いものを出していきましょうという話の方向になりました。ターゲットにつきましては当初通りの現状の客層をサプライズさせるような現状のマンネリ打破できるようなイノベーションを起こせる匠を二人リサーチしました。

えー・・・。このようなことをお話するのも恥ずかしいのですが、入社して間もない頃に先輩に連れてもらった定食屋が美味しかったことを今いま思い出しました。あれは学生から社会人へと変わる変革の時でもあり世界が広がると共に味覚の変革期でもありました。そのような初心を覆す二人の匠がラーメン界の巨匠H匠と多国籍料理の巨匠I匠となります。前回は写真が大きすぎましたのでシンプルに改善しました。

ラーメン界の巨匠H匠は渋谷区にあるラーメン屋「エン」となります。H匠の技は味も麺も普通を飛び越えておりとても変わったラーメンとなります。先ず麺が太めのきし麺のような感じで輪ゴムのような形状で繋がっています。食べるのにも少し変わった食感で麺もすくい易い。欧米の方などにも好評なようでたどたどしい箸使いでも輪っかに通せば簡単に食べることができます。麺の見た目は面白いので話題性があります。輪っかの麺作り製造開発にコストがかることが予想されます。味はトマト風の赤系のスープと野菜由来の緑のスープとなります。味は欧風豚骨系上品スープ味になります。

もう一つ、私の大手インターネットサイトのデータ調査によりますとグルメ料理サイト内で毎日よく味のケンカが起きているのですが、そのような中で我が社の主力商品を「毎日食っとけ」というような流れでだいたい話が終わることがあります。最初は何たることかとなのかと考えましたが、よくよく考えてみれば、これは裏を返せば国民食としての知名度の証明でもあり愛情の裏返しだと考えました。毎日食べていただけるなんて、何ともありがたいということであります。そんな方々の斜め向うの先を行く前例のない匠とコラボ企画をすることにより我が社の話題性はウナギのぼりに上がると考えております。そこで、多国籍料理「XYGALDX」の巨匠I匠です。I匠の料理は多国籍料理というカテゴリーですが全て匠の頭の中で考えられた創作料理となります。メニュー表を見ても「ダスビスマードリン=1200円」と、どこの国の何の料理なのかさっぱりわからない料理になります。匠に質問すると「料理は全部味覚からうまれたもの その料理は酸っぱめ、それは満腹系」とか「それはメキシコ湾に風を吹いたような感じる味」「言葉の響きから料理の味を想像して注文して」と料理に対する世界観がぶっ飛んだものがあります。そのような感じなのですが味はピカイチ美味しいです。どの料理にも何か驚かされるものがあります。インターネットでも巨匠は別格の存在として知られた匠となります。料理中でもカウンター越しに気さくに話し人生相談にものってくれるいい方です。

{専務}
インターネットのデーターはどこに記載があるのだ。

{企画者}
えー・・・。インターネットのデータは膨大すぎて集計するには至っておりません。

{専務}
社長いかがでしょうか。

{社長}
食の世界は深いゆえ。この企画は社運を背負う企画でもありコラボ企画から新しい商品の芽を発見しようという試みでもある。現状の主力商品を打ち破るようなアイデアは苦闘の末に生み出されるもの。渋谷区の隠れ家系D匠のお店食べたけど美味しかった。D匠にコラボ可能か打診してみたが難しそうであった。この4店舗も回ってみてリサーチする必要があるので次回は実際に匠とコラボした気持ちで{企画者}君の方で何か試食品を作ってみたまえ。よろしく。

散会。(すごいつかれた)

エルデンリングに海老を鍋で茹でているコソドロがいました。
海老好きに悪い人はいないとの名言を語っていました。
何か面白い。
 
■2022年3月10日(木)
■ゆで海老。
とりあえずエルデンリングの海老を茹でているコソドロの鍋の上で飛び跳ねる幻影が見えます。
もちろんコソドロは怒ることはありません。
■2022年3月11日(金)
■一日一文章トレーニング。

「数字の記憶」

伝票番号・シリアルナンバー・電話番号に暗証番号、世の中にはたくさんの数字の羅列があります。
そのような文字列を一時的に、時には長期間暗記する必要があります。
その時にどのような方法で暗記すれば良いのかは悩みどころ。
昔の固定電話のように発信音や音にあわせて「ピ・ポ・ピー・ポー・パ・ポ・ピ」のメロディーを刻みながらの暗記。
または「いい国(1192)つくろう鎌倉幕府」のような語呂合わせで記憶することも多いです。
※1192年は変わったという話しを聞いたような・・・。

配送の伝票番号をパソコンなどに入力する時にも「123−45678―9012」の文字列に対して3桁から5桁の文字を一時的に記憶しながら「123」・・・「45678」・・・「9012」と入力します。
これだと文字を見て、パソコンを見てを3回繰り返さないと入力が完了しないので面倒です。
とは言え、文字を一度に全部暗記するのはもっと面倒。
暗記することの時間と手間のことを考えたならば首をフリフリ動かしながらも刻んで入力する方が早くて正確であるような気もします。
これらはブラインドタッチができれば解決できるお話でもあります。

お金を扱うお店などでは暗算行為が禁止されていることが多いです。
理由は暗算の得意な人がレジをすると計算が合わなくなる傾向が見られるからです。
どんなに単純な金額の計算でも必ず計算機を使い計算をしなさいと教えられます。
レジ中に会話をすることもありますし注意散漫となる状況はそこかしこに存在するので暗算の多用は集計時に金額はあわなくなる原因となります。

「12345678―9012345―67890123」
8桁の数字を一時的に暗記するのは少ししんどい。
何がしんどいのかと考えると、先ず見た目のボリュームに嫌悪感が湧きます。
パスワードであれば文字列も含みますので、そのような意味でも一時的記憶であれば5桁ぐらいの暗記が適当なのかもしれません。

「123−45678―890123」
徐々に一時的暗記する数字を増やしていくパターンは良いかもなんて思ったりもします。
でも伝票などでは予めハイフン(−)で区切られているので、それに影響されて暗記する必要があります。
ハイフンを無視して文字を暗記するのは何かしんどい。
そのように、区切り暗記しながら入力したとしても「あっれ?」と間違っているのが手入力でもあります。

数字に関する何でもないお話でした。
先日、日常の何でもないことに価値を見出そうと書きましたが、それはそれでなかなかと難しい。
ネタ不足は解消せずということで。
特に書きたいと思うことも、なかなかないのでありますが、そのような中で何かを書くことはなかなかのことです。
なかなかの事柄はなかなかとつづき、なかなかの苦行となります。
 
■2022年3月11日(金)
■なかなかのこと。
■2022年3月12日(土)
■一日一文章トレーニング。

「4匹目の泥鰌(どじょう)をアップデート」

■「柳の下にいつもどじょうは居らぬ」:
柳の下でどじょうを捕獲したからといって次も必ず捕れるとは限らない「幸運は何度も続かない」という意味。

■「2匹目のどじょう」:
他人の成功や作品を盗み盗り同じやり方で成功を掴みとろうとする2番手を狙う人や事柄の意味。

先日の「4番目の猫」で書きましたが、この二つのことわざを調べていてシークエンス的な連続性で相関していることがわかりました。
先ず、Aという人が柳の下で泥鰌を捕獲する。
柳の下ということで泥の中に入らなくても容易く見つけることができて大変ラッキー。
泥の中を漁ることは「泥を打てば面(つら)へはねる」と言われるように汚れるし大変な作業となります。

■「泥を打てば面(つら)へはねる」:
悪さをすればその報いが必ずかえってくるたとえの意味。

Aは家に泥鰌を持ち帰り柳の下で捕まえた話を妻に得意げに語る。
妻はそれは単なる偶然で「柳の下にいつもどじょうは居ないよ」と言う。

次の日、Aは柳の下で泥鰌を捕まえた話を自慢気にBに話す。
Bはさっそく、そんなにうまい話はないと川沿いの柳をくまなく歩いて探す。
柳の下を何やら探すBを見かけたCは「Bさん柳の下で何をしているのかい?」と聞く。
BはAが柳の下で泥鰌を捕まえた話をする。
確かに柳の下とは幽霊でもでそうな所でもあり、人があまり立ち寄らない盲点のような場所でもある。
その話を聞いたCは「どれどれ泥鰌は居らぬか?」と柳の下を探す。
そのような感じで噂話はどんどんと広がり川沿いの柳の下を多くの泥の面返りのような人たちが集まり泥鰌を探すこととなります。
それが「2匹目のどじょう」のことわざの語源になったとさ。

どじょうは水中の泥に潜っていているもの。
言い換えれば「目に見えないもの」。
土に埋まっている金塊を掘り起こす例えとしてのどじょうなのかもしれませんし、このように本当に柳の下で泥鰌を捕獲して江戸市中で話題になったお話なのかもしれません。
というような感じで勝手に「泥鰌物語」を空想しました。

どじょうを調べると雑食性の淡水魚。ウナギに似た円筒形の体形で18cmぐらい。10本のヒゲがあり、ぬるぬるとした体。川・田・沼に生息して冬は泥に潜る。エラ呼吸の他、腸での呼吸もする。どういうこと?

「ドジョウの図」を見ていますがどれも良く似ています。一見して泥鰌と判断できます。ですが、よくよくと見てみると、どのドジョウも全然違います。ドジョウ・ホトケドジョウ・シマドジョウ・フクドジョウ・・・明らかにカタチは異なります。何が違うのかともっとよく見てみると魚形から模様、ヒレのカタチも異なります。アユモドキというドジョウなのか鮎なのかをハッキリしないもいます。立派なヒゲがあってドジョウと言えば泥鰌です。泥鰌は魚屋さんで袋詰めされた生きたドジョウを見たことはありますが、自然の中では見たことはありません。ドジョウをイラストにすると「泥棒顔」になります。泥鰌とは本当に不思議な生物です。

 
■2022年3月12日(土)
■どちらかが「チンアナゴ」で、どちらかが「どぜう」。
■2022年3月13日(日)
■一日一文章トレーニング。

「疑問は力」

 文章を書く。どのような事柄を書けば良いのか。日常の経験からの発見、探究、その考えの移り変わりを追う。そして、想像を膨らませて再び書き進める。浮かんだアイデアを文章にどのように組み込み書けば良いのでしょうか。同じような内容の文章を書くだけでも幾千ものバリエーションが考えられます。側面から攻める?順序よく前方か積み上げる?ゲリラ戦のように散発的に書いて最終的に全体につなげる?ここでの攻略とは自分自身に架した壁。ただ、私にとっては文章を書くことは、その内容を考えるだけで手一杯のこと。文章をオサレに仕上げて仕掛けを作りあげるという領域までには決して届きません。文学などを読めば、その能力の差にひれ伏す。とりあえず内容を考えることに1/3。文章を書くことに1/3。そして、さあ文章を書き始めるぞ!!と思う勇気に1/3。この書き初めの勇気とは寝起き頭のぼんやりとしている時が一番良い。その書き初めに書くことが何も思いつかなければ、その時の絶望感からとてつもなく頭がシャキンとした良き朝の目覚めとなります。今日のようにあれやこれやの作業をしてしてからの文章は何かとてもしんどい。

 文章を書きながら新しいアイデアや思考が深まることもあります。何かの文章を書きながら「あれでもない、これでもない」と考えることはそれほど悪いことではありません。とは言え、何か人生にプラスになることも何もありません。期待をするだけでも無駄。何かを続けることは苦痛であり試練。それを続けることができるのは、どこか頭のネジが外れているのか。テキトー人間の持つ特性なのか、単なる習慣、呪われている、単なる暇人かもと考えたりもします。どれも正解ではありますが、そこには動かす為のエネルギーが必要です。そこで継続する為の原動力は何なのか?と考えました。ありました。文章を書き進める為に必要なたった一つのこと。それは「疑問を持つ心」。その心がないと文章を書くことはできません。既知の事実としての知識を書くことは必要なことですが、ここで私が何かついて書くことはこれとは別のような感じです。何もかも知っているのであればここでわざわざ無駄なエネルギーを使い行動する必要はありません。知らないことで疑問が湧き、それらを調べることで探究心への思いを書く。「疑問を持つこと」とその好奇心は文章を書くための原動力でもあり、人の生きる為のエネルギーでもあるような気もします。【ゲーム】ブラッドボーンでマリア様が「死体漁りとは、感心しない だが 分かるよ 秘密は甘いものだ」と話していました。これは疑問を持つ心、好奇心の危険性と本質を語っていると思います。実際に疑問を持つこと、知ることで大火傷をするのかもしれません。しかし、ゲーム内での正解とは漁村の真実について調べて進み続けることがゲームをクリアする正規ルートとなります。そのような訳で「疑問を持つ心」は誰にも譲り渡してはいけない大切なことだと思います。人によっては純粋な「仕事やお金」「怒り」や「正義感」等、それら以外の複雑な感情が動力源となるかもしれません。もしかしたら「好奇心・疑問心」も同じものかもしれません。検証が必要です。本心的に文章を書くことは毒であり呪いでもあるとは思ってはいるのですが「疑問の力」は必要なスキルだとも思います。よくわかなない事柄は、このような誰も読みたくなくなるような文章によって全てはオブラートに包まれこととなります。

ということで、本日は今からずーっと【ゲーム】エルデンリングです。

 
■2022年3月13日(日)
■取り急ぎの足跡。
■2022年3月14日(月)
■一日一文章トレーニング。

「トリがとまりやすい木」

お菓子を食べたり動画を観たりでお家でのリラックスモード・・・そんな時。
椅子の上に正座している自分に気づく。
世界広しとは言え、椅子の上で正座をする民族は日本人以外にいないように思う。
やっぱり、日本人に染みついた文化とは消えないものであります。

そのような訳で、昨日の「疑問力」を意識して文章を書いてみます。
「今朝のなぜ?」はもうすぐ花を咲かす桜の木の害虫のお話。
桜の木は日本の春の象徴でもあり昔は民家の庭などにもよく植えられていました。
ただ、キレイではあるものの害虫がつきやすいという問題もあります。
ツンツン毛の毛虫が大量発生して気持ち悪くて木を切ることが多々あると思う。
昔、実家の裏庭の陽当たりの悪い場所にも桜の木がありました。
しかし、この桜の木にも大量の毛虫が発生するので切られました。
そのような理由から桜並木などの木々は適切な管理の元でお手入れされているからこそ毎年キレイな花を愛でることができます。
一般家庭の庭で桜の木を育てることは少々荷が重すぎることなのかもしれません。
そこで、安直に考えました。
木々に鳥々を招待すれば害虫駆除の手助けになるのではないかと。
美味しい木の実や3歩譲って柔らい蝶々の幼虫ならともかく、不気味な毛虫を小鳥が食べるのかは謎ではあります。
ですが、鳥がチュンチュン・チュンチュンさえずる木々では早々に害虫はいないように感じます。
そこで、鳥の止まる木について調べていると面白いことを見つけました。
鳥をゲージなどで飼う時の止まり木の名前をパーチと呼ぶようですが、これには鳥が木を掴むのに居心地の良いサイズがあるようです。
爪のサイズの1/3ぐらいの直径が最適にしっかりと掴めるようで、これは私たちがバットやラケットを掴むような感覚と同じかもしれません。
鳥の気持ちになって考えてみれば、そりゃそうだなと思います。
私たちが正座もするように時折、異なる掴み心地も必要なのかもしれません。
鳥は木々に掴まることで爪を研ぎ、足の汚れを落とすなどのお手入れをしているようです。
鳥は何の考えもなく木々に掴まっていると思っていましたが、鳥たちはいろんな掴み心地を求めています。
そうすると電線に鳥が止まるのもゴムの感触が面白くて好きなのかもしれません。
そのような訳で桜の木に害虫がつきやすいのは木の枝のサイズが鳥好みの大きさではないからなのではないかと考えました。(仮説です)
桜の木は人工的に品種改良されて作られていますが、その過程で鳥の止まり木として役割は考慮されない美しさに特化した植物と言えます。
そこで、害虫に悩む木々のサポートとして楽しい隠れ家にもなるような止まり木アスレチックを作れば、もしかしたら小鳥たちを招待することができるのかもしれません。
とは言え、昔、家の大きなモチノキに鳥の巣箱を置いて観察しましたが一向に鳥は入らないし近づくこともありませんでした。
モチノキは赤い木の実をつけてチュンチュンと大人気の木です。
その意味では鳥の気持ちになり鳥の快適な環境を作ることが鳥も繁殖して、人間の害虫駆除のお手入れも減り、美しい木々も増えて・・・というような良い環境のキッカケとなるかもしれません。
これは好循環。
もしかしたらカラスの大繁殖だったりして。

鳥の足は見たことがないので気になります。

 
■2022年3月14日(月)
■鳥をかわいく卵型にしました。
■2022年3月15日(火)
■一日一文章トレーニング。

「エルデン日記」

【ゲーム】エルデンリングの「神秘」。
発見力しか上昇しない謎のスキル。
(土)(日)(月)の3日間かけてゲーム内のお金(ルーン)稼ぐ為にバイトを行い「波紋の剣」を使う為の「神秘」レベルを20まで上げる。
能力補正S「戦技乱撃」という言葉に惹かれたのだけれども「波紋の剣」は出だしが遅くブンブンするクソ武器の予感。
そして、アイテムも落とす確率も同じような感じ。
何かやってしまったような大きな予感。
武器「レドォビア」の「神秘」出血性能は高いので、それは救いです。
脳筋戦士のように敵を怯ませることができないとすると、もうすでに現れ出ている強い敵にはゴリ押しができないので大変。
「神秘マン」にも救いがあるのでしょうか。

ゲーム内で何かを学ぶとすれば、何もわからない状況では何もかもわからないこと。
場数を踏んで覚えるしかありません。

 
■2022年3月15日(火)
■鳥空を飛ぶ。
■2022年3月16日(水)
■一日一文章トレーニング。

「2080年」

今朝は2080年の夢を見た。
2080年の生活がどのように変化しているのかと考えるととても興味がある。
勿論、車はオートパイロットになっているのだろう。
何か目新しいものはないかとキョロキョロと街が気になる。
そんな2080年の東京で東南アジア系の外国人と仲良くなる。
彼は何かの有名人でもあるようでお洒落な若者である。
異国の東京で何年も一人ホテル暮らしをしているようでホテルのドアマンとも仲良しである。
そんな彼と知り合い何故か夜の東京の街を歩くことになるのだが彼にはどうやら幽霊が見えるらしい。
そして、私にいろんな幽霊を見せて歩く。
外灯に立つ幽霊。
無害。
車にひかれた状態の幽霊。
ひいた人や車の姿も見えてくる。
これは痛々しくて恐怖。
ホテルの開かずの間の幽霊。
本来は開かないらしいのですが、夜のこの時間になると入ることができるらしい。
そして、彼が扉を開けるとそこに幽霊がいる。
私は怖くて恐怖しますが、彼も恐怖していました。
何か彼の知り合いなのか?関係があるのか?多分、一人では見れなかったのかもしれません。
私が知りたいのは2080年の未来の街や技術です。
なのに、彼は普段は見ることができない幽霊を一つ一つ私に案内していく。
そして、何個も何個も幽霊巡りをして東京の街は次第に夜明けとなる。
そして私も58年前の目覚め。
今日は久しぶりの朝型の目覚め。
指折り数えると私が幽霊であってもおかしくない。
もしかしたら私は2080年の幽霊だったのかもしれない。

 
■2022年3月16日(水)
■羽ばたく鳥。
■2022年3月17日(木)
■一日一文章トレーニング。

「地震」

昨晩、地震がありました。
1回目は前の東北大地震の時のような小さく長く揺れる地震の始まりだったので、どんどん大きくなったら嫌だなと思っていたらそのまま収束。
暫くすると2回目がぐらぐらと揺れはじめるとすぐに家の電気が落ちて停電。
揺れはどんどん大きくなり、真っ暗闇で聴覚が敏感になるようでギシギシと揺れる音を聞きながらオロオロ。
地震中に視覚を奪われることは少し怖い体験です。
とりあえず、狭い通路でゆらゆらが終了するのを待ち防災用の照明で辺りを照らすと特に異常なし。
窓を開けるとこの辺り一帯は外灯を含めて停電しているようです。
バックアップ電源のあるような新しいマンションの電気はこうこうと点いています。
電気が落ちると水道も止まります。
空を見上げると満月に近いお月さまがポッカリ。
今月の満月は2022年3月18日(金)。
新月ではないことは良かったのですが、大きな地震は満月近くの時に起きることが多いです。
地震は嫌なので震度1や2を数多くこなして大地のひずみを修復して欲しいものです。
とりあえず、防災用のラジオを聞き眠くなったので、そのまま寝ます。
スヤスヤ寝ていると電気復旧のバチンという点灯で目覚める。
さっそく、あちこちの電気を消しにモゾモゾと起き上がり再び寝る。
倒れていたものは私の中では縁起物の亀の怪獣ソフビとオサレな木製の牛の置物。
亀がひっくり返り倒れて牛を倒したように思われます。
その状況を(力)入れて絵に描く。
微妙に似ているようで微妙に違います。
でも絵にするということは写真とは違う何らかの(力)が宿るような気もします。
ということで本日は何か動揺する朝でした。

 
■2022年3月17日(木)
■「亀倒れて牛ひっくり返る」

ことわざ」のような響き。
迷訓のような面白き要素はないものかと考えます。

先ず、亀が倒れることはありません。
とは言え、亀が絶対に倒れないとも言えません。
亀の生態やその気持ちについては全くの無知です。

倒れる亀を見た大きな牛がひっくり返る連鎖もありません。
とは言え、牛が絶対にひっくり返ることはないとも言えません。
牛の生態やその気持ちについては全くの無知です。

腹を見せる無防備な状態。
犬や猫などの動物がひっくり返る姿を見ると何か愛らしい面白い要素を感じます。
なので、他の動物がお腹を見せながらひっくり返ることも同様に面白いことだと思われます。
動物が腹を見せてひっくり返るだけで面白いならば、人が地面にひっくり返って腹を見せているだけでも面白く思えるのかもしれません。
最近は見かけることはありませんが玩具を買って欲しくて道に転がりダダをこねる子供というのも何か微笑ましく可笑しなことです。
腹を見せてジタバタ・のびのび・ワイワイやることは何か面白いことです。

 
■2022年3月18日(金)
■一日一文章トレーニング。

「私たちは物理的にも精神的にも重力に縛られている」

昨日の「亀倒れて牛ひっくり返る」の画像をひっくり返す。
逆転の発想により話を継続することはできるのでしょうか。
「亀は空を飛び 牛も空を飛ぶ」。
前述の話もありえませんが、これはもっと現実的ではないお話です。
世の中にこんなにくだらない文章を晒してしまい恥ずかしく思いますが、今回もどのように考えて発想したのかの痕跡を記述します。

1) 無重力実験装置で実験中の亀と牛。真顔。

2)ノアの箱舟から貴重な救出生物が落っこちた。地上までの落下時間は数分間。神々と作業員がその生物をどのように救うのかのお話?神、時間を止める(一時停止)。超絶長い会議を始める。そもそも、この2匹はもういいんじゃない(牛乳がなくなる)という意見も。誰が救出に行くのかでの論争。そもそも人間に罰を与える必要はあるのかという流れも・・・。

3)草を食べる亀と牛の悲劇。地面が崩れて奥深い地底の世界に落ちていく亀と牛。亀と牛の地底世界散策日記(一日目)。亀が歩くの遅すぎて話しのテンポが超絶に遅くなる予感。地底に落ちて高速に2足歩行できるタートルに進化。亀と牛の冒険ストーリー。

4)飼い主の帰宅に喜ぶ亀と牛。YOUTUBE動画。

5)超能力を持った横着な亀と牛。移動するのに、もう歩いたりはしません。人間たちビビるドキュメンタリ。

6)トランポリンで遊ぶ亀と牛。それを見た飼い主が亀と牛のトランポリン競技を開催する為に奔走する物語。LOVE有り動物有りの夏休みの映画。

スカイダイブするような二匹の動物は空中に浮遊しており無重量感を感じます。
UFO談の一幕、未確認飛行物体に吸い上げられる亀と牛のような図でもある。
このような重力から解放されたような荒唐無稽な絵から何かことわざ的な要素を見出すことは難しい。
その理由は私たちの発想も重力によって縛られていることの証明だと思います。
宇宙世紀、重力から解放された宇宙に住む未来人だと何か思いつくのかもしれませんが私にはこれが精一杯。
逆転の発想が如何に難しいことなのかを痛感します。

 
■2022年3月18日(金)
■ついに立ち上がった亀。手を振る。
■2022年3月19日(土)
■一日一文章トレーニング。

「プロヴァンスな光」

昨日は小雨、冬に逆戻りの天気で寒かった1日。
今朝は透き通る青い空が広がる良い天気。
散策日和。
雨の日は人も少なくて好きなのですが、晴れたこんな日もきっと好き。
桜の蕾は大きく膨らみピンク色も目立つ。
桜の開花はもう数日。
そのような一枚を撮ろうと撮影しましたがピンボケ。
昨日の写真。
ピントは奥にフォーカス、そして、いつものピンボケ。
ピンボケとは「ピントがぼけた」の省略。
省略こえて独り立ちした[名・形動]の良い響き。

さて、

街中の小さな変化を見つけました。
それは冬枯れの裸木がキレイに見えるようになったこと。
ほんの数週間前まで街のノイズでしかなかった冬場の裸木が今は美しくも感じられます。
それは春の到来と共に木に生命力が宿ってきたこともありますが、春の強い日差しが美しく冬枯れの木々を照らしているようにも感じます。
私はそのような光を「プロヴァンスな光」だと思いました。
冬場の弱い光では見ることはできない現象。
ゴッホなどの画家たちの世界観を変えた「プロヴァンスな光」。
しかし、プロヴァンスは行ったことはないのでその光については語る資格はありません。
たぶん、恐らく、この日本の冬明けの光はプロヴァンスに近い太陽光だと思う勝手な思い込み。
強い光線が枝々の隅々まで陰影を落とし込み。
それらを俯瞰して見るとコントラストのハッキリと浮き出てそそり立つ骸骨。
自然に作り出す枝の芸術(ニョキニョキ)とは何かとても美しい。
特にイチョウの木の骨格は他にはないようなBESTなニョキ度を感じる。
この時期の角度ある強い日差しはたぶん「プロヴァンスな光」。
「プロヴァンスな光」はいろんな「もの」を美しく照らします。
花粉のアレルギーがなければ、このプロヴァンスを存分に楽しめるのだが・・・。

 
■2022年3月19日(土)
■納豆キャンディー。
■2022年3月20日(日)
■一日一文章トレーニング。

「枝」

木を見て森を見ず。(ことわざ:物事の詳細にこだわり過ぎて全体を捉えていないこと)
街を見て冬枯れの木を見ず。(昔の私のこと)
葉を見て枝を見ず。(今の私のこと)

ということで。

木に枝は何本ぐらい生えているのだろうか。
木の枝を詳細に観察してみると形状は複雑怪奇。
枝がどのように伸びているのかを1本1本認識することは情報過多すぎて無理。
平面ならともかく3次元に枝を生やしているのでさらに厄介。
それに木にも性格があるようで癖のある曲がった木に、尖がった木、丸い木、いろいろな木々があり多種多様。
そのような訳で枝は四方八方に伸ばしており枝全体の記録や法則を理解することは人知を超えたもののように思えます。
※気恐ろしく思いますが植木屋さんにとっては常識の範疇なのかもしれません。

普段、私たちが木の絵を描くとなると当然、省略したカタチの木を描くことになります。
先ず幹があり、太めの枝はこのような感じで伸びていて、小さな小枝の線を描き、さらに葉っぱの線をテキトーに右・左・右・左と描く。
立派な木の完成。
これは多分間違い。
小枝は「V字形」で空に向かい伸びます。(図参照)
日光の当たらない下側に葉っぱは出ない。
葉はテキトーに生やしている訳ではなく戦略的に空に太陽に向かって伸びています。
これらは見る角度にも影響します。
木の種類による特徴もあるかもしれません。
冬枯れの裸木に注目することで見つけた発見ではありますが、イチョウなどは縦に伸びているような気もします。
あらゆる角度の面から日光を吸収するという木があれば「ハの字形」も間違いではないかもしれません。
立体的な枝の生え方。
それは普通に生きていたならば誰も気にもかけないことです。
このような枝の形状を観察できるのは今の季節だからこそのことですが、残念なことに、もうこのシーズンも終わります。
葉っぱがついたら枝が見えないよくわからない状態になりそうです。
今までの経験則で言えば、緑生い茂る木であっても枝に注視すれば枝は見えてくるものなのかもしれません。
これらは来年の冬の楽しみ。
若しくはこれから季節の楽しみ。
木の枝とは木恐ろしいものであります。

 
■2022年3月20日(日)
■取り急ぎのミュージックな動き。
■2022年3月21日(月)
■一日一文章トレーニング。

「十叩いて十鳴る」

十(じゅう)入力すると十出力される。
例えば「A君はとても面白い」という知識をこの論理で書くと「A君はユニークだ」となる。
これはタイピング入力のようなもの。
右から左への情報の移動。
単なるコピーである。

私が「A君が面白い」と思った時に、何がどのように面白いのかを書く。

「彼は靴下を片一方しか履いていない。理由を聞くと手に取った靴下が1足しか見つからなかった時から靴下は片方しか履かないようである。A君曰く、世の中には靴下を履かない危ないおじさん達が存在するように、靴下を片方しか履かない人がいても面白いと思ったようである。常に地面に触れる足元のアンバランス感は何とも形容しがたい不安定感を感じるようです。人とは常に左右対称であることで安心感を得ているのかもしれませんが顔も足も全てアシンメトリー。彼はそのような自然の摂理・非対称を楽しんでいます。多分、人生の不安定さ戒めや教訓を片方の靴下から常に感じ取っているのかもしれないし、単なる変わり者なのかもしれません。そのようなA君が十叩けば十鳴る数学的なシステムのプログラムを設計しているのが最も不思議で面白いことです。」

と言うような結婚式のスピーチに使えそうな文章ですが「十叩いて百鳴く」感じ。
表現等含む私たちの世界は1≠1です。
時に10=10×2 10=10÷4 10=10−8 10=10+100のかもしれません。
例えが「A君は面白い」どうでもいい知識ではありますが「インプット」が必ずしも「アウトプット」に結び付かない事例です。
知識の量は表現と全く結び付かないし「百の知識よりも一の刺激」の方が文章や絵は書けます。描けます。

 
■2022年3月21日(月)
■取り急ぎの十と十。残像が残れば十の文字に見える予定でした。
■2022年3月22日(火)
■一日一文章トレーニング。

「春分と墨汁」

昨日は「春分の日」で祝日。
昔から「しゅんぶん・春分」と「しゅうぶん・秋分」でややこしく思う「春分の日」。
調べると太陽が赤道と黄道上の交差点である春分点を通り過ぎる日。太陽は真東から昇り真西に沈む。昼と夜の時間がほぼ等しい。
やはり何というか心はモゾモゾ。
この日を境に季節の変化が始まることは理解できます。
世の中に「春分の祝日」の意味を説明できる人がどのくらいいるのか?気になります。

と言うわけで「春分の日」新しい気持ちに切り替えて筆ペンで描きます。
筆ペンは間違って購入した「うす墨」の筆ペン。
墨は濃ければ濃いい程に良いと思われますが「うす墨」は香典用で、これまた、なぜ薄いのかよくわかりません。
調べると墨を擦る時間がなかったとか、涙で薄まり色が薄くなるなどの弔意を示す目的があるようです。
四十九日を過ぎると濃くてもかまわないようで、これまた大人のしきたりとは難しいものです。
私的には墨は濃くないと嫌です。
筆ペンはカートリッジに挿して使う仕様なのでカートリッジを挿さずにつけペンのように墨汁に浸して使うと、筆を洗う必要なくキャップをつければそれなりに保湿も保たれるので一石二鳥。
インクが常に供給される訳ではないので本物の筆のようなかすれも出ます。

ところで「墨汁」の読み方。
パソコンのキー入力で「あれっ」変換できないゾということで「ぼくじゅ」ではなく「ぼくじゅう」が正しい読み方。
今まで「ぼくじゅ」と言い続けて人生数。
「彼女」を「かれじょ」と読まないように「すみじる」と読んでいないだけで万時良し。
ですが、恥ずかしながらこれは方言であると思いたいのですが小学校の頃は「ぼくじゅう」と正しく読んでいたような気もします。
「春分」といい「墨汁」のあんたらはちょっと読み方が難しいのです。

筆で字を書くことは人間性が現れるようにも感じて何かとても恥ずかしいことです。

 
■2022年3月22日(火)

スズメのこころはお米にあり
小さなお目でお米を狙う
お米の番人は大きな目をかかげてお米を守る
お米のこころ スズメのこころ 農家のこころ 
おいしいお米 何とか農協 2080

筆ペンで書きました。

■2022年3月23日(水)
■一日一文章トレーニング。

「生命の色は美しい×枝分かれ」

先日、日本のプロヴァンス(光の季節)を書きましたが、その日以来、何だかどんよりお天気が続きます。
プロヴァンスが何であるのかも知らないのに、プロヴァンスがどうのこうのと書いたことへの罰なのかもしれません。
何も知らないことについて、たらたらと長く書くその根性と度胸は子供時代の無邪気さの復活ようにも思えます。
春分の日も過ぎたこともあるのであの美しく感じた光はこの厚い雲がとれたとしても、もう感じられないのかもしれません。
「日本のプロヴァンスは終わったのか?」昨日はそんなことを考えながら歩きます。
雨が雪に変わるお天気で手もかじかんで寒い一日。
ニュースを見ていなかったのでジャンパーに雪、空には雪が舞うお天気でビックリ。
そんな曇り空でも遠くの冬枯れの木を見ると何かキレイです。
幹の茶色と枝々の茶色の色が違います。
枝の茶色は赤味のかかった茶色で葉の芽が吹き出す前の生命の色。
もしかしたら、冬枯れの木が美しく見えたのは命の美しさであり光がなくともキレイに見えるのかもしれません。

桜は開花宣言されてチラホラと咲きます。
「これぞ雪見桜じゃ」なのですが数輪の桜では趣はありません。
枝をじっくりと見ると新しい発見があります。(情報をアップデート
桜の木の枝分かれはV字ではなく交互にVしながら伸びます。(図参照)
Mという枝からa1という枝が派生すると、反対側のb1は少し間隔を空けて空に向かい枝を生やします。
これらを交互に繰り返し、時折、a4、a5と同じ方向から出ることともあります。

また、上空に伸びる枝は桜の開花の重みと共によくわからないカオスな状態へとなります。
桜の開花による生命活動が始まると規則性がなくなっていくような感じ。
設計状態では何かしらのベクトルは決まっているが、いざ動き出すとそれが何のことかと息吹を始める。
これぞ生命なのかもしれません。
そこでルールなき一句。

まだまだ早すぎる雪見桜 その枝別れに人生の枝分かれを重ね写す 鳥好き

ということで。
人生に於いても枝分かれは二者択一というよりもタイムラインの中で交互にやってくる枝分かれのような気もします。
年をとれば木の枝分かれのように大きな枝分かれはないであろうとも考えられます。
もし、木の成長で人生をなぞらえると若い幹近くでの分岐点・枝分かれが重要となります。
なので、若い人により広い知見と視野を与えることが重要です。
年寄の人生とその枝分かれについては、もう枝先にあるのかもしれないし向かうところは同じなのでそんなに気にすることはありません。
ただ、木から老後の人生を学ぶことがあるとすれば、数本の枝よりもたくさんの枝を持つことが人生の豊かさであるとも感じられます。

 
■2022年3月23日(水)
■枝がどのように伸びるのか気になります。
yyyに見える。
■2022年3月24日(木)
■【スコスコレクション】ぶるぶる携帯のおもちゃ→記事はコチラ
■2022年3月24日(木)
■通話する人。
落として壊してしまう人も多いので携帯電話は布製でいいと思う。
肌ざわりが良く服装の一部のようなスマートフォン。
洗う時には中身をすっぽり抜き取り洗濯。
次世代の携帯電話。
■2022年3月25日(金)
■一日一文章トレーニング。

「條の奥」

根津神社つつじの木の斜面にて「チュンチュン」の鳥の大合唱。
鳥の鳴き声はすれども鳥はどこにも見つかりません。
しばらく、つつじの森を観察していると意外に目の前にいました。
スズメを発見。
器用につつじの枝々にのっかります。
色や形がつつじの葉に同化しているので確かにみつけにくい。
ですが、しばらく見ているとスズメたちはどんどんつつじの深部に潜水します。
鳥が見えなかった理由はつつじの葉の下に潜っていたからです。
声はするのに鳥は見つからない状態は冬の時期にはなかったこと。
最近の谷中霊園でもオナガやハクセキレイを常緑樹の葉の奥で見かけます。
鳥の気持ちになり考えてみると冬場はエサが少なく道や開けた場所で栄養源を探していましたが、
春になり植物や虫などのエサが増えてきたことで豊富な場所に移動したことのように思われます。
冬場に鳥を見つけやすいのはそのような理由があるのではないかと勝手に推測します。

ところで。

「枝々」と入力しようとすると「條々」と表示されます。
「條」???何?この漢字?ということでさっそく調べます。
辞書を調べると「えだ」の読み方では記載されておりません。
ネットで検索すると「条」の旧字体で「條」とは枝の意味であることを見つけます。
物理的な木々の枝というよりも「条約や条項、箇条書き」などの概念的な枝別れ状態を表現する時に使用する漢字。
そう言われてみると確かに文章も枝分かれしております。
特にネットに記載する文章はリンクにより実際の文章の容量よりもより広く枝(条)分かれします。
ある程度の文章が集まれば「情報の木」と表現しても間違いなし。
昔の人がことばの広がる様を木々の枝が伸びる姿に写し重ねることは自然なことなのかもしれません。
さて、「情報の木」とはどのようなカタチを見るものなのでしょうか。
潜ってみますか。

 
■2022年3月25日(金)
■鳥とりどり。
■2022年3月26日(土)
■一日一文章トレーニング。

「Someone must look for the tenkasu」

 私の記憶が正しければ、おむすびが山から転がった先には穴があり吸い込まれるようにホールインワンするもの。恐らく、それはネズミの穴。穴を覗くと棚ぼたエサに大喜びのネズミちゃんのお祭り騒ぎ。一緒にそのパーティーに参加することでお土産の小判を持ち帰ることができてラッキーな昔話。

 そのような訳で本日のテーマは「天かす」。

 何の為に存在するのかと思うような商品ですが、とろけるチーズをのせたパンの上にふりかけて一緒に焼くととても美味しい揚げ玉。天かすはカリカリしていないと美味しくありません(私見)。なので、汁物につける天ぷらとは私的には何か違うような感じ。ぬれ煎餅を拒否してしまう気持ちと同じ。天かすとはカリカリを維持することで美味しさが引き出されます。そのような天かすがダイニングテーブルから転がりました。天かすがコロコロとどこにコロコロ。転がり行き先が不明なので部屋の隅々を探すこととなります。部屋の隅っことはホコリが溜まる異次元閑話(かんわ)。できれば目にしたくない非日常。今度機会がある時に濡れた雑巾で拭いてみようとも考えますが、今拭かなければ、多分遠い未来にも拭くことはありません。そして、天かすは見つからなくてどこにいったのであろう探すこととなります。先ず机から落ちる。足に当たり落下角度が変わりこちらの方に。さらに跳ね返ったかもしれないのでコチラかな?天かすは何処に。こういうものは思った方向とは反対方向に転がる可能性もあります。落ちた「もの」の追跡には直観だけが頼りです。当然、天かすのような高度な曲者が転がる時にはなかなか発見することができません。このような案件は腸型人間の直観が如何にも心持たないものではあるのかと考えさせるのに十分な事柄です。ならば、直観以外に天かすを追跡方法はあるのでしょうか。目線を床に下げる。俯瞰して広い視野で天かすを追う。あれやこれやと考えたところでやはり直観で目視しかありません。恐らく、天才物理学者のアインシュタインが天かすを探す時でさえ運動法則を考えることもなく机の下に頭を突っ込んでいると思います。そして、最終的に「まーいいや」と。忘却とは最強の解決手段です。

 机からいろんな「もの」が転げ落ちることは何か面白い。受験生には「落ちる」とはNGワードではありますが「落ちること」とは最も自然的な現象です。むしろ、のぼる方が非現実的。たくさんのビー玉を転がすと低い方に連なり転がって行きます。皆で同じ地の底に向かって転がっていく様子は何か面白い。机からの落下物とはごく自然な現象。そして、いろんなものを机から落下させるとヴィジュアル的は多分面白い。人生の中で机の上から何度物を落としたことであろうか。たくさんの「もの」が転がり、跳ねて、すべって落ちた。天かすは誰かが見つけなければ、長くその場所に居続けることとなります。数年も経てば自然に分解されるのかもしれません。それは何か気持ち悪いので、やっぱり探そうかと思います。昔話のように穴があって追跡の先には「福」があると考えればモチベーションも上がるのですが。「天」の「カス」というその名前の通りの無駄話。

 
■2022年3月26日(土)
■バウンド。
■2022年3月27日(日)
■一日一文章トレーニング。

「候条」

筆ペンを使うようになったら「拙者(せっしゃ)〜候(そうろう)」などという昔言葉を用いたくなる候。
「候」には「候旨(そのむね) 候様(そのようす) 候哉(や) 候所(ところ) 候共(ともに) 候故(ゆえ) 候趣(おもむき) 候由(よし) 候伝(つたえ)」など後ろにはいろんな漢字が付くこともあります。
勿論、候だけで「〜です」と話を閉めることも多いです。
候の後ろに何かの漢字を付けることは書き手の気持ちを最後に反映させる作業のような気もします。
そこで、枝々の意でもある「」が付く「候条」という言葉もありますが、この「条」という漢字は何を意味するものかと考えるとそこは難しい候所。
そこで、いろいろ調べた中で「〜の件」というの意味がしっくりときます。

一 〜の候条
一 〜の候条
一 〜の候条

先日も書きましたが「条」は概念上の枝を表す漢字。
そのような箇条書きの文章を締める言葉としての理解。
現代文では「条」で終わる文章は先ずありません。
今回を機に「条使い」になりたいとは思いますが、ある程度広まらないと変わった人として片づけられます。
関係ありませんが「条」の旧字体の「條」も何か「候」に似ています。

ところで。

筆ペンで文字を書くことで思ったのですが習字とは文字が大きくて老眼やシニアにやさしい候。
フォントサイズで言うと何ポイントぐらいあるのだろうかと思いますが、文字が大きいが故に文章の内容も短く簡潔に直接的に伝える必要があります。
「Keep Simple」とは私たちが叩き込まれる概念ではありますが、昔の人は常に短くわかりやすい文章を書いていたのかもしれません。
俳句などもそのような流れで短くイメージを伝える技法として発達したと考えれば同意。
和紙代金も高く「〜です」と2文字を書くスペースももったいないと考えるならば「候」一文字で収めて、口語体を捨てる。
このようなたらたら駄文なネット文章とは異なり潔くて合理的な文章となります。
文章はある程度、人の思考を左右すると考えれば昔の人達は物事をシンプルに捉えていたということは間違いないことだと思います。
もしかしたら、現代の私たちよりも合理的で複雑に考えない思考で動く人々であったのかもしれません。

「候」の文字をたくさん書きましたが右に行く程に「候」が雑になります。
「文字は体を表す」とは本当のことです。
何度書いてもぐっと堪えて文字に魂をのせることのできる人になりたいものです。
ということで、今回からフォントサイズを大きく改良してみました。

 
■2022年3月27日(日)
■毛筆は面白い。
■2022年3月28日(月)
■一日一文章トレーニング。

「何も思いつかない朝にこってりのステーキ話が舞い降りた 良かった良かった」

 ステーキをソースで食べること。それは何か「邪道」なこと。NYのウォルフガング(高級なステーキ屋さん)でデッカなお肉を食べる時に何故ワサビ醤油がないのだと不満を口にしていた若かりし頃。ステーキと言えば、ワサビ醤油や塩のみで食すことがマスト。それ意外には考えられなかったのですが、最近、そのような心境に変化が見られます。ソースにトマトソースを混ぜたステーキソースでもそんなに悪い相性ではないのではと思うようになりました。これは進化なのか。退化なのか。私にはわかりませんがソース味もなかなかの美味。ソースとワサビ醤油を同時に食すると、あっさり醤油味が味覚負けするような感じもします。素材感を活かすという意味では断然醤油や塩だと思います。ですが、多分、世界的な味覚な趣向ではソースが主流になってしまうのかもしれません。

 なぜ、そのようなソース味を食するようになったのかと言うと冷蔵庫に焼きそばソースが大量に溜まっているから。土日の家庭の昼ごはんと言えば大体「焼きそば」。我が家でもほぼ焼きそば。焼きそばは付属の液体ソースも使いますが、飽きがこないように中華風や洋風イターリア風と様々な味付けでも食します。そうすると、付属のソースが徐々に蓄積します。そのような液体ソースは消費しないと勿体無いのでケチャップ混ぜてマヨネーズを加えたりと(+)の隠し調味料として使っていると案外どのような料理にも美味しく食べることができることに気付きます。味のバリエーションも増えて何か両得。多分「邪道」なのかもしれませんがお寿司などの和食にも、こってりソースは案外相性良いのかもしれません。

 
■2022年3月28日(月)
■納豆フォーエバー。ステーキなステキなステーキの日。
■2022年3月29日(火)
■一日一文章トレーニング。

「固定観念 はたまた 邪道」

いやはや。
桜満開の素晴らしいシーズンなのですが、昨日は小さなガラスの塵が空気中に浮遊するような辛い一日。
※写真の桜は上の方がまだ咲いていませんが一般的に満開だと思います。
目がチクチク、鼻はムズムズ、肌もヒリヒリと花粉症の反応がすごかった。(今季一番)
もしかしたら、マスク生活でこのまま花粉症ともおさらばなんて考えておりましたがアレルギーとはそう単純なものではないようです。

昨日の「醤油(あっさり)派」か「ソース(こってり)派」のつづき。
海外だと「Aソース派」か「Bソース派」の(こってり)対(クセ強)の争いなのかもしれません。
フィンランドで食べたステーキには何か甘酸っぱい小さな実付きのジャムソースがお肉にかかっておりました。
ハーレーダビッドソンが飾っているようなアメリカンなお肉屋さんのステーキ―です。
「パン食かよ」とは思うのですが、そこは我ら日本人そのような気持を「そーっと」心の片隅に置き、甘酢ッパ・ソースも「そーっと」横に避けて、お肉はお肉で甘酢ッパは甘酢ッパなデザートとして食します。
今ならそのようなソースも楽しんで食べられるような気もします。
むしろ、あの時、なぜ甘酢ッパ・ソースを楽しまなかったのかと後悔の念が立ちます。
このような考えは何か面白いことはないかと文章を書き続けることの好作用。
固定観念を取り外した先には必ず何か別の風景が広がります。
それが趣味趣向に合うとは限りませんが、お山の向こうには別の何かがあることは間違いありません。

ところで。
ドル円、円安に動いています。
異次元な故の「非日常」。
米国のインフレを考えたら選択肢はないのかもしれません。
もしかしたら、為替の安定という言葉はこの国では円高時のみに存在する言葉であり。
世界の通貨当局が「普通な日常」を目指すとなれば金利差で円安に進むことは当然のことのように思います。
円安は輸出企業にとってメリットです。
ウクライナ情勢等のカントリーリスクの増大で遠くの戦争は我々の利益ということで日本の製造業の国内回帰を進める算用なのかもしれません。
実際に日本の場合、東西冷戦で世界が分断されていた頃の経済が好調でグローバリズムが東側の世界に広がった時にそれらうま味が枯れてしまった側面もあります。
そのような訳で「円安はメリットしかないでしょう(笑)」という怖〜な人達も普通にたくさんいます。

輸入業にとり円安とは間違いなく痛手です。
安売りとは為替の差額を使い安い労働力で物を作りそれを販売しているというイメージがあると思います。
グローバリズムの恩恵とは間違いのないそのようなことを意味するのですが、大切なことが一つ欠落しています。
それは、多くの有名な安売り店というのは邪道と言われ、業界からパージされても旧態依然の商習慣に疑問を持ち、安く販売する為の独自の流通網を構築しているところにあります。
そのような流通網や製造をシンプルにしたり、リスクをとって大量生産したり、為替の差を利用することで、はじめて「もの」を安く購入することができます。
「もの」が安く買えることはイノベーションの結果であり、単にデフレの波にのった動きであると考えるのは間違いです。

 
■2022年3月29日(火)
■「固定観念」と「邪道」のキーワードで思いつくイメージはありません。
あと数日で時代の変動期でもあった3月も終わります。
何事も平穏であって欲しいと願うのでコーラスをお届け。
■2022年3月30日(水)
■一日一文章トレーニング。

「足裏に毛がササル」

昨日の寝起きにぺたぺた歩くと足の裏が少し痛い。
痛いけれども、とびっきり痛い訳でもない。
そんなに痛くもないけれど歩く度にかすかに痛い。
患部と思われる部分を押すとジーンとした微妙な痛みを感じる。
痛みを表現することは難しいことです。
病院に行ってもどこがどのように痛いのかうまく説明できないことは多い。
ですが今回の痛みは押せばトゲが刺さっているのだろうなとわかる単純な痛み。
とは言え、朝起きすぐに足裏に対面するような痛みではないのでそのままに。
「一日一文章トレーニング」の文章を書き。
朝食を食べて。
いろんなことを終えてから足を膝にのっけて対話する。
皮膚を透過する薄い線が見えるので、それをピンセットで引っこ抜く。
それは小さく短いまつ毛でした。
何というか驚くべく剛毛。
横にスライドするカタチで足裏に毛が突き刺さるなんて聞いたこともありません。
引っこ抜くと痛みは闇をライトで照らした時のようにスーッと消えます。
このスーッと消える痛みは形容しがたい感覚。
そして、その瞬間から痛みは忘却されます。
世の中にはよくわからない痛みが溢れる中で、このような原因がわかる痛みはとても良き候。
とても小さな声でしたが痛いゾというSOSを受信することができて大変満足。
コロナ対策用のアルコールふりかけて一丁上がり。

 
■2022年3月30日(水)
■【創作の過程・枝分かれ】
足裏に何かが刺さる→ササル(文字の響き)→芋虫の足踏み(一次的なイメージ)→リアルに描くと怖い→図鑑も見たくない→イメージの省略化(二次的なイメージ)→ロボットのような芋虫→多足な足踏み(完成)→キューティクルな感じ→未来的なロボット。
■2022年3月31日(木)
■一日一文章トレーニング。

「ひっかけ収納」

ひっかけ収納とは店舗などでも陳列スペースを広げる魔法の空間利用。
ですが、使用頻度が増えると何かごちゃごちゃとした圧迫感が出てくるものでもあります。
1日1コーナー、1スペース、小さな一角をお片付け」でキッチンにぶら下がる料理道具を片づける。
S字のフックで引っかかる道具は泡だて器にヘラ、複数の軽量カップ、茶こしのようなものや置き場に困ったものたち。
恐らくこれらは一年以上使用していません。
長年使用していないので表面は料理の油分でベトつきます。
顔をしかめながら洗剤でゴシゴシと洗うのですが蓄積する油のベトつきは簡単に取れません。
そこでアルコールでキレイに拭きとります。
でもね、キレイにしたところで、これらは本当にいるのか?との疑問が立ちます。
多分、二度と使用することのない「もの」もあります。
そのような訳で「捨てる」「捨てない」の分別を行います。
計量カップのような同じような機能のものは素材が良いものを残して後は捨てる。
泡立て器は一つしかないので残す。
茶こしや謎な道具類は二度と使うことのないのではと捨てる。
そのようにしてキッチン吊り下げコーナーの半分に空間が開きます。
現在ひっかかるものはフライパンやおたま等の使用頻度の高いものだけ。
空間は開けども何か片付いた感じはしないのが不思議なところ。
ひっかけ収納が一段落すると他の部分が気になります。
ひっかけ部分がカーテンのような役目をしていたのかもしれません。
片付けとは永遠に終わらない道(人生そのもの)です。
※寿命までの。

 
■2022年3月31日(木)
■計量スプーンの運動。