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■2025年3月3日(月)
■一日一文章トレーニング。

「ひなまつりー、久しぶりー、文章を書くー」

昨日・一昨日と早くも夏の日差しに触れる暖かい日でしたが、今日は一転、小雨が振り続く寒い一日。
本日3月3日は桃の節句のひな祭り。

私にとってひな祭りと言えば、大好きなアニメの「ヒナまつり」ですが、幼き頃からお遊戯や音楽の授業でも歌を歌うことが嫌いな私でも、ひな祭りの歌は例外的に元気良く歌っていたものだ。
それは歌いやすい歌詞や親しみやすいメロディーにあるのかもしれない。

あかりをつけましょ ぼんぼりに
お花をあげましょ 桃の花
五人ばやしの 笛太鼓
今日はたのしい ひなまつり

この歌を聞くと子供の頃の情景や空気感がふつふつと浮かぶ素晴らしい歌だ。
さぞ、古くから伝わる伝統的なお歌なのかと相調べ候。
すると、この歌は比較的に新しい歌でサトウハチローさん(1903-1973)が作った歌と相知れ候。
サトウハチローさんのことは何も知らないのですが、このような口伝的に語り継がれる歌を作ったのがハチローさんという名前にホッコリだ。
何故、佐藤さんはハチローさんと伸びてしまったのでしょうか?
サトウハチローさんは大の野球ファンのようで、野球のイチローさんの名前もサトウハチローさんを意識して作られた名前なのかと妄想してしまう。
ハチロウ、イチロウとなると語尾にズを付けたくなる重厚なロック感はありますが、ハチロー、イチローだと軽やかな親しみさはある。
私も子供の頃は「はーい、わかりましたー、すいませんでしたー」と何でも語尾を伸ばしものだ。
そうすると、「ハイ、わかりました、すいません」と訂正されて怒られる。
これは子どもたちの基本。
そのようなことを考えると語尾伸ばしのネーミングとは結構革新的でもあり、伸ば~すと相手を不快にさせ怒らすかもしれなくて、逆に春の景色のような軽やかさもある表裏一体のギリギリの線を攻めた覚悟のようなものも感じる。
なので、伸ばーしながら話したり、書くことは冒険心の現れかもしれないー。(開発者タイプ)

ひな祭りは上巳(じょうし)と呼ばれる五節句の一つで、陰暦の3月初めの巳の日に祓いの道具として人形を備える行事のこと。
因みに今年は蛇年ですが、巳の日とは毎12日ごとにやって来る日で芸術・勝負事・学問・財運などに関する日でもあるようだ。
しかし、今は新暦の3月3日にひな祭りは固定され、1月7日以外は数字合わせでもある。

1月7日:人日・じんじつ(七草の節句) 7
3月3日:上巳・じょうし(桃の節句)
5月5日:端午・たんご(菖蒲の節句) 5
7月7日:七夕・たなばた(星まつり) 7
9月9日:重陽・ちょうよう(菊の節句)

節句とは辞書によると「節供」と「季(節)」の折り目と「(供)食」の食べ物ということで神と人、人と人を結び付ける予定された日のようだ。
とっても難しい説明で私の理解を超えていますが、立春・立夏・立秋・立冬が季節の変わり目の行事だとすると、節句は季節の食べ物を食べて祝う儀式の解釈でもある。

なので、今日の桃の節句には何か春っぽい甘い季節の食べ物を食してみたい。

ところで、

甘い食べ物ではありませんが、わらわは一昨日からせりと言う名の雑草を育てている。
今日で3日目。
せりとは春の七草の雑草でもあり東京のマンションの一室でせりを育てている人はあんまりいない。
お店で買ったせりを、根っこを残したままカットして水に漬けているだけの、農家の人の再生栽培を見よう見真似で行う。
ネット情報によると1週間ほど水耕栽培してたら鉢に植え替えるようだ。
2本のせりは葉を残してカットして、葉はぐんぐんと伸びて流石の雑草魂を見せてくれます。
3本の葉のない茎は間違ってカットしてしまったせりで、葉が出るまで鉢植えせずに水耕栽培する予定。
今日で3日目ですが立派にせりがセセリ立って来たものだ。
せりはシャキシャキとした食感で日本古来から自生するハーブ系の雑草で茎葉から根っこまで全て食べることが出来る植物。
根っこまで食べるなんて、どのような貧乏性なのかと思われますが、せりは根っこが特に美味しい。
土を完全に洗い落とせないせりの根っこをむしゃむしゃと食べていたらモグラになったような気分でもあり、ある程度の熱が通ってもの歯ごたえが残る野菜とはご馳走なのだ。
そして、なかなか入手困難でもあるので自分で育てる。
上手く育つかな?
観測記録を付けます。

 

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■2025年3月3日(月)
■ペーパースネーク。

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■2025年3月4日(火)
■一日一文章トレーニング。

「お金の価値はうつりけりなり」

ということで、

20年スパンではありますがインフレ率を探れそうな事案を見つける。
それは伊勢神宮の式年遷宮の費用。

伊勢神宮では内宮と外宮の二箇所の聖域があり1300年に渡り20年ごとに宮処を新造し改め、神様を新しいお宮様にお移り頂く神事である。
詳細は知りませんが技術の伝承を供に20年更新で、国産の同じ木材を使用し、同じ人数の宮大工を集め、同じ儀式用の品や食材を揃えて新宮を建てていると思われます。
よって、物価の変化を探るには伊勢神宮式年遷宮の費用の推移は結構、国内物価の上昇率を端的に表している可能性もある。

次の遷宮は2033年で8年後。
ニュースによると本年の2025年から伊勢神宮の遷宮の準備が始まっているようでもあり、物価高によるコスト上昇の懸念もあるようだ。
下記に費用の推移を集めて記載した。
※1953年の遷宮は戦後のGHQの政教分離により国家と宗教が切り離された為に民間の寄付金は7億円となるそうな。
しかし、1949年に5億5000万円で老朽化した橋を直したとの記事や、戦前から準備した素材も使用したとあるので、勝手に合計して12億5000万円で計算した。

【注意】ネット上で拾った数字で1993年で33億円の話もあり本当の金額はよくわかりません!!
が、インフレ率は変化ないと思う。
流石に330億円は大きすぎるような気もする比較サンプル。

2033年 の式年遷宮の費用が高騰しそうな予感です!
2013年 558億円 前回からの上昇率69%
1993年 330億円 前回からの上昇率450%
1973年 60億円 前回からの上昇率79%
1953年 12.5億円※

デフレと言われる時代でも20年間の上昇率は69%あり、高度成長期は450%の物価上昇となる。
経済が成長もしていないのに20年で450%の物価上昇となれば大変な世の中ではありますが、想定とはいろいろあるもので、仮に上昇率が1993年の450%で計算すると2033年の式年遷都の費用は3069億円となる。
東京都庁の建造費が三棟建設で1500億円なので3000億円となるとほぼインフラ設備のようなすごい金額だ。
流石に3000億円は無いとは思いますが、低い上昇率の69%で計算しても943億円で1000億円は確実に超えるというのが識者の考えでもある。
1000億円は都内に大きなビルが建つ規模の金額でもあり、20年で毎年50億を集めようと思うと1日1300万円以上も必要。
1日1300万円とはなかなか凄い金額で、明治神宮の都市計画などもそのような事柄と連動して動いているのかもしれません。
お祭りとは日本人が日本人である為の神事でもある。
なので、お金が余っている人はどんどんと寄付して欲しいものだ。

ところで、

式年遷宮を行うとなれば、昔から犬狩りを行っていた。
犬狩りと言っても流石に犬を殺すのではなく、犬を捕まえて川向うや遠くの場所に犬を放し神聖な伊勢神宮の敷地から犬を遠ざけていたようである。
しかし、犬は帰巣本能があるからなのか戻って来るようで、遠い場所ではぐれたイヌが家までトボトボと歩いて戻ってくる美談は結構ある、それも一つの犬のお伊勢参りの型かもしれない。
個人的には犬とは人間の鏡でもあると思うので人間が歩いてお伊勢参りをすれば犬も真似してお伊勢様に参るものだと思う。
神社にとって、犬や指定された動物とは穢れた存在として扱われて聖域の伊勢神宮の敷地内には入れなかったようで、今でも敷居の高い格式のある神社の境内では犬の侵入は禁止でもある。
伊勢の街には散歩している犬は少ないのでしょうか???
不浄の穢れた存在とは犬だけでなく、肉食をした者、身近に不幸があった者、生死を扱う医者、葬儀を取り扱う者等も伊勢神宮の聖域に入ることは出来なかった。

犬のお伊勢参りとは以前書いたように結構普通にあった出来事のようで、犬が参詣することで神殿を建て替えて浄化する必要が高額な負担となるので、そこで、犬の参拝とは神事として扱うことが神社の解かもしれない。

面白いところでは、鎖国体制を築いた徳川家光公は容姿端麗な神社の娘で尼の「於万の方」を側室と迎え、その於万の方と一緒に江戸城までやって来た従者の「お玉」がその後に家光の側室となり、4代将軍家綱(犬公方)を出産し「桂昌院」となる。
これを後に「玉の輿」というが、そのような母とは神社信仰と繋がった尼の「於万の方」に使える従者でもあった。
家綱の伊勢海老を食べることの禁止、お伊勢参りに向かうかもしれないお犬様たちの適切な管理の生類憐みの令とは愛護活動と言うよりも宗教心から来る原理原則的な思考そのものの可能性は高い。
それは私達が生類憐みの令に感じる動物愛護的な精神とは少し視線が異なる信仰心。
物事を見る目線とは恐れ多くも御殿様であれ、私であっても自身の常識の範囲の偏ったフィルターでしか見ていないものだ。
全く関係ないけれども、犬の侵入を考え、電卓をたたき、式年遷都の費用を計算していたら大きな金額に怖くなる。
どうしましょう神社に参りて神頼みだ。

 

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■2025年3月4日(火)
■納豆フォ~エバ~新時代。

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■2025年3月5日(水)
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「水差し桜の枝から根っこが生えた」

昨日は式年遷宮と式年”遷都”と誤字で勝手に首都移動させてしまいましたが、今考えると石原元東京都知事は立派な人であった。
唐突に何の話しかと思うのですが、とても大切な話でもある。
おそらく、半径数メートルの身近に石原元都知事がいたならば間違いなく嫌悪すると思うのですが、政治家としては有能だと思う。
この失われた30年は国民的には国民負担ばかりの政策ばかりではありますが、いつもゴミを出す時に私なんかは石原元都知事に「ありがとう」と感謝するものだ。
記憶の中で感謝される政治家とはそんなにも多く存在しないと思う。
その理由はプラスチックなどの分別されたゴミが結局同じ釜で燃やされる無駄を知った元都知事が可燃ごみで一緒に集めて燃やせーと、鶴の一声で都民のゴミ出しが非常に楽になったことだ。
国際都市東京という観点から見ても月日は百代の過客にしての埋没感があるもので、その他都知事は残念だけれども石原都知事の足元にも及ばないと思う。
m(_ _)mTwww。

さて、4月から東京(文京区)ではプラスチックごみの分別回収を再び始まるようで、その理由はSDG’Sの(12)作る責任・使う責任、(13)気候変動に具体的な対策、(14)海の豊かさを守ろうで、ゴミの軽量化と温室効果ガスの排出削減でプラスチックリサイクルするようだ。
プラスチックゴミを燃料にするのか?リサイクルにするのか?とどちらの有用性が高いのか?私は知りませんが、トランプさん登場の時代変革期の中で多少の時代錯誤は感じる。
何より、あ~面倒臭い。

ということで、

式年遷宮の20年間の費用高騰を単純に20割り(per/year)した計算をする。

2033年
)?
2013年
)費用の上昇率3.45% per/年
1993年
)費用の上昇率22.5% per/年
1973年
)費用の上昇率3.95% per/年 ※↑
1953年

デフレ時期以外はあまりよくわかりませんが、1993年ー2013年でも、ざっくりと理想らしい3%のインフレ率を叩き出しており草???
このような数字に何かの“ものさし”となるのかはわかりませんが、全く同じ素材で同じものを作り神様の住処を移すということで、そのコスト変動は案外正しい数字を叩き出す可能性もある。

やっぱりかと思えば、商売をしていれば薄々モノの仕入れ値が徐々に上昇していることは誰でも知るところだ。
モノの値段とは売れない、大量在庫を捌きたい、他業者にあわせて値段を下げる、お買い得サービスなどと何か特別な理由がない限り値段は下がらないものだ。
専門家にデフレであると言われれば素直な私はそのように信じるもので、何か上手く言葉に出来ないのですが全てが無茶苦茶な世の中のような気もして、オレの頭がおかしいのか(それはしゃーないなー)、政府の政策の錯誤感も大丈夫なのかと、さっぱりわからなくなるものだ。

そこで、我は近況報告を行う。

私もSSDGS(再生・栽培・de・グレート・挿し木)の実施中!!
昨晩は雪も降りましたが、ホテルの玄関に納品されるような背丈1メートル超えの大迫力な桜の枝を神楽坂のお花屋さんで購入し大切に育てている。
背丈が長いのでジュースの空き瓶に挿す。
部屋に1本だけで挿しているのですが花はキレイに咲き、緑の葉っぱが出てとても美しい。
そして、
根を生やし土に植えて育てようと企んでいたのですが、昨日から急に枝の上や下から白い根がわらわらと出てきた。
植物や生き物を育てるということは自分自身の鏡写しでもあり、桜の枝から根が生えると自分の中の大切な根も育つようでうれしい。
根を出す薬品などをわざわざ買うのが勿体ないので、ネット検索して蜂蜜で根を生やす方法を試す。
丁度、我が家には次から次へと賞味期限の食べ物がごろごろと出てくるもので賞味期限切れの高級マヌカハニーもある。
それを有効活用して桜の枝から根を生やす魂胆だ。
製法は鍋でお湯を沸騰させ蜂蜜を溶かし、常温に冷ましてから購入したばかりの桜の枝にタップリと吸わせる。
最初の一度しか高級蜂蜜を吸わせておりませんが桜の枝は元気モリモリでドーピングされているようだ。
去年の桜の枝からは根っこは生えなかったので、間違いなく蜂蜜は根を生やす効果があったと思う。
我もとてもうれしくなり、昨晩、キレイな水に交換する作業をするもので、桜の枝を瓶の中に戻す時に貴重な根っこを2本折ってしまう。
ショック!!
先程も書いたように、大切に育てるものとは自分自身の鏡写しでもある。
桜の貴重な根っこが2本折れるとなれば、私のハートの根っこも2本折れてズキズキと痛む。
そして、私は胸にひしひしと根っこを折ってしまった後悔を感じながら布団に入り、すぐに寝た。
桜は土に植え替えて大きく育てるで~候!!

 

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■2025年3月5日(水)
■根が出ろ~ONローラスケート。

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■2025年3月6日(木)
■一日一文章トレーニング。

「コーヒー ON ドリップ」

目覚ましに黒くて苦いコーヒーを飲みながら、我はなぜ、このような苦いドリンクを飲むのかと考える。
だからと言って砂糖たっぷりのコーヒーでは少し甘すぎる。
ブラックコーヒーを飲むのは飲みたいから飲むというよりも習慣で、家にコーヒーが無ければ普通にコーヒーの無い生活を過ごしているので、そのような感じの黒くて苦いドリンクだ。

思春期に初めてコーヒー屋に入った時に、コーヒーの種類が多くて何を注文すれば良いのかわからなかったものだ。
我もあれこれ迷いて店員の人を待たせても悪いのでエスプレッソコーヒーを注文する。
そうすると、小さなコーヒーカップにチョロン少ない量のコーヒーの入ったドリンクが出て来て、「本当にそれでいいの?」と会話になる。
「我が飲みたかったのはエスプレッソコーヒーなのだ」アハハと。
そして、コビト用の飲み物をちびちびと飲みながらゲラゲラと笑い話にも花が咲く。
それ以来の学習効果もあり、私はエスプレッソコーヒーを注文しない。
そして、普通にコーヒーを注文するだけでも緊張が走るもので、トールだグランデと呼び方でもドキドキと顔もにやけてカフェは苦手なのだ。
私はカフェ向きな人間ではない。
よって、私は自分自身でコーヒーを入れる。
タプタプと湯を注ぎながら考えると、人生の苦楽とは表裏一体とも言われますが、確かに黒い苦みの裏には笑顔な「楽」も広がっている。
昨日書いたように人は「楽」を与えられると感謝するものではありますが、苦役苦界と日常の「苦」の積み木は毎日積み上がるものである。

「苦も楽も一生は一生」ということわざもある。
これは苦労して暮らすのも一生ですが、楽をして暮らすのも同じ一生なので、どうせ暮らすならば楽をして暮らすのが良いという意のことわざ。
正にその通りで楽な人生とは良いものだ。
ですが、それを実行するとなるとなかなかに大変なこともあり、自分の隣に苦労は他人にも共有経験させたいと考える人がいれば楽とはいかない。
集団行動の中で楽をしてサボっていたならば叩かれてしまう苦なのである。
「苦も楽も一生は一生」とは簡単に言えても実行するのは難しい言葉で、このような言葉こそ広く世の中に広がれば良いものだ。

ところで、

「たのしむ」にもいろんな「たのしむ」があることを発見する。
「楽しい」は「苦」の反対で心に苦しみや心配のない「楽」。
「愉しい」は愉快さの「たのしさ」ですが、「楽」と「愉」の違いは何でしょう???
それ以外にも「たのしい」言葉には「予・よ」、「怡・い」、「娯・ご」、「嬉・き」とマニアックな言葉もある。
私の場合「楽しい・愉しい」の2択でそれ以外は全く使わない。

「予」は予備・予測と備えることですが、心がのびやかにやわらぎ楽しみを与えるという意味の予で、不予(ふよ)と否定になると楽しくないとなる。
怡(い)は怡然(いぜん)と怡(よろこぶ)たのしみ。
娯(ご)は娯楽と気分ゆったりとたのしみ。
嬉(き)は嬉々と遊ぶたのしみのようだ。
「たのしい」の概念には複数の楽しさはあるようだ。

私は苦々しく思いながらコーヒーを注ぐ。
そして、ここに1つのドリップコーヒーから2人分のコーヒーを抽出する秘密のせこい方法を発表する。

1)先ずは普通にカップに不織布のドリップコーヒーを設置し、お湯を注ぎ、1杯分のコーヒーを作る。
2)そして、その使用済みのコーヒーのドリップは隣のカップの上に設置して再利用して、先程抽出したばかりの温かなコーヒーを隣のカップのドリップに注ぐ。
<<<コーヒー ON ドリップ>>>
使用済みのドリップコーヒーに湯を注ぐと薄いコーヒーとなりますが、先ほど入れたコーヒーでドリップすると濃いコーヒーになる。
一つのドリップコーヒーでそれなりに苦々しいコーヒーが2杯抽出できるトリックで、2杯入れてもコーヒー好きで無ければ気にならないコーヒーの苦さだ。
これは正になんちゃってのエスプレッソコーヒーのようでもある!

1つのドリップコーヒーで2つ分のコーヒーを抽出することは、苦苦しくもその裏に笑顔こぼれる「楽」なドリップでもあり、やはり、苦さの裏には楽しさがあるものだ。
ぞなもし。

 

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■2025年3月6日(木)
■トリパンチ=)))

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■2025年3月7日(金)
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「私には好物の草がある~www」

昨晩の晩飯は湯豆腐。
豆腐をさいの目にカットし、「待て!」とごろりっと大きな豆腐がプカリと浮かんで来るまでじっと待つ。
そう言えば、鰹節を入れるのを忘れていた。
用意していたものをうっかりと忘れることは日常だ。
そして、一晩経ってから思い出す。
完璧な事柄とはロボットやAIみたいなものにしか出来なくて、過ちを認め次の糧にするのが大人の特権だ。by フル・フロンタル

濃口の醤油に鰹節とは美味しい組み合わせではありますが、ポン酢で食べてもまー美味しい。
豆腐は白くて柔らかく、すぐにでも崩壊してしまいそうな繊細な食べ物で、鍋に入れる前はまだ固さもあり箸をぶっ刺し入れることも可能ですが、茹で上がった湯豆腐はツルンと滑るので壊さずに箸でお茶碗に取り込むことは難しい。
なので、すくいで取るのですが、湯豆腐専用の針金で編んだすくいが欲しい。
その名前は何と言うかと調べたら、そのまま「湯豆腐すくい」という名前みたい。
味も大豆のみの淡白な感じで醤油やポン酢を食べていると言えばそのような感じの食べ物だ。
豆腐は世界の食べ物の中でもダントツに自己主張が無く、か弱い食品である。

昨日から我の花粉センサーもビンビンに働くもので3月にもなり春の到来も身近に感じる。
鍋料理とは冬の時期にしか暑くて食べられないので、あとこの冬に何回食べられるかなの湯豆腐だ。

1投目の湯豆腐を食べ終わると先日の残りのせりを投入する。
せりは根洗浄し野菜用のビニールに入れていたので、まだピーンと元気だ。
要はせり鍋ではありますが鴨肉も鶏肉も入っていないので、湯豆腐メインの途中からのせり鍋。
先ずはせりの根っこをぐつぐつと煮で2分程を茹でてから食す。
味はシャキシャキとせり特有の歯ごたえがあって美味しい。
湯豆腐の箸休めには最高ですが、元祖の和製ハーブでもあるので自宅で食べるとそれなりにクセは感じる。
仙台の本場で食べるせりの根っこは全くクセを感じないので、仕込み方法に何か特別なことがあるのかもしれない。
それに根っこの泥を完全に落とすのも大変だ。
土を取るにしても限界があるもので多少の土を食べるのも仕方がない。
多分、ミネラルもあるかも?で土を食っても死なない。
それにしても、せりは春の七草の雑草の一つでもあり、その雑草を根っこまで余すことなく全てを食べるとは素晴らしいことだ。
これは私の勝手な分析ではありますが、仙台の牛タンにしても米軍が捨てていた牛の舌を勿体ないので食べたのが始まりで、東北の人たちには捨てられるようなものでも大切にする風土があるのかもしれません。
多分、他の地域だと根はポイと捨てると思うので、食べる発想は無いように思う。
せりは根っこから葉まで熱が通っても野菜にしては珍しくシャキシャキとした食感が大好きな草だ。
ニラでも同じように食べれそうな予感もするのですが、根付きのニラは売られているのを見たことがなので試すことは出来ない。
「私には好きな草がある」とは変な言葉なのですが、犬も庭の変な雑草をむしゃむしゃと食べているもので生き物には多少の草は必要なのだ。草

ということで、

我が家のテーブルには家庭栽培中のせりがありますが、流石にせりの前でせりをしゃぶしゃぶとするには気が引けるので隣の部屋に疎開させる。
そして、培養中のせりにもプロポリスな消費期限切れのマヌカハニーのドーピングを施すもので、今朝もピンピンと元気に育つ。
せりの成長は観察日記もある。
https://www.scos.gr.jp/R070304Kansatsu.html(落書き付き!)
写真では細部まで特徴を記録出来ないので面倒ですが絵で描く。
今週末には鉢植えする予定で、これが上手く成長すれば、「毎日せりのある生活」の我が家の循環するマイウーブンシティーが完成だ!!!

 

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■2025年3月7日(金)
■がんばれ~がんばれ~応援団。

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■2025年3月10日(月)
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「苦しゅうない、いやいや、苦しいのだ」

先日から杉花粉が飛び始めてとても苦しい。
そして、久しぶりのマスク生活も苦しい。
以前からの花粉症でもあるので、毎年のマスク生活には慣れているとは思うのですが、いざマスクを着け始めると呼吸は苦しい。
アベノマスクな時代には外は勿論、家の中でも四六時中マスクをつけていたもので、あの時代は何だか凄かった。
今でも田舎に行くと地元民は十中八九皆マスクをしているもので、よそ者や外国人はマスクをしないのでキレイに色分けされる。
街でも若い人たちは年中マスクをつけて過ごしていても平気なようで、幼き頃からマスクをつける習慣のある・なしでマスク生活の苦痛の差はあるのかもしれない。
それはファションのような自己防衛スタイルなのか、他人を気遣うエチケットなのか、顔をマスクで隠せば本心も隠せるような結構楽なこともあり、酸素を取り込む量が減れば酸化を促す総量も減りそうな予感でもある。
花粉症の到来は毎年肌にヒリヒリと感じてから来るものですが、今年はいきなり鼻水ドカンーという感じでもある。
ただ、我が家には秘伝の鼻の通りを通す自家製の怪しいエキスがあるので、それをひとなめ通れば鼻は通る。
これは舐めたら瞬時に鼻が通るのでとっても不思議ですが、花粉症が治ることはない。
単に鼻詰まりを通すだけの食べ物で、とても、怪しすぎるので人にお裾分けするのも、見せるのも、売り出すことも出来ない。

週末、私はマスクしながら信号待ちをするもので、目がクシュクシュ、鼻もムズムズ、そして、くしゃみも出る。
少し離れた場所に自転車に乗った信号待ちのオジーが一人いて、私は一切の我慢もせずにクシャミをする。
ハクシュン~★ふぇ~☆
我慢しようと思えば、変なくしゃみで止めることは出来ますが、1回大きなくしゃみが出ると鼻のムズムズもスッキリ。
すると、自転車のオジーがスゴイ怖い剣幕で私のことを睨んでくるので、私は病原菌ではないので御免候と思う。
そうなのである、令和7年の今年でもまだパンデミックな時代は完全に終わっていないかもしれなくて、私でも電車の中でゴホゴホと咳をしている奴がいたら嫌なのだ。
モクモクと煙立つすし詰めの駅の喫煙所の中で過ごす苦痛と、全員が花粉症の人が詰まった部屋でムズムズ・クシュンと過ごす苦痛とどちらの苦の二択が良いかと考えてもどちらも体調が悪くなりそうで、信号をてくてくと歩く。

とりあえず、花粉症はとっても苦しい。
先日は「苦も楽も一生は一生」のことわざを書いたものの、花粉症の苦しみは全く不必要な苦しみである。
花粉症の苦しみとは人生の長いスパンの中でも春到来の気持ち良い季節に必ず起こるもので予測可能な苦しみである。
これは突然やって来る不幸や苦しみとは異なり毎年確実にやって来る予告された苦しみだ。
長い人生の中では些細な出来事かもしれませんが、瞬間風速で計ると結構な苦でもあり、瞬間風速が人生に及ぼす影響とは如何様なものかと思う。
その瞬間の今を生きれば人生全体の苦楽は俯瞰できないし、森を見ればこの花粉症の苦しみとは些細な苦でもあり、世の中のどの部分を見るかで変わってくる縮図みたいだ。

ことわざとはずる賢いというかよく出来たもので、1の意見には逆の2の意見も用意されている。
苦楽であれば、「苦も楽も一生は一生」の裏には「苦は楽の種」ということわざもあり、苦を味わうことは後の楽を得るとの考えも存在する。
【注意】これらは私の意見ではなく単なることわざの考え方です。
楽しい旅にも苦楽のようなものはありますが、大変な苦な出来事は後から楽しかった思い出となる可能性はありますが、花粉症の苦しみの先に楽は全く見いだせない。
花粉症のメリットと思っても、春に浮かれて外出を控えることで、私が車や変な人にぶつかる災難から逃れ、室内で楽できるぐらいが関の山。

そして、週末は低気圧病を発症したのか?花粉症の症状に加えて頭もズキズキと痛む。
これはもしかしたら病気かもしれないと家族に話すと、さっそく体温を計測しようとなるものだ。
体温計の温度はド平温!!
「あれっおかしいぞ」と何度も計測しても平温よりも約0.2度位高いぐらいが限界の自称高温の病でガックリ。
我、去年はたぶん使用していなかったように思う加湿器を出してきて空中に浮遊する花粉を落とすことにした。
そして、地元の族車みたく加湿器のタンクをLEDで光らせて格好良くディスプレイして、「R070309花粉症対策で出す」とのシールを貼り記録も残す。
万事万端。
そう言えば、今年の室温計測ではカラカラ乾燥を一度も計測しなかった。
これは結構珍しい現象で、関東平野の冬とは室内もカラカラとなるのが多いもので、去年もカラカラ乾燥は1回しか計測しない珍事でもあったので、部屋の中から広い世界を観測して、はて、気候変動の一端は掴めるのでしょうか。

 

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■2025年3月10日(月)
■やっぱりバッハは最高だ。

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■2025年3月11日(火)
■一日一文章トレーニング。

「我のHPには今風な萌える画像が足りない♪」

それは恐らくビタミン不足みたいなものかもしれない。
よって、
我、考えた~。
そうだ、萌えを大量生産しよう。
て~て~て~て~JR♪

ということで、

最近、初音ミクのような絵を載せようと考えて絵を描くのですが結局上記のような図となる。www
いろんな意味で時代のウェーブにかすりもしなくて草。
萌え要素とはエッセンスとしてあれば良いもので、目を大きく、キラキラと輝かし、やってみたけど結局こんな感じの萌えである。
目鼻口があれば人や生物と判別できるので、記号として考えればどのような画でも良しなのではありますが、萌え要素を入れるとなるとワンランク上の何かが必要だ。
それは何だろうかと、さっそく、「萌え」の意味を調べる。
「萌え」は草へんに明るいと書く、萌芽(ほうが)な新芽の生える様子である。

今、私はSSDGS(再生・栽培・de・グレート・挿し木)を実施中で巨大な桜の枝とセリをグレートに土に挿し木しようと頑張っている。
そして、そのような植物の生育支援をしていると萌芽の奇跡を目にするもので、確かに植物に萌えはあるように思う。
桜の枝は花を咲かすと新緑の美味しそうな葉っぱを生やして萌え、せりは茎の横が割れて新芽が萌芽して萌える。
これはなかなかの萌えだ。
これは正に生命の神秘な萌えをLIVE体感しているようでもあり、せりの萌えをもっと詳しく知りたい方はスコスHPにせりの観察記録を貼っていますので、それを見て下さい。w
そして、豆助は萌えとは本体からせせり出るかわいらしさのエネルギーかもと・・・植物の生育から解釈する。
間違っていたら御免m(_ _)mT候。

長い人生の中で、世間一般に皆が萌えると言われるものを見ても大抵無感情のクソワロタ真顔で、今、我が家で一番萌えているかもと思うものは悪徳警官の制服を着たオカルンの変身バージョン。
これは今ふつふつと萌えている?いや、間違いなく燃え上がるようにも思う。
ビックシャツもこんなにも大きかったら面白くて仕方がないもので、以前、私も手が隠れてしまうような袖の長いジャケットを購入したことがある。
当時、何を血迷ったのか微妙に流行らしきもあったので購入したのですが、着ると十分すぎる程に袖が長すぎてとっても鬱陶しい。
大人の所持が完全に禁止されているビリビリ財布を開け閉めしていると、マジックテープが長い袖にくっついて全然着ていないのに袖がすぐにごわごわとなった苦い思い出。
ジャケットの袖の長さとは適当な程良い長さが良い。
見た目の感じは自分で言うのはアレですが、すごいオシャレなジャケットでこの春も来たくなる一着だ。
おそ松さんの十四松もマッスルマッスルと袖が長かったのですが、正にこのような感じのジャケットで適正な袖の長さにお直ししないと着れない。
あ~着たいなオシャレジャケット。
当然、ポケットもまだ縫われたままの封印状態のグダグダで、そのようなフィギュアを見ていたら、とりあえず萌えている自分に気づく。
これはもしかして萌えですか???
我、血走った目をぐっと見を見開き、横目でぐぐぐっとオカルン悪徳警官バージョンの袖が長すぎるジャケットを見る。
そうすると、目のまわりにキラキラと星がまわる。
いやはや、目のまわりに星が回る表現とは何十年ぶりのことでしょう~。
確かに子供の頃は良くくるくると目の周りに星を回していたものですが、大人になってからは目の周りのキラキラ星を見ない。
さっそく、賢いAI先生にこの星の名前を聞くとこの現象を「閃輝暗点・せんきあんてん」と言うようだ\(>_<)/
北斗3000年の奥義みたいなネーミングではありますが20秒後にはすっかりと忘れているようなアスタキサンチンみたいでもある~。
そして、まだアスタキサンチンを覚えているのにビックリだ~!!
その仕組は脳内でセロトニンが増えると血管が収縮し、一時的に血流が減少して、脳の視覚細胞に異常をきたすようだ。
これはオカルンの内面から溢れる萌えを感じて異常をきたしたのかもしれない。
萌えとは我には少々刺激が強すぎるキラキラ星かもしれない。
ぞな~しもじも~。

 

*デスクトップ画面用の画像です。
■2025年3月11日(火)
■イベントにフィギュアを買いに来たら、初めて観るラブライブのライブが始まり驚く犬。
■2025年3月12日(水)
■一日一文章トレーニング。

「令和7年・2025年の我が家のビックリ宝物展」

資料箱とはたくさん積み上がるもので、そのような箱の中には萌え画の一つや二つはあるかもしれない。
金塊ザクザクの宝箱とは世の中の定番ですが、落書きや制作物、原画など入った資料系の宝箱ももなかなかに興味深い。
過去への箱を開封するということは竜宮城帰りのようでもあり、過去へのタイムスリップ感もある。
実際に過去の制作物を眺めていると面白いもので、逆にインスピレーションを得ることもある。
なので、それは温故知新と未来への萌芽を予感させる萌えかもしれなくて、自分が自分自身に影響されるとは何か変な感じでもある。
過去の自分の資料とは今の自分自身に影響を残し、別の言葉で言うとサステナブルな循環型の漬物石な感じでもある。

過去の発案→過去の資料として箱に封印→長い月日→箱を開封→過去の資料にインスピレーションを得る→過去の資料とて箱に封印→長い月日→箱を開封→過去の資料にインスピレーションを得る→

とアイデアとは∞の繋がりの数珠続きでもある。

そもそも、萌えの定義が根本的に間違っていると言われて、それもそうだと思う。
しかし、私でも昔は今の数倍もっと萌えていたかもしれない。
昔の私は悪徳警官の制服を着たオカルンに萌えるかな~と考えれば、いやいや、ど真ん中のド直球で萌える。
しかし、見るもの何でもかわいいかわいいと言う心が通わぬかわいい発言であっても、身の回りの全てや、おじいちゃん、おばあちゃんでも何でもかわいいかわいいとなっていたものだ。

そう言えば、先日、風が強い日にバスに乗りましたが、かわいいおばあちゃんも乗ってきた。
このおばあちゃんが萌えなのか?どうか?わかりませんが、私はその姿を後ろから眺めながら十二分にかわいく思った。
そのおばあちゃんは途中の停留所から乗車してきて、後ろの知らないおばあちゃんに「美容院でカットしてもらったばかりなのに風が強くてボサボサになった~」と世間話をしていた。
先ず自己紹介として自分の失敗談をするところがかわいい。
そして、確かにおばあちゃんの頭は猛烈に爆発しており~かわいい。
かわいいおばあちゃんは独特の服装の袖のないノースリーブのアウターを着ていることも多い。
停留所でバスの扉が開く度に運転手に向かい「さぶいさぶい」アピールをしていているのもかわいくて面白い。
運転手さんもその圧に答えて無闇に扉を開けなくなっていてかわいい。
袖のないノースリーブのアウターって何かかわいいよねと思うのですが、袖のない服って何か変だ。
都内では全く見ないのですが田舎に行くとノースリーブアウターを着たかわいいおばあちゃんはたくさんいる。
これは結構田舎あるあるだと思う。
袖が暖かくないとは機能的ではないのかもしれませんが、腕がないと活動的に動ける機能性があるのかもしれない。
来年の冬はノースリーブのダウンなどでも買うか?と今から狙っているのですが、このかわいさとは萌えであろうか?萌えでは無かろうか?これな難問だ。

そのような、かわいさを探しながら資料箱の中を漁る。
すると、昔、観たラブライブの日記の絵が出てくる。
「キョトン」とまわりに圧倒される初めてのラブライブな当時の記憶が鮮明に蘇るもので、絵日記として描いて残していて正解だった。
筆の使いが適当で良い。
ラブライブの声優さんたちの絵も適当な画で良い。
勿論、ラブライブは一度も観たことがないもので、いきなりLOVE・LIVE体験がこれの僥倖。
これは初めてのガンプラがミオリアやスレッタみたいなロボットではなく、人間を作ってしまう萌えに近いかもしれない。
イベントにはフィギュアを買いに向かったのですが、欲しかったフィギュアは瞬殺で売れており「誰が買えるのか」とぶーたれながら、知らないイベントに並んだのである。

今は完全なデジタル作業となり手描き原画0のデジタル作業で済ますことも多い。
ですが、このように紙に残らない資料も勿体ないので、第1投目ぐらいは手描きのアナログ資料を保管しておくのも良いかもしれない。

とりあえず、箱の中身を出してガサゴソ。

宝物箱の中には小さな手紙も入っており先ずはそれを手に取る。
「どれどれと」どのようなラブレターが入っているかもドキドキするもので、一人で開封している訳ではないので、ヤバいお手紙が出てきたら恥ずかしい。
手渡しサイズの手紙を開けると小さく折り畳まれた手紙が一枚入っており、それをそーっと取り出す。
ドキドキ。
小さな手渡しサイズの手紙とは手渡しされると何かドキドキとするもので、我に渡されるお手紙かと思ったら隣のAに渡して欲しいというあのサイズの手紙である。
そして、そのような紙をそーっと開くとテキトーな一人の男が描かれていた。
???
そして、もう一枚開くと首が伸びた!
何コレ?
首はろくろく首の首みたいに伸びた!
紙のカットの仕方も適当で、宝箱の中にはこのような変わった面白いものがイッパイ詰まっている。

資料箱の宝物とはどの宝も自称一級品で、いつの日にか奈良正倉院の蔵が開封されたスキに宝物庫に納品したい。
前にも書きましたが、一度でも正倉院の中に入ったものとは例えホコリやゴミでも大切に保管されて宝物として保管されるようで、このろくろく首の男の手紙は正倉院行きと宛名を書こう。
伊勢神宮の境内に侵入する機会を狙う穢れた犬のように。
この首長男の手紙も正倉院の蔵の中に入ろうと狙うホラー話なのである。
ぞなもし。

 

*デスクトップ画面用の画像です。
■2025年3月12日(水)
■豆時間♪

*デスクトップ画面用の画像です。
■2025年3月13日(木)
■一日一文章トレーニング。

「一斤二斤と競い立つせり(芹)を数え、その葉っぱから和製ハーブの香りを感じる」

春も立ち、せりも順調に育ちて、次の工程は土植えの挿し木である。
挿し木をしてから日記にしろということでもありますが、土いじりにはなかなかのハードルもあり助走も必要。
その下準備として、昨晩は再びマニカハニーのドーピングを施して大いなる成長を願う。
茎の長さも30センチオーバーに伸びるともう食べ頃のサイズでもあり、計算によると約半月程のサイクルの“せり栽培の収穫”である。
この大きく育った3本の葉っぱは光合成を頑張ってもらう生育の核なので、まだ収穫はしませんがサイズも大きくなりすぎて観測記録も大雑把となる。
葉も大きいものだと2センチぐらいに成長し、茎が伸びると先端から小さな葉っぱが次々と湧き出る感じでもある。
せりの新しく枝別れする生え方は面白いもので、根に近い茎が急にパックリと割れて葉の芽が萌芽する。
見た目はエイリアンや蝶々の幼虫が這い出てくるような感じですが、暫く目を離して次に見た時には立派な新芽が生えていることになる。
新しい茎は古い茎から這い出てくるとピーンと天に向いぐんぐんと育ち、雑草魂とは正にこのような感じかなと思う。
ついつい私達とはお上品やエリートの対義語として雑草論を語ってしまうものではありますが、このように一瞬目を離したスキに、お主はいつの間にこんなにも大きく成長してしまったのかと驚愕するのが雑草論の本質かもしれない。

せり鍋では秋から冬しか食べない季節の食べ物ですが、せりは年中生えるセリ科の多年草の草である。
なので、自家栽培すれば一年中食べられる草のようで流石の雑草魂とはこのような感じである。
鍋とは寒い時期しか食べられないお食事で、冷蔵庫のお掃除と、鍋料理は本格的な春がやって来るまでの寒い時期に行うことが肝要だ。
せりは湿った湿地帯や溝の中に根をはる植物のようで水を切らさず湿らした土壌で育てる必要がありそうだ。
ということで昨晩、鉢植えの為の土作りを行う。
清潔な新しい培養土を張り準備万端、いつでも土に植えることは可能だ。

最近、根付きせりを生育しているせいもあり、根付きの植物が販売されているのを見ると思わず購入する。
先日はニンニクの芽を見つけて早速購入。
にんにくの芽は白いキレイな根に立派な短い葉が生えており、このまま土に挿せば再生栽培でグレート挿し木(SSDGS)出来そうな予感。
大きなにんにくを収穫したいものだ。
カタチの良い数本は土に植え、後は食す計画で、さっそく、ステーキな牛肉のお供として根付きにんにくをジュワッと揚げ焼く?
葉っぱがにんにくの味であれば、根っこもにんにくの味で、とても変わった食感の食べ物で、全方位でどこを食べてもにんにくのお味のする美味しい食べ物だ。
このような根付きのにんにくは普通のスーパーではなかなか販売されていないように思うので、食べるには自家栽培する必要があるのかもしれない。
にんにくは挿し木する時に酸性の土だとダメなようで、アルカリ性にしてから植える必要があるそうだ。
なので、大豆を燃やした灰を土に撒いてから植えることにする。
今は冷蔵庫の野菜チルド室で眠ってもらっていますが、3ヶ月後ぐらいににんにくが収穫できるのかもしれない。
ウシウシウシ。

我、どうやら植物の根っこが大好きなようで困ったものだ。

根付きにんにくを食べたせいなのか鼻ににんにくの香りが残るもので、クンクンと周辺の香りを探っていると、どうやらこの香りはにんにくの香りでは無いようだ。
テーブルの上に広がる香りの根源はせりの葉っぱのようで、そこからプンプンと香り立つ春の香りである。
せりの葉に手をかざすと若干ひんやりとした冷気も感じるもので、大きく広がったせりの葉っぱからザ・日本の自生植物の和製ハーブの香りが漂いとても神秘的でもある。
この香りが良い香りなのかどうかとは何とも言えない香りではありますが、森の香りと言えばそのような感じの香りである。
なので、我が家は今すこす森の香りがする野生感があるものだ。

 

*デスクトップ画面用の画像です。
■2025年3月13日(木)
■パタパタ♪バタバタ♪

*デスクトップ画面用の画像です。
■2025年3月14日(金)
■一日一文章トレーニング。

「鉢植えの土を中和させる為に節分の豆を焦がしていると煙が部屋に充満し、そして、その出来た炭を植物に蒔くと、脳内に音楽が流れテーブルズを結成する」

先ずは余った節分の豆をフライパンで炒り水分を飛ばす。
そして、次にすり鉢でその豆をすり潰して小さくする。
ガリガリガリガリと、ドスドスブチブチと豆を潰し、ぐるぐるガリガリと福豆を粗挽きにする。
それから、オーブントースターで焼いて焦がす。
焦がすのは得意ですが、意識して焦がすとなると黒く焦げた豆の煙がもくもくと煙り立つ。
黒焦げた煤がオーブントースター内部にへばりつくのも嫌なので、適度な焦げ具合を調整しながら焦がす。
酸素供給が足りていないのだろうか。
いつもは焦げないように見張っているのに、今回は焦がし具合を調整しながら見張る変な気分。
焦げる仕組みとは不思議なもので、ものが燃えると酸素(O)がくっつき良く燃えて、水蒸気(H2O)や二酸化炭素(CO2)を吐き出し、最後に炭化した炭(C)が残る。
豆もこれだけ黒く炭化すれば流石にもくもくと黒い煙も立つようで、部屋の中も焦げ臭くなる。
窓を開封し、換気扇も回して空気を入れ替えていると、ネットのスギ花粉情報は真っ赤だ。
何かの罰ゲームみたいではあるのだが、いやいや、ネットの花粉情報を見ると真っ赤でなくて、その上の紫色の悪い顔した花粉マークが点灯している。
以前から紫色のスギ花粉警報とはあったのでしょうか???
そして、スギ花粉がスギ薬局のようにも見えて重症だ。
まるで、桜の木に灰を蒔いて花を咲かせる花咲か爺さんのようでもありますが、節分の福豆もすばらしき真っ黒な炭化色なビーンとなって微生物の程良い住処になりそうだ。
そして、雨降れば土の酸性度を中和させる土壌改善も出来る予定。
たぶん・・・の実験中。

焦げついた炭となった福豆は常温に冷ましてから鉢に蒔く。
にんにくの根挿しはアルカリ性に土を傾けないといけないと書いているので、とりあえずそれに習いて、にんにくを植える鉢に念入りに炭を蒔く。
パラパラパラと料理にかけるお塩のような蒔き方なので、少し炭の量は少ないかもしれない。
ベランダの鉢とは結構小さな面積のように思うのですが、粉となった炭を蒔こうと思うと想像の5倍ぐらいあっても良い。
先ずは様子見ではありますが、梅雨時期にはもう一度炭化した炭を蒔きたいとも考えているので、次の炭化物はたっぷりと用意する予定だ。
河川や湖はアルカリ性を示すもので、雨は酸性でもあるようなので、湿地帯育ちのせりの土壌もアルカリ性に近づける必要がある。

焦げた大豆の炭は手で蒔いていたのでマイハンドは真っ黒だ。
想像よりも結構墨墨としているもので爪の中まで炭が入り込み真っ黒。
こうして、とりあえずの土壌改良は完成し、後は植物たちが元気に育つことを祈っている。

真っ黒に汚れた手を見ていたら、手を真っ黒にしながらお気に入りのレコードを探すイメージが頭に浮かぶもので、土いじりとレコードいじりにはどこか共通点があるようだ。
それは手を真っ黒にすればするほどに良い音楽や良い作物が出来そうな感じで、私の頭の中にもズンズンと大地のリズムが鳴り響く。
バンド名は「テーブルズ」に決定!!(コレハ間違イノナイ陰謀論デス)w
楽器を全く上手く演奏できないダメなボンクラを集めテーブルにギシギシと並び、ぼんくらどもが夢の跡と演奏会すれば楽しそう。
我家にも全く使いこなせていな「ROLANDのSP-404MK2」があるので「テーブルズ」の参加資格はある。
1ぼんくらゲット!
いつか使いこなそうと思いて仕舞わずに置いているのですが、まったく使い方を学習しないし、触りもしないので、「まー」ホコリまみれである。
つまみの横の隙間などには特にホコリが溜まるのでキレイに拭き取る。
そして、とりあえず電源を入れようと思ったならば前回ONのままに放置していたようで電源は入らない。
ON・OFFのスイッチをカチカチと動かしていると機械は動き出し「これは、ん~テーブルズだね」。
手を真っ黒にしてガーデニングすることと、手を真っ黒にして音楽を作ることは同じテーブルに並んでしまったようである。
そして、当然、レコードプレイヤーを持っていないところが、これまた「ん~テーブルズなのである」。

 

*デスクトップ画面用の画像です。
■2025年3月14日(金)
■初音ミクを描いたらジャージを着た女子高生みたいになる~ヤバみwww

*デスクトップ画面用の画像です。
■2025年3月17日(月)
■一日一文章トレーニング。

「ムムムッ頭が痛い」

※画像の文字酒カスのㇲの棒がないw

グウ~だらな土日を過ごし体力気力も万端で、空を見上げれば花粉色に染まる空が広がる爽やかな月曜日のはずが頭は痛い。
念の為に天気図を見たら、やっぱりあった低気圧。
等圧線の混み合う982ヘクトパスカルの低気圧が太平洋上を北上しているようで、早速、ホットコーヒーを飲んで頭痛にさよなら。
コーヒーを飲んで頭痛が治る民間療法とは飛んだ不思議なエセ話のようではありますが、私の場合、苦いコーヒーを飲めば今のところ100%で頭痛は消えている。
コーヒーのカフェインが脳の血管に作用して効くようだ。

https://www.scos.gr.jp/useing2024r.html#R061118Coffee

先ずはペットボトルをカットした引っ掛け台にドリップを設置しお湯を注ぐ。
ポタポタとコーヒーの粉を湿らさせ、粉を膨らませてから、後はドワーと豪快にドリップする。
マイ経験則では、コーヒーは上記のように一旦粉を湿らせてから、満遍なく大胆に一気に豪快に注ぐのがトゲトゲしないマイルドなコーヒーを作る呆則だ。
変にこだわって湯を注ぐと不思議と苦くて苦手なコーヒー味となる。

昨日、コカ・コーラーのペットボトルをカットしたドリップ台を新調したのですが、その台を使用してコーヒーをドリップ。
今使っているドリップの台があと1センチぐらい高ければ、どのようなカップを使っても理想のコーヒーのポタポタを再現出来るので新造する。
しかし、コカ・コーラーのペットボトルはカタチがうねうねと洗練されたデザインで、ドリップ台としては微妙に使いにくい。
ペットボトルの容器で工作しているのは幼稚園児と私ぐらいかもしれませんが、私の推しは1.5リットルの三ツ矢サイダーの空ペットボトル容器がオススメ。
サイダーの容器は上から下までドドーンと真っ直ぐで、くびれが少ないのが良い。
パッケージデザインとは容器一つとっても様々なカタチとデザインがあるものだ。

コーヒーをドリップする時に貧乏性な私は少しでも多くコーヒーを抽出したい派である。
多くのコーヒーを抽出するとなるとドリップのケツがコーヒーに浸かり、ドリップを捨てる時にテーブルズや床ズに汁がポタポタと落ちて嫌だ!
よって、コーヒーの汁をキレイに切れる置台を自作するのですが、これを読んで「あー(me too)」となる人は皆無だと思うのだが、数センチの高さにこだわりドリップ台を自作する意味はある。

そして、関係ないけれどもコカ・コーラーを飲む時には100%りんごとコーラーを1:1で割って飲むとおフランス風な美味しいドリンクとなる。
しかし、最近の物価高で100%りんごは以前と同じ1リットルの紙容器なのですが、中身が900mlと少なくなりガッカリだ。

コーヒーを入れる時にあと1センチぐらい高さがあれば、気持ちよくスッキリとコーヒー切れるもので、昨日作った台は失敗したのでポイっと捨てる。(アディオス)

ところで、

昨日は雨も降り、暇人はさらに暇となるものでミツカン酢のパッケージを模写する。
〒マークみたいなロゴが潔く大きくて好きなデザインでもありますが、そのような伝統的な容器でも新しくリニューアルパッケージとなる。
それはガラス瓶からペットボトル容器へと変更となるもので、お酢と言えばガラス容器のイメージが強いので雰囲気は随分と変わる。
我が家ではお酢消費は多いもので、新パッケージに変わってから3回ぐらいは新パッケージのお酢を購入している。
そして、プラ容器だと何か味気がないものでヒンヤリと冷える旧型のガラス容器に写し詰め替えて使用している。
調べると、ミツカン酢の容器の変更は2024年11月生産分からペットボトルに変更のようで、高さも13ミリぐらい小さくなって軽量化されている。

因みにお酢の製法を下記に記す。

1)穀物(麦・米・コーン)を蒸す。
2)麹(酵素)と水を加える。
3)穀物のデンプンが糖に変化。
4)そこに酵母を加えると、
5)アルコール発酵してお酒となる。
6)お酒に酢酸菌を加えると水と酢酸に分解し、
7)アルコール成分は酢となる。
8)熟成させるとお酢の完成。
かな???

酵素や菌が分解してお酢が出来るなんて不思議だね。
ミツカン酢と言えば瓶の容器であり、何か愛着もある瓶なもので、次はこの瓶に詰め替えずに記念の保管用にしておくべきか否かな。
10年後にガラス瓶製のミツカン酢を見たら絶対に懐くなるはず。

 

*デスクトップ画面用の画像です。
■2025年3月17日(月)
■すの力を見ろ!

*デスクトップ画面用の画像です。
■2025年3月18日(火)
■一日一文章トレーニング。

「植物を育てながら思うこと」

水耕栽培をしていたせりを全部土植えにする。
ひょろひょろと細長く育つせりは葉を大きく広げて力強く土に根付くものだ。
幕末の人たちがたった2はいの蒸気船で目覚めたと言いましたが、せりはたった2日間の土壌生活でも水耕栽培時の2倍ぐらいに成長する。
土にどれだけの栄養素が詰まっているのかと興味津々ですが、枝分かれした1本の新芽はもうすでに立派な大きな茎となり、ひーふーみーと枝分かれする新芽も次々と息吹きて成長の連鎖は止まらない。
バッハやスペース☆ダンディの音楽を聞かせる英才教育をしたから元気モリモリなのでしょうか。
せりの根っこは水耕栽培時に曲がって育てていたのでへそを曲げているもので、割り箸で真っ直ぐになるように矯正しながらの英才教育で育てる。
食用のせりとは雑草でもあるので観葉植物を育てることとスピード感が異なる。
樹木を育てることがトボトボと歩くようなスピードだとすると、観葉植物はのどかに自転車で走るスピード感であり、雑草はピューンと走り抜けるスポーツカーのようでもある。
せりの大きさは種から発芽した謎の樹木の背丈を軽く追い抜くもので、我は正に雑草魂を見ているようだ。

先生?
植物にとって土とは必要不可欠な根付く居場所であるように、人間にとっての欠かすことの出来ない場所とはどのような場所なのでしょうか?

人とは土に根ざすことの必要のない生物でもあり、土があっても、なくとも生活に支障は無い。
しかし、口から様々な土壌で生活する動植物な栄養源を摂取しないと生きることのできない生物でもあり、そのような視点に於いては、人にとっても土は必要不可欠である。

土がないと言えば、東京には全く土がない。
土を踏みしめて歩いている人もいなければ、土自体を見かけることもほとんどない。
都市部に住む人を植物に置き換えれば、街に住む人々は水耕栽培の生物のようにも見える。
せりを土に植え替えたならばこんなにも元気に育つなると、人にとっての土の必要性も感じるものだ。

人は根を持たない生物でもあるので、漂流物のような根なし草とも表現出来る。
私達は組織に根を下ろし、栄養素(お金)や場を得て概念上の根を下ろしているのかもしれない。
しかし、その概念上の組織も、永続的に根を張り続けることの出来ない場所でもあり心拙い場所でもある。

私達には植物のような大地に繋ぎ止める根っこはありませんが、その代わりに手がある。

荒波に流されずにしっかりと掴み、手を掴んで繋ぐことが出来る手は人間にとっての根っこかもしれない。
人と人とがしっかりと手の根っこで繋ぎ合わせることができれば、それはもう大木の立派な根っこのようなものである。
大切な人、モノ、コトをしかっりと掴み離さないことは重要で、また、人には手は2本しかないので海に浮かぶラッコのように人と人とは、手と手で繋ぎ、繋がりあっていたいものだ。
ここでの繋がりとはIT技術と異なる、物理的な温かみのある手と手で繋がることだ。

面白いことは、このようなコンクリートで固められた東京の街角でも雨でも降れば、土の香りが漂うこと。
もうすぐ本格的な春がやってくるとザーザー雨もたっぷりと降るもので、朝起きて窓を開けると土の香りが香る季節になる。
雨降った時の土の香りとは土に住むカビの香りを嗅ぐようでもあり、我々街人とはコンクリートの埋まった大地の上で土の亡霊の香りを嗅いでいるのでしょうか。
いやいや、
雨降ればコンクリートの下にも雨は染み込み土の層にも雨がたどり着くもので、その土から発生する土の香りが空気中のカビの香りとして嗅覚に反応しているのかもしれない。
見えないコンクリートの下にもしっかりと土は存在しているもので、私たちは完全に土から断絶された訳でも無さそうだ。
もうすぐ新緑は生える春の季節でもあります。
雨がザーザーと降れば土の香りを感じ植物たちのことを思い出そう。
そして、
私達の持つ根っこでもある手は大切なものをしっかりと掴んで離さないようにしよう。
と思う。

 

*デスクトップ画面用の画像です。
■2025年3月18日(火)
■開幕戦緊張するなー。

*デスクトップ画面用の画像です。
■2025年3月19日(水)
■一日一文章トレーニング。

「手根っこで繋ぐと悟った草」

ごろごろと布団の中で丸く寝ているとバリバリと音が鳴って目覚める。
窓を見るとたっぷりの結露で外は乳白色に輝くもので、そのような窓を凝視しながら、再び、何かが崩れたのか?と思う爆音が鳴り響く。
雷だ。
何が起こったのかの天変地異で、眠り眼でネットを検索すると皆「ゴロゴロ」と呟くものだ。
この大きな爆音は雷の音で間違いない。
しばらくすると、再びピカッリゴロゴロと雷は落ちる。
落雷の音とゴロゴロと響く地鳴りの間隔は短いので近所に落ちたようだ。
私も巣穴布団の中をごろごろと転がり目覚めの時を待ち、雪積もる朝の景色を見る。

仮に人間の手が植物にとっての根であるならば2本の手は少なすぎる。
個人的には千手観音のように手は千本ぐらいの手で大切なものを貪欲に掴みたい。
そう言えば、仏様が多くの手で人をすくうのも手でもあり、悪さをするのも罪深き手なのだ。
パンデミックが私達から奪い取ったのはこの人の手の根っこかもしれなくて、人が人を救えるのは人の手であり、人の手のぬくもりの再確認は必要だ。

そして、何かを掴む為に、厳選した2本の手で何かを選ぶ人生も酷である。
そのような少ない手で掴むとなればモノやコトを掴んでしまうと、その手根っこのネットワークは途切れてしまうので、掴むならばやっぱり人の手根っこに限るものかな。
私が誰かの手を繋げば、誰かは誰かの手を繋ぎスモールネットワークは大きな大木の根っことなる可能性はある。
いやいや、何か新しいモノ・コトを研究する人であればモノ・コトを掴み続ければならないもので、それは手根っこで繋がる私たちの誰かと繋がる共有知であるのでモノ・コトを掴む手根っこも除外してはならない。
「自分は不器用だから」とやっぱり人の手は2本で十分かもしれなくて、自由に何を掴んでも良いのだ。

植物はしっかりと根を張った時に立派な植物となるもので、根は栄養素をしっかりと掴み生きる土台となる。
我の人生も何かふわふわとした人生であり、根を張って人生の糧となる栄養吸収するタイプでもない。
しかし、手が根っこであるならば幾分腑に落ちるものだ。
今思えば、学生時代に居場所を感じられなくてモヤモヤとした気分とは、しっかりとして自分の手で何かを掴んでいなかったような気もするものだ。
当時は何か自分の足で大地の上にしっかりと立っていないことを原因としていましたが、自分の手で大切な何かを掴んでなかったことが正解のような気もする。
そのような意味に於いて「若者よ 何かをしっかり掴め」と北の大地に刻みたい。
逆に、あれもこれもといろんな何かも掴みすぎて結局何も得ていないモヤモヤとする時期もある。
根なし草のように風に飛ばされ転がり誰かの根っこにひっかかりて掴まれる僥倖もある。
人の手が根っこであるとすると、人は実際の手で何かを掴むことを忘れてはいけないものだ。

昨晩、納豆に茹でた大豆を混ぜた怪しき食べ物を食べた。
納豆の中に大豆を入れたならば、納豆菌によって茹でた大豆も納豆になるものかと思い4日間ぐらい放置した「納豆ON大豆」。
これは「ユーリーONアイス」のような美しい言葉の響きですが、結論から言うと大豆はやっぱり大豆であり納豆にはならなかった。

納豆で熟成とは外道の極みのようではありますが、先ずは納豆を程よく4日間ブレンドした大豆を撮影する。
「あれっ」ピントが合わない。
納豆ON大豆を撮る為にシャッターをパシャパシャと撮れどもピントはどこか虚ろな豆である。
これは毎日「手は根っこでア~ル」とぼけぼけとピントのズレたことを言っている自分みたいな写真でもある。
街に広告は溢れるけれども、どれもピントが良すぎて困ったものだ。
たまには素人がボケボケ写真を撮るのもご愛嬌で良し!

それにしてもなぜオートフォーカスのピントが合わないのであろうか。
1)納豆から出る妖しい菌糸がピントが合うのを邪魔している。
ふむふむ。
2)臭いネバネバの納豆ON大豆はマイ背後霊やその辺に浮遊しているゴーストたちにとって大好物の食べ物かもしれなくてAFフォーカスしようにも霊が納豆ON大豆に集まりすぎてピントがあわない。
我、大ピンチ。
3)オートフォーカスの高機能の持つカメラが茶色いゲテモノ写真を断固拒否している。
わーの家族はそのような納豆ON大豆をわーと毒見して食べていた。草
4)私自体が納豆ON大豆に感極まって手が震えピントがあわない。
これが一番有力な説。
何せ納豆のネバネバに大豆が混ぜこぜとブレンドされる、どこぞのホラーよりも怖いげに恐ろしき食べ物だ。
次は「納豆ONステーキ」かなと、何だか青春みたく真面目に文章を書いて恥ずかしい。

 

*デスクトップ画面用の画像です。
■2025年3月19日(水)
■大(局)観「無我」。
■2025年3月20日(木)
■一日一文章トレーニング。

「掴むとはなぜ?手で国を掴むとなるのであろうか?」

デッカイ服、ダボダボな服、無我な顔、横山大観が大局観を見ているのか否か、それは大いなる謎ではありますが、大観とは大局観の可能性もあるものだ。
「無我」という題名の絵は学校のお供のような名画でもあり、たまーにどこかで観るような気もする画である。
個人的な感想を言うと、顔の表情とぶかぶかの着物がとても良い☆
ぶかぶかの服装とは多分お下がりの着物で、草履のサイズもぶかぶかと大きくて、その辺りが私のツボに刺さる。
最近、だぶだぶの悪徳警官の制服を着せ替えたオカルンフィギュアで遊んでいたもので、このようなだぼだぼ画を見ると思わず反応してしまうものが私だ。
専門家によると猫柳の花穂が伸びた青い雪解け水の水色がとても美しいようで、青が鮮やかに映えるところが見どころのようだ。
丁度、今頃の春の季節感でもある。

さっそく、

我も昨日はこの子供にだぶだぶのベースボールのユニフォームを着せて東京ドームに向かう無我の境地を描く。
題名は「無我」ということで辞書を調べると、「無我」とは(1)無心と私心のないこと、(2)“忘我”と無我無心と我を忘れて夢中になること、(3)仏教用語では存在するものは全て仮のものであり、永遠不変の個体実体は無く、すなわち我(が)はないということのようである。
難ち~い☆

おそらく、この子供の前には親がいるはずで、まだ、私心のない子供はサイズの大きな服を着せられるがままに着せられて可愛がられる姿の予感。
勿論、子供はまだ小さいのでキョトンと無心で自我も無い。
親は子供が立っているだけでも可愛いのに、大きな着物をだぶだぶな着物を着れば、尚、可愛いさも倍増し無我夢中だ。
そして、無我とは永遠と不変に実体は無いと説くもので、この子供の可愛らしさも美しい川の青い流れに例えて永遠に続かないと勝手に解釈する。
もちろん、この名画の子供の根っこたる手にはまだ何も掴むものは無いもので、無我の境地を大変良く表しているようにも思う☆
手で何かを掴むこととは自我の始まりなのかもしれないもので、2001年宇宙の旅でも猿が手に骨か棒か何かを持つことによって人間の自我の始まりを表現していたように思う。

ということで、

根っこたる手で掴む「掴」なのである。

カズオ・イシグロが「わたしを離さないで」で書いたように、命の意味、人が手を使い大切な命を掴み離さないことは、人が人であることをたらしめる本質のようにも思う。
そして、そのような漢字の「掴む(摑む)」という字が“てへん”に“国”と書く不思議だ。
なぜ?掴むは手で国を掴むと書くのでありましょうか?

「国(國)」を調べると俗字のようで正式な漢字ではないようだ。
国が俗字とは何か変な気分。
古語ではもともと水戸光圀公と書くように、「国」は「圀」と書いていたようだ。
さっそく本来の意味の「圀」を調べると、四角な境界線の中に方位方角を示す「方」を指すもので、「圀」とは「方」のことである。
意味は(1)方向、(2)場所、(3)方=邦=国と、昔の国の概念とは魔方陣的な結界で囲われた圀(くに)な空間を表現しているとも考えられる。
それは明治以降の近代国家の誕生と共に「くに」のカタチも変わって来たように、漢字の形状も変えてきたのかもしれない。
「邦」は邦人や異邦人と国の境界の内と外を明確に分ける国という言葉だ。
「国(國)」は旧漢字で「或る(ある)」を内包する言葉で、「掴む」という漢字は旧漢字で「摑む」と書くのが正解のようで、この「摑む」で掴むことを考える。
境界線の中に入った「或る」という漢字は(1)国・地域、(2)有る無しの“あり”である。
また、「ある人が問うていわく」と問いを掲げ、その問いに対して各人が自分の意見を言うことの「或問(わくもん)」のことでもある。
それが四方で囲まれた境界線の場所の中で或問が有ると存在するならば、誰かはその問いに対して掴む必要があるものだ。
昔も今も国の中、場所の中とは問題山積かもしれないものであり、その問いに対して逃げずに放置せず、掴み解決することで、人はその土地に根を張り住まうことが可能なものだ。
よって、国にてへんと、国を手で「掴む」国の成り立つカタチとなるのではなかろうかと思うのである。

大変、ややこしいのですが大局観で鑑みれば、掴むとは根を張るような場所でもあり、手が大切な栄養源や問いを掴む根っこである信憑性はますます高まるのだ。
たぶん。

 

*デスクトップ画面用の画像です。
■2025年3月21日(金)
■一日一文章トレーニング。

「俗とは谷底に集まる人(にんべん)ということなのか」

室内の床温度を計測している家庭は早々にないもので、ここに最近10日間の床温度を記載する。

3月11日(朝)19.4℃
3月11日(夜)18.4℃
3月12日(朝)17.4℃
3月12日(夜)18.0℃
3月13日(朝)17.4℃
3月13日(夜)18.6℃
3月14日(朝)19.8℃
3月14日(夜)18.8℃
3月15日(朝)18.0℃
3月16日(朝)18.2℃
3月16日(夜)18.6℃
3月17日(朝)16.8℃
3月17日(夜)17.8℃
3月18日(朝)15.6℃
3月18日(夜)17.8℃
3月19日(朝)17.0℃
3月19日(夜)18.2℃
3月20日(朝)15.6℃
3月20日(夜)21.4℃ *
3月21日(朝)20.2℃ *

一昨日雪が降ったかと思うと、もう春のような陽気だ。
そして、昨晩と今朝の床温度が20℃*を超えて、床の表面温度が2回連続20℃超えれば春到来と表現しても良いものかな。
なので、今日からは春っぽい服装に衣替えだ。
去年は3月7日に瞬間的に床温度20.2℃を超えましたが、それ以降は3月31日まで床温度が20℃を超えることは無かった。
また、去年の秋に20℃を下回る床温度を計測したのは11月26日で、その頃の日記には芸術の秋がどうのこうのと秋の深まりを感じていたようでもあるので、床温度20度は季節の境界線の可能性も高い。
とりあえず、私達は常に足の裏を床につけて生活しているもので、床温度からの身体の影響は大だ。
因みに、この冬初めて暖房を入れたのは12月17日(床温度17℃、室温16.9℃、湿度60%)。
それ以降は暖房で温かな室内で過ごすもので、床温度も人工的な生活圏の温度となる。
こうして、四季の変化は秋冬春フォー・チェンジと約115日間の放物線を描き戻る。

ところで、

昨日は「国」という漢字が俗字であることを知り驚く。
そして、その反対にある文字が古字の「圀(くに)」の字であることも知る。
国という漢字が俗字であることは案外面白くて深いものだ。
確かに、あちらも、こちらも、そちらもと、なかなかに碌でもない国々が勢揃いでフルハウスだ。
私みたいな俗人であれば、国とは威厳を以て立派で大きな器をこしらえようと考えてしまうのですが、それは危うい。
寧ろ、国を俗字でなく崇高な器に置き換えた時の方が危険かもしれないもので、いざ、国を俗字にしてしまう人のセンスと凄みはスゴイ。
俗字を調べると、【俗字】とは世間で使われているが字数や字形の正しくない漢字のこと。
正しい文字ではないが、世俗的に皆が習い日常的に使う文字でもあるので、国とは確かに俗字のようなところもある。

そもそも、「俗」とは(1)風俗・習俗の習わし、(2)世俗な世の中、(3)俗人・通俗と常ありきたりなもの、(4)俗言と卑しく下品、(5)出家した僧の反対の俗(ぞく)とあまり良い言葉ではない。

私は昔からどちらかと言えばサブカル傾向が高いもので、権力や金のハイカルチャーに反抗するサブカルは好き。
また、大量消費・大量生産の文化にあがなうマイナーなものも好物で俗気傾向は低いと思っていたのですが、思い返すと、時折皆とキャーわーと世俗にまみれるもので、そうとも言えない。
それでも、どこかで誰も聴かないようなマニアックな洋楽を掘り出してドヤっと聴く若かりしサブカル時代でもあったもので、他の大勢が熱狂することを「へえ~」と冷めたく見下すゲスい嫌な面もある。
床の温度や室温に足温など意味のないデータを毎日コツコツとマニアックに計測するのは、おそらく、サブカル時代の名残りだ。

今、この時代にサブカルとは存在しているのでしょうか?
インターネットとはもはやメインカルチャーでもあり、俗了感も満々で情報や文化はフラット化は進行している気もする。
そして、俗の文字を調べれば調べる程にわーも、世の中も、わーわーとぞくぞくと俗俗しくなるものだ。

俗悪(卑しくて醜いこと)、
俗才(俗事に長けた才能・世渡り上手)、
俗人(世俗の人・学問のない人・風流を理解しない人・金銭名誉ばかりにこだわる人・世間ズレした人・世間一般の人)、
俗塵(世俗の煩わしさ)、
俗説(俗世間の言い伝え・学問的に正しくないこと・世間の人の説)、
俗了(俗化・感化されること)、
俗論(世間一般の意見・俗人の意見や議論)、
俗気(俗人の世間世界・お金や名誉に惹かれる想い)

・・・うわ~~~もうやめてくれ~~~俗は耳に痛すぎるのだ。

暴走俗に俗議員、俗編はどうしようかと、思いつく“ぞく”を「俗俗」と変換してみたが、俗には気をつけよう。
m(_ _)mT

 

*デスクトップ画面用の画像です。
■2025年3月21日(金)
■ディディデー♪
ユアーショック~ベテランのパン職人♪
ユアーショック~愛の力で割っている~♪
(パンおじさんの歌)
■2025年3月22日(土)
■一日一文章トレーニング。

「にんにくを土に植えた」

朝起きてカーテンを開けるとチュンチュンと賑やかな朝。
そして、おそるおそる昨日植えたにんにくの芽が枯れていないかと覗くと元気のようだ。
植物の健康とは葉っぱの色と張り具合も見れば何となくわかるものですが、この葉っぱの感じはどうなのでしょうか。
雑草せりを土植えした時程の変化は無く、作物系の植物とはじっくりと時間をかけて実を膨らませながら育つのかもしれない。
そして、にんにくの一欠片がまわりの栄養源を吸収しながら何倍も大きく育つことは驚異的な複利効果でもある。
放置しておけば数倍に膨らむにんにく商品は何処に・・・。
とりあえず、にんにくを育てたことはないもので何の知識もなく育てる。
特に植物の変化とは気付いた時には手遅れで、昨晩も息を切らしながら水をあげるぐらいが関の山で、後は肥料をあげるか、放置するだけが自分の出来る全てである。
やうやうに春の気配で色づく植物たちを眺めながら、同じ植物を育てるならば実のなる植物を育てて収穫できる方がお得な邪念も浮かぶ。
実利のある植物を育てるのか?見るだけの観葉植物を育てるのか?何だか深そうなお題目でもある。
植物には人間に良い環境で育ててもらって繁殖する植物と、雑草魂のように人と関係なく自生する植物もあるもので、植物の世界も複雑にいろいろのようだ。

にんにくは産地直送の期間限定ショップで購入し、しばらく冷蔵庫の野菜チルド室で保管してから、思いついたように水耕栽培して、土に植えた。
水耕栽培のにんにくのボディーは少ししわしわと栄養源を葉っぱに吸い取られているようでもあったので、そろそろSSDGS(再生栽培でグレート挿し木)の時期で間違いない。
本当はもう少し早く土に植えようと思っていたのですが、雪が降り、面倒臭い言い訳が頭の中をぐるぐると回って後回しとなった。
土いじりとは手が汚れるのでハードルも高い。

せりの挿し木は本日もとっても大きく成長して完璧に根付く。
目視でも枝分かれの分岐点が2つ確認出来るもので、まだまだ葉っぱがわっさわっさと芽吹き大きくなりそうな予感。
このように愛着もって育てると食べるのが惜しくもなるものである。
あと残るは桜の枝を鉢に挿し木する大問題ですが、これも数日中に重い腰を上げて行う。

作物の育て方を調べると皆口を揃えて語る言葉がある。
それは「土は命」。
植物の根が張る生育の要は栄養豊富な土の環境にあるようで、水耕栽培の栄養では足りないことは確認済みだ。
そして、人の手根っこが掴む生育の要となるのも栄養満点の環境かもしれないもので、人にとっての栄養とは何でしょうか。

とりあえず、よくわからないことは置いておいて、

マイにんにくの土はぬかと古い再生土壌をブレンドしてスペシャルに作る。
土を買うとは水を買うぐらいに変な話でもありますが、購入した土で植物を育てるのがベランダ生活でもある。
そして、愛でる植物も枯れると鉢の土とはゴミとなるもので、その土を夏の間に天日干しして殺菌してから腐葉土と混ぜて再生土を作る。
その再生土は2月14日に書いたぬか話のぬかと混ぜあわせて1ヶ月ぐらい馴染ませたもので、最初はふかふかと良い感じの土であったものの、気温も上昇し、雨でも降れば少し粘り気のある土となる。
この土が本当に栄養満点に再生しているのかわかりませんが、見た目には良い感じの土でもある。
若干、漬物のぬかっぽさのある土壌で、土を掘り返すとぬか菌の発酵も進んでいるかもしれないので、数日後には植えたにんにくの芽が漬物となっていれば笑い話だ。
まーまーまー、とりあえず、植えてみないとわからないものだ。
私はぬかの力を信じ、とても大きくて立派なにんにくを収穫出来ることを楽しみにしている。

 

*デスクトップ画面用の画像です。
■2025年3月22日(土)
■トントン。

*デスクトップ画面用の画像です。
■2025年3月24日(月)
■一日一文章トレーニング。

「桜の枝を挿し木した」

気温も暖かくもなり本格的な春の到来。
室内の床温度が20℃の境界線を超えれば、3月20日以降は完全に季節の空気は入れ替わったもので、秋から冬、冬から春へと、季節の変わり目となる目安のような床温度でもある。
ならば、
本格的な夏到来=私の手がクーラーのスイッチに伸びる床温度は何度かと言うと過去のデータによると、床温度が27℃である。
湿度10%UPで体感温度も+1℃加算されることを鑑みたとしても、去年だと6月11日の床温度26.6℃が耐えられない暑さの空気に入れ替わった気温のようである。
床の温度がわずか今の床温度から約7℃上昇しただけで、もう耐えられない暑さとは不思議なことでもあるが、今年の夏も暑い夏となりましょうか。
爽やかで気持ち良い夏でありたいものだ。

暖かい日差しは燦々と植物たちに当たり緑色も濃くなる。
せりの茎はパセリの茎のように太く濃くなり、サボテンも多肉植物も植物界のお嬢様も皆真っ緑だ。

だがしかし、

このような厳しい冬を越して喜ぶ植物もあれば、この冬の寒さを超えられなかった植物もある。
毎年、暑さを越えられない植物よりも、冬を越えられなくて枯れる植物の方が多いもので、今冬は2鉢が枯れた。

”一の鉢”は暑い夏の日陰を作ろうと思いて育てていた常緑樹の低木が急に葉色を変色させて枯れる。
少し触るだけでもボロボロと落葉していく姿は悲しいものですが落葉を止める術はない。
まだ、いくつかの葉っぱはついているので完全に枯れている訳でもないのですが、放置して自然の治癒力や生命力に期待するしかない。
植物の調子が悪くなる原因を思い返すと、極寒時期に水蒔きをセーブしていたら土が割れて乾燥し、植物もぐったりとするものだ。
なので、水をたっぷりあげて、土の割れ目にも親切にパラパラとぬかを撒き栄養をあげたら何か調子が悪くなった。
他の植物はぬかをあげても元気なので、それが原因でないかもしれませんが、ぬかの栄養分で冬眠から目覚まし、起きたならば寒すぎて葉っぱを落とすかもである。
私は植物に白菌を感染させたり、水をあげすぎたり、忘れたりと、余計なことが多いものだ。
冬の時期の植物の水やりとは本当に難しいもので、あげすぎると枯れるし、あげなくとも弱るし困ったものだ。
わさわさと葉っぱがしだれる観葉植物の低木は冬の寒さでぐったりとしていたので、その植物と一緒に室内に避難させれば良かったかもしれない。
何せ植物は痛くとも痒くとも何にもしゃべらないものであり、こっちから悟ってあげる必要があるものだ。
植物がしゃべり出したら地球はとっても騒がしくなりそうだが、、、
冬の間、室内に入れればコト済むことですが、室内に入れると狭い部屋が植物に占領されてもっと狭くなるし越冬する植物問題は困ったものだ。
その点、サボテンや多肉植物は放置していても、たっぷりと水をあげても元気で育てやすい。

”二の鉢”はお花屋さんで購入した切り花に大根の白菌を感染させたら、根っこを生やして、それを土に挿したら、茎も立派な木のように育った植物が枯れてしまった。
これも水をあげすぎかもしれませんが、本来であれば、お花屋さんで買った切り花とは長くとも2週間の命であることを考えれば、何年も長生きして土植えにまで成長するとは大往生でもある。
これは古い木という名の通りに十分に寿命を全うしたような枯れ方のようにも思い、その枯れ木の風貌とは枯山水のような幾分の美しさと迫力がある。
今はベランダに出していますが、室内に戻して絵を描いて記録したい。

そして、土曜日にこのような枯れた植物にもめげず約1メートル級の立派な桜の枝を鉢植えにする。
問題は30センチ程の幹の横からも根が出ているもので、それを鉢植えにして土を被せようとすれば、とてつもなく大きな鉢が必要となる。
育つのかどうかもわからない桜の挿し木を育てるのに大きな鉢を揃えることや、腐葉土を無駄にするハードルが高い、そこで我は考えた。
100円均一で大きな鉢を2つ購入して、その一つの鉢の上をノコギリでギコギコとカットして鉢の上に鉢をのっける「鉢ON鉢」スタイルで鉢をかさ上げする方法を考案する。(図参照)
これだと土の量も少なく、鉢の大きさも小さくて桜の挿し木の根が根付くまで育てることが可能だ。
この桜が根付いて育てば、次は大きな鉢に引っ越しすれば良いものだ~☆

ということで、

土曜日は土いじりをしながら桜の枝を挿し木した。
SSDGSと(再生・栽培・で・グレート・挿し木)でグレートにデッカク育って欲しいもので、今朝見たら新葉も出てきて今のところは順調に育っているようだ。
土とはざらざらと爪に入ってやっかいですが、その力とは何だかわからないが偉大なエネルギーを秘めているものだ。
そして、落葉樹は冬の間は冬枯れするので、暑い夏にベランダに木陰を作る低木として育てることには向いているかもしれない。

 

*デスクトップ画面用の画像です。
■2025年3月24日(月)
■リンゴ100メカニズム!

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■2025年3月25日(火)
■一日一文章トレーニング。

「最近、パン作りを研究している」

備蓄米放出のニュースがある度に米の値段が上昇していて草。
人をおちょくるにも程があるものですが、これには何か気持ち悪き狂気を感じるものだ。
そして、米とはもう「買って下さい」という商品では無く、「欲しいなら売ってやろう」商法的な商材となったようでもある。
いつも見下される我ら庶民とはそのような上から目線には敏感なもので、米が高いとなると自然と米から離れるものだ。
しかし、米を全く食わない訳にもいかないもので、消費する量を減らしながらパンやパスタに代替・生活防衛を行うことも至極当然。
そして、国民の食べる量が減れば、その分を外国に米を売って穴埋めするだけかもしれなくて、私達が何を意思表示しようとも恐らく何も変わらない存亡のかかる二丁あがりだ。

とりあえず、

私はパン給食が嫌いで、どちらかと言うと米を食べたい派でもあるが、こうも米が高いとそうもいかない。
パン食も増えると美味しいパンを食べたくなるもので、さっそく、美味しいパンの作り方を研究する。
そして、最近、やうやうにして美味しいパンの作り方を学ぶもので、写真のような美味しい朝食となるものだ。
※まだパンの入口ですが美味しいパンが出来たらまた自慢します!!
表面がサクッとおフランス風な感じで、もちもちとズドーンと食べ応えのあるベーグルに、その他いろんなパンを自作して並べて思うことは焼けたパンは何とも美しい。
そして、パンの原価はとっても安いようで、食費を抑えたければパンを手作りすれば、オシャレパン屋さんで売っているような味を楽しめて尚、お財布にも優しい。
コンビーフのデップを塗りパクリと食べれば天然素材で作られた中世のヨーロッパの如きパン食となり、まだ飽きも来ない。
小麦を食べると花粉症が酷くなるとの噂も拡散されておりましたが、私の場合、今年の花粉は例年よりも楽でもあり、小麦をたくさん食べても、食べなくとも全く変わらない根も葉もない噂の花粉症である。
そして、今は小麦を使って、おかずが進むようなパンが出来ないかとも考えている。

米が急騰すれば、パンを手作りをし始めて、自分の好みのパンを作れば、パン屋さんでパンを買う回数も減り、世の中とは何かしらのディープインパクトが起これば様々なことに波及していく面白さはある。
米価変動とはそれほどに大きいものかもしれない。
そう言えば、
フランスで飢饉が起きた時に、マリー・アントワネットが「食べるパンが無ければブリオッシュ(ケーキ)を食べれば良い」との噂が広まりフランス革命のキッカケとなったようだ。
そして、昨晩は「根っこ」「葉っぱ」とはなぜ?このような「っ」のある可愛い呼び方になるのかと考えながら寝ていたもので、いやいや、これは「根も葉もない」ことかと思う噂のフランスパンかと思い寝る。
ことわざ的には「根が無くとも花が咲く」で、どちらも、根拠の無く噂が飛び交う様子のことで根がなければ当然花も咲かないので真っ赤な嘘。
「つ」は物を数える時に1つ、ふたつ、みっつ、よっつ いつつ むっつ、ななつ、やっつ、ここのつ、と数詞の添える言葉で、「根っこ」「葉っぱ」の可愛らしの秘密はわかりませんが、子供と私が好きな響きであることは確かで、だんだん眠くもなりよく眠れる春である。
何のことかなの、ぞなもし。

 
*デスクトップ画面用の画像です。
■2025年3月25日(火)
■スコス。

*デスクトップ画面用の画像です。
■2025年3月26日(水)
■一日一文章トレーニング。

「小麦をイッパイ食べても花粉症を悪化させない理由を調べる」

いやはや、直射日光に当たるともう暑い。
そして、気候も暑くもなると植物たちも元気になってくるもので、冬場に横たわるように倒れていたサボテン3兄弟たちも元気におい立つ。
サボテンが立つとか寝るとか本当に頭のおかしな話なのですが、図のように本当に寝ていた棒サボテンたちはおい立って来たのだ。
今、桜の挿し木で土の水を切らしてはいけないので、毎朝熱心に窓を開けて水やりをしている。
そうすると図Cのサボテンが「扉を開けるな」と言わんばかりに窓を開けるのを邪魔してくるので、とっても邪魔。
なので、「ちょっと御免よ」と軽くサボテンをつまみながら窓を開けているのですが毎回窓を開け閉めが億劫である。
流石に私でも何度もサボテンをつまんでゆっくり窓を開けるのが面倒なので、鉢を前に押し出したりしてサボテンCに扉の開閉を邪魔させないようにしていたのですが、次の日には断固開閉拒否と窓にくっつき邪魔をしてくるもので、仕方がないのでサボテンCは毎日「そおっと」つまみながらゆっくりと窓を開ける謎の儀式は日課でもあった。
そして、今朝サボテンCに変化があって、サボテンCが天に向っておい立つことにより窓の開閉を邪魔しなくなった。
それは窓開閉の自由の許しを得たようでもあり、もうサボテンCを軽くつまんで開け閉めする必要もなくなる僥倖でもある。
これも、あれも、それも暖かな季節がやって来たからであり、サボテンたちも元気におい立つ。

しかし、そのような温かな春も花粉症な人にとってはつらい季節でもある。
アレルギー症状とは繊細な私も毎年発症するもので、鼻むずむずと、目も痒く、「スーハー」とダースベーダー呼吸をしながらマスクをしている。
そして、そのような花粉症の症状も小麦を摂取すると酷くなるらしい噂を目にして「あれっ」とマイセンサーは反応するものだ。
なぜなら、私は米高騰の煽りを受けて通年の2~3倍のパンや小麦を食べているように思うのに、なぜか今年の症状は比較的に穏やかで楽なのである。
小麦をイッパイ食べれば今頃、花粉の症状も悪化させて、「もー駄目だと」なっていてもおかしくないものなのにピンピンと元気だ。
早速インターネット・ティーチャーにその原因についてご教授をお願いすると、小麦はイネ科の花粉症を悪化させる可能性があるようで、「あれっ?」とイネ科の花粉症とスギ花粉とは異なっているようだ。
通常、春の花粉症と言えば私の中では「スギ花粉」のことのみを指しますが、イネ科の花粉症もあるようで花粉症を話す時には漠然とした花粉症ではなくスギ花粉と詳細を伝える必要があるのかもしれない。
スギはイネ科みたいな草と違い樹木でもあり、ヒノキ科スギ属であられる別物だ。
山からわっさわっさと風で吹き飛ばされるスギの花粉の映像とは印象深く不愉快でもあるが、今飛来している黄砂もスギ花粉と同様のアレルギー反応を起こすもので、毎年この時期になると中国にも同様に不愉快感も高まる。
なので、結論としては、私の場合イネ科のアレルギーを持っていないので小麦を食べても花粉の症状を悪化させなかったようである。
アレルギーとは前述の通りにいくら好きな食べ物であっても、体が反応してしまえば意識と関係なく体が反応するものであり、私が仮にスギスキスキと杉推しであっても杉材に囲まれて生活していればアレルギー症状を発生してしまうのかもしれない。
冬場の登山で杉林を通った時にスギ花粉症の時期ではなくとも肌ヒリヒリ、鼻ムズムズとなったもので、イネ科の花粉症は食べる選択肢が狭まって大変そうである。

因みに、小麦アレルギーを調べたら、私がいつも胡散臭く思うサステナブルな響きを持つグルテンフリーという言葉を見つける。
グルテンフリーとは時折目にしますが、当然、何も気にせずに毎日特別なものも食べないのでグルテンフリーも食べていないような気もする。
グルテンとは小麦等に含まれるタンパク質で、人間の生理機能にはグルテンを取り扱うように出来ていないので、摂取すると悪影響を起こす可能性があるようだ。
小麦粉を水でこねる時にグリテニンとグリアジンの2つのタンパク質が混じり合うことでグルテンが出来て、そのねばねばした弾力性ある食べ物が粘膜にくっつくと取れないのでアレルギー症状や悪影響を起こす仕組みのようだ。
パンやケーキなどを食べる時に歯にベトベトベトつく生地もありますが、あれがグルテンかもしれない。
パンはフランスパンのようなカリカリの固めのパンが好きで、パン生地も面倒なのであまりこねない方がスギスキスキであり、私の体は自然とグルテンフリーを理解していたのかもしれない。
わーは多分グルテンは嫌いなのである。