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■2025年1月1日(水)
■明けましておめでとうございます
2025賀正押乙SCOS
 

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■2025年1月6日(月)
■一日一文章トレーニング。

「2025年の初笑いの道」

ぶるぶると新年も明けて布団に包まり天井を眺めると、ぼんやりとした天井に電球と2025年の夢も始まるのである。
そのような天井を布団の中から眺めていると実家の夜空を見上げたオリオン座を思い出すものだ。
ヒンヤリとした空気、空を見上げることなんて何年ぶりのことでしょう。
視力の低下なのか?空気の劣化なのか?オリオン座が何故か暗く見えるものである。
右上と左下の光量が特に小さく思ったもので、子供の頃に見たオリオン座はもっとしっかりと鮮明であったようにも思うものだ。
冬の空に輝く星と言えばオリオン座。
つづみ太鼓のような形は昔から結構好きで推しな星でもある。
街灯がない暗がりの路地の暗闇から星を見上げていた子供時代を思い出すもので、早速ネットで検索するとオリオン座を構成するベテルギウスの星は変光星でありガスや寿命などで時折暗く見えることもあるようだ。
ですが、そのペテルギウスは左上でしっかりと輝いていたように思うので、それとはあんまり関係ない右上と左下の星の輝きの弱さが気になったものだ。
よって、2025年の「初星見」は完了。

東京の空だと月や金星ぐらいを拝むぐらいが関の山でありますが、そのような星空の下を電車に乗って帰宅していると、お酒が入ったご機嫌なビジネスパーソン2人組が私の横に座っているものだ。
一人は赤いソックスにローファーを履いて足を組んだジョーカースタイル。
もう一人はカジュアルな金髪で若くておしゃれなイケメン。
どうやら新進気鋭のスタートアップの経営者たちのようである。
さっそく、我の耳は「どれどれ」と4~5倍に膨張する仮想の耳となるものだ。
2025年「初耳ダンボ」の完成。

ローファー野郎の頭にくっつくぐらいの私の耳で「貴様らのビジネス話は俺様がしっかりと聞きとげてやろう!!」と思うのだ。
話しの内容は資本金の集め方やその金額に、Aという両方の知人の営業の成功報酬を15%から25%にしてやった~というスカスカなお話で面白味はなかった。
星空に満たされてキレイに透き通った私の心はビジネス界隈で淀むのだ。

一昨年の「初笑い」は何かと考えれば「東京アベンジャーズ=(正解)東京リベンジャーズ」である。
イキりて「東京アベンジャーズ」の話の面白さを語っていたらタイトルを間違って覚えているオチである。
去年の初笑いは何だっけ?

間違いに 気づいていたら すぐに教えてちょ 凍る思いの アベンジャーズ (字余りの和歌)

耳や目から入ってくる聞き間違いや思い込みは最終的にドンデン返しみたいにひっくり返る面白さがあるものだ。
正に「ボタンのかけ間違い」とはこのことだ。
子が子ならば親も親でもあり、母が「カルディー」のことを「カルダイ」と言っていた。
ローマ字読みすればそうとも読めるかもしれませんが、本当にカルダイというパチショップがあるかと思えばカルディーそのものであった。
私の好きなハムをカルダイで買ってくれていたことは嬉しいことである。
これは2025年の「初笑い」に確定だ。

その後には真っ黒に焦げ付いたサーターアンダギーが「追い笑い」として完成して、サーターアンダギーという名前も面白いし、中はトロトロの半生カスタードで外は真っ黒に焦げたサーターアンダギーに腸がねじれる思いである。
キツネ色に揚がった部分の味はサクサクととっても美味しかった。
よいお正月でありました。

 

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■2025年1月6日(月)
■バランス。

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■2025年1月7日(火)
■一日一文章トレーニング。

「奈良公園に行ってきたよ」

「春眠暁を覚えず」いやいや新年早々寒くて布団から出るのが苦痛である。
「冬眠暁を覚えず」が正解かもしれない。
「覚えず」と何を覚えずなのか謎ですが、それよりも、お正月の朝は6~7時ぐらいには起床していたのに何故かお正月が終われば目覚めるのが遅くなる謎である。
これは我が家の七不思議でもあるものだ。
サーダーアンダギーの目に覗かれた呪かもしれないと、早速、焦げたサーダーアンダギーで画像検索していると、昨日の写真の焦げ具合はなかなかのトップバリューな炭化具合でもある。
そして、この黒いつぶらな瞳を見ていたならば、奈良の鹿の黒い目や鼻を思い出すものである。
そうなのである。
私はこのお正月中に奈良を旅したのである。
マイYoutubeにはこれまた何故か?鹿動画がオススメにやって来て、またその動画を観るので鹿がまたやって来る具合の鹿エンドレスである。
これは完全に奈良の鹿に鹿せんべいをあげたいと洗脳されているのである。
早速、JR奈良駅を降りて長い道を途中で買い食いなどもしながらてくてくと歩くのである。
そうして、奈良公園に着くとあっちにもこっちにも「鹿がいるー」とテンションも爆上がり。
さっそく、おばあちゃんが売っている鹿せんべい200円を購入して鹿に「ほれほれ」とあげるのである。
「あれ?」鹿は鹿せんべいを食わねいぞ!
透かした鹿たちは日向ぼっこしながら我のあげる鹿せんべいに「ふんっ」のガン無視である。
何かがおかしい。
私の知っている鹿たちは腹をすかして貪欲に鹿せんべいを奪いにくる予定である。
動画などでも貪欲に鹿せんべいを狙いに来たもので、入口付近の鹿たちは鹿せんべいをもらい過ぎているのか?貪欲さが足りないのである。
仕方がないので東大寺に向かいながら腹ペコな鹿たちを探すことになる。
東大寺の敷地や若草山にいる鹿たちは結構貪欲なようで餌を見せると近づいて食べてくれるものだ。
鹿せんべいは1枚だけを見せてもあまり反応が良くなくて、束で見せて1枚だけを抜いて鹿様に差し上げるのが食いつき良い呆法と学ぶのである。
おそらく、鹿たちも鹿せんべいの鮮度みたいなものを見極めているかもしれない。
地面に落ちているしめった鹿せんべいよりも、サクサクの新しい鹿せんべいの方がおいしいものだ。
ところで、奈良の鹿たちと戯れるのは子供の頃以来である。
学校の行事で来たと思うのですが体中にスギ花粉を付けて家に帰ってきて母にお風呂に入りなさいと言われた記憶ぐらいで、鹿せんべい代金を持っていなかったので鹿にせんべいをあげるのは今回が「初鹿せんべい」である。
大人になってからも奈良のお寺参りなどはしたことはありますが、鹿に全く興味が無くてガン無視でもあった。
その意味では我に鹿動画をオススメするユーチューブの罪は甚大である。
私は鹿に鹿せんべいをあげる為に奈良公園を散策し筋肉痛となり、鹿の丸い糞を踏み、参拝者の歩く砂埃で足靴もドロドロとなり、おまけに、いっちょうらのイタリア製のコートも焦げたサーターアンダーギーみたいな黒い鹿の鼻の鼻汁をつけられてしまったのである。
イタリア製のコートはウール95%、カシミヤ5%、同じ仲間の動物の香りがするのでしょうか?鹿が鼻をくっつけてくる理由はあるのかもしれない。
鹿は驚かしてはいけないと我慢して鼻タッチさせてあげましたが、鹿タッチの跡にはたっぷりの鼻汁がイタリア製のコートに付着していたのである。

鹿をなでなで超かわいい♪

ということで、

鹿の鼻汁は何の成分で出来ているのか調べてみた。
奈良の鹿たちはどの鹿も鼻がべちょべちょに濡れており、これは鼻の粘膜を保護し洗い流し、乾燥を防ぎ外部から異物の侵入を防いでいるようである。
また、空気中の匂いは水分子に溶けやすい性質があるようで、鼻が濡れていることで嗅覚も研ぎ澄まされるようである。
犬もクシュンと鼻汁を飛ばしているものであり、生き物の鼻が濡れていることは健康な証であるようだ。
人間が鼻べちょべちょだと嫌ですが、鳥や人がウィルスなどにも弱いのは鼻汁がない文化的、生物的な鼻水の壁を持たない脆弱かもしれない?
この水分を含む粘膜はムチンと言われるタンパク質と糖と硫基酸で構成されているようだ。
なので、私のイタリア製のコートに付着した鹿の鼻汁は善き解釈すると(無賃乗車みたいな響きですが)水+ムチンなのである。
これは良いことなのか悪いことなのかよくわかりませんが、焦げたサーターアンダーギーな鼻汁も付き、考え方によっては鹿の神様の有難き鼻汁を頂いて運気も爆上がりのである。

関係ないけれども、奈良公園をたっぷり歩いて疲れた帰り道に「下下みてい」という看板がありました。
さっそく、その下の看板を読むと古美術店の「大谷選手」と「山本選手」の看板がありました。
ここだけ青い空の元でドジャースっぽい感じがしたものだ。

 

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■2025年1月7日(火)
■春の七草。
■2025年1月8日(水)
■一日一文章トレーニング。

「東大寺ミュージアムにも行ったよ」

新年も明けて先日、ポットから冷たいお茶を飲もうとしたならば、ポットには去年の年末に洗浄中の水が入っていたものだ。
水と言っても水道水のみで洗剤は使用していません。
「ほっ」
ポットに水を入れて振り振りとウォッシャしたままの、そのポットがそのまま忘れられてテーブルに置かれていたのである。
去年まであれだけお世話になったポットなのに暫く放置されていたものであり、お正月とはそれぐらいに生活のサイクルは変化するものだ。
湯上がりには冷たいお茶をごくごくと飲む習慣があり、私はそのようなポットに入った飲み物を何の疑いも無くそのまま一気に飲み干すものである。
「むむむっあれっ?」
ゴクゴクと一気に飲んでから気づく飲み物の異変。
ガラスコップが茶色であった為に目視で異変に気付かなかったものである。
いやいや、一様にお茶と水道水の違いぐらいは識別できるかと思えば、おかしいなと思うのは氷の有る無しのみの冷たさ感知のぼんくら具合である。
マイ味覚とは本当に頼りにならないものである。
そう言えば、奈良公園の鹿たちも汚い水をゴクゴクと飲んでいたのを思い出すものであり、我と同じく汚い水を飲んでいるな-と思うのである。
昨日の鹿写真をドアップにしながら眺めていると鹿には長いまつ毛が生えていてかわいいものだ。
そして、鹿たちは悟りのような虚無のような顔をしている。
私が生ぬるい水を飲んだ時には「オエー」と大騒ぎをしていたものではありますが、今年は鹿のような虚無な表情を出せるようになりたいものだ。

因みに、汚い水を飲んでもお腹は壊しませんでした。
よかった。よかった。

ところで、

東大寺の入場券売り場では東大寺ミュージアム付きの券が発売されているのでそれを購入します。
東大寺の大仏殿は大きな建物ですが国家権力と強く結びついた国家仏教であった為に二度の戦乱で焼け落ちて再建されています。
今年は巳年ですが8Cの741年に聖武天皇が12干支の真ん中の天秤のようにバランスを保てるような世の中になるように天平と改元したのも巳年です。
また、戦乱後に雨晒しになる大仏を再建する供養の儀式が行われたのも巳年で、鎌倉の大仏も潮風に打たれて雨晒しの修行中ですが、奈良の大仏様は2度の建物消失の後に再建されております。
上野の大仏様は破壊されて顔だけだし、鎌倉の大仏様は屋根無しなので誰かのお金持ちが寄進してお家を立てて欲しいものであります。

巳年の意味とは天秤のようにバランスを持つ真ん中の干支であり、脱皮を繰り返して再生し成長する年であるようだ。
公私共々に今年がそのような脱皮できるような年になれば良いなと思うものであります。

東大寺ミュージアムに行くと国宝級の宝物がたくさん展示されております。
大きな大仏様の建立と共に、右手を「よっ」とあげた小さなかわいい誕生釈迦仏立像と呼ばれる仏像も作られております。
それが今の展示のメインテーマのようであり、私はそれを巳年に生まれた奈良の大仏が幾度となく戦乱や荒波を越えて脱皮を繰り返して、見上げる程の大仏像となるストーリーであると勝手に解釈するものだ。
(東大寺の巳年の再生と成長、脱皮を表現した展示で大きな大仏と小さな誕生仏を見る演出です)
たぶん。

それ以外にも鎮檀具(ちんだんぐ)と言われる寺院を建てる時に土地の神々を鎮めるお供えものも展示されています。
仏教寺院を建立するのに、土地の神々を鎮める発想が何か日本的な複数構造であるように思って面白く思うものだ。
建物を建てる時には地鎮祭などを行うことは当然のことですが、そのような風習は奈良時代にはもうすでにあったようです。
金や銀、鏡に銅、太刀、装飾具、水晶、ガラス玉、めのう?琥珀?、経典などなど、奉納されたものが展示されております。
写真撮影はダメだったので記憶だけが頼りですが、それら凡人には価値を見逃してしまいそうな些細なものばかりですが全て国宝です。
私はそのような昔の宝物をふむふむと眺めるのであります。

 

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■2025年1月8日(水)
■血走って 今日も安全運転 ご苦労サマー (字余り・季語夏)

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■2025年1月9日(木)
■一日一文章トレーニング。

「得るとこととは失うことであり移動転移かもしれない」

残念なことに何かを得たならば何かを失う呆則はあるものだ。
例えば、大きなモノを購入するとその置くスペースやお金は失われる。
恋人や家族が出来ると仲の良かった友達との時間は失われて疎遠となる。
人類がスマホを得たならばその利便性を得ると同時に、他のことに使っていただろう多くの時間やお金などを失う。
お金を得ようと思うと、それを取得するまでの時間を失う。
山から望む絶景の景色を拝みたいと思えば、山に登る時間や労力、お金を失う。
このように何かを得ることは何かを失うこととは表裏一体である。

特に得ることと時間やお金との関係性は強いもので、この経済社会の中では何かを得れば何かを失うとは当たり前のことである。
しかし、私にとれば得る事柄と失う事柄とはスムーズに直結しないものでもある。
この関係性とは、得るモノの特性特徴がそのまま失うもの形となるのかもしれない。
時間を使うものであれば、時間を失い。
お金を使うものであれば、お金を失い。
大きさがあるものであれば、その大きさのスペースを失う。
得ることと、与えられることとは違うのであろうか?・・・
自らの意思で得ることとは生物学的な欲求そのもののようにも思うものだ。
そして、それらを得たからと言って失われる事柄の現実なんて考えもしない日常でもある。
これは「鋼の錬金術師」の世界の等価交換みたいな話でもありますが、私達は何かを得る時には何かを失い、再び新しい何かを得ると同時に、何かを失う日常を過ごしているようにも思えるものだ。

以前、実家に戻った時に実家に自生していた多肉植物をカットして東京まで持ち帰りました。
その多肉植物は実家では雑草扱いの植物ですが、冬になると写真のように赤く可愛らしく紅葉するのが私のお気に入りでもある。
そして、その多肉植物をカットして東京の狭いベランダで育てている。
流石の雑草の類でもあり鉢一杯に他の植物たちと一緒にモリモリとよく繁殖しているものだ。

これは何かを得ると何かを失うという話でもありませんが、夏に実家に戻った時にその多肉が自生している場所が工事によってキレイに整地されて全滅しておりました。
なので、私が東京にこの種を持ち帰ることがなければ完全に途絶していた種でもある。
分散管理の必要性を強く感じるものでもあり、Aのオリジナルが絶滅しても遠く離れた場所にAの子孫であるA1が存在する意味は大きいものだ。
これは何か量子力学みたいな感じでもありますが、さっそく、実家の庭にこの雑草を植えて再生させる計画を立てて、帰省の際に実行するのである。
防災用の使い捨ての紙製の御椀に植物を入れてラップをぐるぐると巻いて運び、そして、実家の庭の日当たりの良い場所に植え戻す自然保護活動である。
そして、この多肉植物には大根の花を咲かせた白菌にも感染させているので、いよいよ植物を良く育てる白菌も実家の庭に初進出の初感染である。
大きく育て多肉植物!ついでに、白菌も大きく菌糸を伸ばして下されと願いながら土に挿すのである。
再び雑草を植えてはた迷惑でもありますが、次に家に戻った時の多肉植物の繁殖具合が楽しみでもある。

得るとことと失うことは表裏一体であり、その仕組を読み解くと移動転移であるようにも思うものだ。
暗号資産なども移転移動を伴って動くことで初めて存在価値を高めるものであり、失ったり得たりすることの背後には常に転移移動があるように思うものだ。
これは当たり前なことではありますが、改めて考えるとそのように思うのである。

 

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■2025年1月9日(木)
■オレたちのヒーロー。

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■2025年1月10日(金)
■一日一文章トレーニング。

「今、犬が伊勢詣りをしたお話の本を読んでいる」

伊勢参りは日本人にとって人生に一度の聖地巡礼であったようで人々はこぞって旅に出て、藩は関所を立てて通行料を徴収する大きなイベントであったようだ。
人々はお金を貯めて旅に出るのは勿論、着の身着のままの無一文でもお伊勢様まで向かうのが伊勢参詣のスタイルのようであり、今ではそのような徒歩での参詣はありませんので、四国お遍路参りのような感じであったのかもと想像できる。
そして、当時のニュースでは犬が伊勢詣に参拝したことが大きく話題になっていたようで、飼い主の高田善兵衛が飼う飼い犬が突然、伊勢詣りを行い無事に国元まで帰宅する素敵なお話である。
犬がある日突然お伊勢様までお出かけして、体にお金や御札を巻き付けた立派なイッヌとなりて帰宅してビックリだ。
この犬の伊勢詣りは「明和8年(1771年)4月16日の昼ごろに伊勢をお参りする」と詳細な記録が残っているそうだ。
犬は手洗い場で水を飲み、本宮の広場で平伏して神社に参ったようである。
伊勢神宮は死にまつわる事柄は禁忌であり、肉食をする者、喪中の者、葬儀をあげる僧尼や犬や鹿など動物の類も近場からの参詣は許されない場である。
犬はそのような厳重な網をかいくぐりてお参りしたようで、当時の人々の全ての関心をさらったようだ。
犬はどのような思いでお伊勢様まで歩いて旅したのでしょうか。
出会う人々によしよしと可愛がられ、水や食べ物も頂戴し、長く未知な道をトボトボと歩いたと思われます。
時にお賽銭を体につけてもらい、参詣の印でもある御札まで背負って、とっても楽しかった旅で間違いないものだ。

現代社会のヒトとイヌの関係は鎖に綴じられて自由に行動が許されない関係性でもある。
我物心生まれる時からの蚊撲滅運動家でもあり、東京に来ると蚊が全然いないのでその活動は閑古鳥中である。
そして、今、犬の鎖を外して人と犬が共存できる道はないものかと新たな活動を考えるのである。
江戸時代までは飼い犬は鎖に繋がれることも無く、家の番犬としてのお勤めをしていたものだ。
犬がどこかに出かけたいと思えば、それを咎める人はいなかったはずで、渋谷のハチ公の頃でも渋谷駅まで勝手に散歩して夜なると自宅に帰ってきたものだ。
正に番犬機能は全くないものですが、犬は自由で鎖に繋がれていなかったようである。
犬に鎖をつけるようになった事柄はどこに起点があるのでしょうか。
西欧化の流れかと思いても、ドイツなどでも鎖をつけずにエッペラく歩いている大型犬がいるもので、鎖の有る無しは国の近代化と関係ないように思うものだ。
パンデミックな時を思い返すと、病気に過剰反応する国民性はあるもので狂犬病などの啓蒙活動と共に犬は鎖に繋がれてしまったのかもしれないものだ。
知らないけれども。
高齢化社会の複数の家庭で犬を番犬として飼えば、犬はその家々を巡っておやつを貰い、ナデナデと可愛がってもらい、異変があれば人に教えることも可能なものだ。

いやいや、
彼奴等毛むくじゃらとは結構凶暴な面もあるものだ。
我も子供の頃に鎖に繋がれていない脱走犬一匹(丸々と太った中小型犬)に追いかけられて学校の門に必死に登って助かったことがある。
スタンド・バイ・ミーな映画でも猛犬にお尻を噛まれるようなシチュエーションがありましたが、猛犬に追いかけられて壁を登る経験がないとあのシーンは撮影出来ないものだ。
実際に犬に追いかけられてよじ登るとお尻に犬の牙がかすることは常識なのである。
我、牙剥く猛犬が怖くて持ち歩いていたお気入りの玩具を落とし、それをガミガミに噛まれてブンブンと振り回されて恐怖していたのである。wwwwww
そのような野犬が徒党を組むとなるととっても怖いのだ。

奈良公園のように鹿とヒトが自由に仲良く共存できる呆法はないものかと考えるとイッヌの学校を作るぐらいしか思いつかない。
カリキュラムは「人を傷つけない、人を守る、自分自身を守る」のアシモフの3原則みたいな教育で人間世界の仕組みを教えて晴れて人と犬は共存関係を構築するのである。
信号の渡り方、歩行者の優先、おトイレの場所の確認、危険な場所、毛の生え変わりの時期には必ずブラッシングをしてもらい、困った人を見つけたら真っ先に駆け寄って助けるオレたちのヒーロー犬。
イッヌの鎖を解き放ちて高齢化社会のケア“ドック”ターとして新しいお役目をイッヌに与えたいものだな~。
我らの必ずやって来る老後に向けて犬と共に生きる道も考える必要もありそうだ。

 

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■2025年1月10日(金)
■キラ~キラ~ヒ~カ~ル~オレたちの刃。

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■2025年1月12日(日)
■敵のイメージはこのような感じ。(自作の音楽付き