■2023年6月1日(木)
■一日一文章トレーニング。

「はじめて作るので味のわからない謎レシピ」

冷凍保存している山椒の実の一部を塩漬けにします。
先ずはキレイな小瓶を用意してアルコールスプレーでシュッシュッとふりかけて殺菌します。
次に小さな山椒を小瓶の中にキレイに薄く並べて塩をふりかけます。
その上に再び、山椒の実を並べて均等な平になるように塩漬けにします。
幾重にも重なる山椒の地層とはなかなかにドキドキとさせるビジュアルです。
先日、塩漬けにした白菜漬物に山椒の実を入れると山椒のある部分を食べるとピリリと風味良い美味しい漬物になりました。
なので、塩漬けの山椒の実には食べ物を美味しくさせる何かになるだろうと思う予感はあります。
パスタやうどんのお供であるタバスコの裏面には塩漬けの唐辛子を3年間熟成させて作りました・・・
「ドヤっ」な印刷もあります。
私の頭には3年間も熟成された実山椒のエキスが「ドヤっ」と浮かびます。
他人から見たら、3年間熟成された実山椒とは絶対に口にしたくない不気味な液体なのかもしれません。
私でも他人が作った3年熟成には警戒します。
実山椒も3年間熟成させればタバスコのような謎の調味料みたいなものができるのかも謎なのですが、そのような全く想像できないところが面白きところ也。
3年後の2026年6月頃には何かしらの答えが出ている「実山椒の夢」。
「真夏の夜の夢」みたいな演劇でバレリーナが踊る映像が頭に浮かびます。
クセありの山椒の実が3年間熟成されると、クセが抜けるのか?そのまんまの山椒であるのか?
殻が崩れ始めると、柑橘系の香りは消失してしまって、ただのピリリと塩辛い塩になるような予感もします。
なので、そのような微妙な瞬間を狙って調味料として加工することが良いような気もします。

なぜ、3年なのか?とは単なるタバスコ熟成期間にのっとった熟成目標でもあります。
とりあえず、ビンのフタに「実山椒の塩漬け R050531」と記載して冷蔵庫で熟成します。
ガラスなので途中経過の様子も観察できるのですが、おそらく、3年も待たずにちょこちょこと使用して空になってしまいそうな予感もします。

ところで、

「実山椒」を手書きで書こうと思うと「椒」の字が書けません。
さっそく調べると、「木」に「叔」で「椒」となる。
これは「叔父や叔母」の「お」であります。
または、「淑女」の「しゅく」で上品な女性に使われる「叔」の字でもあります。
漢字は書けないのに、なぜ?漢字を読むことができるのか?それはとても不思議なことではありますが、恐らくこれは絵を見るように文字を読んでいることのような気もします。
絵を描けなくとも、絵記号の意味を認識し、感じの細かい部分は見ないでも全体で認識する感じなのかもしれません。
漢字から判断するにあたり、山椒とは様や殿、氏、高、尊、御・・・などの敬称の付く木の実であります。
※「叔」は敬称だと判断しましたが、調べたけどよくわからないので、「叔父や叔母」が敬称でなければ少し悲しいという判断から勝手に敬称に加えました。
敬称を持つ植物とはこの山椒の実以外に思いつかないので、山椒とは敬称を持つ珍しい植物だと思われます。
大切に熟成させて味わって食べたいと思います。

 
■2023年6月1日(木)
■ネコ〜
■2023年6月2日(金)
■一日一文章トレーニング。

「無駄なき無駄は無駄に無駄を救う あ〜悩ましき文章トレーニング」

ザーザーと大雨が降る雨音を聞きながら、タイパ(時短)コスパが闊歩するこの世の中で無駄に長文の日記を書く意味について考えます。
昨日の「一日一文章トレーニング」を要約すると下記のように文章を圧縮できます。


実山椒を塩漬けにする。
タバスコのように3年間熟成された実山椒の塩漬けはどのような調味料になるのでしょうか。
3年後の塩漬けの実山椒には夢がある。
ところで、
実山椒の「椒」の字が書けなかった。
「椒」は「木」に「叔」と書く。
「叔」とは「叔父・叔母」の「叔」である。
敬称であるような気もするので、山椒は名前に敬称を持つ珍しい植物だと思う。
(余談:)漢字を書けなくとも、読むことができる漢字とはすこす不思議な文字である。
それは、絵を描くことはできなくとも、絵記号(表意文字)で認識できる視覚情報でもある。
漢字は文字全体を絵のように認識しているので書けなくとも読めるのかもしれません。


というような具合に、12行ぐらいで事済む事柄を長々と何十行の長文で書き記します。
これは「要点をまとめてから出直して来い」怒られても仕方がないことであります。
だからと言い、いきなり要約できるかというとそうでもありません。
要約するには「たった一つの言いたいこと」が必要です。
「たった一つの言いたいこと」は心の底に溜まっている人に伝えたい言葉であります。
私の場合「特段の言いたいことがない」ことが、要約を作ることの難しさの一つです。
ならば、このように一旦長文を書き起こしてから、それらを要約をまとめれば良いのではないかと思いますが、それはとても気の遠くなるような作業です。
浮き輪で太平洋に挑むような面倒\草さ/で、わい1日で轟沈です。www
要約した文章とは「現実」と「結果」だけを書き抜いた文章で、これらは無味乾燥とした文章でありますが「言いたいことだけを書いた文章」でもあります。
本来、人に伝えるだけであれば、そのような感じでも十分ではあります。
その意味ではTwitterの文章とは「言いたいこと」で溢れていると思われます。
私の目線から言えば、Twitter上に書かれる内容こそ長文で「何でそのように思ったのか」「それをどのようにしたいのか」「それからそれから」・・・と詳細を書き記す内容であるようにも思われます。

要は「言いたいことが無い」ことが問題なのです。
「言いたいことは無い」けれども、ネタ不足の中で何か長文を書くとなれば、見たままに、思うままに、つらつらと口八方に四苦八苦して適当に書いてしまうことになります。
このようなことが無駄に文章が長くなってしまう自己分析です。
それらはだらだらと書きながら考えて、時に寄り道してクンクンと、または、あっちへクンクンと心の迷いや葛藤を含みながらと普段思うことを書く加えて野良犬のように放浪する姿でもあります。
それら無駄なクンクンを良い解釈すると「数行分に要約できる内容を探しながら書いている」とも言えます。
なので、長文の無駄は無駄ではないのかもしれません。
無駄な良い面は、無駄に余計なものがあるからこそ世の中が面白くなる面もあります。
全く無駄のない身の回りとは窮屈でしんどいものでもあります。
失われた30年とは、企業がムダを排除し続けた30年間だったとも言えます。
かつて音楽を持ち歩くことの発明や、狂ったデザインの車や機械のデザインに続くものは無駄の排除の先に何も生まれなかったような気もします。
一見無駄に思われる音楽を持ち歩くことが人の生活スタイルを変えたことは、無駄が単なる無駄ではなかったことの一例ではあります。

ワード5ページぐらいをササっと書けるぐらいの文章力量を得る為の文章トレーニングではありますが、文字量に重点を置くと無駄に贅肉だらけの文章でもあります。
ですが、いつかそのような無駄な贅肉が無駄にいい感じの筋肉になれば良いなと思います。
「無駄なき無駄は無駄に無駄を救う あ〜悩ましき文章トレーニング」
何の話しか。uuu

 
■2023年6月2日(金)
■不揃いな猫踊り。
■2023年6月3日(土)
■一日一文章トレーニング。

「大根の花が咲きました」

いやはや、昨日はすごい雨でした。
おそらく、たくさんのコビト達が坂の下に流れてしまったであろう規模の大雨です。
植物界のお嬢は葉水好きなので外に出して滝行の僧のように強い雨に打たれておりましたが、逆にアフリカ勢のサンスベリアたちは先日の雨続きの時には少しグッタリとしていたので過剰な水分を吸収しないように室内に避難します。
出たり、入ったりの入れ替わりの激しい植物の取扱いとはそれぞれに個別対応でもあり、とても手間のかかることであります。
この大雨はこの汚れた街をキレイに洗い流してくれましたが、「台風の接近」+「前線の張り出し」の組み合わせは大雨被害の危険性が高まるのサインでもあります。

ところで。

昨日の朝、大根の花が咲きました。
1センチ程の大きさの白地に薄いピンク+紫色の花、2輪を咲かせます。
大根の花とは当然、今まで見たことのない花でもあります。
朝起きて、おトイレ行った後に、カーテン開けたならば机に置いている大根の花が咲いているのが目に入ってきて「大根の花は咲かせることできるのだ」と少し感動を覚えました。
そもそも、大根の花がこんなにもキレイ色で可愛らしい花であったことに驚きです。
今朝は昨日の朝に咲いた花がしおれ始めて、新しい3輪目の花が咲き始めている感じでもあります。
花の蕾もわらわらとたくさん出てき、数を数えたならば1・2・3・・・26・・・とイッパイたくさんの花の蕾が溢れます。
最初に咲かなかった紫陽花の花のように群らがる花の蕾とは異なって、今回の花の蕾はポツポツと分散して散らばる花の蕾です。
新茎を伸ばす前に遺伝子データーを書き換えたかのような環境適応能力を感じますが、それは、もともと持ち合わせる「第二プラン」となる遺伝子レベルの生存設計なのかもしれません。
生命とは、正にこのように不思議で面白い成長ぶりを発揮します。
先日2段目に生えてきた茎の長さは約12(10)センチ伸びました。
4日間で(2)センチの成長で元サイズから比較すると約2倍の成長です。
4月21日にスーパーで買った大根に花の蕾を見つけて包丁でサクッとカットして咲かせてみようホトトギスと、なんちゃって流の華道家元風に生けてまいりましたが43日目の開花です。

さっそく辞典で大根を調べます。

【大根】
アブラナ科の一年生または越年生草本。春に分岐した枝から薄紫色、十字状の花を付ける。
この4枚の花びらの花です!
悪い意味だと大根役者などと言われることもありますが、大根役も何のそのなの美しさであります。
雑草風の花と言えば雑草風の花には見えますが、私から言えば、なかなかに可憐でかわいらしさを持った花であります。
辞書には大根の絵がたくさん描かれております。
三浦大根の太くて大きなどっぷりとしたカタチ、森口大根の細々として長いもの、桜島大根の丸く大きなものや、岩国赤大根の赤色の大根まで様々な形状の大根があります。
スーパーで見かけるのは宮重大根や三浦大根で、寧ろ、それ以外はほとんど目に入ったことはありません。
宮重大根は葉に近い部分にグラデーションがかかった緑色の大根で、三浦大根は全面真っ白の大根です。
この大根は確か真っ白であったような気もするので三浦大根であるように思われます。
花が咲く前の変化としては、生ける水がすぐに汚く汚れてきたこと。
それまでは水の交換は2〜3日で水が汚れてきて交換するサイクルでした。
すぐに水が薄い藻が広がったような汚れてくるので、1日2回ぐらいは水を取り替えています。
今考えると、これは新しい茎を伸ばして花を咲かせる為の新陳代謝の高まりな現象の一端でなかったのかと思われます。
今朝も水を取り替えましたが、今、このように文章を入力している間にもショットグラスの底に緑色の沈殿物が溜まってきているので生命活動はまだまだ盛んで成長しそうな予感です。
汚いお話しではありますが、植物も人間のように何かを取り込んだら不純物を排出するサイクルはあるようです。

 
■2023年6月3日(土)
■ステップ・ステップ〜ねこ踊り。
■2023年6月4日(日)
■一日一文章トレーニング。

「予想外の晴天の低気圧」

本日も快晴。昨日の土曜日は午前中の怒涛の大雨が明けた後はとても良い天気でした。しかし、ほんのりと頭痛を感じる土曜日でもありました。

坂道を下りて、橋を渡り中央線に向かって移動します。土曜日の中央線は快速が止まらないのでアクセス方法を考えながら電車に乗らなければなりません。やって来た電車に迷わずそのまま乗車してしまう癖とは私の悪いクセでもあります。目的地の駅を快速や急行で通過していく様子を眺めながら「やってしまった〜」とボードゲームの一コマや二コマと戻りて鉄道路線を右往左往することは昔から変わらない姿でもあります。去年は東急線の電車移動で迷子になりました。電車の移動とは人任せに何も考えずに、その人の後をついて移動するだけで目的地に着くことは理想的ではあります。早くカモ〜ンAIの執事さん!!普段使わない電車に一人で乗るのが苦手とはダメ大人選手権の一つの型。そして、この中央線はなかなかに揺れが心地良い電車であります。スマホのヘッドフォンの端子が壊れてしまったので音楽も聴くこともできないので、ゴトゴトと揺れながらできることは寝ることぐらい。(有線デス(>_<))本格的に寝ないように気をつけながら狸寝入りをします。狸寝入りの理由は、前の席に座る誰か知らない人とちょくちょくと目が合って気まずいこと。スマホで見たいものや、やりたいことも特にないので寝ます。地下鉄だと目をそらして窓にやると後ろに立つ人の顔が窓に写り込み、ある種のゾゾっとホラーなこともありますが、その点、昼間の中央線は立っていれば車窓のキレイな風景を見えるのでUFOの一つや二つを飛んでいないかと楽しむこともできます。だがしかし、中央線とは結構揺れる電車でもあります。吊革とは潔癖症ではありませんが頑として触りたくはない吊り手でもあります。長時間乗るとなれば座席に座って移動したい中央線でもあるので、ゆりかごのように心地良い揺れで、寝すごしてしまわないように緊張しながら電車に乗ります。電車の心地良さとは目的地近くづく程にMAXな眠気がやってきます。寝過ごしでなくとも本を読んでいれば集中しすぎて乗り過ごすこともありますが、私の中の電車問題は車内でリラックスして乗り過ごすのか?移動のアクセスを考えすぎて頭が痛くなるのか?。もう何年、東京に住んでいるんだと思うぐらいに、永遠に馴染まない電車移動であります。全ては土曜日の中央線快速が止まらないことが頭痛の種だと思っていたら、「あれっ?」 電車を降りても頭は痛かった。

痛いと言っても、耐えがたき痛さでもありません。昔のテニスプレイヤーが頭に付けているヘッドバンド(とても窮屈な)を頭に付けている感じの痛みです。そして、何とか帰宅して、雨の被害が大きかった台風雨の移動を天気図を確認していたならば、昨日の午後は晴天でしたが、南北に大きく繋がる低気圧にすっぽりと覆われております。これが昨日の頭痛の原因だったと思われます。

お〜地震が揺れた「怖わっ」
 
■2023年6月4日(日)
■ネコ〜ネコ。
■2023年6月5日(月)
■一日一文章トレーニング

「大根の葉の生存戦略をネットワーク図にした」

今朝は久しぶりにキジバトが鳴いています。
何度聴いても「ポーポエ(ペ)キョ」なのか「ポーポエポウ」なのか?言語化にできない鳴き声です。
キジバトの歌はカラスの「カーカー」と空を飛んでいくガ鳴り声や、道を歩く人の話声でも鳴き止みます。
キジバトは大きな音の横槍があると鳴き止む習性があるようです。
確かに、キジバトの「ポーポーポ」な音とは静かで、のどかな場所で聞こえてくる感じはします。
雀やドバトであれば「チュンチュン」「ポポッポ」と雑踏の中でもよく鳴いてはいるもののと比べても、キジバトは比較的静かな場所でしか聞かない鳴き声ではあります。
今朝のキジバトは様々の邪魔はありましたが、2〜3度鳴いたらすぐに鳴くのを辞めるので、キジバトにも「今日は何か違うな〜気分が上がらないな〜」と思う日はあるのかもしれません。

ということで。

先日の大根の花には遺伝子情報を書き換えたような不思議な成長具合を見つけました。そこで、花の開花過程をネットワーク図風に書き記します。

1)大量に密集した花の蕾は咲くこともなく枯れます。
2)ある日突然、枝分かれした茎が伸び始めてB・C・Dの3つに枝分かれます。(第二成長)
3)一番水源に近いDの茎だけが著しく伸びて成長し始めます。(第三成長)
4)Dは先端にやや密集した花の蕾(約10個)を生成し、茎には二つの蕾を付けます。
5)Dの先端E部分の花が開花して、今朝は4輪+1輪咲きそうな感じの5輪の花が咲きます。古い花はしおれ気味ではあるものの、まだ花を咲かしております。(開花)
6)Cは平均的なバランスを持った茎。平均的というのは先端にやや密集した花の蕾(約10個)と茎から生えた花の蕾(約10個)を持つBとDの間を取ったような特徴を持ちます。
7)Bは先端にやや密集した蕾(約10個)のみで茎に花の蕾はありません。

一般的に花の開花とは常に同じよう開花するようにも思います。紫陽花ならば紫陽花の種類にちなんだカタチの密集した花を咲かせます。この大根の花の面白いところは最初の密集した花の分布とは異なるカタチで蕾を分散させて花を開花させていることです。当初、白く大きな大根の実は切り落とされているので、密集したAの花は咲かすことはできませんでしたが、その後、新茎を伸ばすにあたり、上記のような3つの改良点を作ってきました。それはショットグラスに生けられたエネルギーで咲かすことのできる分量の花の蕾と分布です。Aの枯れて咲かなかった花の蕾から分岐した茎はB・C・Dの特徴の異なる3パターンの新芽付きの茎でリスクをとるカタチとも言えます。これは私よりも数倍のおりこうさんなカタチです。現在、水源から一番近いD茎から花を咲かせておりますが、今後どのような花の開花を見せてくれるのか?楽しみな成長です。

ところで。

先日、一番長いD茎の長さを12センチと計測していましたが、本日計測すると長さは10センチでした。サイズが短くなることはあり得ないので「なぜ?だろう?」と思い浮かべると、前回は巻尺を使用して計っていました。巻尺分をたわわに緩みから2センチの鯖を読んでいました。(修正)

「鯖を読む」とは変わった言葉であります。さっそく辞書で調べたら鯖を数える時に数量をごまかして数えたことに由来するようです。「鯖を読み」で実際の鯖数との差額分から利益を得ること。または、実際よりも大きくものを言うという意味でもあります。魚の管理とは鮮度もありますし、数匹や〜トンの計量から、種類も個体差があり微妙に様々に異なる生き物なので「鯖を読む」な曖昧さからも、大変そうな商材であるような予感はします。

 
■2023年6月5日(月)
■ネコジャンプ。

■2023年6月6日(火)
■一日一文章トレーニング。

「大根とは”無駄”と”成長”と”選択”な象徴なのかもしれません」

植物界のお嬢の土壌の表面に付く、キレイな苔の半分ぐらいがナメクジに食べられました。(草)
昨晩、大根の葉っぱの研究の為に蕾をメモっていたら、昼間の強い紫外線から室内に避難しているお嬢様の根っこに気持ち悪いナメクジを2匹発見する。
お嬢のうねうねうねるメドゥーサな根に擬態化しているので、よく見ないと見つけられないナメクジでもある。
凝視しないと見つけられない故に、仕方なくよ〜く見てしまうナメクジの姿でもある。
どこからどう見ても気持ち悪く、戦慄!恐怖!する姿。
2センチぐらい1匹、と1センチサイズが1匹の合計2匹。
あんなにも小さいのに我を恐怖させるナメクジとは恐ろしい存在である。
こんなにも危険で満ち溢れた世の中で無防備にブヨブヨな表面を晒しているのはちょっとおかしな奴でもある。
蝶々の芋虫の外皮を纏うのを忘れてしまったような生物であるようでもある。
オスとメスの違いがあるのでしょうか?知りませんが、ナメクジのカップルかもしれません。
昔であれば、ナメクジに塩をふりかけて処分するところではありますが、流石にお嬢の根っこに塩を振りかかかることには躊躇します。
爪楊枝を2本出してきてお箸のように摘んでポイっと捨てることとしますが、ナメクジの下に爪楊枝を挿すと何故か?自ら乗ってくるくらいにネバネバと従順なナメクジでもあります。
爪楊枝は1本で十分。
大きいナメクジはお腹に苔玉を抱えた強欲なナメクジです。
強欲ナメクジ斬捨て御免!
小さな女の子ナメクジも斬捨て御免!
いやいや、本当は大きい方の強欲ナメクジが女の子ナメクジかもしれません。
ナメクジ2匹はティッシュに包みてポイっとゴミ箱に捨てます。
潰すと気持ち悪い液体が溢れてきそうなので、そのまま、そっとふんわりとゴミ箱に捨てます。
最近、気温も上昇してきたのでゴミ箱が匂う季節でもあります。
ゴミ箱を開けるとムワッと香る中に奴らをほり込み全ての予想外の作業を完了させます。
恐らく、ティッシュの紙の吸水性が奴らの体をカラカラに干からびさして水分を吸い取ることでしょう。
私は昨晩、ナメクジカップルを2匹撃退した。
そして、拙者は完全なるお嬢の下僕でもある。

ナメクジ問題を解決したら次に、大根の葉っぱに付く蕾の数を数えます。
実際の花咲く大根の葉っぱの写真も貼り付けます。

B
先端の蕾:9個(総数6輪咲いて現在4輪咲いている)
茎の蕾:0個
サイズ:2センチ

C
先端の蕾:10個
茎の蕾:13個
サイズ:2.5センチ

D-E
先端の蕾:11個
茎の蕾:2個
サイズ:10センチ

 大根の葉っぱから何を学び取るのか?それは限りある有効な資源を何に投入するかの参考になるのかもしれません。Aという花が滅びた今、大根の葉っぱは3つの可能性を作り出しました。Bは特徴が希薄なカタチである。このカタチはありふれた無難なカタチでもあり、少ない水分やエネルギーで花を育てることのできるコスパの良い一番手っ取り早い蕾の配置でもあります。CはBとDの平均的なカタチ。全ての良い面を持つ最強のカタチです。どこかで花を咲かすことに失敗してもまんべんなく蕾を配置しているので、失敗なくたくさんのお花を咲かせることのできる配置です。D−Eは奇抜なカタチ。Bからすると5倍ぐらい茎を長く伸ばす分だけエネルギーもたくさん”無駄”に消費して花を咲かしています。花を単に咲かせるには“無駄”なエネルギーをなくすことが良い選択であるように思えますが、何故か?大根の葉っぱはこの一番“無駄”の多い形態を選択しています。大根の葉がなぜ?D−Eという一見不利かもしれない奇抜なカタチを選んだことは不思議なことでもあります。これは生存競争を生き残る一つのヒントなのかもしれません。先端の蕾の総数は9〜11個でほとんど同じです。異なる部分は茎の蕾の数です。蕾の総数であれば平均的なCは23個の蕾を持っているので、最初にCのカタチを選択すれば、よりたくさんの花を咲かせることができたのかもしれません。しかし、大根の葉っぱのトレードオフはD−Eの13個の蕾を選択します。少なくとも確実に花を咲かす目的であれば、総数9個の蕾を持つB一択で間違いありません。ですが、大根の葉っぱはD−Eの奇抜で一番難しいカタチを選択します。これにどのような意味があるのかと思ったら、観察者である私に奇抜なカタチで面白がらせているのかもしれませんし、植物なりに環境を押し測った上での要求とニーズに答えたカタチであるのかもしれません。これはショットグラスに入った水が限りある資源であると考えた場合に何を選択して何に集中投資するべきなのか?という経済的な選択方法を暗示しているようにも思います。大根の葉っぱの観察を続けてそのような秘密を探りましょう。

 
■2023年6月6日(火)
■ネコバンド。

■2023年6月7日(水)
■一日一文章トレーニング。

「梅干しとは私にとって宝物であります」

写真は我が家伝統の梅干し。
1991年以前の梅干しということで、ややアバウトな表記ではありますが一言で言うととても古い梅干しのことです。
この梅干しは私が所有している梅干しの中で一番古い梅干しであります。
賞味期限切れなど近代的な基準は何のそので、江戸時代の梅干しでも食べることのできるのが梅干しの凄いところでもあります。
※今お店で売られている梅干しのほとんどは長期保存できない梅干しなのかもしれません。
表面はカリカリで、岩のようにゴツゴツと塩が吹いたようにも見えるのですが実をむしるとちぎれる柔らかさもあります。
少しちぎりて、白いご飯にのせれば塩辛い酸っぱさでご飯はいくらでも進みます。
ビンの中を覗くだけでも唾が溢れる酸っぱさでもあります。
これは、我が家に伝統的に昔から続く梅干しであるということで、戦乱や籠城、飢饉の時でも塩分をしっかりと補給できる究極の保存食でもあったのだと思われます。
不確実性な未来に対し梅干しを漬けて保管することは素晴らしき風習でもあります。

小さい頃は梅干しと言えば、このようなカタチの梅干しが普通だと思ってはいましたが、遠足など行くと他の子の梅干しと見た目が異なることに気づき種類の違う梅干しだと思っていました。
ですが、大きくもなり一人暮らしするようになると我が家伝統の梅干しは全く販売されているような代物ではなくて、手に入れることができない梅干しであることに気づきます。
なので、常にあの梅干しの味に恋しく思うことにもなって実家から送ってもらったり、実家に戻る度にビンに詰めて持ち帰り大切に食べる梅干しとなります。
子供の頃から慣れ親しむ味とはなかなかに忘れることのできない味でもあります。
梅干しコレクションは年代ごとに分別されて大切に保管されています。
年代が経てば経つほど熟成されて美味しくなるようにも思う親バカ風な梅干しでもありますが、あまり古くなると身の部分がやせ細ってしまい食べるところがなくなるので、この32年前の梅干しはやや身が細ってきているようにも思います。
所謂、私にとってこれら梅干しとはお金に変えることのできない宝物の一つであります。
しかし、この伝統的な梅干しは一旦、途絶えてしまった時期がありました。
滋賀県の親戚のおばさんが亡くなられて、一時期、誰も作ることができなくなりました。
この梅干しが大好きであった我が家でもあったので、父が伝統の梅干しを復活させることに奮起して試行錯誤して、なんとか再び食べることができるようになった梅干しでもあります。
写真のものはとても古いものなので、田舎のおばさんが作ったものだと思います。

そこで、

今年は梅干し作りを1から挑戦しようと梅を購入しました。
さっそく、黄色く完熟した梅を洗い、美味しそうな梅を一つかじってみると、これは人間様が食べれるような果物ではありません。
普段、見ることのないような感じに顔がしわしわとなり地団駄を踏む酸っぱさであり、映像に撮って見返すと多分笑える面白さがある特別な酸っぱさでもあります。(>_<)
確実に言えることは生の梅のスッパさはレモンよりも数倍スッパイ感じです。
レモンの酸っぱさとはまた異なる酸っぱさでもあるので、酸っぱさに確実に2通りのスッパさがあることに気づきます。
生の梅のスッパさは身の危険を感じる酸っぱさと表現した方が良いのかもしれません。

ということで、

今朝の部屋の中には梅干し作りに準備中の梅の香りが充満しています。
この夏はこの東京の街で伝統の梅干しを作りを行いたいと思うのですが上手く完成できるのでしょうか?

 
■2023年6月7日(水)
■「にゃおにゃお」うたうネコ。

■2023年6月8日(木)
■一日一文章トレーニング。

「ぼんやりと重い物を運んで何をする」

ノープランで街歩きすることが難しいように、文章を書くこともノープランで書き進めることはなかなかに困難であります。
なのに、毎日意味がわかならないことを書いて文字を埋める一日一文章トレーニングの苦行は、完全ネタ切れ中です。

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と、何かが「キター」こと誤魔化すのか?ジョン・ケージの無の悟りに辿りついたか如く無限のスペースキーを入力して「これはアートなんです」な文章を作るのか?と思いながら、今日もどうでも良いことについて書き綴ります。

昨日はとても暑い日でした。自転車で走っていたらならば、今年はじめて汗が顔から手に落ちる暑さです。(今日も暑そう)そんな暑い日に限り、わたしはDICカラーやPantoneカラーチップなどを運んでいた。おまけにバックの中にはスーパーの安売りキャベツなども入っています。本当はコピー用紙の束も運ぼうかと思ったのですが、もうバックに入らなかったので事務所に置いてきました。それにしても色見本の類はとても重い。重いというのか、めちゃくちゃに重い。真っ当な人間は重いカバンを持って運んでいるという噂を聞く。わたしのバックは大抵、軽い薄っぺらい。昨日は特別に重いが、毎日のバックの中で唯一重いものがiPadである。iPadだけは本当に日々活用できていると思う道具であります。買ったはいいが何にも使っていないものには少しばかりの後ろめたさも感じるものであります。徳川家康も「人の一生は重荷を負うて遠きに行く如し」と人の一生とは重荷を背負って遠い道を行くようなもので、容易ならぬものであると言っています。カバンの中身が色見本や大きなキャベツ丸ごとにどれだけの人生が詰まっているのかと考えると、キャベツ=食料、色見本=クリエイティブ・・・で、ん〜まーこれもまた人生なのかもしれないと思う。現代の偉人たちの言葉は直接的ではありますが、昔の偉人の言葉や百人一首のようなものでも「一見直接的な名言風な言葉の後に」+「容易ではない」みたいな言葉を連想させる余韻を踏んでいることが多いような気もします。ん〜まーどうでも良いことではありますが昔の人たちはよく考えて文章を起こしていたのかもしれません。一筆に「乾坤一擲・けんこんいってき」という面もあるのかもしれません。ネット文章とは軽くて修正も簡単なので文章に重みがなくなりました。それに比べてもカラー見本は重みは十分にあります。値段もとても高いのですが、自らの紙の重みからかパントーンのバインダーの閉まりがアホになっています。バインダーがアホになる状態とはどういう状態かと言うと、写真のように隙間が空いている状態です。なので、パラパラと頁をめくっていると色見本がファイルから外れてしまい元に戻すのが面倒で不便である。ツルツルコートのカラー見本はほとんど全く使用しないのでキレイなものなのであるので、手荒に扱っているからこそバインダーの留め具が変形してしまうようでもあります。変な負荷がかかって曲がったならば、逆に戻す怪力でバインダーの金属を変形させますが、一向に元に戻る様子はありません。配線同士を連結させる熱で収縮するゴム在庫があれば良いのですが、そのようなものはありません。こんなバインダーの使われ方からも特色カラーはコート色よりもマット系の方が好きなことがわかります。切り取っている色もマット系の方が断然多い。もはや、切り取るのも勿体ないので特色情報は文字だけでも良いような気もします。最近、パントーンチップをキレイに並べて靴を再現している作品を見かけました。低解像度なビジュアルは何でも高解像度な世の中には一つの教訓を表しているように思えます。目が悪い人と目が良い人で見るもの感じるものが異なるように、ぼんやりと見えない世界とはとてもしんどいものではありますが、何から何まで鮮明に見えることも何かしんどいような気もします。よく見ているのですが、興味あることしか見ていないことは自分自身の生態でもあります。全て、ぼんやりと何かを書いたり、描いたりすることは面白いかもしれません。

ということで、昨日は汗だくになりながらとても重いカラーチップを運びました。そして、今、同人誌以来の何かしらの新しい何かを作る気になっております。

そういえば、大根の葉っぱD-Eが13センチに伸びました。ここ2日間ぐらいで3センチの成長。もはや長すぎるので横に伸びています。Aはすでに枯れているが、新芽のBもCも蕾が枯れそな感じで色が茶色く変色してきました。Dの茎の横に生える蕾も枯れてしまいそうである。大根の葉っぱの選択はDを集中的に花を咲かして成長させる戦略なのかもしれません。花が咲く度に数センチ茎が伸びることはD-Eにエネルギーが集中していることになります。それでも、BとCは2.2センチと2.8センチと少しは成長しています。メモメモ。

 
■2023年6月8日(木)
■ドラムねこ。
■2023年6月9日(金)
■一日一文章トレーニング。

「長い間熟成された怪しい飲み物を飲みました 最近熟成ものが多すぎる感じもする熟成期です」

いやはや梅雨です。
雨音を聞く限り強い雨ではないのですが、途切れなくザーザーと密度濃く降り注ぐ傘必須の雨です。
室内の湿度は70%。
これから暫くはこのようなジメジメな天気が続きます。
雨が嫌いな外暮らしのアフリカ系サンスベリア類は室内に取り込んで、雨水に打たれることの好きな植物界のお嬢様は室内からお外に出します。
雨の日の恒例の景色です。

昨晩は梅干し作りの下準備をしました。
黄色く色付いた梅をキレイ洗浄し、次にヘタを爪楊枝で取り出してザルの上で水気を切ります。
水分がある程度抜けたら、程良い「ぶよぶよ」な梅をキッチンペーパーでやさしく拭き取ります。
梅干しを作ったことはないので、ネット情報に軽く目を通し自分なりの解釈で作る適当な梅干し作りです。
料理系は本当にほとんどテキトーです。

梅同士で押されることによって、あざになってしまった梅はワインの瓶詰の中に入れることにします。
竹ザルの上の梅は全く傷つくこともないのですが、梅同士がのっかりて押される部分にはあざのように痛んでしまうこともあるようです。
竹細工とは竹そのものの固さから梅に跡が付くような感じもしますが、竹の柔軟さからなのか?何の痕跡も付けないやさしさのある不思議な素材でもあります。(ピン打ち)
空きビンの中に飲んでいない余ったワインをドボドボと投入。
甘いサングリアのような味にする為に砂糖も入れすぎと思うぐらいにたっぷり入れます。
本当は梅酒のように角砂糖をと思ったのですが白い砂糖しかないので、普通の砂糖を投入します。
そして、梅の痛んだ部分は皮と一緒に剥ぎ取ってアルコールスプレーをシュッシュと振りかけてドボンと入れます。
とりあえず、何だか疲れたので今日(昨晩)の作業はここまで、キレイにした梅は冷蔵庫に入れて中断、塩漬け作業は明日(今日)やります。

そういえば、以前、酸っぱすぎた“すもも”を、今回と同じようにワインビン詰めにして冷蔵庫の中に保管していたことを思い出します。
ビンに日付などのメモはなかったので、いつ頃に漬けたのか覚えていませんがパンデミック以前に漬けたものであるような気もします。
相当な年月が経った怪しいお酒です。
ビンを開封して中身を確認すると普通にワインの香りで問題なし。
ただ、大きくふやけて膨らんだ“すもも”は多少不気味感はあります。
恐る恐る、小さな容器にスプーンですくいて舐めてみると甘くてとても美味しいサングリアなお味でした。
まったりとしたジュースのような甘みに、随分と熟成されてのどの中で尖らない飲みやすいワインに変質しています。
ものスゴイ濃い目の食前酒のような感じで、喉にはスーッと通るけれどもアルコール度数は結構高めなので、飲みやすいけれども、飲み過ぎるとヤバイ・サングリアな感じです。
何かで割って薄めて飲むのも良いのかもしれません。
ちなみに、食前酒とは何の為にあるかと思い調べたら、Wiki情報によると食前に飲むことで食欲増進や会話を弾ませる効果を期待するお酒のようです。
お酒を飲んで食欲増進はちょっとわからないのですが、少しお酒を飲むと確かに少しは上機嫌にはなるものです。
食前酒で会話が弾んでいる感じを想像してみたけれども、ヨーロッパ辺りでは店に入店する前から食前酒も不必要な位に会話も話も弾んでいる感じもします。
そう考えると、そのまんまの景気付けのイッパイみたいな感じなのかもしれません。
15センチ程の瓶なので、飲み始めたらすぐに無くなりそうな怪しいお酒であります。

 
■2023年6月9日(金)
■チアねこ。
■2023年6月10日(土)
■一日一文章トレーニング。

「詩人であり、哲学者でもあって、モデルでもあるかもしれない、イケているイグアナ」

わたしはイグアナ。
数十センチ先の頭上にはいつも小さな小鳥がいて「チュンチュン・チュンチュン」と小刻みに動き回りながら、時折バサバサと羽をばたつかせ、常に私の視線に入ってくる。
正直、羽ばたいた時には風圧と羽音に少し驚く。
それは、わたしを小馬鹿にしているようでもあり、目障りでもあり、どうしょうもできないのが飛べない爬虫類が隣人を選べない宿命でもある。
羽根があれば、すぐにでも手に届きそうな小鳥を眺めながら、今日も佇み小鳥の奴がいつも何をぶつぶつと騒いでいるのだろうかと思案する。
小鳥とは「チュンチュン・チュンチュン」と良く喋る鳥である。
吾輩のように寡黙にじっと物事の本質を見極めることに欠落した生物でもある。
奴とはちっとも、会話という会話が成立しないのでストレスにはなるが、それにのってしまうと国境の川沿いの言葉の通じない人間の子供達が石を投げ合って言葉が通じなく罵倒し合うのと同じになってしまう。
されど、わたしはイグアナである。
すぐにでも手の届きそうな頭上に小鳥が「チュンチュン」と踊っていれば野生の本能は放っておかないものでもある。
故に、今日も自然と視線は上を向き、毎日、上を向いていることもあって、背筋は真っすぐと凛々しいイグアナな佇まいでもある。
ボディー・イグアナ選手権に出場すれば自然と入賞しゃうのかもしれない美しいプロポーションでもある。
太い枝に擬態しながら頭上をピョンピョン飛び回る小鳥を眺めて、いつ何時でも研ぎ澄まされた野生の感性が研ぎ澄まされていく。

そういえば、鳥とイグアナ、太古の昔は同じ恐竜の子孫であったらしい。
どこからどう間違ったら、あのようなひ弱そうで臆病な生き物になるのかと思う。
小鳥のメリットとは何であろうかと考えたならば、奴は羽毛を生やしている、羽毛があるが故に体を保温しながらその羽で空を飛ぶこともできる。
それに比べてイグアナとは空も飛べなく、体温の保温性も太陽任せの自ら温度調整する能力は低く、鳥とイグアナの比較は獰猛な強さやカッコ良さ以外に思いつかないところが少し寂しいところでもある。
イグアナの分はどこにあるのだろうかと考えたが、鳥よりも勝る良い面はなかなかに見出すことができないことにイグアナは苛立つ。
幾分、鳥に比べれば劣ってしまっているようにも感じるイグアナ生活ではあるが、奴とて自由に大空を飛ぶことはできるのかもしれないのだが、結局、いつも私の頭上をピョンピョンと跳ねて踊っているだけの鳥でもある。
わたしが地上の王者である故に、鳥はイグアナに睨みを効かされて恐れおののき恐怖のあまり飛び跳ねているだけかもしれない。
「小鳥よ イグアナの睨みに恐れたまえ」

それとも、わたしのテリトリーに鳥が欲しがる貴重な何かがあるのだろうか。
小鳥はそんな何かしらの宝物を狙っているかもしれない。
なので、吾輩に近づくことができずに、昨日も今日も地団駄を踏んで騒いでいるのかもしれない。
我がテリトリーの宝とは何であろうか?
我が領土には立派な木とエサ入れと、イグアナぐらいの質素な空間である。
この踏み心地の良い木はなかなかに良い材質の木材でもある。
木の香りも良い。
それとも、吾輩が食べ残したキャベツを狙っているのだろうか?
それとも・・・
もしや・・・
考えないでおこう。
「地上の王者を狙う程に、小鳥の野郎はもうろくしていないだろう。」(ぶるぶる)

イグアナとは地上の王者であり、詩人であり、木に佇みながら世の中の成り立ちを考える哲学者でもある。
おまけに、イグアナ・ビルダー選手権にも出場しておかしくないアートなプロポーションを持っている。
小鳥如きに狙われるはずもなく、恐らく、この件に関してはもっと奥深い秘密が隠されているはずである。

そして、

今日も大きな巨人共が「キャーキャー」「ざわざわ」「かわいい〜」「何たれ」と騒がしい時間帯となる。
雑音に交わりながら思考することを幾分心が落ち着くものでもある。
上で飛び跳ねる小鳥の行動にはもしやこの巨人共と何か関連しているのかもしれない。
「人生を生きることは不思議なものであり、何日あっても答えがでないものである。」by イグアナ

 
■2023年6月10日(土)
■対話の可能性は・・・?

■2023年6月11日(日)
■一日一文章トレーニング。

「猫が入っていた草むらをのぞいてみた」

昨日、目の前の道を猫が横切り茂みの中に入っていきました。
一瞬の出来事なので写真は撮れませんでしたが、確か、ホルスタイン柄のような白黒のブチ猫です。

ブチ猫の「ぶち」とは何の意味なのかと調べると「ぶち」は漢字で「斑」と書きます。
動物の毛並みでいろんな色が入り混じった模様のことを「斑・ぶち」と言うようです。
「斑猫」とは様々な色のまだら模様の毛並みを指すもので、ホルスタイン柄の牛を「ブチ牛」と呼ばないように、モノトーンの白黒まだら模様の猫は厳密に「ぶち猫」と呼ばないような気もします。
されど、「ぶち猫」という言葉から連想されるのはそのような白黒模様のブチ猫であります。
これは少し面白いことです。
人により猫の詳細模様の呼び方が異なることは、統一した言い方が定まっていないとも言えます。
目の前に茶色の複雑模様のブチ猫が横切ると、茶色のまだらな猫は細かい模様のことはを省略されて「茶色の猫」と呼ぶはずです。
野良猫のように出歩かない品のある家猫は「白やグレーの高級そうな毛並みの猫」と呼ぶ感じ。
※これはあくまでも私の猫の呼び方です。
ネットを調べていると「ハチワレ」や「タキシード」などの様々な呼び方もあるそうですが、どれも初耳な言葉でもあって一般的に定着している呼び方ではないような気もします。
猫の模様とは観察が足りない故に再現もできない難しい紋様でもあります。
なので、その辺の道を歩いているザ猫たちは大体、「白」か「白黒」か「茶」か「黒」と呼ばれる猫で相場が決まっております。
そして、白黒斑模様の猫以外は細かな模様描写を省略される運命にあるように思うのですが、茶に白黒まだらに混じったフルコンポな模様の猫は何模様と言うのだろうかと考えると、茶色と省略するには模様が強すぎでもあり、それこそ、「ブチ茶」で間違いないと思うのですが、人には絶対に伝わないだろうなと思う猫模様であります。

さて、

そのような白黒まだら模様のぶち猫が茂みの中に入っていたので中を覗きこみます。
そこはなかなかに鬱蒼としたジャングルで不気味なツタが張り、ドクダミ草の花も咲いて、ジメジメとした草の下にはムカデや蛇、手足の長い大ききくて気持ち悪い生物などが生息していそうな怖い空間でもあります。
よくも、こんな草むらに入っていくものだと覗いていたならば、猫の「ミャーミャー」と鳴く鳴き声は聞こえるのですが、草が鬱蒼と生い茂げりすぎて肝心の猫の姿は見えないし、位置も特定できません。
あまりにも「ニャーニャー」と騒がしいので、私も試しに猫の鳴き真似て「ミャー」と鳴いてみたならば、草むらには「シーン」とした静寂に包まれます。
マイ猫の鳴き真似は猫をドン引きさるのに十分であったのかもしれません。
これではまるで、鬱蒼とする草むらに向かい猫の鳴き声を発している変な人間の出来上がる瞬間でもあります。
幸い周りには人っ子一人おりませんが、人とは思いがけない場所から聞き耳を立てて聞いているものであります。
悲しきかな猫の無反応に打ち砕かれて、草むらを後に先を進みます。
これが物語の世界であれば、主人公が猫を追いかけて草むらの中の魔界との境界線に落ちてファンタジーが始まるものではありますが、現実とは猫にもガン無視されるトボトボな感じでもあります。
それとも、
草むらの中にはたくさんの野良猫がいて集会前の「遅れてごめんニャ〜」の挨拶途中に、変な人間が柵の外から「ニャーニャー」としゃべっているので、こちらの様子を猫たちが警戒監視しているのかもしれません。
草むらの下にたくさんの猫がいる姿とはそれは少しこわな景色でもあります。
今、改めて写真を見ていると草の茂みの黒い部分から猫の瞳を見つけたらどうしょうと思ったりもします。
まー猫を追いかけもしないし、ドクダミ草咲き誇るジメジメした場所にも立ち入らないので物語が始まることはないのですが・・・。

 

■2023年6月11日(日)
■茂みの下の猫たち。
■2023年6月12日(月)
■一日一文章トレーニング。

「おにぎりに赤紫蘇はとても美味しい」

しそと言えば紫蘇、シソと聞けばシソンヌです。(888)
ということで、作り込まれたネタに笑ってしまうシソンヌさんの名前の由来が「紫蘇」であるのかなと思い調べてみたらフランス語のバレエの技が由来だそうです。
さっそく、YouTubeでシソンヌな踊りを検索すると、バレエと言えばな踊りです。
手を上げて、足を横に蹴り上げてピョンピョンと飛ぶ感じのバレリーナ。
紫蘇の葉っぱにもフランスっぽさの片鱗を見出そうとしますが、紫蘇とはどのような角度からどう見ても
100%のド・日本食な素材でもあります。
梅干し作りには紫蘇染めはあった方が良いのかもしれないと薄々は思っていたのですが、先日、スーパーにて偶然見つけた赤紫蘇を購入しました。
もちろん、生まれて初めての赤紫蘇加工でネットを見ながら調理します。

(一)
先ずはボールの中で葉っぱをよく洗浄して、よく乾かします。
赤紫蘇の葉っぱは緑の紫蘇の葉っぱとは異なって、なかなかに丈夫な葉っぱでもあります。
なので、神官の持つ榊のようにバッサバッサと洗浄させることができるぐらいに丈夫。
赤紫蘇のプロは洗濯機の脱水機を使いて紫蘇を乾かす程に、ガチ乾燥でカビないように下ごしらえをするようでもあるので、そのようなことができない我が家ではキッチンのハンガーにひっかけて十分に乾燥させます。
一晩かけて吊るしておけば、良い感じに乾燥します。
保存食は乾燥させると殺菌性でもグッドなのですが、よく乾燥させることで味も凝縮するような気もします。

(二)
次にボールの中で紫蘇の葉に塩をまぶして灰汁抜きをします。
暫く置いていると赤紫蘇がしなってくるらしいのですが、一晩乾燥させて完全に干からびているので強制的に手もみで灰汁を抽出します。
赤紫蘇をコネコネとコネていると団子のような紫蘇ンヌな塊になってくるので、それらを怪力で絞り出すと赤い灰汁がたくさん出てくるので、それらを流し捨てます。
その作業を3回繰り返すと赤紫蘇の下ごしらえは完成です。
塩の分量は計量してやるように書いていましたが、3度塩もみして灰汁を捨てていたならば塩の分量の意味は希薄のようにも感じます。
どうせ酢に浸ることもあるので塩の分量とはまぶす程度の適当でいいような気もしました。

(三)
次にそれを梅酢に漬けるらしいのですが、そのような特殊なものは一般家庭には通常ありません。
梅干し作りや紫蘇作りの為に、わざわざ梅酢を買うことはばからしいようにも思えるので、新生姜の汁で代用します。
生姜酢は塩漬け生姜をお酢に漬けていると自然と薄いピンク色の液体となります。
これは梅酢に近いような気もします。(おそらく)
そのような、なんちゃっての梅酢に赤紫蘇を漬けていると、真っ赤に染まる赤紫蘇の完成です。
赤紫蘇は生姜の酢漬けの中にも入れると、生姜自体も薄い白ピンク色から赤く染まります。
「朱に交われば赤くなる」
何かしらに染まっていく罪悪感を感じながら赤紫蘇をいろんな食材に役立てます。
生姜も梅干しと同じく究極の保存食で、年月が経ってもいつまでも腐らない不思議な食べ物であります。
新鮮なものも当然良いですが、時間が経って熟成されて美味しくなる食材には少し贅沢な気分にもさせてくれる希少性があります。
「希少性」とは経済の言うところの「見い出す必要性のある着眼点」でもあります。

作った赤紫蘇はおにぎりにのせると、「ザ・おにぎり」みたいなとても美味しくなります。
「おにぎりってこのような味だったよね」という日本の伝統的な味です。
この感じを言葉にすることは大変難しいことなのですが、お店で買うおにぎりではない味とも言えるし、アニメの中で美味しそうに食べるおにぎりはこのような味をしているのではなかろうかと思ったりもする「ザ・おにぎり」です。
味は赤色のきゅうりの京漬物にも似ています。
美味しいおにぎりを食べる為に面倒な赤紫蘇作りをする価値は十分にありました。

 
■2023年6月12日(月)
■おそらく、シソンヌのポーズ。
■2023年6月13日(火)
■一日一文章トレーニング。

「骨を鳴らしていますか?」

いやはや、グレーなお空、グレーな建物に「ジメジメ」するグレーなお天気。
室内の湿度は79%。
少し体を動かせば、じんわりと汗をかいてしまうような気温に、この湿度はすこすしんどい。
昨日は小雨が「パラパラ」と降って半袖では寒かったので長袖を着ましたが、長袖ではじんわりと暑くも感じてしまう服装選びが難しい季節でもあります。
おかげの湿度でもあるので頭を保温する髪の毛の中はじんわりと蒸れます。
髪の毛の中にヒンヤリ除湿棒を挿したくもなって、ネットで検索しますがそのような商品はないようです。
そのようなつまらないことを検索するぐらいに頭もオーバーヒート気味であるが故に気分転換は必要です。

私の場合の気分転換は右手左手を「ぐりぐり」と動かしてストレッチすること。
腕を動かすと骨は「ポキポキ」と鳴って体もスッキリとした良い気持ちになります。
漫画でも腕を一〜二回「ぐりぐり」と動かしたならば、何かにヤル気になるサインでもあります。
腕を回し「さあーやるぞー」と何をやるのかが問題でもありますが、当然、腕を何度も「ぐるぐる」と回していると「ポキポキ」の音も出なくなります。
それはたぶんストレッチ完了のサインです。
もう、半ばクセのように腕を何回も回すので音はそんなにも出なくなります。
そこで、音が出なければ口で「ポキポキ」と言葉で言ってしまうのが私の口癖です。
無意識に口で「ポキポキ」と骨が軋む音を再現することもあって、人から「何んで?口でポキポキと言っているの?(真顔)」と指摘されます。
そんなことを言われると恥ずかしさもMAXになるので、もっと「ポキポキ・ポキポキ」と笑顔で言ってしまいます。
自分でも「何でだろう?」と思って苦笑い。
気分的にはリアルに骨が鳴ることも、口から発した「ポキポキ音」を聞くことも同様の「ポキポキ感」を得ているように思います。
実際にポキポキ音を聞けば、骨をポキポキ鳴らす必要はないのかもしれなくて、腕を普通に動かしてヘッドホンから「ポキポキ」音を流せば、オーバーヒートした頭も納得する「ポキポキ」感だと思います。
「ポキポキ」音を口から発することは本当にアホっぽいことではありますが、なんかヤル気だけの空イメージを仮想的に体現している状態の空想ストレッチであるとも言えます。
なので、「ポキポキ」は言葉の「ポキポキ」でも十分な「ポキポキ」なのです。(面倒草〜m(__)mT)
大体、文章の中でも「ポキポキ」「ぐるぐる」「パラパラ」「ジメジメ」と擬音や擬声語が異常に多い。
それらの代用できる言葉を書いてみようと明治文豪の気分になりきって筆を進めますが難解なオノマトペです。

ポキポキ=骨骨音=私は骨を軋ませながら体のストレッチをする
腕をぐるぐると回す=私は腕をゆるりと回して骨骨と響く音を愉しむ(ある種の変態ちっくである)
パラパラ降る雨=霧雨=梅雨空の小雨(雨の表現は結構あるのかもしれません)
ジメジメ=体や室内空間にまとわりつく暗鬱で逃げられない湿度(読むのがしんどくて長い)

「ムリムリ」、絶対にムリ、髪の毛の奥がオーバーヒート気味でもムリです。
語彙力が少なすぎて泣き。
で、「パラパラ」や「ポキポキ」なしに他人に言葉を伝えることは大変難しいことであります。
オノマトペはフランス語のonomatopee(擬声語)のことで小野さんが開発したマトペ?のことではありません。
フランス人も「ボンジュール〜何々」+「ガヤガヤ」「わーわー」などと話しているのかもしれません。
擬声語と声や音を真似て作った言葉のことで、特に日本語には擬声語が多いようです。
因みに、擬音はimitation soundのことで実際の音に似せて作り出す音のこと。
そして、擬声語と擬音の違いとは何であろうか?と思う。
「ガチャン」「パリン」「ぶーぶー」「ぶーん」
「窓が割れる音」「コップが割れる音」「車の走る音」「蚊の飛ぶ音」
擬音・擬声語とは単なる音の表現なのに読むだけで情景が浮かぶ機能はあります。
これは経験に結びついた共通言語のように思えます。
日本人が日本人であるが故の誰もが共通にイメージする擬音・擬声語。
「わんわん」「きゃんきゃん」「ごろごろ」「ばたばた」な言葉は生活そのものを表現しています。(たぶん)

 
■2023年6月13日(火)
■ポキポキ骨伝道師の舞い。
■2023年6月14日(水)
■一日一文章トレーニング。

「梅雨っぽく文章を書き記す」

昨日の朝、ぶ厚く空を覆っていた雲は昼間にはキレイに雲散霧消して快晴となります。
一辺の雲も無き完全なる青空。
ときどき丸い雲は浮かんでいるのかもしれない。
朝の段階では予期できなかった貴重な梅雨の合間の晴れ間です。
燦々と降り注ぐ太陽はとても暑かったので、今シーズン初めて木陰の下を選んで移動します。
「木漏れ日の下を進むことは気持ち良い」
いやはや、これは夏だなーと思うのですが、本当に梅雨が明けたら本格的な「サマー」がやって来ます。
梅雨明け後のサマーには梅干しを干して、赤紫蘇も干して、生姜も干します。
全ての製作中の保存食に強い紫外線にバチバチと当てて干からびさせることが、今年の夏の楽しみでもあります。
「サマー」な季節はとても好きな季節でもあります。
寒いよりも暑い方が断然好きなような気もするのですが、猛暑日・熱帯夜な毎日が続くと秋恋しくなります。
そして、冬はまだなのか?とダッフルコートを着てマフラー巻いて寒さに耐え凌ぐ生活にも惹かれます。
実際は冬にはダッフルも着ないし、マフラーも落としがちなので使用しないのですが、暑くなると涼を求めて、寒くなると暖を求めてしまうのが人間の性というものでもあります。
これはあまのじゃくな自分らしい逆張り考え方という訳ではありません。(たぶん)
極度に熱量が溜まりすぎれば、反対方向を欲してしまうことは一般的な人の習性ではないのかとも思われます。
人の波長とは常に上下左右に揺れ動くものであります。

室内温度も相変わらず80%を超えない79%辺りを高キープしています。
なぜ、80%を超えないのか不思議なのですが、流石に夜も寝苦しくなってきたので寝巻も半袖半パンに衣替え。
少し前までは足冷えで「ピーピー」と寒さに唸っていたのが可愛らしい思い出でもあります。
湿度高めのジメジメな夜のお風呂上りは暑くなるので、お風呂に入る時間も早く入浴して、お風呂上りの熱量を完全に取ってから寝たいものであります。
最近はお風呂後にゴロゴロと転がってネット閲覧しながら過ごすことが多い。
そうして、ゴロゴロしていると体が冷え冷えとクールダウンしてくることがわかります。
なので、お風呂上り後には布団の上でゴロゴロするのが定番に良い予感がします。
本当の夏の暑さを経験しないとゴロゴロ暮らしの真贋は確かめられませんが・・・どうなのでしょうか。
お風呂を上がったら先ずは扇風機の前に陣取って、バスタオルを巻き付けながら体の粗熱を取ります。
そして、風呂汗がほどほどに引いたらならば頭をドライヤーで乾かして、ごろごろ過ごしてクールダウン。
ゴロゴロと転がることは体に仮想睡眠のような状況を作り出して、いい感じに風呂上り後の熱を急速に取り去る感じ。
濡れた髪の毛を自然乾燥で放っておくと抜け毛の原因になるようなので、髪の毛もよく乾燥させます。
洗面器の前で犬のようにブラッシングすると毎度、髪の毛は数本抜けますが、先日のブラッシングは一味異なりました。
「おおっ」と思う抜け毛です。
それは、洗面器に落ちた抜け毛が顔のように見えること。
片目がくりくりでスマイルのような表情のへのへのもへじ。
偶然に出来た模様とはとてもラッキーな発見であるようにも思います。
さっそく、写真を撮るのですが、お風呂場の照明とは暖色系の電球色からか微妙に怪しい色の写真となります。
また、洗面器に落ちた髪の毛をwebに載せることは下品でホラー感も漂うので、絵に描かいて記録します。

ネタ不足とは、げに恐ろしいものです。
残念なことにネタ不足の宝刀である百人一首にもこの季節の歌はなく、定番の「暑い寒い」のお話の次は、本当にどうでも良いような洗面器に落ちた髪の毛が顔になった話について書くことになります。
こんなにどうでも良いことを長文にしたためて書く自分自身にも多少ビビるのですが。
落ちた抜け毛が顔みたいになったところで、実生活や実利な面に於いては何のエキスにもならないことのようにも思えるのですが、髪の毛の顔とは心のエキスなのかもしれなくて、これはなかなかにアンニュイなお話でもあるのですが、全てが水で「ジャジャ―」と洗い流された後に心の底に溜まりて何かしらの心の肥やしになっているかもしれないという、良い解釈です。
殺伐した世の中の抜け毛の顔とは恐らく心の栄養素です。

 
■2023年6月14日(水)
■大きな顔の「アン・ドゥ・トワッ」ステップ。
■2023年6月15日(木)
■一日一文章トレーニング。

「内緒の器を作りながら思うこと」

厚紙とはなかなかに、ぶ厚く丈夫な紙でもあります。
そのような厚紙を使いて上記のような立体物を作ります。
何を作っているのかは内緒です。
隠したい秘密事を公然とwebにアップしてしまう可笑しさ。
それなりに頑丈なものができそうではありますが、紙とは所詮「紙」でもあります。
平面な厚紙を折って組み立てても、実際に完成するものはブヨブヨな強度の構造物です。
そして、最近は湿度70%代のジメジメした天気でもあって、紙も湿度を持ってやわらかい。
軽くて丈夫な紙の構造物を如何にして作るかと考えて、先ずは4辺を斜めに走るX字の柱を作ります。
X字の柱とは一般的に考えられる柱のカタチです。
ハンドメイドとは手作業であるがゆえに定規でいくら計測したところで若干の誤差は生じます。
短すぎて切り直すよりも、少し長めに紙を切りて押し入れた方が良いのかもしれないと考えて、少し長めの柱をたわませながら構造物にはめ込みます。
そうすれば、しなったカタチの柱は構造物を支え、それなりの強度を持ちます。
しかし、面の押しに対する強度はまだまだ少し弱い。
なので、十字型の柱を追加して貼り付けることにします。
そうすると面の押しにも強くなる。
そして、完成したのが「まーまー」軽くてて丈夫な写真の構造物です。

このような柱を作ってわかったことは、寸法がぴったりとマッチするとしっかりとカチッとした塊の強度にはなるのですが、柱の長さが正確ではないと、紙のたわみで構造物がしなる弾力性を持つことが面白い。
この弾力性は紙の持つ性質を利用しています。
以前、ニュースにもなったゴム素材のないタイヤの弾力性みたいな感じなのかも?
素材の持つ弾力性をたわわにたわます構造で弾力性を再現します。
図面上に正確に寸法をとって作ると遊びのないカチカチの硬いものができて、寸法取りがアバウトであると緩くて柔らかいものができます。
これは世の中のいろんな事柄にも当てはまるような感じです。

・正確なもの=硬目で弾力性はない
・緩いもの=柔らか目で弾力性がある

本当は固くて軽くて丈夫なものが欲しかったのです。
弾力性はいらないと言えばいらなくてカッチリと丈夫であればそれで良い。
どんな器でも、一度完成した器を修正することは難しいこと。
この完成した立体物でも失敗ではないとは思うのですが、一度完成したものをバラして作り直すことは至難の業でもあります。
それならば、最初から作り直した方が早いのですが、もう一度、同じ作業を繰り返すことは面倒なことでもあります。
もう一度トライしてみようと思った時にその原動力となるものは「情熱」です。
燃え上るエネルギーを燃やし作り上げる「情熱」とは「火」のことでもあります。
恋愛に怒り、仕事と「情熱」とは必須であるのと同時に、取扱いを間違えると全てのものを燃やし自分自身をも燃やしててしまうかもしれない危険なものでもあります。
立派な銀細工とは月日が経つと酸化してくすんでくるものです。
「そのような器に新しい輝きと新しい風を吹き込もうと情熱をかけ続けたならば穴の開いてしまった使用できない容器になってしまった」というのは古くからの言い伝えです。
完成した器に必要なものは「情熱」ではなくて、トンカチを繊細に叩く「技量」であるということらしい。
変に情熱をかけたならば簡単に燃え上る紙製品でもあります。
一度、完成した紙の器をどうすることもできないので、もう一度作り直すことが手っ取り早いことでありますが、古き言い伝えによれば、私に必要なものは定規で正確に寸法を測る技量と、正確に切り出す技術ということになります。
もう一つ作ってみるか〜あ〜面倒草〜な秘密の構造物。

 
■2023年6月15日(木)
■おらおらと威圧的なステップを踏むバレエキャット。
■2023年6月16日(金)
■一日一文章トレーニング。

「若い頃から選択眼を磨きたかった」

「しとしと」雨降る昨日の雨はあがって真っ青なお空が広がります。
深い青、澄み切った青の頭上の海にはポツポツと白い雲も浮かんで、そのような感じの良い天気。
今日は梅雨の合間の貴重な晴れ間であるかもしれなくて、天気が良い分サマーに暑くなる予感もします。

窓の外が青いだけでも気分も晴れやかに良い感じではありますが、
昨晩の寝る前の室内温度は25℃、室内湿度77%で「じめっと」した感じ。
今朝の室内温度は24℃、室内湿度77%で「カラりと」?した感じです。
ほとんど変わらない温度差−1℃の室温で湿度同じなのに雲が晴れて晴天になっただけでも「じめっと」から「カラりと」心象が変化してしまうことは面白いことでもあります。
人の感じる「暑い寒い」な体感とは見た目にも大きく影響する頼りないものであります。

寝る前と起きた時の室内の温度湿度を計っている理由は、第一にはネタ不足解消です。
遠い未来への仕込みではありますが、マイ半袖と長袖の境界線を室温湿度からどのように変化していくのか?データ上から探ります。
毎日の朝起きた時と寝る直前の室内の温度と湿度と半袖、長袖を計測して記録するだけの簡単な日課です。
朝起きてからの服選びとはなかなかに人の頭を悩ます人生の選択でもあり、できれば、その日の天候にマッチした理想的な服の選択をしたいものです。
学生時代は決まった服を着ていれば良いだけでもあったので、そのような服装選びは大人になってから悩むものであります。
何も考えずにパンをくわえて「行ってきまーす」するだけの簡単な朝の行事に服選びの選択はなく、確かに学校では決まった服を着ていれば、服選びに頭を悩ますこともない楽な毎日でもあります。
そのようなことを考えると服装を自由にすることで、学生に何かしらの朝の自由な選択肢を与えることはできます。
何を着て、昨日からの繋がりからどのような服を選ぶのかとの選択とは経済や人生のトレードオフなな選択を若くして学ぶような感じもしもします。
そして、確実に鋭い選択眼を持った若者を作ることにもなると思うので日本の未来の為には良いことのような気もします。
寝ぼけ頭に外気温や天気、天気予報、その他、諸々な諸条件や雰囲気を鑑みて神経を研ぎ澄まして服を選ぶことが朝の服選びの儀式です。
今日、今、どんな服を選ぶのか?はとても難しい問題でもあります。
決まり決まったスーツや学生服が少なくもなれば、服選びは毎日やってきて、服の市場規模も膨らみ皆、朝から人生の選択を必ずこなす必要ができます。
小さな選択は小さな一歩なのかもしれなくて、そのうちに大きな波へと変わるのかもしれません。
ファッションの「見た目」とは世の中が大きく変わったと感じる大きな「節目」でもあります。
江戸時代から明治維新、令和の今日までファッションはまちまちと変遷していきます。

とはいえ、
「見た目」とは−1℃の室温湿度で感じ方が変わるような危うさもあります。
長袖で良いかな?と思って出掛けたら、お日様燦々と暑くなり、シャツをめくって半袖にしたり雨に降られて長袖ビッショリとは多々あること。
気候の移り変わりも予期えきないこともあります。

大体の室温と湿度とは服選びの足しにもなるかもという未来への伏線の種です。
データ計測はまだ47日目ぐらいなのですが、その少ない情報でも室温24〜26℃ぐらいで湿度70%を超えると半袖選択が濃厚になります。
室温24℃・湿度52%だと肌寒く感じて長袖。
室温25℃・湿度64%だと快適に思いて長袖。
室温25℃・湿度79%だと「じめっと」感じて半袖。
だがしかし、
室温25℃・湿度77%でも「強い湿度」を感じながらも長袖もあります。
というような感じで湿度が70%代になってくると半袖を選ぶ傾向が強くはなります。
室温24℃〜26℃、湿度50〜70%の境界線はこの時期の長袖、半袖選択に大きく影響し、窓の外の見た目の天気を眺めながら何を着ようかと私達を悩ませます。
今日は半袖で間違いはありませんが、半袖と長袖は大きな違いでもあり、「見た目」の天気や室温・湿度、ドアを開けて外気に触れてやっぱり長袖にしようと思うこともあります。
なので、この境界線はとても面白い選択の境界線なのだと思います。

 
■2023年6月16日(金)
■癒しの舞い。
■2023年6月17日(土)
■一日一文章トレーニング。

「要約すると、捨ててしまおうと思った「白いグラタン皿」が、今一番ホットに使われているというお話」

今朝は朝5時頃に目覚めます。
すこやかで静かな涼しい無音な朝。
早起きすぎる気もしたので、もう1〜2時間程寝ようと思い布団にモゾモゾと帰る。
布団に戻ったものの、なかなかに目はパッチリと目覚めて寝むくはなかったので、本日書く文章の内容を考えながら目をつぶっていたならば、そのまま知らぬ間に寝てしまう。
なので、何も文章の構成も内容考えていない、ぼんやりと「白いグラタン皿」について書こうと思うだけの二度寝である。
次に目が覚めたのは朝の10時頃。
外から響く子供の声、ヘリコプター音、車のエンジン音などに加えて、暑くも感じて目が覚めます。
ちょっとした二度寝が約5時間の追加睡眠でビックリ。

朝5時頃の室内温度は25℃・室温54%。
そして、
朝10時台の室内温度も25℃・室温54%。
全くの同数字なのにも驚きなのですが、今の気温の方が断然暑くも感じます。
昨日に続き、人の体で感じる感覚とは如何にも頼りなくてテキトーであると確信できます。

そうして、夢の中でぼんやりと考えた題材は「白いグラタン皿」のこと。
要約すると、捨ててしまおうと考えた「白いグラタン皿」が、捨てられずに今我が家で一番ホットに使われるお皿になったというお話です。

最近、暑くもなりガスコンロでお湯を沸かすと部屋の中に熱がこもってしまいます。
確か、キッチンの下収納に電気コンロをしまっていたと思い掘り出して使うことにします。
電気ポット本体はすぐに見つかったのですが、肝心の通電する為の電気コンセントが見つかりません。
そこで、キッチン収納下をガサゴソと掘り起こし隈なく探索すると、これは、なかなかにプチ大掃除にもなります。
キッチン下収納とは、キッチンで生き場を失ったものたちがとりあえず保管される墓場のようなところもあります。
キッチン収納でよく使うものと言えば、漂白剤や鍋類ぐらいで、それ以外はほとんど使われないものであるとも言えます。
そのようなこともあり、できれば、あまり見たくもないキッチン収納なのですがゴトゴト出して電気コンセントを探しながらキッチン収納をキレイに整頓します。。

「これもいらない」
「あれもいらない」

とポイポイと分別しながら全く使っていないこの写真のグラタン皿も掘り出します。
キッチン収納にお皿が一枚だけ収納されているのもおかしな話しでもありますが、とりあえず、「今時グラタン皿なんて使わないだろう」と思い捨てるゾーンに仕分けます。
本当にいらないと思われるものは外国で飲んだ飲み物のビンや、いつの日かペットを飼った時の為のペット用お皿セットなどこそが全く使われる気配もないので用なしの”もの”であると思われるのですが、これらは何となく使うこともないのですが、捨てることはできない”もの”でもあります。
全く使わないであろうと思われるものは小さなフライパンやワッフル製造機なども一度も使ったこともないしマジいらないものであると思われます。
こうして、キッチン収納をキレイに整頓しましたが、電気ポットのコンセントは見つかりません。
薄々、脳の片隅に「この電源は何?」ということで、以前、不燃ごみとして捨ててしまったような記憶も微かにあります。
ということで、この使用できない電気ポットも不燃ごみということになります。
捨てられるゴミたちを眺めていると白いグラタン皿が気になって、「この皿は使用するかもしれない」と思い「白いグラタン皿」だけ回収します。

そして、

その日の晩から白いグラタン皿はキレイに洗浄されて、「一度使ってみるか」と使用してみると使い勝手が良くてお気に入りのお皿となります。

昔話風に言うと、めでたし、めでたし。

白いグラタン皿の良い部分は食洗器にも入るコンパクトなカタチと大きさ。
白い色もキレイで取手も付いて持ちやすく、見た目もかわいい。
深さも3.5センチ程あって液体ものから何でもこぼれずに入れることができます。
食器棚にキレイに重ねて置けないことが唯一の難点ではありますが、それ以外は良いお皿。
一度、いらないと思われたものがゴミが拾われて、今やヘビーローテーションで使用されるお皿になっていることは何かとてもうれしいことでもあります。
ワッフル製造機や小さなフライパン、電源のないポットの類は救うにも救われない”もの”であるので、申し訳なく思い捨てます。
御免候。

 
■2023年6月17日(土)
■バレリー猫が大きく飛んだ。
■2023年6月18日(日)
■一日一文章トレーニング。

「本日、洗剤の容器とはソフビの一種であると、宣言する」

いやはや、今日はムシムシと暑い朝。
昨日はムダムダである室内の温度・湿度を計測していることをドヤっていたのに、昨晩は寝る前の計測をすっかりと忘れてしまいます。
大体、ネタにして記録してしまえば自己満足してしまうところはあります。
なぜ?記録することを忘れたのか?と考えると、昨晩は今年はじめてクーラーのタイマーをONにして寝た夜でもあります。
クーラーを付けようと思うことは風呂上りの暑さに耐えられなかったとも言えるので、その室温湿度は気になります。
計測を始めて以来のど忘れで、クーラーを入れ始めれば、この計測にも何の意味があるのだろうか?と思う室温湿度の計測であります。
徐々に計測のフェーズも改良を施して微妙な暑さ寒さの狭間を見つけていきたいと思います。

ところで。

昔に海外旅行に行った時にドイツのスーパーで購入したSomatという洗剤があります。食洗器用の洗剤かと思い購入したら、後ろの説明書を見るとどうやら食器用洗剤ではなく食洗器の庫内を洗浄する洗剤のようです。それ以来、長い間、ムダに放置されてキッチンに埋もれていた洗剤にも活用する時がやってきます。大体、食洗器にも庫内洗浄モードというのがあるのですが、ほとんど最初の時にしか使ったことはありません。よって、「食洗器の中身を洗わなくちゃ」という発想もなく、いつも、食洗器用の洗剤で洗われていたら毎日、キレイになっているだろうと思うのが一般ピープルな発想でもあります。インターネットでSomatの使用法を翻訳し文明の利器とはこんな訳のわからない商品の使い方まで何となくわかってしまう時代に感謝でもあります。今は青色のパッケージではあるようですが、使い方には変化はないと思われます。あくまでも、何となく使い方がわかる状態ではあります。とりあえず、説明書に従って食洗器を「すすぎ」モードから作動させるだけでも四苦八苦。ドイツ語の説明がどうのこうのというよりも、食洗器機械の操作方法に大いに迷うというのが本当のところではあります。結局、普通に機械を空っぽのまま洗浄させて「すすぎ」モードになったら機械のドアを強制的にOPENしてSomatをぶら下げて洗浄するカタチとなります。排水溝からはたくさんの泡が出てくるので、程よく洗えている感じはします。通常、普通の洗剤を使い食洗器を作動させると「その洗剤は使ってはあかんぜよ」とピーピーと警告音が鳴り響いて動作を強制ストップします。なので、この泡立つ液体はそのような機械のNGストップに引っ掛からない特殊で騙すように泡立ち方をしていることになります。こうして、洗われた庫内はまーまーにピカピカとキレイになります。何がキレイかと言うとステンレスの輝きが増えたようにも思えます。壁面とかもキレイ。庫内洗浄モードというボタンがあるぐらいに食洗器の中もたまにはキレイに洗浄しないといけないのかもしれません。

ということで、

残ったこの容器は捨てるのか?捨てないのか?は、それは大問題ではあります。そもそも、昔からカバンに洗剤を入れて家出するぐらいに洗剤の泡立ちやパッケージ好きでもあります。洗剤会社の最終面接で家出した時に洗剤を持って家出しことがあるぐらいに御社を志望する動機があるという話をするという人がいたならば、わいであれば採用です。そもそも、人を見る目というものもほどほどにもないので、そのような面白話だけは印象に残るものです。まー洗剤会社の面接とかどーでども良い話しでもありますが、やっぱり洗剤の容器の色鮮やかなパッケージデザインは魅力です。このSomatにも形状のひっかけ部分があり特殊な形状も面白い。三角形のカタチも大変よろしい(上目線)。ただ、この洗剤は一度使うと穴が開いて密閉はできないので、中に何か液体を入れたとしても100%漏れます。所謂、能無しな容器でもある。1本挿しのiPadのアップルペンシル入れには使えそうです。それでも、外国製の洗剤容器を捨てることはできません。そのようなSomatを握りしめながらなぜ?使い終わった容器に魅了されるのかと考えると、先ずはパッケージの面白さ。外国語の表記や色やデザインが面白い。そして、半透明の透ける美しさ。赤いプラスチックの半透明がキレイに光を透過させます。プラスチック製の固すぎず柔らかすぎずの絶妙な硬さも魅力です。持った時のポンポンと鳴るプラスチック音も好き。

それらを鑑みて、これら洗剤の容器とは一種のソフビ玩具であると私は今ここに宣言します。

洗剤容器とはソフトビニールの怪獣やお人形さんと変わらない洗剤のカタチをした人形であります。小さい頃にお風呂場に洗剤の容器を持ち込んで水鉄砲にしたり、浮かべたりしながら遊んだからこそ、そのように見えてくるのかもしれないお風呂のマジックです。恐らく、私の界隈では洗剤の容器とは間違いなくソフビの一種だと思われます。

 
■2023年6月18日(日)
■「ニャオギョギャー」対「にゃぉーわおわおわー」
おでことおでこをくっつけてにゃおにゃおニャー。
訳:
「わいはお主を許す」対「われもお主を許す」
猫のバレエ団も佳境に入ってきました。
■2023年6月19日(月)
■一日一文章トレーニング。

「ついにキジバトの音声をゲットしました」

昨日の早朝、野鳥取材班は姿なき声の主の録音に成功する。
「ポーポー ポポローン」
窓の外からキジバト太郎の鳴き声が聞こえてきます。
私はガサゴソと慌ててiPadを取り出して撮影準備に入ります。
急に撮影したいものを見つけた場合に、ササッと携帯を取り出せれば良いのですが、大抵はそうは問屋が卸しません。
カバンから素早く取り出そうと縫い目の折り返しに引っかかる携帯電話。
電源ボタンの起動に失敗してあたふたと。
画面を開いてカメラを起動させようとすると普段見ないようなアプリ画面が起動して「何やコレ?」と結局、撮影機会を失ってしまうこともあります。
当然、写真モードから動画録画モードへの切り替えでも手こずります。
機械音痴でなくとも、ほぼ全ての作業に手こずる緊急撮影。
これだけでもどれだけの時間を消費したのだろうか?
鳥の撮影とは大抵、遠い場所にいるしズームしてもフレームの中にいなくて「どこにいるんや?」と難しいもの。
被写体が悠長に待っていることはほぼありません。
撮影したいものを見つけたならば、慌てずにゆっくりと優雅にヨーロッパ人のような振る舞いをイメージしながらカメラを撮影することが吉なのかもしれません。
若しくは、パパラッチのようにいつ何時もカメラ片手に準備万端な状態にするか、「偶然に撮れた!」に期待するしかありません。
慌てて撮影する場合、ほとんどのシャッターチャンスを失っている呆則はあると思います。
ただ、ヨーロッパ人的な余裕の優雅モードで撮影準備に入ったとしてもシャッターチャンスは確実に失われてしまっている可能性も高い。

ただ、キジバトは一度鳴き始めたら数回連続で鳴くことを期待できる鳥でもあるので、そこは鳴きながら飛んでいくような難易度の高い鳥よりも敷居は低い。
次のキジバトの歌の始まりを赤い録音ボタンを押す準備をしながら待ち構えます。
「ポーポー ポポローン」・・・と太郎がやってキまーす。
さっそく、赤ボタンを押すのですが、タッチパネル反応がイマイチ悪いのが私の体質でもある。
赤ボタンに反応なくて連打していると録画をスタート・録画ストップの訳のわからない起動で初戦の録音には失敗します。

次のキジバト太郎の鳴き声をゲットする為に、再びカーテンに向かって待ち構え。
「ポーポー ポポローン」・・・の鳴き声で録音をスタート。
結構、大きめな声でもあるので十分に録音できているだろうと思う完璧な撮影でもある。
カーテンは風を「ふわり」と風を受けて膨らみ、そして、吸い込まれていく姿を、キジバトの声を背景にして撮影する感じ。
音声録音アプリでも録音できますが、後々、音声を取り出して加工しようと思うとWindows とiPadの差なのか?慣れない作業もあって、拡張子の異なるデーターのやり取りには四苦八苦する音声録画でもあります。
なので、音声を録音したい時にも動画で撮影することが最も適しているような気もします。

私はこの数日間、キジバト太郎の声を録画する為に待ち構えていました。
いつ鳴くのかと待ち構える中で、先日は中野の立体歩道橋を渡っている時にもキジバトが鳴いていましたが、キジバト太郎はコッコロコッコロと鳴くのですが、いつも姿の見えないキジバト太郎でもある。
電車が走り去った後の長閑な昼間の中を気ままにコッコロコッコロと鳴きだしてすぐに鳴き止む、そんなサイクルです。
所謂、鳥との遭遇とは神出鬼没でもあります。
油断していたならば決して撮影できない難易度の高い撮影でもある。
決して一瞬のチャンスを見逃してはなりません。
ですが、ポッケやカバンからスマホ取り出して撮影するのでは遅すぎる鳥撮影でもあるので、撮れるも、撮れないも、これは偶然的な運命しかありません。

さっそく、キジバト太郎の鳴き声を再生すると、キジバトの声は内蔵スピーカーではとても小さくて全く聞こえません。
ヘッドホンを付けることで、やっと聞こえる程のキジバトの声でもある。
その小さな音声をiPadの編集ソフトやパソコンの編集ソフトでひたすら増幅して大きく変換します。
そして、やっと取り出したのがこの音声である。
https://www.tumblr.com/enpitoroys/720511936455917568?source=share
(音声ONにする必要があります)
※でもやっぱりヘッドホン必要なぐらいに小さい・・・どうしたものか。

おれはついにやりました。
キジバト太郎の声の録画に成功です。

そんなキジバトの声を何度もリピート再生しながら擬声語にしたのが「ポーポー ポポローン」の鳴き声です。
「カーカー」や「チュンチュン」みたいな単純な奴らとは一線を画す複雑さでもある。
たぶん、他のキジバト等の声を聞いたらまた異なる擬声語に変換してしまうような、不安定で定まらない掴みどころのない難解な鳴き声でもあります。

キジバトの声を言葉に変換すると、どのような歌声に聞こえますでしょうか?

 
■2023年6月19日(月)
■バレエにはたぶんこのような動きがあると思う。
■2023年6月20日(火)
■一日一文章トレーニング。

「南禅寺の大門で雨宿りした思い出」

「梅雨は明けてしまったのでしょうか?」と感じるぐらいに、ここ数日雨の降らない良い天気。
天気図を見ると南の海上に日本列島を避けるように前線は伸びているので、梅雨明けという感じでも無さそうです。
昨日今日の快適さとは前線を押し下げる北からの風がもたらす涼しさでもありますが、そのうちにまた前線は北上してくるものと思われます。
前線なんてどうでも良いではと思われるかもしれませんが、今年の梅雨明けとは私にとって重要な日でもあります。
それは梅雨明けの真夏の強い太陽光で梅干し干しを行う必要があるからです。
梅雨明け後からお盆ぐらいまでの天日干しで梅干しをカラカラに乾燥させます。
ゆえに、梅雨明けのサマーの日々がいつになるかはとても重要な日でもあります。

ということで、

あまり関係もありませんが、最近、久しぶりにアニメ「有頂天家族2」を観ています。
いきなりの2からの視聴なのですが、物語の内容もいい感じに忘れて、始めて観る時のように新鮮に楽しくて観ています。
物語を観ていると、弁天様の声と水星の魔女のプロスぺラが同じ声優さんでもあり、プロスぺラ・ママの丁寧で不気味で節々に企みを感じの声がプロスぺラとダブります。
もしかして・・・、
可笑しなお話ではありますが、水星の魔女と有頂天家族はガンダムを動かす狸(スレッタ)と天狗寄りの人間(プロスぺラ)のどこかで一本の線で繋がった同一線上のお話ではないかと思えます。

「水星の魔女」と「有頂天家族」はどこか同一線上で繋がる物語であります。・・・たぶん・・・www

物語を観ていると玉蘭のお兄さんの南禅寺家頭領が南禅寺の門の下で将棋を指しながら、南禅寺大門の岩戸に籠りて現生に降りてこない玉蘭を待つシーンがあります。
南禅寺頭領とか玉蘭とか何のことかわからないとは思いますが全て登場人物が狸や天狗のお話です。

そのシーンを観た時、私の頭の中にも「あっ」と旋律が走ります。
それは南禅寺の門の下で雨宿りして過ごした記憶です。
あれは、パンデミック以前のことではありますが、京都の美味しいフランス料理屋でステーキランチを食べて少し散歩しようと南禅寺まで歩いたならば、突然、バケツをひっくり返したような大雨が降ってきて仕方なく雨宿りした思い出。
今も昔も南禅寺の大門と言えば、観光客でイッパイの場所でもあります。
そのような場所が、その時は私を含めた数人が南禅寺大門の下の雨宿りするガラガラの状態。
当然、写真のように階段を歩く人も人っ子一人いない大雨である故に、キレイな坂道の写真も撮ることができます。
長時間、大きな門の下で大雨が止むことを待っていたのですが、一向に止む気配もなく、キレイな石畳みに座りて、時折、雨が小降りなることを期待しながら寝転んだりと時間を潰します。
南禅寺の大門の下で寝転び座ることとは芥川龍之介の羅生門の世界に迷い込んだ感じもします。
または、戦国時代や江戸時代に置き換えても大門の下で「古の人々もこうして雨宿りしていたのだろうな」との感触を感じる不思議な歴史の繋がりを感じる瞬間でもあります。
南禅寺の大門の下ボーっとひたすら雨が止むことを待つことは今となっては貴重な思い出です。
残念ながら、南禅寺家頭領のお兄さんのように雨降る門の下で将棋を指すような人はおりませんでしたが、前世犬や狼であったらしい私(笑)がフランス料理で肉を喰らい意気揚々と南禅寺の門をくぐったならば、ものすごい大雨に振られて南禅寺の大門に囚われるという人間が狸に化かされたような体験でもあります。

アニメを観ながら、そのような南禅寺門界隈の思い出がぶわーっと思い出されてきて久しぶりに写真を探し出しましたが、たまには写真を見返して過去を振り返ることも良いものです。
写真なんてネタ収集の道具でしかないとの考えではありますが、南禅寺大門に囚われた数枚の写真を眺めると過去の記憶がぶわーっと蘇ってきて懐かしくも思い出されます。

 
■2023年6月20日(火)
■バレエ団にはこのような動きもありそうです。「ラナって鳥みたいだ」byコナン
■2023年6月21日(水)
■一日一文章トレーニング。

「部屋にカマキリが侵入しました」

カーテンに約1センチぐらいの小さな子供のカマキリ1匹。
風に揺れるカーテンにくっつく虫とは最初、大きな蚊なのかとも思いましたがよく見るとカマキリです。
どこから侵入してきたのかわからないのですが、部屋に侵入してくるカマキリとはちょっと怖い生き物でもあります。
小さいながらも鎌手をあげて「やるんか?」とファイティングポーズをとりながら、ほぼ、垂直のカーテンの断崖絶壁にくっつく姿は地球外の生き物のようでもある。
本来であればネタのご提供ありがとうと言うことで捕獲・観察という手順にはなりそうではありますが、小さなカマキリとは言え虫類と係わることはちょっと怖い年齢でもある。
蚊やアリなどであれば、「バッチ」と潰してしまうところではありますが、小さなカマキリを潰す勇気は流石にありません。

関係ないお話ではありますが、我が家ではGは未だかつて発生したことはありません。
これは自慢と言えば、自慢でもある。
私にとってGとは、フルネームで語るのも怖い生物でもあります。
何で、こんなにGに恐怖するかと言うとそれなりのトラウマがあります。
それは、昔、実家でハードロックな音楽をスピーカーの前でヘドバン状態のノリノリで聴いていた時に、どこからか?Gが飛んできて私の裸足の右足の親指に止まったことがあります。
奴らは飛んでいるだけでも十分に恐いのに、無防備に音楽を聴いているだけの私の親指に止まるという恐怖も追加されて恐怖マシマシの絶叫生物と化します。
「マーマー、ゴキ※リが親指に止まった〜」(泣き)
私の右の親指の裏には今尚、Gの掴む感触が残っております。
6本か8本か知らないけれども、全ての足を使いて私の親指にしっかりとつかまる感触は世界記憶遺産のように残っています。
その感触を表現するとカナブンとかの、そのような軟な力強い感触?ではなくて、しっかりとした重量を持つカブトムシが親指にソフトに止まるような感触に近いのかもしれません。
昆虫を家で飼っている人は愛虫を足の親指に止まらせてその感触をぜっひ試して欲しい。
親指の裏に虫が止まる感触は絶妙に気持ち悪い。
それがGで飛んでくるとなれば、頭が剥げそうな位にビックリします。
当然、私は椅子から転げ落ちてハードロックな音を背景に「G線上のマーマー」となります。
※「G線上のアリア」はどこかで何かに使えるかもしれないとは思っていましたが、カマキリから脱線するGの話に利用できるとは思いませんでした。
東京では見ないような大きな蜘蛛「遠くに追いやる」、毛虫「踏みつぶす」、G「叩きつぶす」な撃退は、大抵ママーなお仕事です。
ありがとうございます。
何の音楽を聴いていたのか?思い出せませんが、これは人生の中でも3本に数えられる恐怖な出来事であります。

そのようなことを考えると小さなカマキリ1匹にとやかく大和騒ぎになることもありません。
ここはエセ・ヨーロッパ人の如く、ゆっくりと大きく構えてカマキリ侵入に対処することにします。
小さすぎるのかピントが合わない写真撮影を行って状況証拠を記録する。
数分間の時間を消費して足一歩分ぐらいの方向転換はしているので、間違いなく生きているカマキリでもあります。
素手での捕獲はちょっと無理なので、紙ですくって外にポイっと捨てると問題解決できます。
小さな紙だと捕獲に失敗して床にカマキリが落ちて面倒なことになりそうなので、大きなA4のコピー用紙を使ってカマキリをすくい上げます。
さっそく、コピー用紙をカマキリの足元にゆっくりとぐいぐいと押し込んでいくと、「あら不思議」。
カマキリは素直にコピー用紙に歩いて移動していきます。
「素直でよろしい」
そして、
そのまま、多肉植物の森にカマキリを運んで、ゆっくりと植物の上に置いてあげようとは思ったら、コピー用紙が急に反り返り運動を起こしてカマキリはどこかに飛ばされてしまいました。\草/
カマキリの子供とは大きなキャラメルコーンみたいな巣からぞろぞろと這い出てくる生き物だと思うので、もしかしたらベランダにはたくさんの数のカマキリが発生しているのかもしれません。

わいの部屋にカマキリが侵入しようと、毎度、毎度のどうでも良いカマキリなお話でありますが、それで文字数を埋める一日一文章トレーニングでもあります。
まかりまじけましてまりけりなな気分です?

 
■2023年6月21日(水)
■猫の白鳥。
■2023年6月22日(木)
■一日一文章トレーニング。

「あー意味のわからないサボテン三兄弟」

世の中とは奇奇怪怪で意味のわからないものであります。

 我が家のベランダに鎮座するサボテン三兄弟はこの春少し大きめの立派な鉢に植え替えしました。鉢の植え替えを行うとサボテン三兄弟はとても元気になりスクスクと大きく成長しています。背丈も長いものだと一番薄緑色の(A)が最長の1メートルぐらいまで上に向かって真っすぐに成長します。(B)は茎が太くなる体形で濃い緑色でフサフサの頭を多く生やしドシンとした安定感ある成長。サボテン仲が悪かった(C)は鉢替え後に、他の兄弟仲間と和解したのか自ら近づいていき一本に束ねられるサボテン三兄弟の理想的な姿となります。万事順調。鉢の植え替えだけで3サボテンの仲がこんなにも改善されるのかと思い関心していると、その三本のサボテンが毛利元就公の三本の矢のように見えてきてサボテン兄弟が1つに団結して強くなっていく感じを喜んでおりました。一昨日までは・・・。

 事件です。一昨日、ここ数日、よい天気の日も続いたので朝の水やり時に(A)のサボテンが90度のお辞儀をするように曲がっているのを発見します。前日までは竹のように真っすぐで最長の長さを持つ(A)が曲がってしまったので病気かもしれないと触診してみたものの異常は見つかりません。茎の固さも通常通り。色や雰囲気もいつも通りで、ただ、茎が急に真横に曲がってしまいました。前日まで全ての兄弟仲が真っすぐと一つに束なり鉢の植え替えの効果を感じていいた矢先の出来事でもある。それも、今まで一番真っすぐで竹のように天に向かってキレイに伸びていた(A)が一晩でひねくれてしまったように曲がります。夜の内に妖精がやって来て曲げたような突然変化でもある。生きているサボテンの茎を人力で曲げることもできません。これはまるで、(A)が密着してきた(C)のことを「ムリだ〜」と言わんばかりの行動でもあります。まるで、わいの「好き嫌い」を体現したような行動ですが、こんなにも90度近く曲げるオバーアクションで表現する必要性について考えてしまう。露骨に「好き嫌い」を表情に出すことはこんなにも人間性の無さでもあるとも感じます。「サボテンとは、まー、植物だから仕方なし」。前日まで完全な真っすぐではなかったものの、それなりの真っすぐで3兄弟がまとまって団結している感じはとても幸せな感じもしました。(A)がこのまま直角以上の曲がってしまっては大変なので鉢に割りばしを挿して強制ブロックの柱を作ります。今まで一番真っすぐの(A)が不安定形となり、最も不安定形であったサボテン(C)が安定の真っすぐなカタチになることは立場の逆転でもあります。(B)はドシンと不動だに変化はありませんが、今まで保たれてきた環境のクセは(C)が性質を変えることで(A)の不安定なカタチとしてバランスを取ったようにも思えます。

 「門かぶりの松」とは縁起物ではあります。横に伸びることは、ある意味深みある成長とも捉えることもできます。ですが、私はそのようなアンバランスなカタチを求めておりません。純粋に横にひねくれ曲がったサボテンとはカオスです。今までも、これからも3兄弟の仲が改善されること望み、3つのサボテンが太く長く真っすぐと天に向かって成長することが私の願いでもあります。3という数字は「3人揃えば人中」とも言います。人も3人集まれば世間になるという意味ではありますが、3サボテンも集まれば何かしらの社会性を表しているのかもしれません。何せアクティブに行動できない植物でもあります。隣に苦手なサボテンがいたとしても歩いて移動することはできません。できることと言えば地表に出た本体で意思表示して避けるだけ。土を掘り起こすと根の部分でも仲たがいをしていればドン引きでもありますが、水やり主の希望としては「3人揃えば文殊の知恵」のように3サボテンの知恵でより健康に育って欲しいと願うものでもあります。サボテン三兄弟は一緒の鉢植えに植えていてはいかないのかもと考えましたが、こんなにも変な植物の生態を観察できることは面白きことでもあります。それは、「シメシメ、ネタ1つ」と性格悪な私が表れ出ている状態なのかもしれません。

 
■2023年6月22日(木)
■猫の白鳥が飛んだ よくわからないものも飛んだ 
■2023年6月23日(金)
■一日一文章トレーニング。

「ようこそ わたしの夢の世界へ」

夢で見た話は一番書いてはいけない内容です。by一般論

何について書こうかと寝ながら考えていたことは「長文と短文」について。寝ながら考えることは漠然としたイメージでもあります。そして、夢の中で見た「なるほど」な事柄は、後から考えると荒唐無稽で意味不明な事も多い。ですが、そのような、ぼんやりと浮かぶ夢の軌跡を追うしかないぐらいに今朝はノープランでもある。さっそく、ゴールが見えない夢の世界へゴー。

1)夢の断片一
夢のお話は先日書いた短文にこそ長文にするべく人に伝えたい内容が詰まっているという延長上のお話です。私は夢の中でタイムライン上に流れるツイートの内容を書き出しておりましたので、現実の世界でもTwitterのタイムラインに流れる内容をメモします。

クラウドファンティングのリツイート
雑誌の案内のツイート
飲み物の広告
商品の案内のリツイート
イベントの案内ツイート
何て書いているのかわからない韓国語のリツイート
本の宣伝のリツイート
誰かに向けておはようしたツイート
飲み物の広告
株主総会中継の告知ツイート
街で発見したもののツイート
街で起きたことのツイート
旅行の広告
野生の猫科動物・動画のリツイート
電車の遅延に関するツイート
英語で書かれた遊覧潜水艦事故ニュースのリツイート
適切な睡眠を取りましょうというリツイート
シワの広告
人生・幸福感に関するツイート
イベントの案内ツイート
工事終了のリツイート
個人的に欲しいと思う商品のツイート
研究機関の支援の広告
海外旅行に役立つ豆情報に関するリツイート
なんだこいつ動画のリツイート
USJの混雑状況のツイート
Suicaエリア拡大に関するリツイート
漫画の広告
イベントの案内ツイート
朝の顔が顔認証しないというツイート・・・

ふむふむ。

確かタイムラインには人に伝えたい情報で溢れています。吾輩がカマキリの子供をテーマに長文を無理やり書いていることと比べても人に伝える必要性がありそうな情報が多い。夢の中でタイムライン上に流れるツイートを検証することは意味あることだったのかもしれません。

2)夢の断片二
あと、夢の中でサボテン三兄弟の仲違いを長文と短文に例えて、シーソーのようにサボテン兄弟を押し倒しながら「この状態が短文で」「この状態が長文になります」と説明していた。要はサボテン三兄弟が永遠に和解して仲直りしないように、長文と短文も永遠に交わらないことを伝えたかったのかもしれません。

3)夢の断片三
夢の中では「長文とはファッションである」と名言のようなことも言っておりました。長文とは文章がぎっしりと埋まるだけで自己満足と美的な美しさはあります。1200文字・1500文字と文字のボリュームが増えると新しい服装に衣替えするような気もします。「カーテンに子供のかまきりがいたよ」という短文で事済む事柄を、その時にどう思ったのか、そして、どうしたのか、と要件だけ話せという人には怒られそうな位に個人的な感想を長々と書きます。それに過去のG話等も追加してモリモリと長文に加工することで、ある意味長文とはファッションで間違いないのかもしれません。長文がファッションであれば、他人の服装にあれこれダメだしすることは、人の服装の好き嫌いに立ち入って価値観を押し付けるような大人気ないような気もします。

4)夢の断片四
最後のシーンは初デート。どこかの喫茶店で大根の葉を水挿しで花を咲かしたことや、カマキリの子供がカーテンについていたお話、サボテンの三兄弟が仲たがいしているお話、有頂天家族2の泣いている弁天様の後ろ姿がそのまんまプロスぺラにしか見えないお話に、キジバトの鳴き方が微妙に違うのかもしれないという、ここに書いているようなどーでも良いお話を永遠と長話ししています。そりゃ当然、ドン引きされてしまうので、話しを巻き戻し、話すべき内容だけをツイート風に短文で話していたら携帯で無言チャットをする感じになり、言いたいことは確実に伝わっているのだが何が面白いんだろうかと思っているところで朝がやって来ます。

短文が良いか長文が良いのか?それは大問題であります。そもそも、話す事柄とは人に伝えるべく必要のある内容であると考えれば、話しの9割程が無駄話しと思える自分の話しでもあります。それは「キープ・シンプル」な精神にも反します。そこで考えました。長文には短文の言いたい部分の世界観も描くことで無駄に話も長くなります。よく言うと、伝えたい、ただ一つの事柄の空間部分を作り出す作業でもあるとも言えます。なので、同時に芯に付随する世界観も作り出していると解釈もできます。屁理屈は一向に減りませんが、まー何とか一日一文章トレーニングを書くことができて良かったです。ぞなもし。

 
■2023年6月23日(金)
■今朝、サボテン三兄弟を観察したならば、各自3分裂する兄弟崩壊を起こしていました。
しかし、90度ぐらい倒れていたサボテンは45度ぐらいまで自力で持ち直しました。
何をやっているのだろうか?ふしぎ。
■2023年6月24日(土)
■一日一文章トレーニング。

「頭イタッ」

あ〜頭が痛い。
寝すぎなのか?寝相が悪いのか?もしくは、枕があわないのか?と朝起きたての頭痛とは昔からたまにある現象です。
もしかしたら、寝起き一番の頭痛とは、低気圧が原因かもしれないと天気図を調べると、しっかりと存在している低気圧。
双子に大きなつながる低気圧圏内にすっぽりと収まっております。
毎度ながら私の頭痛の原因が低気圧である可能性は高いような気もします。
次回の朝起きの頭痛時にも天気図を調べて状況証拠を集めます。

このような朝からの頭痛時には生欠伸が連続で出てしまうものです。
欠伸は空気を取り込んでいるのか、空気を吐き出しているのかも、よくわからない現象でもありますが、今起きている生欠伸は日常的に起こる欠伸とは異なって、体調が悪い時に起こる時の欠伸です。
「あくび」のことを「欠伸」と書くことは、「伸びることが欠落している」とも読めます。
体を使い屈伸する訳ではなく、口だけで伸びをしている感じを昔の人は「欠伸」と表現したのかもしれません。
辞書によると眠気を催した時や精神的、肉体的に疲労した時に自然に起こる現象とあります。
いつも通りの睡眠で、全く疲労もしていない今朝の頭痛はそのような呼吸現象ではありません。
因みに、「生欠伸」で調べると中途半端な欠伸とあります。
中途半端であるとは50%の欠伸と言う感じもして変な感じもします。
ですが、よくよく生欠伸を吟味してみると確かに100%の欠伸を堪能している感じではなく、ある意味、おっしゃる通りの中途半端で途切れてしまう欠伸でもあります。

生欠伸をすると少しは頭の痛みも少しは楽になるような気もしますが、何度も繰り返しても何の効果を発揮しないような生欠伸です。
では結局、人は何の為に生欠伸するかと考えれば、意識とは無関係に自然と体が求めてやっているのかもしれないし、意識してやっているような感じも多少します。
この頭痛時の生欠伸と何かに例えるとすれば、乗り物酔い時に起きる欠伸に近い感じです。
のどかな草原や授業中の微睡む欠伸のような心地良さは全くない、少し辛い時の生欠伸。

犬でもしっかりと大欠伸しているので人間固有な現象でもありません。
経験則から言っても、いろんな人の話も聞いても欠伸は伝播する不思議な機能も持っています。
赤信号待ち中に大きく欠伸をすれば、道路向こうの知らない人や、車の中にいる人にも欠伸が伝播していくことは多々経験することでもあります。
犬の欠伸を見ただけでも人に伝播します。
そう考えると、欠伸とは何を伝えたいのか?何の機能があるのかわからないけれども、種を問わない言語を発さない通信信号のようなものにも見えてきます。
欠伸を見れば、欠伸を返してしまう生理的な現象です。
午後のひとときに欠伸すれば「リラックス」感もありますが、目と目が合いながら会話中の人前で欠伸すると「つまらない・眠たい」というメッセージを送ってしまうことにもなります。
欠伸の種類は様々あるけれど、一種、テレパシーのようなこの通信信号は受け取る人によって、様々な解釈をできるものでもあるので、道徳観や経験則から判断すると当然ながら多様な解釈な意味を持つものは、極力人前で行わないことが善であります。

低気圧対応のヘッドフォンを装着し、何回欠伸したのだろうか?の生欠伸繰り返しながら集中して文章を入力していると頭の痛みも次第に弱まります。
それこそ、腕をぐるぐる回しながらポキポキさせるぐらいまでには、朝起きのズーンと重い状況からは開放されてきているような感じもしますが、やっぱり痛い。
生欠伸するような時には体をポキポキもしないので、MYポキポキモードは体のバロメータなのかもしれません。
関係ないけど骨のポキポキストレッチ音を録音して骨伝導で響かせたらどんな気分になるのだろうか?

欠伸 = のんびり・まったり・リラックス(体調良い時) = 人を怒らせる = 伝播する
欠伸 = つまらない・眠い(心に従う) = 人を怒らせる = 伝播する
欠伸 = 無意識・生理現象(体が必要としている) = 人を怒らせる = 伝播する
生欠伸 = しんどい・生理現象(体調悪い時) = 見た目から人は怒らない = 伝播しないような気がする
体のポキポキ = 万時絶好調(体調良い時) = 伝播しません

 
■2023年6月24日(土)
■まわる まわる まだまだ まわる。
■2023年6月25日(日)
■一日一文章トレーニング。

「梅干し作りは着々と進行しています」

部屋に微かに香る梅の香りとは梅干し作りのご褒美です。
そのままでは食べれたものではない梅ではありますが、香りだけは美味しそうな甘い良い香り漂わせます。
俳句でも梅の香りがどうのこうのという歌は多いですが、こちらは春の季語です。
梅雨時に歌う梅干しの俳句となれば梅の花の季語とだぶってしまうので歌われないのかとも思いますが、このような梅雨時のジメジメした時期や、猛暑の暑い時期に唄会も開かれないと思うので、それが昔の俳句に夏時期の歌が少ない理由なのかもしれません。
梅の花の香りを嗅いだことはありませんが、このような梅の実のように花も良い香りがするものなのでしょうか。
とりあえず、梅の実の香りは大変良い香りで好きです。

ということで。

梅干し作りの面白いところは塩漬けにした完熟梅の上に梅と同等の重石で圧をかけると一週間ぐらいで白梅酢と呼ばれる謎のお酢のような液体で容器が満たされます。
白梅酢は海水のようなしょっぱいお酢で、この液体に完全に浸かった状態で約数週間〜1ヵ月ほど梅干しを漬けることで梅干しが完成するようであります。
白梅酢という名前からも、味も若干のお酢感もある液体です。
お酢とはこのような感じでできるのかと思い調べてみると、様々な作り方があって、たまたま梅の場合は重しで潰されることで発酵状態を作り出しているのかもしれません。

果物の完熟とは木についた状態でやわらく熟したもののことを言います。
色も変色し完熟期も最大になると実を落下させます。
梅干し作りに使用する完熟梅は地面に落ちたものや、色が変色して落ちる直前のものを収穫したものを梅干し作りに使うことを推奨しています。
これは実が完熟状態で柔らかかく製作時間も短くできる状態でもあることでもあります。
完熟した実でもあるので発酵を促しやすいということもあるのかもしれません。
発酵するタイミングやきっかけはよくわからないので、今後少し調べてみましょう。
梅干しを買う時に「やぶれ梅」とかの記載されていることも多いです。
梅干しはこのような落下する完熟梅を使用したり、干す時に皮が柔らかったり、重しをのせて圧迫しがら作る製法の為に「やぶれてしまう梅」であることは仕方がないことのようにも思います。

写真のものは2キロ完熟梅を使用した梅干し作り。
食べものを地べた置くことは何となく躊躇するので、部屋の台の上に設置します。
わざわざ、2キロの重りを購入することも勿体無いないので、ジプロックのプラスチック容器に水を入れて重石にするアイデアで代用します
ジプロック容器は1ケース0.5キロなので、4ジプロックをのせると2キロの梅に対応できる重石となります。
ジプロックの良いところ重ね置きできる安定したカタチです。
ただ、動かすと若干水が漏れるかもしれないので、そおーっと塩漬け梅に載せる必要があります。
押し蓋にはお皿を使います。
アルコールスプレーをシュシュとかけて塩漬けの梅に置くだけで、別途購入しなくとも十分に代用できます。
お皿は山崎のパン祭りで貰ったお皿で梅干し作りにピッタリな押し蓋です。

何かを始める時に道具も完璧に揃えたくもなる性格でもありますが、使わなかった時に捨てるのも面倒な漬物石とは部屋に鎮座する漬物石なオブジェになりそうな予感もします。
代用できるもののアイデアを少し練るだけで、結構、何とかなります。

完熟していない青梅でも実験します。
青梅はザルの上で完熟風に黄色くなるまで置いたものを使います。
こちらは白梅酢の上昇が完熟梅と比べても約2倍の2週間以上かかります。
早めに作ったのに完熟梅に追い抜かれるので、その意味でも完熟梅で作ることには意味がありそうです。
この青梅から作る梅干しは、中が見えるガラス瓶に入れて常温ではなく冷蔵庫保管しながら中の様子が見えるように観察しています。
1日目:瓶詰め
2日目:18ミリの白梅酢が溜まる
3日目:30ミリ
4日目:38ミリ
5日目:40ミリ・・・という感じで

5日目以降は白梅酢の溜まるスピードが急速に減少し、ほとんど微々たる感じもあったので計量もやめました。
小さな瓶の容器に、これ以上の重りをのせることも不可能なので、ゆっくりと白梅酢の上昇を待つだけとなります。
冷蔵庫内でもあるので発酵を促すことも少し弱いのかもしれません。

梅干しは白梅酢につかると、ぶよっと膨らんだ梅干しらしいカタチの梅干しとなります。
この形状は市販される梅干しの形状でもあるので完成に近づいていることだけは間違いないと思います。

 
■2023年6月25日(日)
■コピペではない猫の回転。
■2023年6月26日(月)
■一日一文章トレーニング。

「サボテンの動きをネットワーク図にしてみたら、新しい視点を得ます」

荒ぶるペットたちとはかわいらしいものであります。
伝えたいことが伝わらないジレンマなのか。
何かしら考えることがあっての荒ぶる行為なのか。
”もんも”くわえブンブンと振り回し、ひっくり返るようなその様には可愛さの蜜がつまっているとも言えます。
そのような意味からも、キングギドラのように自在に首を動かして荒ぶるサボテン三兄弟の姿にも面白さを感じます。
一昨日、朝起きてビックリのサボテン三兄弟は、現在、写真のような完全分離した形状となっております。
一番長いサボテンに至っては約180度も移動しているので、今回の一連の行動範囲を合計すると270度ぐらいは体を動かしていることとなります。
サボテン三兄弟の不仲説は避けて通れないサボテン事情なのかもしれませんが、サボテンたちが体を動かし出す前に私もいらぬこともしてしまったような気もします。
それは使用済みの挽いたコーヒー豆を鉢の上にかけたこと。
ネットで「コーヒー豆は土に還える」という記事を読み、それをピュアに信じた私は植物に使用済みのコーヒーの粉をふりかけます。www
本当は土をブレンドしながらの土作りが必要であるようなのですが、見た目が土だし、面倒なのでそのまま土の上にふりかけます。
ほぼ、いろんな植物の土にふりふりとふりかけましたが、他の植物に変化はありません。
ただ、今思うとサボテン三兄弟だけが雨降りの後から動き出したので、コーヒー豆の残骸水からカフェインを吸収して動き出した可能性も感じます。

ところで。

サボテン三兄弟の動きをネットワーク図に変換しました。
今まで(B)であったサボテンが長い時間をかけて、仲直りな(E)に辿り着くと、ある朝、突然に(A)になります。
次の日には(A)から90度ぐらい倒れていた茎を45度程戻し(D)になったかと思うと、翌朝には(C)の形状となります。
何とも不思議なサボテン三兄弟の大運動。

私が勝手に仲良しと判断する揃った状態(E)とはネットワーク図から判断すると、大きなサボテン軸に吸収し同化された状態とも言えます。
一般的に「長い低い」でも「高い低い」、「広い狭い」でも、これら相反するものたちは決して交わらないものでもあります。
これらは決して交わらない正反対で不変的な概念ではありますが、その特性が唯一、失われるのが(E)の状態です。
それは比較対象がなくなった状態でもあり、私たちの言葉で表現するならば「大は小を兼ねる」とも言えます。
大は小を兼ねた状態とは、”小”という存在意義がなくなっている状態であるとも感じもします。
その状態の良し悪しを判断するには様々な考え方があるのかもしれません。
絶対的な普遍的なものは絶対に変わらないというようなヨーロッパ的な視点から捉えると、それは短いものは長いものに吸収され、低いものが高いものに吸収され、狭いものが広いものに吸収されるという、本来、別々であったものの特質や特性が失われて大きなものに吸収されて同化されている状態とも解釈できます。
これはウクライナ戦争に置き換えても、大きいものが小さいものを武力で飲み込むという永遠に受け入れることのできないヨーロッパ的な視線でもあると思います。
そのような意味に於いても、サボテン三兄弟の仲良しな状態を否定するような荒ぶる行動とは決しておかしな行動ではなく、寧ろ、(E)形状に統一されている方が特別な状態であるとの認識することの方が必要なのかもしれません。
サボテンの三兄弟の荒ぶりは仲たがいなのか?使用済みのコーヒー豆の粉原因なのか?はたまた、自然の原理原則とはそういうものなのか?よく分かりませんが、見ていて飽きない植物でもあります。

 
■2023年6月26日(月)
■まだまだ回転する猫。
■2023年6月27日(火)
■一日一文章トレーニング。

「いやはや 暑いのですが ポテトヘッドのお話です」

昨日は暑くて、夜でもまだまだ暑く、扇風機だけでは耐えられなかったのでクーラーのタイマーをONにして寝ました。
ですが、今朝、起きてもやっぱり暑い。
いやはや、「サマー」な感じではなく「暑〜い」な夏です。
室温湿度が27℃・69%でまとわりつくような暑さ。
室内の温度・湿度の記録を見ると、27℃・60%前半では快適に感じることもありますが、27℃・60%後半になると暑く感じる私の体感温度です。
湿度60%の“前半”と“後半”が私の「暑い快適」の境界線であることがMYデーターから読み取ることができます。

2023年5月22日 月 夜 寝る前 27 66 暑い 半袖
2023年6月18日 日 夜 寝る前 27 63 快適 半袖
2023年6月25日 日 夜 寝る前 27 67 暑い 半袖
2023年6月25日 日 夜 寝る前 27 65 快適 半袖
2023年6月27日 火 朝 起きた時 27 69 ムワっと暑い 半袖

因みに、暑いと思いクーラーを付けるタイミングは湿度に関係なく29℃。
28℃の時もありましたが、小数点は記録していないので、もしかしたら28℃後半の温度なのかもしれません。
土日以降、室温も上昇し“寝る前”も“起きた時”も数日前よりも2〜3℃高い状態になっています。
なので、暑く感じることは至極当然なことでもあります。

暑くもなってくれば、部屋の模様替えも必要です。
夏の日差しも強くなれば、部屋に飾るフィギュアやソフビも紫外線の影響を受けてしまいます。
そこで、週末にお部屋の飾りものの整理を行いました。
そうすると、お気に入りのポテトヘッドのぬいぐるみがホコリまみれで飾られているのもお掃除します。
このような埃は外でパンパン叩いて天日干ししてしたくも思いますが、紫外線で劣化することが怖いのでガムテープを貼って埃を取ります。
ペタペタと数回ガムテープを貼っては、剥がしを繰り返しキレイに埃を取ります。
YouTubeなどを観ていても、山盛りのぬいぐるみで溢れている部屋などを観ることはありますが、あのような、ぬいぐるみには埃はかぶらないようにどんな細工をしているのだろうかと思います。
撮影用に出しては仕舞ったりしているのでしょうか?
とりあえず、部屋に飾っているものは埃をかぶります。
普段から頻繁に触っていれば埃をかぶることもないのかもしれませんが、ポテトヘッドを持って遊んだりするような年頃でもありませんので単に飾られるだけのお人形さんでもあります。
一度飾られたらほとんど触られることもなく、このような季節替わりのタイミングに合わせてたまに場所やアイテムが入れ替える時に積もった埃を取り除かれます。

ポテトヘッドはディズニーランドに行った時に購入したもの。
年齢も重ねたのでディズニーランドに行ってもグッズなんて買うことはないな〜などと上目線で話していたら一番に迷わず購入しているポテトヘッドでもあります。
中に電池を設置して、ポテトヘッドを叩くと「あっという間にマッシュポテトだぜ」「あーうるわしの我がボディー」「おーいスイートポテトちゃん」とトーキング&動くぬいぐるみです。
これはやっぱり迷わず買っちゃいますよね。
電池の残量が満タンではないので、現状はしゃべるだけでブルブルと振動はしませんが、なんとも可愛らしいポテトヘッドです。
ポテトヘッドは20個未満の所有です。
一生遊べるぐらいのポテトヘッドを持っているとも言えるので、これ以上、必要ないポテトヘッドでもありますが、たまに街やネットで見かけると無性に欲しくもなってしまうのもポテトヘッドの宿命です。
たくさん、あるが故にたまに出て来るポテトヘッド話ではありますが、豆知識で言うと、少し前のポテトヘッドと現在販売されているポテトヘッドではうるわしきボディーの形状が少し異なります。
「昔の方が良かった」と懐古厨みたいなことは言いたくはないのですが、今風にモデルチェンジする前の一つ前のポテトヘッドのボディー形状の方が私のお気に入りでもあります。
このポテトヘッドとデンマーク国鉄キャラと吊るされたニワトリ、布団の2匹は永遠のお気に入り定番でいつも一緒なお部屋の番人たちでもあります。

27.6℃・69%クーラーをONしました。

 
■2023年6月27日(火)
■ねこジャンプ。
■2023年6月28日(水)
■一日一文章トレーニング。

「ポーポーポーポーとかピーポーピーポーとかの話し」

「ポーポ ポッポッポー ポーポ ポッポッポー」
今朝起きて窓を開けるとキジバトの鳴き声が聞こえてきます。
遠くの方から聞こえる微かなる「ポーポ ポッポッポー」の声に耳をすませていると、急に近い場所にいるキジバトも同じような鳴き声で「ポーポ ポッポッポー」と鳴き始めます。
別々のキジバトが他のキジバト鳴き声に反応するように鳴いているようにも思えて面白いことであります。
早速、キジバトの音声を録音するべく動画撮影を始めます。

1)遠くのキジバトが鳴く
2)近場のキジバトが鳴く
3)遠くのキジバトが鳴く
4)近場のキジバトが鳴く
5)静寂(遠くのキジバトは鳴かない)
6)近場のキジバトが鳴く
7)遠くのキジバトが鳴く
8)近場のキジバトが鳴く
9)静寂(遠くのキジバトは鳴かないんかいな〜)

朝早い時間帯の街は静かでもあるので冷静沈着にキジバトの音声を録画します。
録画した音声をヘッドホンで聴くと「ピーポー ピーポー」と鳴る”救急車の音”やスズメの鳴き声、人の足音に、何だかんだの色んな雑音が混じってはいるものであります。
それは撮影している時には聴こえていない、若しくは、聴いていなかった音でもあります。
純粋に混じりけのない使えそうな音声は2ファイルぐらい。
冷静に考えてみたならば、この世の中とは常にいろんな音が鳴り響き飛び交っていることでもあります。
私達の身の回りには信じられない数の音の波長が行き交っていることを考えれば、耳が必要な音だけを無意識に拾えることはスゴイ機能でもあります。
人が見たいものだけを見ることや、聞きたい音だけを拾うということは全くその通りのことだと思います。

写真も動画も複数枚撮影で余分に多く撮影しています。
それは渾身の一枚を撮れない”腕のなさ”の表れでもあります。
多めに撮影していれば、その内の数枚は光やピント、構図に色が良い感じに纏まっている良いものがあるであろと期待することは、それは偶然性に期待していることも言えます。
このような数打てばその内に当たるかもしれないという自動式小銃連射如きの偶然性に期待することは、私の思考回路とも共通する自己分析的な傾向でもあります。

ということで、

最近、キジバトの鳴き声を集めています。
写真は先日、路上で撮影したキジバトの鳴き声です。
※キジバトの音声付きは下のリンク先にあります。
※音はONにする必要があります。
https://www.tumblr.com/enpitoroys/721311270943571968?source=share
移動途中にキジバトの鳴き声が聞こえたので、いつもの「あれっ」な怪しい三文芝居で道に立ち止まり、景色やアスファルト等を撮影しながらキジバトの音を採取します。www
スマホをいじっていますよ風に盗撮しているよな感じが嫌なのですが、昆虫採集ならぬ”キジバトの歌声採集”をしております。
それは、とてもロマンチックな採集です。
本当はキジバトの鳴き声の方向に向かい撮影したいのですが、関係のない歩行者を撮影してしまう可能性もあるので明後日方向にカメラを向けて何でもない日常の静物を撮影しながらの歌声採集します。
よって、撮影されたキジバトの歌はとても小さい音量です。
蚊が飛ぶようなとても小さい音でもあるので、編集機能を使って最大限に音声のボリュームを上げると「ぶわ〜ん」という雑音・ノイズも一緒に拡大します。www
キジバトの歌声を録画するようになるとプロの人が持っているようなガンマイクがスコス欲しくもなりますが、マイクの精度もあがってしまうと、余計な音もたくさん拾ってしまうような気もしますがどうなのでしょうか。
持ち物も増えるし内臓マイクで十分やね。

ところで、そのようなキジバトの鳴き声は
「ポー ポッポッポー」
な鳴き声です。

本日の「ポーポ ポッポッポー」と先日の「ポー ポッポッポー」では微妙異なる発音のようにも聴こえます。
そして、以前に録音した鳴き声とも比較しても異なる鳴き声なような気もします。
https://www.tumblr.com/enpitoroys/720511936455917568?source=share
何せ、音感・リズム感が全くない私でもあるので、鳥の鳴き声を言語化することとは少し難しいことでもあります。
そして、一般的に言われる「デーデーポーポー」にも聴こえないですが、「デーデーポーポー」と聴けばそのようにも聞こえてきます。
それはカラスの鳴き声が「カーカー」なのか「アーアー」の違いのようなものなのかもしれません。

そして、面白く思ったことが、撮影したそれらいくつかのファイルの音声の裏にも救急車のサイレン音が入っていたこと。
それは、犬が夜に走る救急車の音に反応して遠吠えし、近所の犬たちも反応してワンワン・遠吠えしてと犬界隈が騒がしくなるようなことにも似ています。
なので、もしかしたらキジバトは静かな空間で鳴り響く救急車の音色に反応して鳴く可能性もあります。
「ポーポ ポッポッポー」も「デーデーポーポー」も救急車の「ピーポーピーポー」もなんかどれも似ているよね。
これはキジバトの声をたくさん集めると答えの出てくる話だと思います。

 
■2023年6月28日(水)
■シーソーキャット。
■2023年6月29日(木)
■一日一文章トレーニング。

「枯大根について朝から無想する」

4月から花を咲かそうを水差ししていた大根の葉っぱは枯れてしまいました。
私が行う余計なことによって何度も危機的な状況になりながらも、幾多の困難を乗り越えて花を咲かした立派な大根に感謝です。
花を咲かした後は弱っていくばかりの大根の葉っぱでもありますが、またしても、大根葉っぱの死を早めてしまったのも私自身でもあります。m(__)mt
恐らく、大根枯れを早まった理由は根に付いていた黒い菌類のようなものを洗い流してしまったことかも?
大抵、切り花とかでも水の中に入れると根腐れするものではありますが、この大根の葉っぱに限り全く根腐れもせずに元気に成長していました。
今思うと、水に浸かった根っこの部分に繁殖した黒い菌類が固形物を作るぐらいに繁殖してもいたので、それらが根全体にも広がり大根の葉っぱと共生していた可能性もあります。
花も咲かし寿命で弱った大根の茎の黒い菌類は見た目にも気持ち悪い不気味なものでもあるので水道水でジャジャーと洗い落としたならば、すぐに根腐れで枯れました。
今、大根の葉っぱはジッパー袋に入れて保管しておりますが、枯れた大根の葉っぱの茎からは菌糸が現れ出て来ております。
拡大鏡で見たら綿菓子のように元気に繁殖。
菌は根の部分にもっとも多く繁殖し、水に浸かっていた上の部分にかけてグラデーションのように薄っすらと広がっていくところからも、それが、大根の茎に付いた黒いものと同じである可能性は高そうです。
次に、購入した切り花の茎にこの菌を塗り込んだら花の茎は根腐れすることもなく長持ちするのかもしれません。
細菌学者にとって菌は宝物なのかもしれませんが、私のような一般ピープルにとってはジッパー袋で繁殖する菌とはゴミ以外のものではありません。
断捨離リストが我が家に来たら卒倒して真っ先に捨てられてしまうものかもしれませんが、ジッパー袋に保管される道で拾った種や、この大根の葉っぱ等のマイコレクションは、なかなかに捨てることのできないものでもあります。

ということで。

「枯大根」の葉っぱに何かしらの美学を見出そうと思えば、私にとっては根っこに広がる菌です。
ですが、昔の人は枯れた川から「枯山水」という美学を発明しました。
枯山水とは石や砂、樹木を使って山や水を表現して禅の修行をしたりする空間でもあります。
白い砂を地面に敷き詰めて、大きな岩も置き「この白い小石の部分が河でね。この岩が島ですね。」との変わった子供の遊びのような感じでもあります。
そのような子供がやったら、通常のままごと遊びでもありますが、今やなかなかに博識もありそうな大人たちも腕を組んで「これはすばらしい」と感慨深く眺める枯山水でもあります。
大抵の枯山水の庭園があるお寺には本物の池もあるもので、あえて人工的な水や陸地を作る意味もないような気もしますが、それは「無駄」が「価値」を生み出す「無駄の美学」でもあります。(たぶん)
これは自然の風景を他の別のものに置き換えて表現する、日本人好みのデフォルメとも言えます。
枯山水にはコンセプトのような禅問答みたいな概念があり、例えば、有名な龍安寺の枯山水であれば「虎の子渡し」という物語が存在します。
3匹の子虎を引き連れたお母さん虎が3匹の子虎を川の向こうまで運ぶというトンチ話しです。
ただし、子供の1匹は虎ではなくて豹でもあるので、子供たちだけになると子虎が豹に食べられてしまうという縛りがあります。
そこで、母親虎は常に豹と一緒に行動して運ぶトンチを効かしながら川向うに子虎たちを運ぶ問題が枯山水の中に隠れているようです。
それ以外にも、「瓢箪(ひょうたん)で鯰(うなぎ)を抑える」で有名な掛け軸があるお寺の枯山水が、そのような世界観を表していること思えば、そのような世界観を描いているのかもしれません。
空間とは見えない世界観を描いているとも言えます。
「瓢箪で鯰を抑える」とは要領を得ないこと。捕えにくい例えでもある。
枯山水が「瓢箪で鯰を抑える」とは全くその通りでもあるのかもしれなくて、空間とはほとんど空虚な「無」でもあります。
結局、私達が見ているものは床や壁、机にコップなどの対象物であり、空間を一切見ていないとも言えて、枯山水はそのような空間を引き立たせて気付かせる装置なのかもしれません。(知らんけど草)
枯山水にならい枯れた大根の葉っぱを眺めて、私には全く枯大根の空間は見えないのですが、早くも、すぐにでも、切り花の茎にこの菌糸をつけて飾ってみたいとの思いが募ります。
それこそが「枯山水」ならぬ「枯大根」なのかもしれません。
早く、花を買ってきて茎の切り口にこの菌を塗り込みたい今日この頃。

 

■2023年6月29日(木)
■ねこのアンダンテ。ぎこちない動きだったので作り直しました。ペコリ。
■2023年6月30日(金)
■一日一文章トレーニング。

「桃栗三年柿八年梅はすいとて十三年の意味」

桃栗三年柿八年梅はすいとて十三年。
それぞれ芽を出してからの木の実の成る年数を表したことわざです。
何の意味かと調べると何事もそれなりの年数がかかるとの理解です。
美味しくて食べやすい桃や栗は3年程で実が成り、渋いかもしれない柿は8年後にやっと実が成って、酸っぱくてそのままでは絶対に食べることのできない梅の実は13年の歳月が必要だという例えです。
これはナナメ読みして良き風に解釈すると、いぶし銀にクセありなもの程、実を付けるのに遅咲きの例えででもあるような気がします。
それをビジネスに置き換えると、お店開発が石の上にも3年で実を収穫できるようになるのかもしれなくて、柿8年とは全く新しいモノ作りに必要な年数なのでしょうか?8年後に何とか結果が見えてくるのかもしれません。
最長の梅の実13年とは資源開発やインフラ事業等の長い年月を経てやっとこ実を付けるような大事業のことなのかもしれません。
実になることが長いもの程、長期保存もできる長持ちする実になるとも解釈もできます。
梅干しとはほぼ無限の保存食です。
農家の人も、昔の人も、すぐにでも結果が欲しいデジタルに慣れた私達には考えられない程の長期的なスパンで物事を考えているものでもあります。

ということで。

本日は桃。
熟した桃とは夏の到来を告げる果物です。
桃を購入したのは先週の6月24日(土)で、実際に6月26日(月)からは毎日クーラーがついている状態でもあるので、スーパーに桃が並び出すとクーラーが手放せない季節に一コマ進んだことは間違いありません。
なので、梅雨の折り返し地点ではありますが、桃を見たならば暑さだけは夏になったの解釈で良いと思われます。

スーパーで桃を見たら=夏の暑さ

ランダムに集めている「暑さ寒さ」の室内の温度・湿度は下記の通り。
このデーターは、今や「暑さとクーラー」の境界線を探る情報でもあります。
前回は28℃がクーラーを付けるタイミングかもとも書きましたが、今や室温27℃がクーラーをONにする境界線でもあります。
暑がりなのでしょうか?

2023年6月26日 月 夜 寝る前 ー ー クーラーON 半袖
2023年6月27日 火 朝 起きた時 27 69 ムワッと暑い 半袖
2023年6月27日 火 朝 活動中 27 69 クーラーON 半袖
2023年6月27日 火 昼 活動中 26.1 59 クーラー中 半袖
2023年6月27日 火 夜 寝る前 ー ー クーラーON 半袖
2023年6月28日 水 朝 起きた時 27.2 70 ムシムシ 半袖
2023年6月28日 水 朝 活動中 28.3 72 クーラーON 半袖
2023年6月28日 水 夜 寝る前 ー ー クーラー中 半袖
2023年6月29日 木 朝 起きた時 27.3 67 ジメッと 半袖
2023年6月29日 木 朝 活動中 27.4 70 クーラーON 半袖
2023年6月30日 金 夜 寝ている時 27 65 クーラーON 半袖
2023年6月30日 金 朝 起きた時 25 57 クーラー中 半袖

写真は先週の土曜日に購入した桃です。
気品があり、かわいらしい桃とはどこからどう見ても絵になるカタチではありますが、買ったばかりの桃は少し固めの桃でもあります。
美味しいことは美味しいのですが、甘さも少し足りないので慌てずにもう少し食べるのを待った方が良い桃。
残った桃は冷蔵庫の中で熟するのを待ちます。
6日間冷蔵庫で熟成された桃は手に持った感じも柔らかく十分に熟しております。
置き後が付くぐらいの傷みやすい柔らかさ。
固めな桃の方がやわらかく熟した桃よりも見た目にも美味しそうには見えますが、熟した桃の方が味は断然に甘くて美味しい桃です。
果物に人や物も熟しの期間とは必要不可欠なものかもしれません。
梅の実13年とはなかなかにハードル高き計画ではありますが、実が熟す期間ぐらいはじっくりと待とうよと思うホトトギスです。

そして、

関係ないけれども、今朝のサボテン三兄弟は真っすぐにピーっと寄り添って仲良しな状態にありました。
本当に意味のわからない植物でもあり、同時に生命の力強さも感じます。

 
■2023年6月30日(金)
■昨日描くことのできなかったチョコチョコと動く足の動き。
先ずは大きな動きから〜つま先ヤバそう。