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■2026年1月1日(木)
謹賀新年

明けましておめでとうございます
新しい年を迎え皆様のご健康と
ご多幸をお祈りいたします
本年も宜しくお願い申し下げます

令和8年 元旦
■2026年1月6日(火)
■一日一文章トレーニング。

「三十三間堂に行ってきたよ」

年の終わりにわちゃわちゃと移動しながらキレイなお賽銭を入れた小銭入れを駅構内のどこかで落とす。
「いや~まじまじで~」いつもいつも何かをやらかしているもので、年末も変わらなく何かをやらかしているものである。
お金は良いとしても「ふっ」と数分ごとにお気に入りのポーチことを思い出すもので、去年の業はこの失われた30年なお賽銭の呪いとして誰かに譲る。
小銭が無ければ、札束しか投入出来ないのでお寺には好都合ですがわーの財布は痛い。
そこで、途中のコンビニなどでお買い物をしながら新たにお賽銭をこしらえて、「いざ出陣」。

オレらが向かった先は「三十三間堂」で、スコスの語呂とは353風でもあるので国宝三十三間堂の十の字に3本線を加えれば三五三で似たりよったりな気もする。
なので、三十三間堂には何かがあるかもと思うもので、我らが向かう場所とは国宝三十三間堂になりと、なな条駅で下車しててくてくと歩く。
m(_ _)mT候。

切符を購入して靴脱場で靴を脱いでいると、さっき購入したばかりの三十三間堂の切符がないとカバンの中身を出してわたわたと探し物。
毎日いろんなものを探しているもので、人生の多くの時間は探し物な時間で消費しているものだ。
そして、移動チューとは犬のマーキングのようにあちこちにいろんなモノを置いてくるもので困ったものだ。
もうお寺の境内には入っているのでチケットは不必要なのですが、チケットはぐちゃぐちゃっとコートのポケットの中に突っ込まれておりました。ほほほ~☆

得るものと失うものとは空間上の相関性でもある。
私の中のキャパはとっても小さいもので、何かをポイッと捨てないと新しい何かとは入ってこない。
なので、見上げる程の観音様に向けて賽銭箱にジャラジャラとお賽銭を投入しながら落とし物の哲学な悟りを語るものだ。
三十三間堂は圧巻な1001体の仏像が十段のひな壇に並ぶもので、その一つ一つの精巧な彫りで、その祈りの数を換算するだけでも人々の願いの膨大さを感じる。

金属質に見る仏像も木製の彫刻に何やらの特殊な塗装を施しているようで美しい風合いである。
全部国宝のようで中央に鎮座する仏像もなかなかの巨大さだ。
名前は無限の慈悲・千体の観音立像で正式名称は「十一面千手千眼観世音」と言うようである。
慈悲とは不幸な人を哀れに思う気持ちのようで、靴脱場でチケット失くした一騒動や、溜めたキレイなお賽銭とお気に入りのポーチを落とした不幸な私のウンチクの全ては無限の手と眼で受け止めてもらった。

お賽銭はカラ~ン☆と入るよりもジャラジャラと入る方が威勢良いもので、心地よい音色とはジャラジャラである。
熱心に御経を念じるお坊さんの念仏にも気合が入るかもしれないもので、お賽銭はじゃらじゃら入れるべしと熱く語る。(心の中の念仏)
すると、後ろのおじさんもジャラジャラとお賽銭を投げ入れているもので、草。
お賽銭箱はジャラジャラと威勢も良くなれば、祈りの煙をもんもんと上がるものなのか?突然火災報知器が鳴り出してお寺の中はざわざわとなる。
何か学校の火災報知器が鳴った時のように火災報知は鳴ったり止まったりで再びチリリンと数回鳴って、とぼとぼと歩いて出口に向かう。
でっかい観音様の背後には1001体目の予備なのかの仏像があり、三十三間堂とはとっても良いお寺でした☆
私は売店で弓と矢のお守りを購入してリュックに挿して京都の街に向かう。
三十三間堂で学んだこととは入ったならば必ず出る呆則なことでもあり、落とし物の慈悲の愚痴は無限に受け止めてもらいスッキリ。
これで去年の小銭入れの落とし物はチャラチャラりんである。
昨今の世の中とは無慈悲な風潮が強いもので、私は怒られたとしても、落とし物や忘れ物をしたとしても仏像のような細い目で慈悲深く今年一年は生きていきたいと思う。

あなかしこ~あなかしこ~☆

 

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■2026年1月6日(火)
■三十三→三五三→スコス

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■2026年1月7日(水)
■一日一文章トレーニング。

「聖護院大根を買ったよ」

三十三間堂に参拝した後は矢守を背中に挿して街に向かい「聖護院大根」を購入する。

聖護院大根は写真のような惑星や彗星のようなかわいい見た目で、そう言えば「3i/atlas」はどうなったのであろうか。
大根の一品種でもあり丸くどっぷりと丸々とした形状が特徴的。
原産が京都左京区の聖護院町のようで聖護院大根と呼ばれている。
京都のお野菜とは特徴的な形状のものが多いような気もするもので、聖護院の名の付くお野菜には「聖護院大根」と「聖護院カブ」の2種類ある。
見た目はほぼ同じですが別物のお野菜で、私が買ったのは聖護院大根!

聖護院大根は煮崩れしない大根の性質があり煮込み料理に使うお野菜で、青い部分が胚となり白い部分が根っこで胚と根が合体したもの。
聖護院カブは薄くスライスされてお漬物の千枚漬けへと加工される。
聖護院カブは胚の部分が肥大化して大きく育ち根っこは別に細く長く下に伸びるようだ。
お野菜の形状とは食べることが出来たならばという外国風の実利的な考え方もありますが、このような形にこだわるのもまた一つの文化でもある。

このような大根を見て買わない訳にはいかないもので早速カゴに入れる。
「ゴロリン」
聖護院大根をカゴに入れるとズッシリと重い。
重量を計測すると約2kgもあり流石に重い。
しかし、縦長の普通の大根を買ったとしてもそれぐらいの重さはあるようにも思うもので、大根とは重いお野菜である。
前回の京都では任天堂ミュージアムで巨大な64コントローラークッションを購入して「ぜーぜー」と息を切らしながら運んだもので、そして、今回の京都では聖護院大根を抱えて「重い重い」と運ぶ。
京都の三十三間堂もなかなかデカかったもので、京都の風土としては大きいものを好む傾向はあるのかもしれない。
おまけに、長い弓矢のお守りと九条ネギも購入したもので、ハンマー投げの玉みたいな重量級の重みと、長モノを持つ気配りでヘトヘト。
新幹線に乗ったとしても矢のお守りは持つ人はチラホラいますが、流石に九条ネギや聖護院大根を持ちて移動する人はいないように思う。
いつも旅行をする度に思うものではありますが、「スモールライト」で小さくして運びたいドラえもん話である。
いやいや、どうせ小さくなるならば自分も小さくなってポケットに入って移動すれば楽だし交通費も浮いてお財布にも優しい。
それならば、「どこでもドア」で移動すればいいじゃんみたいな話となるもので、もう「どこでもドア」があれば全て良し!

電車の移動中はジョジョの杜王町編を観ていたもので、長い矢のお守りは虹村億泰兄弟のスタンドの弓矢に影響されたような気もする。
また、九条ネギは空条承太郎な言葉が頭に浮かびカゴに入れてしまう。
本当にスタンドの力ってヤバいね☆
それだけならまだ良かったものの、ゴロゴロとたくさん入った京都の卵を見ていたならば、地元のおばさんが迷わずカゴに入れていたので、思わず私も購入してしまうスタンド発動だ。
おかげで卵の対衝撃にも弱くなり、お正月で満員電車に巻き込まれなかっただけでも良かった良かった。

聖護院大根の重さは約2kg、外周は約52センチで52÷3.14で直径は約16.5センチの大きさとなる。
直径は私の太ももと大体同じで、私の頭部よりも若干小さく、よくぞこんなにも重いお野菜をキズ一つ付けずに東京まで持ち帰ったものだ。
購入した聖護院大根の表面はお肌のようにキレイだ。
入ってくるモノがあれば、出ていくモノものもあるもので、お正月の冷蔵庫はスッカラカンでこの大きな聖護院大根も余裕で収納できた。
九条ネギは帰ってすぐに千切りにして冷凍保存で圧縮しましたが、大物の聖護院大根はまだ手付かずで冷蔵庫に鎮座している。
切るのも勿体無いのですが切らずに腐らすのも勿体無いので、そろそろ調理だ。
今晩は春の七草粥で、ホットクックさんで煮込んで食べるかな。
美味しく調理できるのかな~。

 

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■2026年1月7日(水)
■かわいいね☆

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■2026年1月8日(木)
■一日一文章トレーニング。

「昨日は七草の節句なので無病息災を願い七草粥を食べる」

「無病」とは言葉の通りに病気をしないことで、さて、「息災」とは何であろうかと思う。
「息災」とは元気でいることで、なぜ?「息」するような「災い事」が達者な事柄を意味するものかと不思議に思う。

「わざわい」には「災い」「禍(か)」「厄(やく)」と様々な種類の災難がある。

・「災い」は自然が起こす「わざわい事」で、逃れられない大きな自然事。
・「禍」は「福」の反対で不幸や思いがけない災難のこと。
これらは注意力や観察力、日々の直感や生活態度を研ぎ澄ませば逃れる可能性も高いもので、そう言えば、「コロナ禍」とはこの「禍」を使用していた。
・「厄」は星のめぐり合わせみたいな波動のことで山あり谷ありと難儀のこと。
・「殃(おう)」とは神のとがめのことを言うようで、「厄」が神のたたりだと思っていました厄除けと神が「わざわい」を払ってくるものであり、「殃」とは神に触れる災難のこと。
「殃」は死の編を持つ言葉で、初めて見る言葉ではありますが決して逃れられない中央ど真ん中の死を意味するものだ。

このように日本には上記のような4つの「わざわい」があるようで「息災」の災難とは自然が起こす「わざわい」のことを指す。
これは呼吸のように外に吐き出して内に溜めないことの息災かもしれないもので、地震に置き換えると何百年と歪の溜まった大きな復旧困難災難に被災するよりも、小さな災難を繰り返す方が良いものだ。
昔の人たちは人間の力では何とも制御出来ない自然の災害に対して、呼吸をするように吸っては吐いてと良いことも悪いことも溜めないことを善しとしたのかもしれない。
そのように考えると「得る・失う」な事柄も、「得手勝手」と自分ばかりの都合の良い「得」ばかりを溜めることもまた「大きなわざわい」を溜めることと同じように見える。
呼吸をするような「息災」の意味とはこのようなことなのでしょうか???

ところで、

七草粥は正月7日の朝に食べるようですが、昨晩はあっさりと七草粥でのお食事。
先ずは話の種不足解消にザルの上に七草を並べて雑草の山盛りを撮影する。
「壮観な雑草」
それら七草をカットすれば、もっともりもりの雑草の山盛りの完成であ~る。

・芹(せり)はベランダで育てているので良く知っている雑草だ。
葉っぱも根っこも美味しい草で、火を通さずに生で食べるとパクチーな味がする。
・薺(なずな)は耳に残る響きですが何の草か検討もつかない。
やずやのCMと勘違いしているかもしれませんが、若葉は食用に出来るようだ。
・御形=母子草(ごぎょう=ははこぐさ)は母子草とのかわいい名前ですが繁殖力の強い雑草のようで、草むしりする人の強敵でもある。
・繁縷(はこべら)もなずなと同じくよく聞くよう名前ではありますが、どのような草か知らず。
しかし、世界中に繁殖している雑草のようで、辞書には「はこべ」として記載されている。
・仏の座(ほとけのざ)は有り難いお名前ではありますが、シソ科の道端に生える雑草のようだ。
仏も座りたくなるようなふわふわとした座り心地の雑草の予感だ。
・清白(すずしろ)は大根のことで、すずしろを漢字で書くと清白と書き大根の皮はやっぱり白く清くて美しい。
・菘(すずな)はあおな、または、かぶらのこと。
すずしろやすずながないと七草粥は締まらない。

来年の七草は1本1本の草を識別できるように良く観察して七草名人になりたいものだ。
荒川土手を散歩しながら食べられる雑草を摘みはじめたら皆ドン引きするだろうな~。
雑草を食べることにはお正月の胃もたれ解消という面もあるそうですが、世界は広いと言え雑草を有り難く食す風習というのは日本ならではのように思う。
このような世界中の道端に普通に生えている雑草を食べて無病息災とは本当に面白いことである。
ただし雑草のシャキシャキとした草の食感とは結構美味しいもので、七草のお粥さんを食べればお腹も結構満腹だー。
勿論雑草はお金を出して購入しており、舌も肥えてきたのか、雑草を食することもまた美味しいと思うお年頃となったものだ♪

ご馳走様でした。

 

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■2026年1月8日(木)
■影え。

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■2026年1月9日(金)
■一日一文章トレーニング。

「新年も三十三間堂で火災報知器がジリジリと鳴って騒がしかったけれども、今度は家庭用の火災報知器が電池切れだ~と騒がしくて黙らしたー」

お正月も早々に時折とても小さな音で「ピーッ~電池がきれました」とのアナウンスが流れる。
「エッ?」と遠くから微かに聴こえる謎アナウンスで我も何々とその音の発生源を辿ると天井の家庭用の報知器から流れていた。
遠くから聴こえると言っても小さな東京の狭小生活でもあり、音量も小さく音の間隔も長いので、さほど気にならない。
なので、報知器(ほーちき)は放置器(ほーちき)なのじゃと(草)「ピーッピーッ」な音真似をしながら「さっさと電池切れになっておくんなまし」と数日間放置する意気込みであった。
しかし、朝目覚めると家庭用火災報知器がとてもうるさい。
「ピーッピーッ」とアナウンスの回数も頻繁となり、音量も随分と大音量で「電池が無くなった」と騒がしい。
いやいや、「電池切れだ!電池切れだ!と言っている割にはまだまだ電池たっぷりあるやん」と思いながらも、さらに騒がしくなると近所迷惑となるので、わーも流石に動く。
「あ~もう=うるさい、うるさい」と仁王像の形相で高い台座を持ち報知器を外しに出動する。
歩いて数歩の報知器をガチャガチャと外すが「外れない」・・・。
「これはどうやって外すのだろうか?」とチンプンカンプンで途方に暮れる。

仕方がないのでネット検索しに戻り、ついでにティータイムを楽しみながら報知器の外し方を検索する。
ネット検索がない時代はこのような何度も経験しないような面倒ごとはどのように解決していたのであろうか。
私であれば、わからないこととはすぐに人に聞くのが楽でもあり、当然学習もしないので「前に教えたでしょう」と何度も同じことを聞いてウザがられる。
だがしかし、昨今の闊歩するIT戦士たちとはいつ何時でも板コミュニケーションを行うもので、板さえ叩いていれば「あいつは出来る奴だ」となるものだ。
現代社会ではスマホを上手く活用出来ない人間がダメ人間でもあり、本来の上記のようなダメ人間のダメさ加減が薄れてご立腹。
こうやって板も叩けば人間性も高まるとあれば、ますます人とのコミュニケーションもますます希薄となるものだ。

さっそく、

私は報知器を上に押し込みながら左回すと言う完璧な答えを得て実行する。
「よーし、簡単!」
これでやかましい報知器ともおさらば。
そう言えば、数年前に事務所の報知器のバッテリーも外した記憶もあるもので、当然どのように外したかの記憶はない。
家庭用報知器の中には仰々しい単3電池の半分ぐらいのバッテリー電池が入っており、本当にこれは日常生活に必要だったのかと???疑問に思う。

ということで、

年始そうそうに三十三間堂の報知器が鳴り無病息災の「息災」が気になり、電池切れの家庭用の報知器を黙らしてと青少年の健全育英にも事欠かない。
無病息災はあれこれと考えてみたのですが、この日本列島で暮らすということは古くからの言い習わしの如く「地震台風火事親父」と災害級の怖いものと一緒に暮らすことかもしれない。
なので、無病息災の「息災」とは決して無くならない災害は常にあるものとして、元気に達者で息さえしていれば「息災である」とも解釈も出来る。
この息災の意味だとこの世とは地獄のようにも見えてすこす嫌。

日本列島で暮らす人の平均災害回数とは何回ぐらいなのでしょうか。
私の中の災害とはいくつ経験したかと考えると「3つ」かな?
この勢いで行くと死ぬまでにあと2回ぐらいの災害はありそうな予感でもあり、災害はあっちの国に行くように頼んでおいた。
マスク生活のパンデミックは「禍」とは表現されるものの、あれは間違いなく「災害」である。
それを含めたとしても3つぐらいの災害は数えられるもので、どれも思い出したくもない「災」である。

というわけで、

わー空間にも再び静けさが戻り「息災」の真意もまだまだ気になり、この家庭用報知器の存在にも疑義が立った。

 

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■2026年1月9日(金)
■バッテリーチェンジ。
■2026年1月13日(火)
■一日一文章トレーニング。

「甘いおぜんざいなどを食べたくなる季節の到来です」

季節のイベントにはできるだけ季節の何かを飾ろうと思う気持ちはあるもので、毎度チープな賑やかしを披露している。
ハローウィンなら仮装風に、お正月ならお正月風にキッチンテーブルに小さくてささやかな飾り物を飾っている。
デコレーションと言っても立派な「床の間」がある訳でもないので「わいの間」の何の写真映えもしない飾り物である。
今年は午年ということで陶製の干支のお馬さんを飾り、この連休中にその箱に仕舞う。
この馬の置物は大昔に京都の神社仏閣で購入したもので、我が家に所有されている唯一の干支の飾り物。
なぜ?何の縁もゆかりもない午年の置物だけを所有しているのかと思えば、偶然、午年から全部の干支置物を買い集めようと意気込んだものの、馬年から始まって馬年で終わってしまった干支置物の集めでもある。
大抵のお正月には鏡餅に付属していたプラスチック製のみかんの置物や本物のみかんや鏡餅を飾るのが恒例で、今年の飾りは馬の置物とみかんの組み合わせでもある。
干支置物とは次の12年後まで日の目を見ることも無い飾り物で、頻繁に飾ることが無いので仕舞った場所を忘れないように結構目に付く場所に箱はいつも置かれている。
大抵の事柄とは仕舞い込むと仕舞った場所を忘れてしまう呆則で、なので、仕舞った箱を忘れないように飾り中身よりも箱を飾っている期間の方が長い飾り物なのだ。草

どうやら、お正月気分も「松の内」で、江戸では1月7日、畿内では1月15日の小正月までと、お正月飾りを仕舞うタイミングには地域それぞれ。
「松の内」の「松」とは「松竹梅」とおめでたいものとして用いるもので、松風、松濤(しょうとう)、松茸、松明(たいまつ)、松葉杖と不思議とおめでたき言葉は「松竹梅」ぐらい。
松とはおめでたさと言うよりも個人的には厳かに凛として格の高さを感じるもので、それを松柏(しょうはく)と言うようだ
松柏とは松と柏手(かしわで)の葉っぱの字を持つもので常緑樹で色が変わらないことの例えで節操(せっそう)の固い理を表す。
松は針葉樹で柏は大きな葉っぱでもあることも何か奥が深そうな予感。
節操とは信じたことを固く守り心を変えないことのようで、これは一見頑固なような気もするものの松の樹のように暑さ寒さでもブレない強さを表現しているのかもしれない。
私は毎年毎年暑い寒いと大騒ぎだ。
脳みそのほとんどは暑い寒いで占めているもので、全く松柏感もない風見鶏のようである。
暑い寒いとくるくると方角を変えて一喜一憂していると、今年こそは寒さ暑さの中でも松柏とドシンといたいものだ。

このようにして、我が家では成人式の連休中にお正月っぽい飾りを仕舞ったもので、どちらの松の内からもすこすズレた。
しかし、地域差もあるようなので誤差の範囲でもある。
気になるのは小正月とは何とやら。
小正月とは1月1日の大正月で仕事疲れした女性労う行事のようで甘いおぜんざいなどを食べてほっこりとすごす小さなお正月のことのようだ。
そう言えば、昨日我が家でも甘く煮た小豆のおぜんざいが作られたもので、食べきれないあんこの一部は冷凍保存されて、決まり事は無くともこの時期におぜんざいを食したくなることは日本人の体に刻まれたリズムの一つのようである。

昨日、食器の自然乾燥場所の隅っこから見慣れない謎のものが出てきたもので、これは何かと調べると「赤福」のあんこ餅のヘラ。(写真参照)
以前は木のヘラのようでもあったようで、そう言えば木のヘラであったかもしれない。
このような定番食で変わったものと言えば、確かシュウマイ弁当に入っていた陶器の醤油差しが可愛くて趣きがあったものですが、時代の変化とは移り変わるものだ。
なぜ、赤福を切ったヘラを洗い捨ててなかったかと不明ですが、洗って干された赤福のヘラもなかなかの年季が入り再利用不可能。
とりあえず、この紙ヘラの物凄い厚紙(3層の厚紙)が珍しく思ったので洗って保管したような気もする。
紙好きの習性。
そして、この刻印されたマークのどこが赤福のマークかとあれこれと考えるもので、エンボスの凹んだ部分を読み取ると「赤ふく」と読めてアハ体験である。
一見読めないような文字が読めてくる感覚というのも結構新しい。

ということで、

寒くなると松柏ともしていれないものですが、甘い誘惑に黄昏れてアフターお正月には甘いおぜんざいなどを食べませう。

 

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■2026年1月13日(火)
■あーーー

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■2026年1月14日(水)
■一日一文章トレーニング。

「風吹けば桶屋が儲かる風に文章を書いてみたら全て力技だと汁(知る)」

昨日は大風吹いてベランダのエアープランツが飛ばされた。
我も道中大風に吹き飛ばされて塵で目をパチクリと今シーズン何度目かと数える暖かな大風を猛進する。
実店舗をやっていた頃には風吹くと売上が下がるという謎現象もあるもので、大風は大雨よりも数字が良くない謎だ。
確かに大風吹けば電車が止まったりとの交通の乱れはあるもので、「風吹けば桶屋が儲かる」という諺も案外迷信ではないようだ。
ならば、大風吹いて、喜んだ桶屋は誰かと考えると・・・それはエアープランツかもしれない。
私はエアープランツを拾って定位置に戻しながら、根を持たないエアープランツが風に飛ばされてイキイキと「善かな」と膨らむ様子を汁(知る)。
エアープランツはもともと定着よりも風に飛ばされてなんぼの世界の住人なのかもしれない。
そして、私はこのような真冬の暖かな大風が吹き、部屋の湿度も「カラカラ」とならない不思議がとても気になる。

毎日、室温湿度を計測している身としては最近の傾向として部屋の湿度が「からから」を計測しない冬が何年も続いている。
これは我家の室温データのお話です!
確か、去年は一度も「からから」乾燥を計測しなかったもので、猛暑と言われるここ数年の室温がカラカラ乾燥状態となったのは数日である。
よって、加湿器などの出番はないもので押入れの奥で永眠中。
もしかしたら、これから「からから」と乾燥した空気の冬となるかもしれない。
日本海から吹き出す寒気が弱いからなのかもしれない。
もしくは、部屋の湿度が下がりにくい何かの波があるのかもしれない。
それは大いなる謎。

そして、

そのような比較的に暖かな冬でも湯たんぽは活用中である。
毎日湯たんぽを使用していると多少の学びもあるもので、それは大きな湯たんぽと小さな湯たんぽを使った時の保温力の差を汁(知る)。
大きな湯たんぽを使用すると朝まで暖かなお湯をキープ。
小さな湯たんぽを使用すると朝にはもうぬるぬるで冷めている。
これは当たり前と言えば当たり前の理で、水分量の多い少ないが保温力の差となる。
なので、湿度の高まりもまた湯たんぽのように保温力を高める要因かもと思ったりもしている。

寒いのか?暖冬なのか?よくわからない冬ですが、寒さに弱い植物2鉢と植物界のお嬢様は室内に避難している。
寒くないと言っても夜は寒くなるもので、寒さに弱い植物を外に出しっぱなしにすると葉をぐったりと黄色く変色させて寒がりなアピールもする。
言葉を喋れない植物が体でアピールしてくれたならば枯れることもなくて有り難いのですが、それなりの手間はある。
冬の水撒きは3日か4日間隔で「じゃばじゃば」と水を撒き、これら室内に避難した植物たちも水撒きの時にはベランダの外に出して「じゃばじゃば」とたっぷりの水をかける。
なので、大きな鉢は「よっこいしょ」と持ってベランダまで運び出す。
そして、鉢を外に出すと室内に残った鉢受けには丸くならないマルムシや子供のカタツムリが落ちているもので、それら害虫をティッシュで瞬殺。
ギャーーーだ。
そして、夜になれば再び「よっこらしょ」と重い鉢を室内に運び入れるものの横着者の私はとても疲れている。

大風が吹けば土は乾き、乾いた土に水をあげれば、我ら人間の水やりも必要なもので小正月な今は小豆の甘味が必要不可欠だ。
そして、私はとても強引な風が吹けばの理論を汁(知る)。

ということで、

「おぜんざい」と呼ぶのか?「おしるこ」と呼ぶのか?の問題に多少の答えが出たのでそれを記す。

「おぜんざい」「おしるこ」とは関東関西な地域差の呼び名でもあるようで、それぞれに味付けや中身も微妙に異なる小豆を使った甘い汁物の違い。
私が特に気になるのはどちらも基本的な「あんころ餅」の汁物のキーワードが欠落していること。
私が小さい頃は「おぜんざい」などとこ難しい言葉は言わないもので、「あんころ餅を食べたい、あんころ餅を食べたい」とよく言っていたものだ。

そこで、「おぜんざい」を漢字でどのように書くかと調べると「お善哉」と書くようだ。
「哉」は俳句などによく出てくる「善かな」と言う感動や詠嘆(えいたん)、疑問、反語を意味する言葉。
「おぜんざい」が善であることの感動と溶いた汁なのか、善であることの疑問を説いたとしても不思議ではないもので、それだけ甘くて美味しい甘汁の「哉」はぴったりである。
「おしるこ」を漢字で書くと「お汁粉」と粉の文字を使って書くようで、この粉とは白玉粉の団子を入れた小豆の汁物のことのようである。
なので、餅と団子の違いでお餅を入れたならば「おぜんざい」の方が適当かな?とも思う屁理屈を汁(知る)。

 

*デスクトップ画面用の画像です。
■2026年1月14日(水)
■日進月歩、毎日かわいくなるように鍛錬してるー。

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■2026年1月15日(木)
■一日一文章トレーニング。

「風吹けば桶屋が儲かる詳細を調べた」

「風吹けば桶屋が儲かる」とは大風が吹いて最終的に桶屋が儲かったというお話のこと。
意味は回り回って意外なところに影響が及ぼす経済波及効果を語るもので、これは落語のようなお話でもあり、経済のようなお話でもある。
「風吹けば桶屋が儲かる」との言葉は知っているものの、具体的にどのような事柄の波及効果があったのかは知らない。
なので、さっそく調べて自分なりの解釈も付け足して「あらすじ」を脚色した。

先ずはきっかけとしての街に大風が吹く。
強風が吹くと様々なものが飛ばされるもので、膨大な砂埃も巻き上げる。
先日の大風であればコンクリートジャングルの街中にも目にパチパチとくる砂埃を感じるもので、道路が舗装されていない昔のことを鑑みれば目も開けていられない程の砂嵐が街をのみ込んだと思われる。
特に街には「雨が降ろうが槍が降ろうが」と意思堅固に外仕事を行う熱心な働き者が多い。
そして、この物語はそのような彼らが砂嵐で目を痛め困窮することに波及する。
砂嵐で目を痛めることとは現代では聞かないことですが、黒澤映画や西部劇などを観れば舗装されていない乾いた大地の砂嵐が人々の目を痛める大きな要因となる可能性は感じるものだ。

砂埃で目を悪くした多くの街の働き手たちは今の仕事を捨てて新しい仕事を探すことになる。
もともと砂嵐の中でも熱心に働くような真面目な人たちでもあるので、次の仕事探しも熱心だ。
そこで強風で目を痛めた人が「角付け・門付け・かどづけ」という大道芸を行い大儲けしているとの噂話を聞く。
「門付け」とは家々をめぐって歌や伴奏など行い金品を要求する大道芸のこと。
門前でドンチャラと演奏されては迷惑なもので、砂嵐で被災し困った人々を門前で追い払えば強風ならぬ悪い風評被害も立つかもしれないものでもあり、最初は同情もあって多くの家々はお金を支払いお引き取り願ったのかもしれない。

しかし、ビジネス界とは噂も広がるのも早いもので「門付け」で儲かるとの噂も広まれば、多くの新規参入もドンドンと参加するもので一大ブームとなる。
そうなれば、演奏する楽器の需要も高まるもので、三味線業者は「ほれほれ増産するべし」とどんどんと三味線を作っては売るものでニーズを満たすた為の原材料の供給も尽きる。
三味線はやっぱり見栄え良く皮を貼った方が高く売れるもので、伝統を重んじる職人魂も手抜きを許さない。
なので、原材料確保の為に街に住む野良猫を捕まえては三味線の皮として加工する。
そうすると、街に住む猫のほとんどは三味線の皮となってしまい街から野良猫が消える。

野良猫がいなくなると天下の春がやって来るのはネズミたちだ。
外敵がいなくなったネズミたちはネズミ演算的にどんどん増えて、今度は人間の飲料水や食べ物などを荒らす社会問題となる。
ネズミが増えると食べ物を汚染して疫病を蔓延させる可能性もあるもので、熱心で働き者な人々はネズミ対策のあれこれと思案してネズミ封じを行う。
木の箱や桶に強固なフタをしてネズミが食べたいものを大切に箱の中に仕舞う対策を行う。

そうすると、ネズミたちも学習するもので、木の器の中には美味しいご馳走があることを知る。
これまた熱心なネズミたちが木の容器を見つけては熱心にガリガリと齧って穴を開けて中身のご馳走を狙う。
木の桶とは食べ物を保管する器に似ているもので、ネズミが熱心に齧るのは食べ物の入った容器だけではない。
水を汲む桶などもガリガリと齧られるもので、世の中に穴が空いた桶ほど使い物とならないモノはない。
ネズミに齧られ使えなくなった桶は新しく買い替える必要があるもので、そうして、街を吹き荒らした大風はその後に予期せぬ桶屋を大儲けさせたとな。

めでたし、めでたし。

だいぶんと脚色はしましたが大まかにこのような話の流れで間違いないように思う。

ここに登場する人々はいずれも熱心な仕事人ばかり。
確かにエコノミーな波及効果とはこのような熱心さの狂気な一面を含むようには思う。
”ことわざ”とは戒めの言葉でもあり、人々の共感と同意を得て受け継がれるものでもある。
桶屋が儲かる話にも現代に通ずる共通点はある。

 

*デスクトップ画面用の画像です。
■2026年1月15日(木)
■353(すこす)音♪

*デスクトップ画面用の画像です。
■2026年1月16日(金)
■一日一文章トレーニング。

「境界線上に住まうもの」

大風吹いて桶屋が儲かったお話で気になるのは三味線が猫の皮で作られていたこと。
普通に日常生活をしていれば、猫と三味線の関係性なんて想像にも及ばない。
三味線とは名前の通りに「3本の弦」で出来た楽器のことで、これまたG線上のアリアと同じく半径数メートル以内でまじまじと見たことは無い楽器でもある。
個人的には猫の毛皮とはモフモフ感を出す為の装飾品なのかと思えば、毛は丁寧に抜かれてピーンと本体に張られて音を響かせる仕組みのようだ。
図のように空洞の空いた木枠の両面に猫皮を張っている。
それは西欧的な弦楽器のような空洞で反響させる楽器というよりも、打楽器的な太鼓に近いバチバチと弦で猫皮を叩くような感じでもある。
猫の毛穴は小さくて振動がコロコロと鳴る音色が重宝されているようで、一方で犬の皮でも三味線は作られているようで毛穴が大きく硬い音色がするそうだ。
そして、犬皮よりも猫皮の方が高級品。
現代では犬猫の皮以外にカンガルーの皮や合皮製でも作られているようで、全ては触ったこともない楽器のことでもあるので断定もできない入れ知恵でもある・・・。

1匹分の猫の皮からは1丁分の皮しか取れなく1丁分を1楽器分と解釈すれば当時から高価で貴重な猫皮でもあった。
そのような三味線が飛ぶように売れるとなれば野良猫も野良犬も「あっ」という間に街からいなくなる。
そのように考えると桶屋が儲かるお話の裏話で猫や犬の無念も感じられるもので、それは「化け猫」となって真しやかに語られるお話かもしれない。
夏目友人帳のニャンコ先生にしてもダンダダンのターボババアにしてもやっぱり猫とは化け物の化身の記号でもある。
また、このように話の先に別のお話を繋げれば、さらに波及効果も広がるもので人々が熱狂することの全てに歪んだ需要と供給のバブルの魔物も感じる。
”ことわざ”から学ぶ沸騰性とはやっぱり希少性や高級品・嗜好品に偏り現れ出るものなのでしょうか。

ならば、

犬はなぜ「化け犬」化しなかったのかの不思議。
三味線が爆発的に売れれば野良犬も数を減らしたのだろうと思うもので、ですが、犬とは化け犬とはならない。
犬が怒ったならばその場で「ワンワン」と怒るもので、本当に怒ったならば「ガブッ」と噛みつき後はあっさりと根に持たないのであろうか?
いやいや、犬は過去のこともいつまでもよく覚えているもので嫌な事柄とは微妙な表情で感情表現もする。
犬と人間の関係性とは親しく密接な関係で、ワンワンと目に見えない空間の気配に向かって吠えるのが犬でもあり、人の世界と外の世界の境界線に生きてきたのが犬のようにも思う。

お伊勢参りする犬の話でも、犬は鎖に繋がれることもなく誰かの後をついて歩き突然のお伊勢参りに出かけ、そして、体中に御札や金品をくっつけて帰宅する昔話でもある。
境界線上の犬とはとても自由で広い行動範囲を持っている。
常に犬と人間とは共に生きてきたものの、人間の活動する世界と外の世界の辺境の境界線で生きてきたという考え方は一つのしっくりとくる線でもある。
その他の線は何かと言うと狼犬のように森に生きる野犬と、線の内側に入った家犬の3本線だ。

一の弦 外の犬:野犬・狼。
二の弦 内でも外でもない境界線上の犬:野良犬・庭の飼い犬で内と外を出入りしている。
三の弦 内の犬:家の中の犬。

明治維新により西欧人が日本にやって来ると居留地に住む外国人が「come in」と家の中に犬を招き入れる行動を奇異なる目で見ていた私たちのご先祖様たちは外国の犬のことを「カムイン」・・・「亀や亀子」と呼んで家犬に憧れたようだ。
それまでの犬と言えば、路上にたむろして子供たちの遊び相手の野良犬である。
お金を出して犬を購入するような概念も無かった。
しかし、美しい人の膝に乗るかわいい洋犬を見れば、そのような犬を飼うことが大流行するもので、英国には犬税があると聞けば犬税なる文明を取り入れて、私たちと犬との関係もどんどんと内側へと入り込み文明化していく。
一等国入りを目指す明治政府は路上でたむろする犬を一刻も駆除したいもので畜犬規則によって病犬、猛犬、飼い主不詳の犬を殺傷処分とする。
このようにして、人間と外の世界の境界線に住まう犬たちはどんどんと数を減らす。
もし、本日の混雑する渋谷の駅前に首輪のない野犬がハチ公の如くうろうろしていたならば、どのような結末となるかは大体の人には想像がつくだろう。
私たちの街(人間の世界)とは内と外の境界線の幅がとても薄く狭くなっているもので、境界線上に住まう生き物も消えれば外から野生の外の生き物が侵入してくる具合でもある。

一方で猫は家猫と境界線上の野良猫の二種類の猫がいる。
野良猫が飼い猫となったりと家猫も野良猫も人々と密接に生活して境界線上は曖昧だ。(たぶん)
そして、突然の強風により三味線業者に売り飛ばされて皮にされる猫もあったのかもしれない。
そのような内にいるのか、境界線上にいるかの違いは大きなもので、内なるものの親密度も高ければ高い程に粗末な扱いを受けた事柄とは怨念に変容しやすいものだと思う。
そのような訳で、犬は猫と違い境界線上にいたので「化け物化」しなかったと勝手に妄想している。

 

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■2026年1月16日(金)
■境界線。
■2026年1月19日(月)
■一日一文章トレーニング。

「境界線とは建物や構造物、道を隔てる土地を区切る線のこと」

お店でも「STAFF ONLY」と書かれた標識の外と内や、レジ導線を移動する従業員とお客様とは境界線で区切られている。
なので、内側で働く人と外から入ってくるお客様では見ている景色は全く異なる。
そしてまた、境のある世界の立つ位置の巡り合わせを「境遇」と言う。
たまたまその境界線内に入り遭遇する概念の「境遇」と考えた人もまた凄い。
この数十年間境界線マニアとして生きてきた中でいろんな境を見つけては喜びを感じるもので、境界線とはありとあらゆる場所で見つかる。
明確に内と外を分けられた家の中でも境界線とは存在しているもので、本棚の境界線、カーテンの境界線、植物の器の境界線、製品の基盤と外装の境界線、フィギュアを飾る場所の境界線などいろいろ。
都会ではモノとモノ、人と人との境界線は薄く狭くなるものの、人の心と人の心の境界線はドーバー海峡の如く深く広くて遠い。
反対に田舎だと人もまばらでモノとモノ、人と人の境界線は広いものの、人の心と人の心の境界線は濃密に薄くて近くなる傾向にあるのも不思議だ。
境界線とは境界線を超えて出たり入ったり、押したり引いたりと面白いもので、また、昨今のネット環境に浸れば境界線もまた曖昧に存在しないような錯覚にも陥る。
情報とは流れ行く高速に回すボールのパス回しの如くでもあり、パス回しの参加者が多ければ多い程にボール内容も強く影響力も増して発信者の境界線を超えて独り歩きするものだ。
しかし、情報には境界線はあると言えばあるようにも思うもので、情報発信元の出処を意識すればたちまち見える情報の境界線でもある。
なので、境界線のあるなしとは物理的なモノだけに限られたものではない。

お正月に根津神社様の「境内」に参拝しましたが、これもまた境の内に入ること。
神社の内から境内の外に出る時には後ろを見てはいけないとのお話でもありますが、ふらふらと歩く我らとは池を見たり建物を見たりと右左に後ろ下上と全方向にキョロキョロとしながら歩くものである。
何度振り返ったことかと数えても数え切れない程の後ろは見ている。
そして、そのような関心事があちらこちらに向くと帰り道に根津神社前に坂道の説明の看板を見つける。
「ここにこのような看板はあったけ?」と思うもので、何だか毎年の同じようなデジャブを繰り返しているような人の記憶とは適当だ。
看板は平成14年3月から立っているようで、東京の街の大抵の坂道や階段には説明書きは多い。
坂道の看板を読んでいる人もたまに見かけるもので、看板とは坂道を歩きの散歩健康運動の一環のようでもあり、坂道を巡る人も案外多い予感だ。
我も看板を巡って坂道を歩いてみたい気になるものですが、そう言えば、以前は都内の「水準基標」を見つけようと意気込んでいたものだ。
しかし、同じ場所しか歩かないので新規の「水準基標」を見つけることもない。
そして、歩いて新しい道を開拓しながらの坂道を上り下りもなかなか高きハードルである。

坂道の名前は新坂(権現坂ごんげんざか・S坂)と言う。
私たちがこの坂の名前を言う時には根津様の坂道と話すもので、個人的にはこの森鴎外が名付けたらしいS坂が一番しっくりだ。
この坂道は道路が雪などで凍結するとよく車が電柱にぶつかる程の急勾配なS字カーブでもある。
なぜ?雪道を走行しようと思うのかも謎なのですが、なぜ?道を作る時に真っ直ぐにしなかったのも謎である。
根津神社は生類憐みの令を発令した徳川綱吉が網豊(つなとよ・6代将軍徳川家宣)を世継ぎに任命した時に団子坂北から根津神社を遷座したようだ。
文章によると新しい道のようでもあり、もともとの道がS字であったのかもしれない。
根津神社は徳川様の華やかさを感じることの出来る素敵な神社でもあって、犬公方が作った神社でもあるので犬好きな私も好きなのかもしれない。
こじんまりとした大きさと日光東照宮のような色艶やかでもあって品があるところも好き。
建築的に見ると徳川将軍家の建築様式なのでしょうか???
ならば、元の根津神社のあった場所はどこであったかと地図で探すものの、よくわからない。
光林寺や学校、須藤公園辺りも気になる。
西北には吉祥寺もありますが、吉祥寺は吉祥寺駅で有名なお寺の元祖でもある。
そのまま北に行くと須藤公園で、須藤公園は誰かの庭園付きの家をそのまま公園にしたような素敵で変わった公園である。
山あり谷ありの勾配もあるもので、これが公園なのかと思うぐらいの面白い公園でもある。
元大名屋敷を買い取った須藤さんが東京都に寄付してそのまま須藤公園となったそうな。
そして、団子坂上、団子坂下は私の地図に記載はあるものの団子坂北はよくわからないもので根津神社の元の場所はよくわからない。
ちなみに、団子坂とは団子屋さんがあった坂道で雨や路面凍結でスッテンころりと転ぶ人が多発の坂道で団子坂となったようだ。
文京区の坂道とはどの坂もなかなかの急勾配でもあるもので雪や凍結な時には気をつけましょう。

 

*デスクトップ画面用の画像です。
■2026年1月19日(月)
■根津様S坂の地図。

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■2026年1月20日(火)
■一日一文章トレーニング。

「オレらの東京観光案内を書いた」

根津神社までの行き道は地下鉄本郷三丁目駅か東大前駅で下車して、本郷通りから1本入った東大農学部沿いの道を進み、平屋建ての小さな「聖テモテ教会」で曲がる。
私たちはこの教会のことを「モテモテ教会」と呼んでいる。
ネット情報によると「テモテ」とは「神を畏れ敬う者」という意味のようで、私は今無知を反省している。
そして、真っ直ぐと直進した急勾配なS字カーブの坂を下った先の左手に根津神社はある。
立派で大きな鳥居があるのですぐにわかる。
地下鉄千駄木駅からも来ることは出来ますが、このルートだとS坂は通り道ではないので今回は本郷通りルートで書いた。
このルートを選んだ理由は単に「モテモテ教会」のフレーズを書きたかっただけでもあり、文章とはそういう面が多々ある。
また、明治の文豪たちが活躍したS(エス)な響きが格好良くも思ったので根津様を参拝するのであればS坂を通って欲しい。

先日から久しぶりに観た「ジョジョのダイヤモンドは砕けない」の杜王町編もやっぱり爆上げな面白さで何回観ても飽きない。
そして、この物語の中でもS(エス)な単語は出てくる。
これはネタバレなのか?ネタバレでもないような気もするのですが、岸辺露伴先生の生まれがS市の杜王町でもあった。
文学でも読めばS氏の憂鬱だの、S氏の何ちゃらと出てきそう予感のキーワードでもありS(エス)の響きとはどこか文学的なエッセンスを持っている。
杜王町と具体的な名前を決めたならば、市の名前も具体的に書いても良さそうですが、S市とするのがセンスである。
杜王町は本当に好きな街でもありスタンド使いもたくさん住んでいて素敵な街だ。

康一くんと岸辺露伴さんがオーソン横丁の境界線をまたぐお話もまた好き。
境界線をまたぐ時に後ろを振り返ってはいけないこととは過去を振り返らないことのようにも思う。
岸辺露伴のトラウマを隠す優しさ。
神社で新しい道を祈願する者が直後に後ろを振り返れば再び過去に引っ張られるような感じでもあり、過去を振り返る意味を考えれば同じ道をぐるぐると回って進み再び同じ道に戻ることでもある。
新しい世界に踏み出すのであれば「前を向いて境界を越えろ!」との覚悟を見せて欲しいものだ。
街とは全て境界で出来ており、この世の中にも様々な境界線がある。
私たちはそのような敷居や結界を出入りしながら過去や未来へと境界線の袋小路に迷うのである。

昨日はS坂の地図を模写した。
坂道を模写とは稀有なことでもありますが、道を描けば何がわかるかと言えばS坂とは正確には逆さS字の道であることを知る。
なので、厳密にはS(エス)字ではないのですがS(エス)と言いたくなる何かはある。
地図上でアバウトな角度を計測すると57度で、この角度はS(エス)かと問うてもやっぱりS(エス)なのだ。
周辺にこのようなS字カーブな道はないのかと探すものの、道とは直線やゆるやかな曲線で出来ており、このような道は見つからない。
「えっ!」
根津神社から北東に谷中方面にヘビ道というグニャグニャとS字カーブの羅列な変な道を発見する。
1・2・3と数えると6つのうねりを持つ蛇の道。
「このような蛇道とは知らないわ」と思うものの、方向的には時折横切っているような道でもある。
道の形状とはイメージとの差異は大きなもので、あっちが池袋方面だと思い走っていても方向をちゃんと確認しないと田端方面に向かっているのが現実でもある。
なので、地図を直視しながら進まないと目的の場所には辿り着けない。
人とは案外道並みの形状なんて覚えていないものだ。
道はどこからどこに繋がるのかと始点と終点が重要な要素であるように思うもので、蛇道の頭も尻尾を地図で辿るが地図上では全くの謎である。
今度寄り道して散策して蛇の道が作られた理由と蛇の頭と尻尾を見つけてみませう。

昨日の須藤公園もとびっきりの謎の公園である。
近道を走り抜けようと思い住宅街を走っていたならば道に迷い、うろうろと住宅街を彷徨っていたら偶然に見つける須藤公園でもある。
公園には山あり谷あり池ありで本当に何だかよくわからない公園で、東京の面白さとはこのようなカオスな部分に面白さを発見する。
昨今は大規模再開発で計画的な中心街がたくさん作られますが、それぞれに無縁な人たちがそれぞれに勝手に活動して生まれる辺境の街というのもまた街の魅力だ。

 

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■2026年1月20日(火)
■道を繋ぐ353。

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■2026年1月21日(水)
■一日一文章トレーニング。

「うれしいこと4選」

今朝の水温は久しぶりの冬らしい一桁台の9.6℃。
昨日の鉛色の大風が街の空気を入れ替えたようで今日も寒い。
さっそく、厚手の靴下を履き、服も着て、パッチ?レギンス?ももひき?スパッツ?のような黒くて温かいものも履いてとても怪しい。
室内での格好とは全身グレーか全身真っ黒の怪しさ満天でもあり、これは事件の香りがする。
そして、そのような格好で室内をうろうろとしている自分はまるで明智小五郎先生のお友達の小林少年のようだ。
小林少年とは事件現場にいつもいるもので、パッチ?レギンス?ももひき?スパッツな怪しいものを履いて現場を走り回り事件解決の一役買う。
うちらが刑事(デカ)であれば、小林少年を真っ先に怪しく思うもので、全ての事件の黒幕が小林少年であったならば「おまえが犯人だったのかー」ととても嬉しい。
妄想バレ。

毎日寒い寒いとは言っているものの、夏の夏っぽい暑さは大嫌いですが、冬の冬っぽいお天気とは案外好き。
矛盾です。
なので、このような鉛色空の肌寒い風に吹かれてダッフルコートに厚手のコートにマフラーと巻き巻きしながら街歩きするのも冬の楽しみ。
そして、昨日は今季何度目かと数える大風も吹くもので、回り回って誰に巨万の富が転がりこんでくるのであろうかと思いを馳せる。
私はと言えば、吹き飛ばされた街に積もった塵がお目めに入って目をしょぼしょぼとさせるもので、大風で目を痛め家々にドンチャンと押し掛けるタイプの配役のようだ。
桶屋でなくて残念。
路上には黒いコートを着たビジネスパーソンが道の端っこで財布を開き中身を確認しているもので、風のようにマネーが溜まる場所が気になる私もその男が気になる。
私立探偵のように眼光鋭く風吹いて目がしょぼしょぼと、スーツの男は懐具合でも確認しているのであろうか?落とし物の線の邪念も浮かぶ。
私も時折、マイ財布の中の万札が気になるもので、突然立ち止まり財布の中身を見たくなる衝動にもかられる。
しかし、財布の中身とは外で見るには気が引けるもので、あまり外でやりたくない行為でもある。
そうすると、
大風は再びビュービューと吹くもので、財布の中身を見ているリーマンさんの財布に3枚の落ち葉がぐるぐると飛んで、その後リーマンさんの足元で渦を巻き踊っている。
これはもしやタヌキに騙されたのかもしれない。
大風が吹いたお札が風に舞って3枚の葉っぱとなれば、これはもうタヌキの昔話でもある。
なので、私は風吹けば桶屋が儲かるお話がタヌキのタヌ話であればとても嬉しい。

ということで、

昨日の蛇道を探して「寄り道じゃー」とリーマンを横目に蛇の道へと向かう。
地図は信頼度の低い頭に叩き込んでヘビ道へと進むもので、恐らくこの辺だと思いながら直進して「あーここがヘビ道なのか」と思う。
よく見ればたまに横切る道でもあり、邪道はすでに蛇道を生活道の一道へと組み込んでいたようである。
「道はくねくねとはしているなー」と思っていたような思っていなかったような・・・何とも関心の一端にかからない道ではあるものの、ヘビの蒲焼のようにもうすでに何回も頻繁に横切り通り抜けていた。
そして、昨日、初めてヘビ道の始点から終点までを通り、この道が知っている別の道とも繋がっていることを知って世界がまた一つ広がりとても嬉しい。

蛇道由来の看板はないかと思い探したものの発見できず、なぜ、この道がヘビ道となったのかネットで調べると、どうやらこのヘビ道とはもともとは川であったようだ。
谷田川という田端方面から不忍池に向かって流れる川に暗渠(あんきょ)というフタを施し道にしたのがヘビ道で、川の流れをそのまま道としたのでこのような蛇の形の道となる。
この谷田川には大正時代に計画して作られた藍染川と日暮里を通って連結しており隅田川と繋がっているようだ。
都市の水治とは大仕事でもあり、目に見えない都市の地下で街のインフラを支えている。
そうなれば、ヘビ道とは俯瞰すれば龍の頭や尻尾と成るものかもで、尻尾は田端の飛鳥山方面から頭は不忍池となるものだ。
以前から不忍池には川が見当たらず水はどこからやって来るのかと気にはなっていたもので納得。
小さな蛇道のくねくねが大きな立派な不忍池や飛鳥山の頭と尻尾となっていることを知りとても嬉しい。

 

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■2026年1月21日(水)
■日々すこすづつかわいくなるように思案しているけれども龍になってしまう儚さかな。
ひと知れず 足もと流る かわ先に
しのばずまちも 鴨の水あび

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■2026年1月22日(木)
■一日一文章トレーニング。

「パッチ?レギンス?ももひき?スパッツ?と人類は大切な何かを忘れているような気がする」

私の頭の中でも何かが引っかかり離さないもので「何だろうか?」と頭を悩ます。
お風呂に入り、布団に入り、あれこれと頭を悩ますもので、突如眠りの中で閃光も走る。
「あっ・・・た・・・タイツ」だ。
世の中にはもっと睡眠中に知る必要な大切な事柄があるように思うものの私の頭の中は「タイツ」である。
それは昨日のパッチ?レギンス?ももひき?スパッツ?の文章になぜ?タイツを付け加えなかったと悔やむ、どうでも良いこと。
タイツは文章の中にあっても無くとも大して何も変わらない言葉でもあり、例え、パッチ?レギンス?ももひき?スパッツ?にタイツ?が加わっても何の変化も感じられない。
タイツのトラウマと言えば、以前に書きましたが幼稚園演劇の白鳥の湖のちょい役で白いタイツを履くのを嫌がっていたぐらいなタイツ話でもあり、そして、今や自宅ではタイツなのだ。
そして、朝が来て目が覚めるとタイツ話も忘却しているもので「何だっけ?何だっけ?」と再び頭を悩まし、脳みそ捻ってタイツ話を思い出す。
なぜ、タイツなのかと思うものの、このような長ズボンな下着類の違いや線引きもよくわからないものでさっそく調べる。

タイツとは何ぞや?と辞書を引くと下記のようになる。

【タイツ】はtight(s)との外来語で、タイト(窮屈)な意味を持つ言葉。
体にピッタリと密着する衣服で腰から下を包む下着やバレー着として使用するものをタイツと言う。

そう言えば、バレー着と言えばレオタードのことでもあり、【レオタード】を調べるとこれも英語のleotardから由来しており、バレー、体操、エアロビクスなどに用いる体にぴったりと密着する上下一体型の運動着のこと。
英語圏の通例では上が長袖であるものをレオタードと言うようですが、日本では上は袖なしで下はブリーフ型(下は英語圏も同じ)のものをレオタードと言う。
私の思い出の中で小林少年が履いていた長い密着したパンツはレオタードとは関係ない。
もし、小林少年がレオタードを着て街を走り回り事件を解決したならば、それはそれで大問題ですが黒幕と同じくらい面白い。

【パッチ】は足元まである長い“ももひき”のこと。

【ももひき】はズボンに似た下着で防寒用や作業着のことで、“ももひき”も“パッチ”もほぼ同じ解釈。
それ以外にも夏用のステテコもある。

【ステテコ】は男子用の膝下までのズボン下のことで、お祭りなどで履いたりもする。

【レギンス】はlegging(s)と書き、すねあて、脚絆(きゃはん)と歩きやすくするもので、兵隊さんや作業する人がスネに巻き付ける布のことや、または、足部分をぴったりと密着させた毛糸やニット履物のこともレギンスと言う。
一般的には幼児用でもあるようですが、英語圏では布や革製素材でもあるようだ。

【スパッツ】はspat(s)で登山用の靴の上に付けるゲールの一種で、または、女性用のタイツのこと。

言葉とは新しい概念と共に生まれるもので、用途、素材の違いなどで使い分けているようだ。
いずれにしても、どれもよく耳にする言葉であるものの、だからと言ってもどれも同じような感覚でもあり、厳密にそれはタイツ、あれはスパッツで、これはももひきと厳密に線引されてもまた鬱陶しい。
そして、タイツ・レギンス・スパッツは複数形のように末尾にs(エス)を付けて母音化しており、レオタードもドォとの母音化で終わりたい意気込みも感じられる。

ということで、

写真の空飛ぶものは黒いタイツ!
タイツは夜な夜な空を飛行してレギンスやももひき、ジャージなどと熱いバトルをしているようである。
これをズボンの戦いと言うようで、東京の平和と安全はタイツによって守られている!
アーメンm(_ _)mT

 

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■2026年1月22日(木)
■足も長くなるよ♪ズボンズボン♪

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■2026年1月23日(金)
■一日一文章トレーニング。

「初模写じゃー」

いやはや寒い。
パソコンの表面もキンキンと氷のように冷たく、最近はスタートボタンを押してもパソコンはなかなか起動しない。
立ち上がる画面を眺めることは結構長い。
なので、パソコンは立ち上げる前にストーブで温めてから起動する。
人間様が温まる前にストーブで温まるパソコンとは本末転倒ですが、愛着の持つ機械とはそのような猫様々だ。
iPadの電池の減りも早いもので、作業をしているとあっという間に30%ぐらいの容量となり、私の中ではバッテリー容量も30%ぐらいになると「そろそろ充電するべー」のタイミングである。
一般的に充電への野心が湧き立つのは何%ぐらいなのでしょうか。
夏の暑さでファンが唸りを上げるのもアレですが、冬の寒さでバッテリー消費が早くなるのもアレである。
本当に我々が住む地球とはなかなかに過酷だ。

そして、1月も23日となり月日の流れるスピードもとても早い。
お正月のぶくぶくな満腹感は数ヶ月前の出来事のようでもあり、このままのスピード感で加速すれば数ヶ月後にはもう一年も終わっているのかもしれない。
時も加速すればあっという間に棺桶に一直線で、我は老化に坑がうピンボールのピンのような時の進行を遅らせる邪魔者の必要性を感じている。
障害物が多ければ多い程に時間とはゆっくりと流れる確証も当然無く、無知の知のソクラテスさんにも怒られそうだ。

ピンと言えば、昨日はタイツな初夢を見る。
初夢とは何だっけ?と思い出しても思い出すことも出来ないもので、まさかタイツが初夢ではなかろうかと思うものの、初夢とは元旦と2日の夜に見る夢のことだ。
それでも初夢は初夢でもあり「美少女戦士タイツ」のお告げの線もある。
目をつむりタイツとレギンス、ジャージがバチバチと呪術廻戦のようにバトルしている姿を思い浮かべると、これはこれで格好良い~☆
新宿の眠らない夜空を“ももひき”が飛び、へび通りの民家の屋根をステテコが走って、小林少年がレオタードで街を駆け抜ける。
無茶苦茶ですが、わーには結構刺さる。

そう言えば、今年の書き初めは無茶苦茶、破茶滅茶とたっぷりの茶の字で書こうと思っていたものの書いていない。
書き初めも正月も2日行うのが筋のようで、夢見ることも書くことも疎か。
そのような訳で、寒さでバッテリー消費の早いiPadを使って初模写をする。
今年の初模写は「イシイのいつでも1・5倍チキンハンバーグ」。
もうこれから一切災害に合うことのないとつもりでいるものの、世の中は備えあれば憂いなしでもあり一応水やパスタ、食料品を少々備蓄している。
いつも消費期限切れでブーブーですが、このハンバーグは来年のこの頃までもまだ食べられる長期間保存のハンバーグでお気に入り。
備蓄食品とは使う機会が無くて良かった良かったですが、賞味期限がすぐに切れると嫌な気分にもなる。
このハンバーグは賞味期限が1年以上と長く、食品添加物無しで、常温のまま温めずとも食べれるし、温めても美味しい。
災害時にひもじく不味いお食事とは嫌なことで、人とは美味しい肉でも食べればまた心も前向きにもなるものだ。
私は勿論イシイのハンバーグの回し者ではありませんが、なかなか良いハンバーグを見つけた。
やっぱり、いつ何時でも肉であり、我らの進む暗闇を照らす灯明もまた肉なのである。
境界線上の野良犬の戯言「ガルル~」

ということで、

昨晩はローストビーフを食べた。
写真は肉を常温に戻すことを忘れないように机に置いた肉のイラスト。
雑に机に置かれお茶や水で滲むものの数日前に描いた絵である。
筋肉マンに怒られないかとのドキドキですがアンニュイな表情もなかなかに良い。
包丁でカットするとピンクの肉が輝き、肉加減もとっても美味しいローストビーフだった。
作るのは手間と時間がかかるのに肉は一瞬でなくなる不思議だ。

 

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■2026年1月23日(金)
■3go3
■2026年1月26日(月)
■一日一文章トレーニング。

「最近ハマっている音はFCO.さんのINC

どのくらいハマっているかと言うとmany many more・・・とメチャメチャハマっている。
朝起きただけでも「ラリラリラ~リラ♪ラ~リラ♪」と脳内で「異物混入」を感じるヤバさでもあり、スーツ姿もお洒落で、ハモリも超絶に格好良く、大人な音の感じも大好き。

異物混入とは何か?
バンドマンは目を隠された状態で演奏するものでチェチェチェパチンと異物の進行は絶えまなく前進する。
ブラインドな目隠しは何を意味するのか?
意図的に見ていないのか?何かによって隠されて見えていないのか?どちらとも解釈できますが、時折、目隠しをとったとしても再び目隠しの心地よさに戻るような異物とは時に水のように浸透しラリラリラ~リラ♪と渦巻く拒否反応なお熱を出すお話のようにも聴こえる。
人とは知らず知らずの内に自らの体内に異物を取り込むものだ。
快適さの内に異物を取り込み、その異物が根を張った状態ではもう手遅れで、その代償を払うのは異物混入された本人である。
これは考えすぎかもしれませんが病気的な流行り病に限らないものかもしれない。
文化的なこと、デジタルにAI、生活なことを含めての様々な異物混入なテーマの予感。
聖域である自分たちの世界とは常に境界線上の異物混入に晒されているのである。
たぶん。

音楽とはその時々の空気感を作り出すものだ。
恋のテーマソング、何かを作り出す時の背景で流れている曲、歩きだすタイミングの歌と様々。
買付に行った外国ホテルのMTVから流れる「アウトキャスト」なノリで商談したこともある。
行動する人類の背後には絶えず曲とは流れるもので、私たちはいつでもどこでもあの曲を聴いた記憶を持つ。
これはおそらく曲を持ち歩くウォークマン以前から脈々と続く歌の記憶でもあり、懐かしい曲を聞けばあの時のあの情景のあの記憶やあの香りまでも思い出される。
嫌な思い出や恥ずかしいことも思い出される曲でもあるけれど。
私のガキの頃であれば常に脳内に音は流れていたもので、大人になった今でも時折テーマソングな原動力となる歌はある。

デメキング」な曲もドライブ感があって好き。
ガキの頃から無茶苦茶でもあった我らがまったりと我道を進んでいるような記憶が蘇る。
新しい曲なのに過去を呼び起こす不思議な曲だ。
あの時のあの時代のあの空気感とも結びつく、ガキであったうちらの青春時代を感じる。
私たちは常に大人たちから大人なる線引きをされて枠外に追いやられるような若者でもあり、当然それに反発して戦うような純情なガキでもあった。
そして、そのような私たちが大人になるとやっぱり何処まで行ってもやっぱりガキはガキでもあり、いつまでも純情な老けたガキ大人となる。
そして、そのようなガキ共をいつも癒やしてくれたのが音楽でもある。
音楽に癒やされた者はいつまでも音楽に癒やされるものかなで、本当に「三つ子の魂は百まで」なのである。

 

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■2026年1月26日(月)
■うたを唄おう。
■2026年1月27日(火)
■一日一文章トレーニング。

「春のうら~ら~の隅田川~と心の中で唄いながら」

隅田川と繋がった地下を流れる川の重力に従って、ヘビ道を尻尾から頭へと抜けて不忍池まで下る。
尻尾は誰もヘビの入口だとは思わない普通の道の佇まいで、私は魚1匹の川魚となって流される。
そして、アルファード1匹と老夫婦2匹もその道を曲がって流される。
道はくねくねと曲がり流石のヘビ道で歩いている魚も多く、私も自転車でうねうねと曲がりながらゆっくりと進む。
私が頻繁に横切っていた道も通りすぎて、当たり前ですが進む方角が異なると見える景色も異なる。
いつも新しい道を開拓する時には新鮮な気分になるもので、3度目の正直のヘビ道でもまだまだ新鮮な水である。
道路工事でさらに狭くなった道をくねくねと進み、ヘビ道も頭まで突き抜ければ真っ直ぐな道に出る。
この道は根津神社に通ずる藍染通りに交差する道でそのまま直進する。
私はこの藍染通りの甘味屋さんでたまに白玉テイクアウトするもので、藍染という名の通りに昔は紺屋さんが軒を並べて着物を染めていたのかもしれない。
さらに真っ直ぐに進むと谷中の古いお寺が集まった横を通り抜けて、弥生坂に繋がる言問通りに出る。
弥生坂は弥生式土器が発見された場所で弥生時代の名称となった場所だ。
おそらく、地下を流るる小川は真っ直ぐに不忍池方面に向かっているだろうと思うもので、そのまま直進すると道はどんどんと狭くなって家々に挟まれてさらに狭い小道となる。
私は魚からネズミになったような気分にもなり谷底を流される。
すると、上野動物園横の池の端二で道は大きな建物で阻まれ道は途切れる。
川は見つからなかったと残念に思っていると都電のチンチン電車が置かれた小さな公園の反対側の歩道に埋まった橋の痕跡を見つける。
「これはおそらく橋だろうなー」と思うものの、変なおじさんがその橋っぽいところで何かフラフラとしているので小心者の私は近寄ることが出来なかった。
今度再チャレンジしよう。
これが唯一発見した川の名残りで、地下を流れる川に流されても川の気配は感じない。
暗渠された川に紛れたお魚さんの気分になると、真っ暗で狭い川を流されることはとても怖い。
途中ネズミにもなり不忍池の大海に出てホッと一安心だ。

ということで、

私も墨田川うららな鼻歌をうたうもので、「うた・うたう」という言葉には様々な「うた」があるように思い調べる。

私たちが日常的に使う「うた」はこの「歌・うた」のこと。
辞書によると大きく口を開ける様子のことで、歌謡曲や歌舞伎などのエンターテインメントな「うた」とはこの「歌」だ。

「唄・うた」は民謡を唄ったたり、小唄(こうた)と子供たちが可愛らしく唄っている様子がイメージ出来るもので、小さくルンルンと唄う時などに使う。
私の中の「うた」とは「歌」と「唄」のほぼこの二種類で、歌だと仰々しく音痴なので私の場合はこの小唄の方が身近だ。

「詩・うた」は詩や俳句、和歌などに使う。
しかし、詩や俳句の発表会は当然ないもので、私にこの「詩・うた」を使う機会はない。
時に何のことか全くわからない謎の詩をうたいたい衝動にかられるものの1行目から筆で進まない。
私の場合、美やリズムよりも内容に偏る、思っていることしか書けない。

「詠・うた」は詠唱と和歌を「うたう」時などに使うようで、私も時折とち狂ったように自作の三文和歌を綴りますが・・・和歌の時はこちらの詠うようだ。
以前から和歌などをうたうが「歌」で良いのかと迷っていた。

「謡・うた」は歌謡曲などに使われる「うた」で民謡や謡曲(ようきょく)と室町時代の世阿弥から続く「うたう」芸能の元祖。
謡は謡言(ようげん)と言う流行歌や噂話と世間に広める現代のSNS的な「謡」でもある。

「謳・うた」は謳歌(おうか)と声を揃えて褒め称えるような「うた」。
お殿様に献上するような歌なのでしょうか。

「吟・うた」は詩吟(しぎん)などの「うた」を吟ずることで、ゲームなどをしていれば吟遊詩人と呼ばれる自作の詩をうたいながら旅をする人物がよく登場しますが、松尾芭蕉もまた吟遊詩人のように思う。
因みに、吟遊詩人とは中世フランスで旅しながら詩を書く人のこと。

「嘔・うた」とは嘔吐と吐き出すような「うた」で、やかましい「うた」のこと。

ざっと「うたう」言葉を探しただけでも結構な「うたう」言葉があるもので、それだけ日本文化と「うた」とは密接である。
「旅」と「吟」と「詩」と1つのくくりで文学的。
「詠」と「謳」と雅。
「歌」と「謡」で芸能的である。
「唄」と「嘔」とは私たち一般ピオプルの生活な憩いと大都会の喧騒のようでもある。

 

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■2026年1月27日(火)
■A lot of

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■2026年1月28日(水)
■一日一文章トレーニング。

「歌にも美しい「歌・うた」と嘔啞(おうあ)なやかましい「嘔・うた」があるように、川の水にも清流と淀んだ濁流の汚れた水はある」

嘔啞(おうあ)とは管弦楽の演奏前にガチャガチャワンワンと鳴らす騒がしい音のこと、または、大勢の子供たちがキーキー声やコソコソザワザワと話す話し声や、たくさんの鳥がピーピーと鳴く鳴き声に、サーザーと幹線道路を車が走り抜ける騒音のこと。
どの音も十分にやかましい音ですが、大人の嗜みとして気にもしなければそのまま川の流れのように流れる雑音でもある。

因みに、演奏前に狂ったように音を鳴らすことを調弦調管と言う。
嘔啞との騒音扱いの音も調和すれば清流な流れとなるもので、調和しているのか?調和していないのか?の境が「歌・うた」と「嘔・うた」の違いのようでもある。
放課後の吹奏楽部のピーピーキャンギャン音に、剣道部の「いやゃーりゃー」とのメーンやコテの叩く奇声や、ざわざわとした学生たちの話し声もまた懐かしいと言えば懐かしい。
私は楽器の素振りか、指揮管理者や世間に対する反抗期の発散なのかと思っていましたがチューニングする音のようだ。
嘔啞な雑音の中で調音することとはすごいことで、楽器を演奏したこともないので何とも言えませんが一つ一つの個性のある音が一つの音として収斂していく流れの過程な気もする。
わーたちはそのような調弦調管な演奏を聴きながら「ガッツオイ」と部活で校庭を走り、坂道を下って帰宅するものである。
そして、社会に出ると腹から声を出すことも、爆音を出すようなこともない。
これら嘔啞とは子供たちの特権なのかもしれなくて、老け行くガキたちもまた爆音を出したい。
山際で「カンカンバンバンわーわー」と騒音爆音ツアーを企画して、熊退治にもなれば感謝状も贈られ体当たりなごじごじアタックとなるかもしれない。エッヘン!
確かにどの音も大変うるさいもので「うるさあああああーい」と嘔啞な「あーー」が吐き出る程にママは激怒りなのである。
しかし、そのような嘔啞な音も耳は無意識にシャットアウトして聞こえていない時もあるもので、これは暗渠された隠された川の流れにも似ている。
見えなければ見えていないし、聞こえていなければ聞こえていない道の下を流れる川のようだ。

私は暗渠でフタをされた川のヘビ道の流れを辿って、このうねうねと曲がる川の痕跡には何か意味があるのでは推測する。

それはへび道の川下に広がる藍染の地名にヒントがあるように思うもので、染物業の十分な水流を確保する為に濁流や滞留を人工的に作って水量を確保したのではなかろうかと思う。
川幅は狭く小さい川でもあるのでもともと水流も少ない。
恐らく、藍染の生地のノリを洗い流すには水量が少ないような予感でもあり、川の流れをくねくねと障害を作って、水を溜めてから一気に真っ直ぐな川に流して生地を洗い流したようにも思う地形でもある。
実際に川下の直線な川へと接続する直前でヘビのうねりも大きくなる。

ということで、

学生時代はヘビのような濁流にもまれるうたかたはゆっくりと流れ、年をとって淀みも少なくなれば時の川は直線上の流れ、途端にひっかかりも少なくなれば社会の仕組みと共に時の速さを感じるのである。
それが大人と子供が感じる時間の差ではなかろうかと思う。
ヘビ道から流され忍ばない池に辿り着くその道から、そのような事柄を空想できる。

 

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■2026年1月28日(水)
■パンチ♪

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■2026年1月29日(木)
■一日一文章トレーニング。

「やっぱ物流ドローンか煮干しだね」

因みに、へび道の大きさから川の大きさを予想すれば京都の高瀬川ぐらいの川幅と水量かなと思う。
たぶん。

街中を流れる高瀬川とは雰囲気もあり京都っぽさを醸し出す川である。
この川は1611年に角倉了以(かどくらりょうい)という京都の豪商によって作られた運河で中心部と伏見を繋ぐ。
荷物を運んだ舟を高瀬舟と呼びその名をとって高瀬川となる。
今は舟もモノも運びませんが街を流れる素敵な川の観光資源だ。
一介の商人が街のインフラを作るとは凄いことですが、現代の都市開発などもやっぱり商人や町人などによって作られていることも多い。
今と昔の違いは何だろうと考えると、今は空に向かって伸びているものだ。
以前も書きましたが、大江戸では団子屋さんの看板娘のお竹さんの名がつく “お竹の渡し”の渡し船の名前が隅田川にかかる尾竹橋や尾竹橋通りの由来となるもので、お金のあるなしではない昔から続く道の利便性がそのまま道となる面白さもある。

もし、高瀬川にフタをして道を作れば今の京都の交通渋滞の解消の一役となるやもしれませんが、それによって街の雰囲気は激変するであろう。
そして、もし、数十年後の近未来にドローンな空飛ぶ物流の登場を予想すれば、都市の物流の主流はトラックではなくなる可能性も高い。
そうなれば道を支える重要度も低下して都市のあり方も変わっている可能性もある。
廃道も増えれば道が公園となり、フタされた川の道も多い東京の道は再び開渠(かいきょ)されて「昔ここに道が通っていたのだよ」と道路とて未来永劫に続くものではないのかもしれない。
川に小魚でも泳げば子供は大喜びだろうし、涼も感じられればこれもまた経済効率の追求でもあり、車の登場で運河が消えたようにドローン物流で消える道もあるかもしれない。
ドローン移動の邪魔となる電柱はなくなる。
家々の屋根の形も変わり都市の形状も変わる。
都市もまた生き物のように年年と変化するものである。

やっぱり、東京のフロンティアは空にあるかなーと思うドローンで、案外地面から浮いていることで物体も安定しているものだ。

そう言えば話は変わりますが、お正月に寄った京都では橋の上から鴨川は見たけれど高瀬川は見ていない。
京都で購入したものと言えば、聖御院大根に京都天橋立産の煮干しと小腹が空くと煮干しをボリボリと写真の量ぐらいを食している。
本来は出汁を取る為の煮干しですが、多くの人もそのままボリボリと食べていると思うように、私もそのような丸かじり。
私の中では煮干しは噛めば噛む程美味しい和製のビーフジャーキーであり、当然ですが不味い煮干しと美味しい煮干しがある
この京都産の煮干しはとても美味しい。

私の流儀としては先ず魚の目を見ない。
煮干しはマイワシで5~7センチ程あり、なかなか大きいので目もしっかりと付いている。
そして、味のない尻尾を食べて、スカスカとした頭をガブッと一口でかじる。
これら部位はあまり美味しくないものの、勿体ないので食べる。
しかし、カミカミとしているとお魚の良いお出汁の味がする。
次に柔らかい腹を齧り、好きでない部分を全部食べてから煮干し本体を頂く。
背中から胴体の部分は固くてバリバリカリカリと骨もまるごと食す。
カルシウムを食べてとても健康的でもあり、噛めば噛む程にジュワーっとお口に広がるお出汁のお味は大変美味だ。
煮干しのベテランになると一連の作法を無意識に行い、床や机には煮干しの銀色の皮がよく落ちている。
やっぱり、煮干しはそのまま食べるに限るのである。

ということで、

この煮干しも残量が少なくなりすこす淋しい。

 

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■2026年1月29日(木)
■二機三脚で丁寧にドローン配送会社でかわいく荷物を送りませう。

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■2026年1月30日(金)
■一日一文章トレーニング。

「タイツとももひきの配達物語」

今日もオレは荷物を運ぶ。
たっぷり充電でもあるので恐らく遠距離方面の荷物に振り分けられるだろう。
指示がくるまで待機場で待ちぼうけで、周辺のドローンたちもどんどんと飛んでいく。
オレにもC3ゲートに荷物が届いたとの通知が来る。
「あいよ」と返信してお届け荷物を受け取りいく。
待機順ルートに従い飛行して配送予定荷物の上まで来ると、コンベアで運ばれた荷物の配送先や過去の飛行データ、注意するポイント、空の混み具合、気象情報等の情報をインプットする。
そして、その情報を元にして飛行ルートを作成する。
オレ達は一度配送した場所の過去データを全機で共有しているので卒なくお届けが可能だ。
また、安全な飛行とルートと短縮プログラムも搭載されており、その他の近道を検証してからの飛行ルートを作成する。
この作業も数秒で完結するもので、飛行予定のデータは本部に送られる。
承認されればしっかりと荷物を掴み固定してから、荷物は前後上下に揺らして落下がないように安全確認を行う。
おっとっと。
今日の荷物は2個口配送で「ももひき型」との出発である。
”ももひき”の荷物は小型配送担当で、オレの荷物は100サイズ超の大型の荷物でもある。
なので、このような時には “もひきも”とオレはタッグを組み二人三脚でお荷物を届けることとなる。
オレ担当の人間のオペレーターは「二機配送」のことをいつも「二人三脚で運んで」と言っている。
二人三脚とは二人並んで足に紐を結びコケたら二人とも倒れる一蓮托生の運動会の催し事のようでもあり、あの人はそのことを知っているのだろうか。
オレはドライブ制御を“ももひき”に移譲し、これからの飛行は全権“ももひき”が飛行コントロールを行う。
航空管制のやり取りからや前後を飛ぶドローンとの情報交換を行うのも“ももひき”でもうオレにやることはない。
航空管制は何十何万機というドローンの飛行を自動で航空管制するもので、本部に送った飛行プランを航空管制プログラムが異常の有無を監視している。
人間だと何百人で制御するような複雑な管理をデータセンタと数台のノートパソコンで制御しているが、今やドローン同士の衝突事故など全く起こらない。
もし、通信障害等が発生したならばLOWモードに変更され自律飛行で前後のドローンなどと連携しながら安全に荷物をお届けすることも可能だ。
バッテリー切れや故障、異音の感知、鳥の衝突にデータリンクされていない不審な飛行物体を探知レーダが確認した場合にはそのままゆっくりと公園やビルの上など安全で広い場所に着地したり、連携した回避行動もお手の物。
とりあえず、飛ぶ方も管理する方も全部機械制御でコントロールすれば一寸の狂いなく全く事故なども起こらない。
バグは絶えず発生するものではありますが、そのようなバグも機械が自動でプログラム修正を行い動作を確認して自動に実行する。
これは1世代前の軍事技術でもあるようで、最新の技術だとステルスで地図情報もない場所まで高高度で飛行して、地球の裏側の玄関先まで到着して地図を作りながら勝手に元の場所まで戻ってくることも可能なようだ。
オレは何もすることがないので空から街の風景を眺める。
空からの眺めは大好きだ。
ドローン技術の発達によって街の風景も随分と変化したようで、私たちは常に地図情報を更新しながら飛行している。
池や川や地形の起伏に道の繋がりなどを読み取り、それを地図データと合わせ読みながら学習し蓄積していく。
そして、そのような学習結果は全機体で共有されるのでさらに緻密な地図情報となる。
都市の物流とは人が生活している限り需要と供給の一丁目一番地でもあり決してなくならない仕事だ。
飛行ルートは大まかに、その日の気候などにあわせて空の道のようなものが自然発生的に生まれるもので、大体ドローンは隊列を組んで飛ぶこととなる。
そして、配達地が近づくとドローンの配達の列から外れ高度を下げながら目的地に近づく。
マンションだと上から下降して部屋番号を確認して、ピンポンアプリを送信する。
昔は家のピンポンとは室内で鳴っていたようですが、今のピンポンは荷物の受取人に携帯端末のアプリで直接コンタクトを取る。
動画配信しながら「在宅していますか?」とのピンポンで、もし不在の場合にはこの辺りに置き配して良いかと確認を取る。
「はい」であればそこに荷物を置き、確認が出来ない場合は近くの営業所に持ち帰る。
多くのユーザーの方は大体置き場所を最初から指定しているので、そこに置いて任務完了となることが多い。
一仕事も終えて本部に配送完了を通知すると、すぐに近くの会社から荷物の集荷依頼を受け取る。
オレと”ももひき”は別々な場所に向かって飛んでバイバイと、一日はまだ始まったばかりではありますが今日もたくさんの荷物を運ぶのである。

 

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■2026年1月30日(金)
■飛べない。