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| ■2026年2月2日(月) |
| ■一日一文章トレーニング。 「実家から頭付きの鮭の切り身1/4が送られてきた」 たくさんの鮭の身がやって来てラッキーですが、いざ凍った頭付きの鮭を目の前にすると「どぉぉぉーーーするべーーー」と路頭に迷う。 週末はそのような鮭の頭を使った鮭の粕汁を作るもので、母いわく鮭の頭は絶対に「鮭の粕汁に汁(しろ)」との話だ。 「鮭頭は粕汁にゼッタイ」ということで仕方なく酒粕を買いにスーパーに行く。 スーパーに行く途中で豆腐の木綿と絹ごしに悩む子供時代が思い出される。 または、飛行機の成田と羽田を間違わないように悩んだ学生時代も思い出すもので、今、酒麹と酒粕を混同している。 頭の中で「酒粕・酒カス・酒麹にさけこうじ?シャケ・鮭の酒カスの酒鮭で・酒粕」と360度一回転して呪文のように復唱している。 大人になってもダメな大人とはいるもので、そのようなダメさ加減の大人でもある。 「酒のカスなんて売っているのか?」と思いながらも普通に冷蔵ゾーンに売られている酒カスで、これでもう酒粕と酒麹に迷うことなし。 経験とは大事。 写真にはまだ酒粕カスは投入されておりませんが、リアルな鮭のお目々は臭み取りの生姜で塞がれている。 そして、余った酒粕はカスとして捨てるのでは無く、甘酒として美味しく頂く。 本物の酒粕で作る甘酒とはお酒そのものお味で、頬もポッと赤くなる一石二鳥の酒だ。 ホットクックさんの全自動でぐつぐつと鮭の粕汁作り、多少のお酒なクセはあるものの美味しくいただいて体もポカポカ。 鮭か酒か、麹か粕なのかと本当にややこしいのですが、これは酒の粕と鮭のカスをかけたダジャレのような料理である。 そして、私は鍋の煮込み料理が鍋なのか?汁なのか?と気になるもので、仮に「鮭の粕鍋」と表現すると急に鍋底な底辺に沈む鮭の頭が浮かび屈辱感を感じる。 私は煮干しを頭から齧る人間でもあり、鮭の粕汁とは正しく汁で正しいように思う。 正m(_ _)m正 鮭の粕汁とは皆で鍋から直接箸をつっつき食べるような料理でもなく、お椀に取り分けて食する料理でもある。 なので、当たり前ですが鍋からつついて食べるものを鍋として、お椀に取り分けてから食するものを汁かもである。 やっぱり、冬に鍋とはホクホクで根菜類を頬張り、汁をズズりと啜りながら食した記録の日記でもある。 そう言えば、この週末から今季の冬アニメの「違国日記」を観始めた。 この物語は一人でいることが好きな作家先生と作家の姉の子供との同居を綴る物語で今ハマっている。 そのような異者混入(いぶつこんにゅう)なる生活の境界線上に日記という媒体があるようで、日記の横罫線が乾ききった大地の波紋になるシーンも好き。 おそらく、文章を書くこととは何もない砂上に楼閣を建てるようなものだ。 何も書かれない横罫線とにらめっこすれば、それは砂の波紋のように見えるかもだ。 まっさらな紙面と対話すればする程に自分と自分との対話するような感じでもあり、人はそれを孤独と言うかもしれないが、自分と自分で対話していれば孤独では無いかもしれない。 これはAI時代の簡単に文章が書けるとしても、自分の中の乾ききった砂漠を持つ人とそうではない人の違いはあるように思う。 自分の中に乾いた大地を持つ人とは何か創作しているような人の気もする。 作家先生の「日記は苦しいことや書きたくないことは書かなくていい、今書きたいこと書くもので本当のことも書かなくても良い」みたいな部分も好き。 日記とは嘘八百な部分もあるもので、この鮭の話も嘘かもしれない。 私はプライベートなことは全く書きませんが、それは別の何かにカタチを変えている可能性もあるし、思っていることをそのまま書くのもまた日記である。 鮭の頭のカスを美味しく料理して粕汁となり、または、失敗した鮭の粕汁となってもその汁を啜るように綴るのが日記であり、これは私の聖域の世界に鮭の頭なる異物混入した記録なのである。 |
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| ■2026年2月2日(月) |
| ■異物混入。 |
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| ■2026年2月3日(火) |
| ■一日一文章トレーニング。 「さむいさむいあーさむい」 iPadにスマホと私たちの布団の上には複数のガジェットが転がり朝から晩までガジェットだ。 外ではカラスが「アーアー」と鳴き、ビュービューと寒風でも吹けば外も騒がしくもなって今日も悪侍がはびこる大都会である。 寝相も悪く蹴飛ばされた布団はどこにやらと、もう寒くなってしまった布団に聖域もない。 ヒーローももうそろそろ起きる時間だ。 ガジェットピオプルでもGJジェットでも何でも良いのですがガジェットマンは唸りながら布団から這い出て今日も一日は始まる。 先ずはおトイレ。 一直線に便座に座りこれまたスマホ。 何を見ているかと本当に何を見ているかの時間潰しの情報の川を徘徊している。 タッチでペラペラとページをめくり新しい情報を仕入れるネットサーフィンとはエンドレスだ。 そう言えば、ガジェットマンが朝起きて最初に手に掴んだものはiPadやスマホ。 朝起きて最初に掴むものとは大切なもので、これはガジェットの箱で見る新鮮な情報が重要だとも言える。 これは子供の頃のお風呂場まで持って入るお人形さんのような親密度でもありますが、幾多の大人もまたトイレの中までスマホだ。 「そう言えば、私はお風呂場までスマホは持っていかない」 「ちょっと待てよ・・・」 トイレに行けば当然お手々もキレイに洗うのですが、手に持ったスマホを洗わない。 私は便座に座り、拭き掃除の記憶もないトイレットペーパー台上のスマホを眺めながら尾骨を震わす。 「あっ」 スマホを床に落としても服でペッペと拭いてセーフだ。 オレのは特別キレイだけれども。 スマホがない時代に私は何を持ってトイレに入っていたかと思い返すと、それは雑誌や新聞。 やっぱり、いつ何時とておトイレの中とは手持ち無沙汰でもあり、いつも情報メディアを持ってトイレに凸入(とつにゅう)である。 人の朝起き直後とは常に新しい情報をインプットしたい生き物なのかもしれない。 そのようなガジェットマンの朝に犬(わんわん)でもいれば尻尾をふりふりと感情を爆発させてくれる。 朝の犬とは回転してジャンプして飛び跳ねる「おはよう」の挨拶だ。 こんなにも朝から喜んでくれる生物とは犬以外に思い当たらないもので、犬の朝の挨拶とは唇に向かってぴょんぴょんとハイジャンプである。 そして、私は犬に唇を「ペロっ」とされて「やめて呉~ブェッ」となる。 犬にはふりふりするかわいい尻尾があるもので、人間もお母さんのお腹の中にいる時期には尻尾が生えているようだ。 しかし、成長と共に尻尾は埋もれ尾骨として残るようである。 私もうれしい時は尾骨をふりふりと、悲しい時尾骨も下がり感情を揺さぶる尾骨に何かを感じるのだろうか。 とは思っても尾骨の位置も定かではない。 そして、犬も二度目の挨拶となるともう「フン」と無関心な塩対応で、あの朝の爆発的な喜びは夢のようだ。 朝の犬の唇を狙ったペロペロとはガジェットマンの情報収集に似ているもので、腹が空いた合図の「腹減ったよ~ペロペロ」な感じのようだ。 本当なのか知らないけれども。 そして、ガジェットマンもまた朝トイレの中でスマホをペラペラとページをめくり情報の腹をすかしている。 時に情報を摂取しないと生死を分ける戦(いくさ)もあるように、満腹や腹減りのような情報の摂取もあるかもだ。 私たちの祖先は食べ物を食べて生きてきたと同等に、様々な情報を得ることで生きてきた面もある。 「スマホ持ったかGJ!」 「尾骨は震えているのかGJ!」 「スマホは必ず洗えよGJ!」 「がJET☆マンは今日もトイレでスマホタイム」 |
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| ■2026年2月3日(火) |
| ■尻尾。 |
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| ■2026年2月4日(水) |
| ■一日一文章トレーニング。 「朝一番の犬が唇をペロペロして挨拶してくる理由を犬の気持ちになって考えて、そして、朝一番に直線道とくねくねと曲がった道を描いて移動時間差を比較する」 「あなたはだんだんと犬となる犬である」である。 そして、催眠状態となりここに1匹の庭犬を爆誕させる。 家の中に入ることもなく玄関までの境界線上に住まう犬。 境界線上の犬とは外にも内にもの両方に聞き耳を立てる犬である。 外から異物な混入を探知すればワンワンと吠えて警戒し、家の中の様子を聞き耳立てて聞いて気を配る犬。 境界線上の庭犬とはレーダーで言うところの360度のセンサーを張るもので、犬の中に住まう犬とはまた異なる視点を持っていると思う。 そして、外に住む野良犬とも異なり常に境界線上に立って世界を見ている。 ワンは1匹で暗い闇の中で寝て、朝になると明るくもなり一日も始まる。 そして、ファミリーが「おはよう」の挨拶にやってくれば、それはもう尾骨な尻尾ふりふりと「おはようー」とうれしいものだ。 されど、ハイジャンプをしてまで唇を奪おうと思わない。 境界線上のワンワンは常に両耳を効かして周辺を探っていると考えれば、これは情報収集の一種でもあり、調査取締官ワンは常に耳を立てながら情報収集しているものだ。 外と内の回りの状況を敏感に聞き分け、朝起きてお腹も減った中で飼い主でもやって来れば「こやつは何か食べていないのか」と口の中がとても気になり調査もするものだ。 それが、朝のワンワンの唇ペロリンではなかろうかと、私の中の犬が申す。 犬の世界もまた複雑で本当のところはどうだかわからないけれども犬はそのように思う。 情報とは意外に盲点ですが食べ物等と同じく生死を分ける情報でもある。 前述のように人類は的確な情報を得ることで生き長らえてきた面もあるもので、意図的に捏造して吹聴することとは社会を撹乱させ人をあやめることと同義の人類の繁栄を潰し間違った方向に仕向けるプロパガンダな大犯罪である。 これは間違いなきことで、単なる車の運転でも人や乗り物が急に飛び出してくる微妙に見通しの悪い交差点を知る・知らないの違いは事故に遭う・遭わないに直結する。 人はそのような情報を自分で「ヒヤッ」と経験し学習するのか?人づてやメディアを通して聞き共有したり、または、道が改良され救われる命も多いであろう。 情報を知る意味とはそれだけ大きく大切なことで、玉石混交の情報の中で経験に基づく情報とは結構大切な経験呆則でもある。 ということで、 私は朝一番に色鉛筆で線を書き真っ直ぐな線とぐねぐねと曲がった線のグラフを書く。 手書きの線をデジタルに取り込んで編集することは味のあるもので切り貼りせっせと架空の道を作る。 この線は何を意味するかと言うと赤色の道が見たままの直線道で、青色の道がうねった道で移動距離の時間の変化を比較する図。 1ブロックは方眼線5マスで、X秒で1ブロック移動する図。 直線道路は8X秒で8ブロック進み、ぐねぐねと曲がる道だと当たり前ですが地図上の移動距離は直線道路が8ブロック進んだ時に、うねった道は7ブロック分しか進まない。 そして、これが川の流れだと仮定すると曲がる道の壁にぶつかる滞留時間も発生する。 この図だと1うねりの曲がり角で水は壁に当たり+4マス分の時間的なロスを発生するような図である。 滞留が起こればその分だけ水かさも増え、ここでは3つの滞留する壁で12マス分の時間的な滞留とそれに伴う水量の増量も予測できる。 先日のヘビ道の横には直線に真っ直ぐに伸びた広い道が平行して走っている。 経済効率を考えればこの直線道路を走った方が時短でもあり便利でもある。 しかし、面白いことに利用者の多い道はこのぐねぐねと曲がった狭いへびの小道の方である。 これは経済効率とは矛盾しており、人や人の導線となるものが必ずしも効率性を追求していないことを意味している。 実際にうねうねと曲がり自転車で走れば見通しも悪くスピードも遅くなり、このような図より上から下に下る道の移動時間はもっと大きく変化するだろう。 されど、人も自転車もぐねぐねと効率性を無視して移動しているもので、私はそのような光景を面白く思う。 |
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| ■2026年2月4日(水) |
| ■オーッス! |
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| ■2026年2月5日(木) |
| ■一日一文章トレーニング。 「カップ・ソーサーなんて洗う手間だけと思っていた私が今カップ・ソーサーの必要性を感じている」 朝のコーヒーはビーカーのような耐熱ガラスを使い研究室住み込みの化学者のように格好良く湯を沸かしている。 もちろん、白い白衣やエプロンなども着ていない。 全身真っ黒か鼠色のジャージ姿で湯を沸かしてコーヒーを淹れる。 ビーカーでお湯を沸かしコーヒーやカップ麺を食べることとは恐らく中二を患う大きな小林少年少女の憧れでもある。 そして、我が家でもコーヒーや紅茶のお湯はビーカーで沸騰させるもので、必要な分量に+ちょい多めのお湯を沸かしてエネルギーにも無駄がない。 朝一番からこんなにも無駄のない効率的な動きをして怖いのですが、実際に全く大丈夫でもない。 というのも、湯を沸かしてドリップに湯を入れるのが超絶下手。 湯を注ぐことが下手とは人間界では到底考えられない技能ですが、これはシールを貼ることが下手のように湯を注ぐことがとても下手な人もいるものだ。 ドリップの不織布を通さずに湯が横からドバッとカップイン。 次にちょろちょろと湯を注ぐビーカーの横を湯が伝ってテーブルの上にピチャピチャと濡れ落ちる。 または、湯を一気に入れすぎてドリップの不織布から溢れて出て粉っぽいコーヒーとなる失敗談も事欠かない。 私にも裏千家表千家なるドリップコーヒーの流儀があるもので、俺(淹)千家の呆則に則って淹れている。 その方法とは、 1)最初に粉に水分を湿らせて膨らませて粉と水がいい感じに湿らせる。 なので、最初はポタポタと少しずつ湯を注ぎたい。 2)次にドバっと湯を注ぎドリップの上まで一気に注ぎ、その水圧を利用してブラックコーヒーを抽出する。 これは科学でもあり流派なのだ。 ブラックコーヒーを抽出するぞーと水圧をかけて、コーヒーはコップの上までたっぷりと投入すると今度は外に溢(こぼ)れ、溢(あふれ)れるものだ。 「溢(こぼ)れ・溢(あふ)れ」とは何だこれ? お茶の先生が茶室で「あれれあれれ」とお湯をポタポタと落としていたら何だか嫌だ。 実際に汁ものなどを作るとキッチンやテーブル床に液体が落ちて後始末も大変である。 そして、無駄なティッシュペーパーを消費して拭くのも何だか勿体ない。 これによって机や床の上が吹かれてキレイになるという一面もあるけれども、床上の数適ぐらいであれば靴下でスイーと拭くこともある。 茶室でお茶の先生がこぼれた湯を着物で拭いていたら・・・俺(淹)千家も失格なのだ。 もし、この液体が劇物であれば、机や人体にもダメージがあるかもでカップにこぼさずに液体を注げない不器用さとは化学者失格。 しかし、幸いにも化学者でも何でもないので何の問題もない。 シールも真っ直ぐに貼るのが苦手であれば、我も考えてシールは斜めに貼る。 最初から斜め貼っていれば、どのような斜め具合にズレたとしても全く気にならないシールである。 シールは真っ直ぐに平行に貼ろうと思うからズレた時に気になるもので、最初から斜め貼りだと全く気にならない。 これは通信簿に書かれる「少しお落ち着きがないようで・・・」な事柄でもあり、腰を添えて取り組んでいない事柄は雑に行う自己分析でもある。 もしかしたら、これは昨日の退化した人間の尻尾(尾骨)がふりふりと感情で揺れて落ち着きのないことかもしれない。 そういうことにしておこう。 そして、 湯がビーカーを伝いポタポタと落ちるのであれば我も考えるもので、湯を注ぐ時に別のコーヒーカップでこぼれた湯を受けながら湯を注ぐ。 それでも、どこからと湯は落ちて最終的に机の上は必ず濡れているナゾ。 これの解決策とは何かと考えればカップソーサなのか?と思う。 余計な洗い物が面倒なので我が家にはカップソーサなるイケているものはない。 しかし、先人の知恵を借りて最初からカップソーサーを使用していれば、ここにある全ての事柄は文章にする必要もない。 なので、小皿やもう一つのコーヒーカップなどで代用している。 何せ二番煎じの貧乏性とはコーヒーのドリップやお茶は最低でも2回出しまでは可能であると俺(淹)千家は思っている。 しかし、紅茶は濃い方が風味も良いようで無理っぽい。 コーヒーを抽出する時には2杯分のコーヒーカップを用意して2杯分のコーヒーを作ればお得でもあり、そう言えば、もう2杯目のコーヒーはおばあちゃんの家のように小皿でフタをすれば無駄にラップを使わないで済む。 (写真参照) 邪道な私でもコーヒーや紅茶、お茶を飲んで愉しめば不具合を修正し、不具合も修正されれば自然と原点に戻ってカップソーサーの必要性を感じる。 やっぱー、今無駄で不必要と思っていても時間も立てば回り回って戻って原点に意味を見出すものかもしれない。 |
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| ■2026年2月5日(木) |
| ■キックキック。 |
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| ■2026年2月6日(金) |
| ■一日一文章トレーニング。 「ただ今ロースト愛が高まっている」 お風呂場の電球が切れた。 数日前からスイッチを押しても点いたり点かなかったりと調子も悪く。 前兆通りに電球も切れて電球ストックもなかったので自転車に乗って電球を買いに行く南吉。 電球売り場に到着すると様々な電球がありどれを選べば良いのか皆目わからない。 私はお店の人に切れた電球を見せて「同じ商品を下さい」と言う。 店内はたくさんの電球が眩しく点灯するものだ。 電気代もバカにならないと思う眩しい明かりは吸血鬼退治でも出来そうなルーメンである。 私、柔道白帯はドラキュラやこの世の者ではない者たちに通りを走って逃げて、偶然開いていた営業時間外の家電量販店に逃げ込む。 非常灯がぼんやりと光る店内を走り、エレベーターを駆け上がり、時計売り場を駆け抜けて、冷蔵の中に隠れようとしても中に入らなくて袋の鼠のように家電売場の電球売り場まで追い詰められる。 「おまえはもう終わりだ~最後に何かいい残す言葉はあるか」と魔物に聞かれ、我は「切り札とは最後までとっておくべきなのだ」と決め台詞を言う。 腸にニヤリさんである。 そして、電球売り場のスイッチを全部点灯させてまばゆい光でバンパイア血族や幽霊をこんがり焼く。 この手法はハウルの城で荒れ地の魔女を焼いてシュリンクさせていたことで学習済みだ。 または、プラ板に絵を描きオーブンで焼いてイベントで売ったこともあるので光の熱で化け物をローストするイメージも出来ている。 因みに、スコスのHPトップに貼っている一部絵もプラバンをスキャンしたものだ。 「このような光たいしたことがないわい」と言うと魔物に対して、私は電球を手に持ちてほらほらとローストする。 そう言えば、母に売れ残った自作のプラバンをあげたならば「何?コレ?」と予想斜め上の反応で戸惑ったこともある。w 光の熱でシュリンクさせることとは本当にロマンだ。 我何時も学習しているものでどのようなB級ホラーなシチュエーションにも対応出来るような予感でもあり、何よりあの売り場で働く人は日焼けならぬ電球焼けしそうな気もする。 我も電球売り場ゾーンに入ってから顔にもひしひしと電球熱の焼きを感じるもので、最近の太陽フレア爆発の如く我魔物もこんがりとローストされている。 「さっさと電球を買って、ここから早く出よう」 わーはどれを選べば良いのかわからないので、お店の人セレクトに従い秒で買う。 蛍光灯の電球はもう廃番のようで今はもうLED電球しか売っていないようだ。 「これとこれが使えますヨ」とオススメの商品を紹介してもらい、商品を手に取ろうとすると「それは違います」と訂正されて「それも違う」と見た目の格好良さでLED電球を選ぶ。 電球と言えばメジャーの電気メーカーブランドが主流でしたが、もうそのような痕跡もない。 何年ぶりかに電球も切れて電球売り場にやって来ると時代の変化を感じる。 家に帰ると電球のカバーを外しキレイに洗浄しLED電球をぐるぐる回して差し込み点灯させる。 お風呂場の中が以前よりもパッと明るくなり明るい光の中でお風呂に入れた。 ということで、 そうさー、ソーサーと円盤はビュンビュンと飛ばしたくなるように、今朝もまったりとローストされたコーヒーソーサーを使い淹れる。 物語に於いてコーヒーを淹れることとは日常事でもあり、魔物に襲われて電器売場の電気でローストすることも日常事である。 強い光に照らされれば、その背後には強い影の魔物が現れるものだ。 そうさー、ソーサーと今朝のコーヒーソーサーは和な唐草紋様の小皿を使う。 このお皿は醤油など入れてお刺身などを食べる時に使う小皿で我が家では不人気ナンバーワンな皿でもある。 家族からは「早く割れないかなー」と無礼な願をかけられているもので以前は6枚ほどあったが現在は2枚と割れて数を減らしている。 しかし、私にとっては実家から持ってきたズーッ友で愛用していればのでそれなりの愛着も湧く。 ただ、お洒落度が劣ることが難である。 今日はそのような唐草紋様なお皿をコーヒーソーサーとして使いコーヒーを淹れてみた。 カップソーサーにのせてコーヒーを入れると机に落ちる湯をうけの効果はあった。 ビシッと背が高く仕立ての良いスーツにピンクなシャツの遊び心を持つオシャレな英国ビジネスマンが姿勢良く白いティーカップを片手に持ちて、もう一方の片手で白いコーヒカップを持ちながら立ち話な商談をするようにお茶を飲みたい。 なので、いつかホテルの白いコーヒカップセットを買うかもしれませんが、それまではあるものを利用して使いたい。 和柄のカップソーサーに白いコーヒカップでもなかなか良かな和洋茶文化のブレンドでもある。 因みに、左にある茶色コップが二番煎じのコーヒーで、このようなガチャガチャな化学実験な感じでコーヒーを入れている。 |
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| ■2026年2月6日(金) |
| ■ (VTVL) |
![]() ![]() ↑聖護院大根の花 ![]() ![]() ↑美味しかったナゾの橙の新芽 |
| ■2026年2月9日(月) |
| ■一日一文章トレーニング。 「昨日、2月8日(日)は雪降る寒い一日でしたが、我が家では小さな春を観測する」 私は雪が降る前や直後のキーンと冷えた空気が好き。 冷たい空気を吸い込めば脳天までシャッキと真っ直ぐと伸びる何かを感じるもので、それは何かと考えてもよくわからない身を引き締めるシャキ感だ。 寒い寒いと背筋を丸めポケットに手を突っ込んでいたとしてもピーンと伸びる何かはあるもので、それが「冬だなー」と思うもの。 とりあえず、冬の鉛色の空と雪が降る前の冷たさは好き。 これは真夏な太陽な日差し焼かれて「サマー」と思う時と似ているもので、どちらの季節も好き。 また雪が降る直前のシーンとした音のない世界も好きで、ふっと窓の外を見た時に音もなく深々と雪が静かに降り積もる様もまた好き。 雪が運んでくるものは(1)冷たい空気と、(2)汚れた街の空気をキレイに洗う雪の白い美しさと、(3)音の無い静かさである。 雪国だと雪かきだージャリジャリガーガーと騒がしい雪の騒音とはあるかとは思うのですが、都会の雪は静かに積もり、ざわざわとした人の足跡と喧騒で溶ける。 正に「東京ゴッドファーザーズ」の積雪のように東京の街に雪が降り積もって、私は鼻を真っ赤にしながら冬を感じる。 雪の景色とは子供の頃は手をしもやけにする程に好きな景色で、そして、大人になったとしてもまだまだ雪は好き。 しかし、社会人となると電車の遅延だ!雪かき!滑ってコロリンと危ない!業務も滞って雪の「困った話」で溢れる。 私はそのような大人の意見を「そうだ!そうだ!」と同調しながらも心の中では雪合戦である。 雪~やコンコンと走り回って喜ぶのは子供と犬で、遅延したり学級閉鎖に台風と休校したりすることもやっぱり喜ぶのは幼き頃からの私である。 なので、電車が止まったならば「どうしようか?」と考えてティータイム。 良く言えば自然事を自然と受け入れているとも言えるし、悪く言うと無責任、人間性の欠如かもしれないもので、そのような時間は昔から有効に愉しむ。 このような事柄は大人になれば自然と年月が解決するのかと思っていましたが純白なガキとは大人になってもやっぱりガキだ。 「僕はガキと雪が嫌いなのだ」という大人談義に花を咲かせながらも、私は今日も見えない退化した尻尾(尾骨)をフリフリと振るもので、「あー」退化した尻尾を動かすにはどうしたら良いのでしょうか。 そして、そのような冬の真っ只中でおかしな話もあるもので、我が家では寒くて雪の降った日に春の気配を観測する。 それは(1)お正月に京都で購入した聖護院大根の茎を水差しに挿していて花が咲いたこと、(2)土植えした橙の葉っぱ横から突然ニョッコりと新芽が生えたこと。 (1)聖護院大根はここ2~3日で茎がぐんぐんと伸びて、昨日は花が2つ咲き、今日も2つ咲いて4枚の花が咲く。 薄い紫ピンク色の4枚の花びらはとてもかわいい。 よく見ると桜の花が咲いているようにも見えるもので、我が家では雪が降った寒い日に春がやって来たようでもある。 まだまだ、たくさんの蕾があるものでこれは紫陽花のような花咲く集合体となりそうだ。 胚の辺りからは根っこも生えて最終的には春にもなれば土に植える替える予定。 (2)橙は寒さに弱いようで冬も早々に室内でぬくぬくと育つ温室育ち。 そして、昨日は雪が降る今年一番の寒い冬の真っ只中に新芽をわらわらと出す。 昨日は5ミリ程の新芽が芽吹いたと思えば、今朝は約15ミリに急成長している。 去年は新芽をアゲハチョウの幼虫に食べられて虫食い状態の葉っぱですが、その葉っぱの付け根部分から急に新芽が出てきた。 ビックリ!! 新芽は小さな4枚程の葉っぱで形成されており、2年目の橙は一気に葉っぱの1枚から4枚と4倍に増える。 いやいや、よく観察すればその横にトゲのような新芽がまだあるようで、1本の葉っぱから8枚の葉っぱで8倍と増えて今年は光合成モードの成長となりそうな予感。 新芽が生えてきているのは上から17センチ程までで、下の方の葉っぱはまだトゲトゲで綴じている。 急に新芽が生えたというよりもトゲが割れて新芽となったようだ。 緑色だった茎も薄茶と緑色のまだら色となり木の幹っぽくもなり、数年後には大きく育ちて甘くて美味しい橙を収穫する予定だ。 わくわく。 雪降った鼠色の空の寒い冬のど真ん中に春の気配を観測することとは面白い。 |
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| ■2026年2月9日(月) |
| ■う~なぎ美味し~か~の~山、久~しぶりに見~るとかわいい~うなぎ登り~。 |
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| ■2026年2月10日(火) |
| ■一日一文章トレーニング。 「つれづれなるままに 日ぐらし 硯にむかひて 心にうつりゆくよしなし事を そこはかとなく書きつくれば あやしうこそものぐるほしけれ by兼好法師の徒然草」 R080210 聖護院大根の花は1輪咲きで合計5花となり、花の蕾ももりもり杜王町とたくさん生えて数えるのも出来ない程の蕾も生える。 R080210 橙の新葉は18ミリ程伸び、新芽のトゲトゲの先端が緑色から薄黄茶色に変色する。 毎日成長する何かを観察することとは、朝起きての楽しみだ。 成長する何かとは毎日新しい結果を見せてくれるもので、それは嬉しい。 その未来とは推測はできても不確な面も多く、答えの不確かさもまた面白い。 私の頭の中では聖護院大根の花は紫陽花の花のように玉のような花を咲かせ、橙はこの夏葉っぱを八倍に増やして森のような葉っぱを生い茂らせる予感。 それにしても、こんなにも目に見えて成長するとは羨ましいもので、若さのエネルギーとは素晴らしい。 日々成長する若いエネルギーを見ていると、あれもダメこれもダメと見栄えが悪いからとここは断裁してと現代文明の規制的なものが生命の可能性を摘む社会的なマイナスな部分も感じる。 しかし、この植物とて温室育ちの過保護でもあり、アゲハチョウの幼虫を駆除しなければ今頃葉っぱは全部食べられて禿山となり、寒さの中で外に放置していれば葉を落として枯れ山となる。 自然界の植物とは適材適所でしか育たない厳しさもあり、私の手が加わらないと枯れてしまう温室育ちとは私のエゴと言えばエゴでもある。 むむむっと、これはどういうことなのか?難問だ。 厳しさの中の適材適所で育つものが良いことなのか、環境が人工的に整えられた適材適所で育ち花を咲かせることが良いことなのか、それは難しい。 温室で伸び伸びと育ててから外の適材適所を見出すような学校みたいなものと思えばそのようなもので、観察対象と言えばそのような植物だ。 そして、私も植物も同じような命だと思えば適材適所でしか咲かない花でもあり、出来ないような苦手なことを延々とやらされれば、それは監獄生活なようでもある。 適材適所とは何であろうか?と考えると自発性の成長のあり・なしかと思うもので、当たり前かもしれませんが人が人らしく生きるには適材適所とは大切だ。 ということで、 昨晩、お風呂上がりのお布団に入るまでの一時を使って、切り貼りと台形を切り橙の折り紙を作る。 そして、出来たのが写真の失敗作。 色だけは立派な橙色で、これを見ても誰も橙とは思わない。 失敗作とはブラッドボーンにも出てきましたが初見の狩人たちを瞬殺する強敵でもある。 手を天に掲げてワンパンな星を落とす失敗作で、また、力が尽きるまで無限に湧く失敗作でもある。 正に失敗作を作った人とは天才なのである。 そして、私は失敗作なネーミングや失敗作そのものにロマンも感じるもので、それは自分の駄目さ加減なのか、ゴミとしてポイっと捨てられる運命の儚さなのか、歴史に全く足跡も残さない潔さかもしれない。 いずれにしても、全ての完成物とは失敗作の積み重なりによって道を作るもので、かわいいキャラクター(仮名「ももひき」)もまた幾多の失敗作を積み重ねながら段々とかわいくなる。 自画自賛\(^o^)/デス なので、失敗作とは必要不可欠な道でもあり、完成品しか見ない見せない、または、存在しない社会の危うさもまた感じる。 多くの屍の山の上に立つのが人生でもあり、人生とは正に「あやしうこそものぐるほしけれ」かもしれない。 いやはや立体を作ることは難しいもので、これをベースに橙を折れたら良いものだ。 橙という漢字は木に登ると書いて「橙」と書く。 これは私の考えでは高い木に登ってでも取りたくなるような甘くて美味しい木の実のことを表現した字であると思う。 寒い冬に甘くてジューシーなフルーツを食べることはとても幸せなこと。 昨日は新キャラを久しぶりに見て自分でも可愛さもうなぎ登りな気もして、うなぎのぼりの「のぼり」は「上り」なのか、「登り」なのか、「昇り」かと悩む。 辞書で調べると「のぼり」の下記のように使い分けるようだ。 「上り」:下から上へ向かう時の方向性 「登り」:足を使い高い場所に行く時の登頂・登校・登記などにも使う 「昇る」:お日様や龍などが天に上がっていく様子や官位・役職などの昇進などにも使う さて、可愛さのうなぎのぼりは如何ほどの文字を使えば良いのだろうか。 うなぎは足がないので「登り」は駄目かと思うものの、「兎追いしかの山」の故郷の歌とかけ合わせた文章ならば、やっぱり、うなぎは汗水を垂らして登る山な「登り」な気もする。 どーでも言いと言えば、どうでも良きことではありますが、されどそれが日記である所以でもあり、日記とは1000年以上前から続く思うことつれづれなるままに綴る習わしなのである。 |
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| ■2026年2月10日(火) |
| ■手の届かないミカン。 |
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| ■2026年2月11日(水) |
| ■一日一文章トレーニング。 「やっぱり物事の本質とは皮な境界線にあるのでしょうか」 R080211聖護院大根の花は1花咲いて6輪の花を咲かす。 R080211謎の柑橘系の文旦の新芽は2.5センチ程に成長。 冬になるとミカンや橙とジューシーなフルーツを食べたくなるもので、この手のフルーツは当たり外れも多い。 美味しい柑橘類の見分け方とは本当に謎な難問でもあり、色も種類も豊富で外見から判断することもまた難しい。 酸っぱい、スカスカ、小ぶりと決して安くもないお値段ですが外観の見た目から想像できない味でもあり一種の博打だ。 8倍に葉っぱを増やす予定の文旦もとても甘くてジューシーで美味しく種を土に植えたならば芽が出たもので、美味しい実を収穫する為に育てている。 美味しい柑橘類となればそのまま食するし、美味しくなければお風呂にドボンと入れてミカン風呂である。 そのような柑橘類を食べた後も皮からはフルーツな良い香りが漂うもので、我が家ではそのような皮をお風呂の湯船にドボンと投げ込み橙風呂とする。 勿論、ミカンのような薄皮はポイッとゴミ箱行きですが、皮のぶ厚い大きな柑橘類の剥き皮だけはお風呂に入れて二番煎じとする。 よくよく考えると、一度使ってその後にもう一度再利用するような二番煎じとはあちこちで行われる貧乏性である。 本来ならば庭で取れる酸っぱくて食べられないような柑橘類をもぎ取りお風呂に入れるのが答えでもあるものの、江戸っ子生活とは狭くて庭もないので買った橙は美味しくいただき皮はお風呂に投入する。 あ~湯船に浸かり冷えた体も温まり極楽だ~。 最近本当に寒くてシャーロック・ホームズみたいなブランケットをぐるぐる巻きで、眠たくなるとお風呂で温まり、そのまま温かいお布団に直行便のポカポカ。 そして、ぶくぶくと湯の中でお風呂から出る数を数えながら柑橘皮の船が目の前でプカプカと浮かべば、それを沈めたり、クンクンと香りを楽しみ無言で橙皮と戯れる。 柑橘皮をお風呂に入れれば何かしらの効能はあるかもしれませんが、お風呂でプカプカと浮かぶオレンジ色の皮を見ているだけでも癒やされる。 お風呂に柑橘皮を浮かべようと思ったならば、気をつけることは皮をバラバラに分解せずにできるだけ一つの塊の皮となるように丁寧に向くこと。 これは丁寧な生活のようですが、すこす次元のズレた丁寧さだ。 香りを強く漂わせたい場合は橙を1つ食べずに残しておけば、それを半分に割り柑橘皮の舟の上に乗せて浮かべれば甘い香りも強調される。 荒波を立ててミカンが舟から落ちたらならば、すぐに救助班を出動させて湯船の底からミカンを救出する!! 風呂から飛び出すことも忘れる長風呂である。 ということで、 お風呂に柑橘皮を浮かべて遊んでいたならば、丘の上でもゴミみたいな皮を漁りほっこりと温まる。 それは写真のようなメモ類やPOPなどで、これらは時折ファイルなどを整理すると出てくる。 なぜ、ファイルを漁っていたかと言うと携帯のカバーに入れるかわいいシールなどを探して掘り掘りとファイルを発掘すいる。 スマホケースには只今、古いTOPPSのピーチ姫パッケージの包紙が入っているもので少し物足りなく思う。 TOPPSのGAMEPACKは昔激安で販売していたもので素敵なワックスペーパーでもある。 そのような携帯をデコレーションする何かを探していると、ミシンの糸の通し方メモや「安ッス」と呟くサッカー選手のシール、お店のPOP、鳥ちゃん画などが発掘される。 ミシンとは本当にミシミシと縫って自分の服なども縫いたいものである。 しかし、糸の通し方がよくわからないもので、この絵でないと糸の通し方はよくわからない。 ミシンは大昔にすごいスロースピードで熱心に縫ってペンケースを販売したならばバカ売れで、されど縫うのが面倒くさくミシンを動かすまでのハードルも高い。 サッカー選手のブロマイド写真は凄く良い☆ お店のPOPは大工さんのイメージが良いもので、現代ではこのような佇まいの大工さんは珍しいと思う。 男の子と女の子の黒目が不気味なセールスPOPですが、これまた何だかバカ売れしたものである。 センサーの絵は結構好きで頻繁に描いていたような気もする。 小鳥ちゃんの絵は名画である。 丁寧に横に試し書きをしてから清書する画力でもあり、裏紙に「4月5日(日)荷物をお届けです」と筆ペンで書いた謎の汚字のメッセージ付き。 果たして、何をお届けなのか?今やもうわかりませんが、そのようなお届けメッセージの裏面に手書きの謎の鳥ちゃん画が描かれていたならば、受け取った人はどのようなメッセージ性を感じるのでしょうか。 やっぱり、我らとはミカンの中身も好きだけれども、やっぱり外側のミカンの皮も好きなようだ。 |
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| ■2026年2月12日(木) |
| ■一日一文章トレーニング。 「年齢も重ねれば引き算や割り算かな」 R080212 聖護院大根の花は今朝2輪咲いて8花となる。 花は光を透過すると桜の花びらにも似た色となり受験シーズンにもピッタリ。 因みに、大根(すずしろ)の花言葉は潔白・適応力。 花は下から上に向かい開花しているようで、この調子だとピンポン玉のような花の集合体となりそうな予感。 かわいいお花が満開となるまで最初に咲いた花も咲いていて欲しい。 R080212 柑橘系樹木の新芽もぐんぐんと伸びて今朝は3センチ程の長さとなる。 植物とは動かないのでパッと見はよくわかりませんが定規を当てて計測するとその成長ぶりもわかる。 生き物の一歩一歩とは異なるスピード感のようで、植物もまたダイナミックにスローモーションに成長している。 まだ1年目の約57センチの若木が数十年かけて大きく育ち、たくさんの美味しい実をお裾分けしてくれる日も待ち遠しい。 昨日は終日の曇り空でしたが、植物に成長スイッチが入ると日光の強弱に関係なく新葉は伸びるようだ。 ということで、 昨日の中身ではない皮の有効活用について書きましたが、そうすると「皮・かわ」と「側・かわ」が似ていることに気付く。 1本の川(かわ)が大地を流れれば土地を2つに分けるように、「かわ」という言葉は川・河・皮・革・側と何かと何かを分割する境界線的な意味を持つ言葉であることがわかる。 「皮」は樹皮や皮革(ひかく)のことで生き物の外側を覆うもの。 因みに、私は今日の今日まで皮革(ひかく)のことを「ひかわ」と読んでいた。www 数百年生きる長い人生の中でも「ひかわ」で通じなかったことは一度も無く、言ったこともないかな。 しかし、長生きなフリーレンみたいな文章も書けて良かった。 逆に「ひかく」と聞けば別のイメージでもある。 そして、「側」は側近・側室・側面・側壁と人(にんべん)+則(法則の則や接続語のすなわ_ち)を合わせた文字で、これもまた何かと何かが密接に隣り合う境界線な言葉だ。 晩年の夏目漱石が「則天去私」なる概念を考えたようで、これは天の道理につき従い私心を捨て去るとの意味。 これは年老いた漱石の晩節の決意かもしれない。 天とは宗教的にも感じますが学問の人でもあるので、太陽が天を昇り沈むような地球を周る自然科学の決まり事な法則のことを言っているようにも思う。 死とはそれだけ不変的なもので、また、死を身近に感じる時にこそ人の考えも変わるのかもしれない。 夏目漱石の文章とはとても難解で私はその難しさに何度も挫折する。 俺は猫かも・・・でさえ、やっぱり挫折したような私でもあるので大口は叩けないのですが、そのように思う。 内を意識すれば自我を感じ、外を意識すれば自我なる価値観も粉々に壊れていくような関係性の中で内と外があれば必ず境界線も存在する。 そして、内からは内の中の景色しか見えないこともあり、境界線を歩けば内も外も見える時もある。 自我とは何か?そのようなことは考えないのですが、学生の時に読む文章などには昔の文豪たちが近代的な自我と格闘しながら、俺はやっぱり自然主義で行くぜ、いやいやわいはロマンチック派に行くぞと西欧文化が流入する日本文化の変化のギャップの中で自我に悩みわちゃわちゃとやっていたようだ。 この近代的自我とは現代に於けるIT技術と葛藤する現代人に似ているのかもしれない。 ITを駆使しないと真っ当な人間扱いはされないもので、かと言え、扱えたとしても扱う主体は本当に私自身なのかとの空虚感でもある。 AIが普及する近未来の自我とは何かと考えてもさっぱりとわかりませんが、漱石の則天去私もまたそのような近代的自我の確立な文脈からの発言のようにも思う。 数百年の人生行路を辿っても、若かりし頃は何事も足し算や掛け算で吸収し成長していくものだ。 人となる人格も日々変化して積み重なり忘れ私という人格が形成される。 そして、大人にもなり年齢を重ねると急にその歯車が逆流し始める時は必ずやって来るようにも思う。 それは引き算や割り算のようなもので、自分自身が自分一人の自我ではなく家族や社会へと分割されるような感じ。 もし若い頃に内なる自我を確立する時期があるとするならば、そのような大人の世界とは作り上げた自我を外の世界と交わりの中で削るような作業でもある。 努力して作った粘土作品を削って小さくするような。 勿論、そうではないと言う人も多いかもしれないが、案外あるあるだとも思う。 私という人間はどんどん削られて最終的に何者でもなくなくなるように、立派に積み上げられた自我のタワーも積極的に分割していく。 それは別なる見方をすると内なる中心から徐々に外の境界線に近づき、内と外と寄り添いながら生きる則天去私な感じかなとも思う。 |
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| ■2026年2月12日(木) |
| ■センサーが反応したよ! |
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| ■2026年2月13日(金) |
| ■一日一文章トレーニング。 「架空の本の帯の推薦文を書いた」 「俺が猫かも」というタイトルはとても現代的である。 「吾輩は猫である」とも断定も出来ないもので、猫かもしれないし、猫じゃないかもしれないという現代人の不安を端的に表している。 筆者はこの文章を書くにあたりSNSで見つけたイタコさんにお金を支払い漱石御大を呼び出してもらったようである。 そして、呼び出された漱石御大と対面して人見知りすぎて何も喋れなかったようだ。 そこで、困ったイタコが3ヶ月間のエージェント契約を結ぶ提案をして彼はそれを「イエス」と契約書に印を押したらしい。 イタコに降ろされた漱石御大の住処とは都内一等地の外資系高級ホテルの一室で観光旅費の他にパチンコ代に食費と全ての生活の世話をしたようでもある。 おかげでイタコは悠々自適に東京生活を楽しんだようで、作家本人は出版社の経費として認められず貯金を取り崩し破産したようだ。 お金に困った筆者先生は吾輩の働く本屋さんにふらふらとやって来て頭を抱えて座り込んでいるもので、吾輩は「お客様!大丈夫ですか!」と声をかける。 すると、彼は「イタコに騙された」とぶつぶつと言っているもので、これはヤバい人だと警戒モードとなり笑顔で「あはは」と通りすぎる。 すると、困ったことに頭を抱える筆者の横に夏目漱石先生のような亡霊が立っているもので、吾輩もひどく驚く。 とても変な話なのですが、私にはちょっとばかりの霊感があるもので時折見ることもある。 ヤバい筆者の取り憑く者は何者かと興味本位で霊感を開放すると、どこからどー見ても1000円札で見たあのおヒゲの夏目先生でもあり、吾輩は数分間この状況をどうするべきかと頭を悩ます。 夏目先生は本棚の本を眺めているもので、その視線の先を追うと本のタイトルが「騙されないテクニック10選」で思わず笑う。 吾輩は本屋で働く時には霊感モードを封印しているものの、ヤバい筆者の醜態などを見るとどんな魔物でも憑いているかと思ったものだ。 吾輩はヤバい筆者先生を放置出来ないと商談室にご案内してお茶を差し出す次第。 全て夏目先生にお近づきたさでもあったが、夏目先生とは声も発しないもので目線だけで何かを訴えている。 今度はお茶を見ているもので、吾輩は夏目先生の分のお茶も入れる。 このヤバい筆者先生は漱石御大をこの世に呼び戻そうとしたことの成り行きを吾輩に語り、イタコに騙されて漱石御大にも会えずで経済的な破産で頭を悩ましているようである。 生霊や亡霊など取り憑かれたのではなくイタコ詐欺にあって経済的に苦しんでいるだけのようだ。 そこで吾輩は筆者に「漱石はあなたの側にいる」と話し、ここの本屋さんで働けるように店長に相談してみると安心させる。 この本屋にやって来る作家先生たちとはちょっと変わった人も多いもので100発100中というかほぼ変な人でもある。 筆者先生もちょっとどこかヤバいもので、「あなたの側に夏目先生がいる」との話に「やっぱり漱石御大いたのかー」秒で信じて、やっぱり作家とはヤバい。 夏目先生は天を見上げて「則天去私」なるポーズで天国に帰りたそうだ。 なので、私も則天去私なる精神で筆者先生の本が完成するように夏目先生の目線の先を筆者先生に伝える役目を得る。 こうして作家先生と我輩の二人三脚な本を書く旅が始まり、本屋とは本もたっぷりとあるので夏目先生の目線にある本は片っ端から作家先生に購入してもらい、本屋の遅番でも働いてもらう。 吾輩が則天去私に作家先生を側近のようにお手助するように、吾輩自身が次なるイタコ被害者のように思う日々だ。 作家先生は「利益の半分はおまえにくれてやる」と豪語していたのですが、実際に1回目のお金が入金しそうになると「お金の支払いは漱石御大と俺とおまえと損失分の4人分の利益の1/4でええかなー」と重ちーみたいなことを言っていている。 ※重ちーはジョジョのクレイジー・ダイヤモンドに出てくる人物。 流石の吾輩も怒り爆発で、本当に作家先生とはどこまで行ってもカスでもあり夏目先生にももう二度と我輩の前に現れて欲しくないものだ。 しかし、吾輩には夏目先生を再び天国まで帰ってもらえるように、このクソ野郎に協力する。 そして、文章とはとても感動的で美しくあの醜態なるカスからどのようにしてこのような美しき言葉が紡ぎ出されるものなのか不思議だ。 完成した本を読んでいる時にホロリと涙が流れ落ちた。 吾輩は感動する自分に腹が立った。 こうして一人の店番をする書店員があのクズ野郎の帯の推薦文を書くこととなり、編集さんにその話を渡すと「ちょっと長すぎますねー」と装丁にまで影響する長文となる。 あ~駄目な大人とは本当に存在しているものでクズ野郎とは何時でもクズでもあり、そのようなクズ野郎がまた美しくもある世界を描き吾輩も困惑している。 |
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| ■2026年2月13日(金) |
| ■夏目の目。 |
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| ■2026年2月16日(月) |
| ■一日一文章トレーニング。 「へび川を流されて荒川土手に辿り着く」 R080213 柑橘系植物の葉が約3センチに伸び、4つの新葉の内3枚の葉が開く。 R080213 聖護院大根の花は11輪咲く。 R080214 柑橘系植物の葉が約4センチに伸び、4つの新葉の内3枚の葉がさらに開く。 R080214 聖護院大根の花は13輪咲く。 R080215 柑橘系植物の葉は4センチとまりで葉っぱが少し開く。 R080215 聖護院大根の花は12輪咲くが2花散る。 R080216 柑橘系植物の葉が4センチとまりで4枚とも葉が開き、5枚6枚目の葉っぱの新芽も生えてくる。 R080216 聖護院大根の花は12輪咲き、2花散り、背の高さが40センチ程までに成長する。最初はピンポン玉のように花を咲かすかと思っていましたが立方体というか筒状に下から上に花は咲くようだ。 ということで、 昨日はポカポカと春のような陽気で、私は蓋をされた川の道を走ることにする。 自転車に乗れば手袋も不必要な暖かさで、いつかはやりたいと思っていた隅田川流れである。 へび道を始発に川を遡上し途中で右折して隅田川へと下る邪鮭道。 ルートはネットの荒川区立図書館の藍染川(谷田川排水路)を参考とした。 https://www.library.city.arakawa.tokyo.jp/contents?0&pid=2510 谷田川はそのまま北上すると染井霊園あたりから流れて来ているようで墓場好きとしては染井霊園も気になるが、地図とにらめっこしても暗渠された川の道がよくわからない。 仕方がないので今回は西日暮里を抜ける藍染川ルートで隅田川に流れる。 へび川をうねうねと直進し「よみせ通り」を真っ直ぐに走る。 日曜日でたくさんの人で賑わうよみせ通りを抜けると大きな道路の道灌山(どうかんやま)通りに出て、その道を右折してJR西日暮里方面へと坂を下る。 道灌山通りもまた大正時代の大工事で人工的な川が作られたようで、今は暗渠されて大きな道となる。 西日暮里まで下ると街がごちゃごちゃとややこしく道を1本間違える。 なので、川途中に丘に上がり再び川に戻るもので、京成本線の線路に沿って走るのが正規ルートだ。 線路沿いに新三河島駅あたりで藍染通りの看板を見つける。 川の遺構は見つけることは出来ませんが道の名前から暗渠された川の存在を感じる。 御茶ノ水や水道橋と昔は鉄道の線路開発とは水路工事とはセットであったのかもしれない。 そして、鉄道の鉄骨が古く味わい深く格好良くパシャリと撮影する。 このまま真っ直ぐに進んで水道処理場の横を通りすぎると隅田川へと流される。 谷田川排水路との接続部分はフェンスで隔離されて近づくことはできませんが、水門のようなものを遠くから確認できた。 排水路と隅田川が接続する部分には鴨やカモメなどの水鳥がたくさん浮いている。 迷探偵の推理では温かい水と冷たい水が混ざり合う部分は鳥たちにとって良い漁場なのかもしれない。 柵中の陽当たりの良い場所はヒドリガモの大群の寝床となる。 そして、そのまま直線して荒川土手まで抜けようとすると北千住界隈でプチ迷子。 川の近くとはいつも迷子となる既視感で、川に抜ける橋とは大きな橋しか存在しないので大通りを走らないと土手まで近づけない呆則である。 ということで、 荒川土手をサイクリング。 自転車マジ勢にすいすいと追い抜かれ真っ直ぐと川沿いを走ると気持ち良い。 途中で猫ちゃんを見つけて「にゃー」挨拶して撮影していると、野良猫は眩しそうに滅茶苦茶警戒している。 これ以上は近づけないので、遠くからパシャリと1枚。 すると、我らの背後からおじいさんがスタスタと歩いてくるもので、そのジイさんは猫の横をかすめ歩き枯れたススキの草むらの中に消える。 猫は我らに滅茶苦茶警戒しており、なのにジジイには無警戒ですこすおかしい。 あのジイさんは亡霊かもしれないと我勝手に思い冬枯れのススキの亡霊と名付ける。 そして、河原でフリスビーをして、家に帰ろうと足元を見ると青く小さい丸いものを発見する。 しゃがみ込んで何かと観察するととても小さな花で画像検索すると「イヌノフグリ」という花のようだ。 花言葉は忠実、信頼。清らかで確かに清らかでかわいい。 足元にはそのようなイヌノフグリがたくさん咲いているもので、我が巨人はそのような小さな花を踏みつぶす巨人であった。 荒川土手とは川が見えない程の広い空間で空を見上げれば我は真のコビトであり、そして、足元を見れば冬枯れした草むらの隙間にコビト用の小さなかわいいお花がたくさん咲いて、我は巨人のようでもある。 |
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