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■2025年9月2日(火)
■一日一文章トレーニング。

「ニンテンドー・ミュージアムに行ってきたよ」

地球圏の皆様こんにちは。
グリニッジ標準時間午前3時、フライパンの上からフライパンの上へと戻りて今日もとても暑い。
晩夏休暇の降り立った東京の夜の街の気温も十分に暑くフライパンのように暑かった。
遅くとった夏休みから帰ってくると今までは夜の東京の街は幾分涼しく感じるものですが、去年も今年も「暑いいい~い」と残暑こたえる夜である。
いつまで暑いかとこの天気、来年の研究テーマはフライパンを効率良く冷やす方法の、または、フライパンな街に溜まった熱の冷まし方である。

そして、私はニンテンドーミュージアムに行ってきたよ。
元任天堂の工場跡地に出来た施設のようで、工場が潰れて高層マンションや商業施設になることは頻繁に見るこの数十年の景色ですが、このような円安で任天堂のような大企業でも工場を稼働するよりも別の施設な費用対効果の天秤を考えた結果だと考えると少し淋しい世の中だ。

京都もなかなかのフライパン日和で人々を炒るには立派な干物に出来そうな位の暑さである。
そして、私はミュージアムショップで60×60×11センチぐらい巨大なニンテンドー64のコントラローラ・クッションを購入し、それを抱えてお家に帰る。
大きな袋を持って満員電車に乗ると人の出入りの度にはた迷惑。
また、大きなクッションが入った袋も特大の面積のある巨大な袋であり、小さな風にも煽られて歩きにくいし大迷惑。
歩行者に当たらないように如何に歩くかと者幅感覚や気遣いをしていると大変疲れるので、東京への帰宅道は大きなコントローラーは袋から出してヒモでしばり肩掛け抱っこして運ぶ。
これが一番移動しやすい方法であった。

私はこの旅でリアルな体当たりおじさんを二人見かけた。www

ぶつかりおじさんの定義とはわざと体をぶつかってくるラガーマンみたいな肉体派な人であるとの解釈ですが、人に体当たりでぶつかるにはそれなり痛いかもしれないし、体が頑強でないと逆に弾き飛ばされる可能性もあるように思う。
そして、二人共おじさんでは無くて若かった。
自分と関係ないところでの体当たりで無害ですが、大きなコントローラーを持ちて歩いていれば明日は我が身かもしれない。
私は安定的に大きなコントローラー・クッションを運ぶ方法について考えて、ぶつけられたならばイラッとくるし、大切なデカ・コントローラーがダメージを受けるのも嫌だし、大きな荷物を持っていれば存在自体も迷惑でもある。

(ジャンジャンジャンとエヴァンゲリオンな音楽♪)

一人目の体当たり体は電車に乗って来た若い人が、降りる人も待たずに体当たりで乗車してきて2人分の椅子にドシンと座る。
見た目から怖いおじさんにぶつかっていたもので、案の定「コ※スぞー」と電車の外から大声で怒鳴られていて怖い。
電車の扉が静かにそっと締まりて私はホッとしましたが、車内の人たちは何事もない日常を過ごしていて誰も話題にしないものだ。www

二人目の体当たり体は始発駅で停車中の電車に乗って来た若いサラリーマンで、バックと肩をぶつけながら電車内の奥にスピードを落とさずに突っ込んで行った。
夜も11時過ぎの結構満員な電車で、もしかして酔っ払いかもしれませんが左と右を華麗に「ドシン」と音が聞こえてぐらいに体当たりしていて怖い。
若い女性とおじさんはムッとしながらも平静を保っていましたが、私の危機察知能力はそれを見逃さずもう1本奥の車両に乗車する。www

車の事故でも交差点の事故がほとんどで、人と人とのぶつかりも交差する場所が非常に危ない。
「交差点は常に注意せよ」の呆則である。

ということで、

こんなにも大きなゲームのコントローラーを抱えて幸せだー。
素材も高級なベルベット風な生地に刺繍とふわふわ生地でボタンが縫われている。
ニンテンドー64と言えば、ゼルダの時のオカリナでエイヤー、エイヤーと楽しく遊んでいたもので、今でも時折エポナな草原の歌が脳内に流れる。(ピーポナーピーポナー♪)
中央のコントローラーはぐりぐりと動くアナログスティックで、今では左右のアナログスティックで3次元空間を動くことが基本ですが、このコントローラーの現在のコントローラーの元祖だと思う。
そして、裏面には当時画期的であった対象物をロックできるZ注目ボタンも付いている。
こんなにも大きな64リモコンを抱えて街歩き、電車を乗り継いで一緒に旅をすれば、もうすでに愛着も生まれているもので部屋の中心のように佇む。
Wiiリモコンのビックサイズやドンキーコングの樽型の大きなクッションも気になりましたが、ビックサイズのコントローラー・クッションは1つ持ち帰るだけでも大変なので向こう見ずに複数買いしなくて良かった。

新幹線の中では窓際の引っ掛けに壁掛けしても良かった。

また、東京―京都間の移動中は向田邦子さんの本を読書していたので、この文章は向田作品に強く影響されて平穏に淡々と日常の大きなニンテンドー64リモコンのクッションを向こう見ずに家まで運ぶ道中を描写した。www

 

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■2025年9月2日(火)
■戦えパンチにキック、アクション・ファイト・コントローラー。

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■2025年9月3日(水)
■一日一文章トレーニング。

「旅人はなぜ、いろんなモノを背負いて道を往来するのか」

旅の持ち物とは最低限にできるだけシンプルな方がその道程も楽に動ける。
反対に背負うモノが大きくて重くなると疲労して行動力もガタ落ち。
もし、人生行路が旅と同等の道筋であると仮定すれば、人生往来の旅もモノが少ない方が行動力は高まるように思う。

人とはなぜ?様々なモノを背負いて所有するのか。
単に生きる為だけであれば、リュックの中に収まる程度の決まったいくつかのモノだけでも、何とかなるのが旅先で感じるミニマリストな擬似体験である。
スーツケース1つでお引っ越しできれば何と楽な引っ越しであろう。
憧れのホテル生活で一切の不便も感じなければ極論、家のモノのほとんどは不必要とも言える。

しかし、

人生の旅人とは不思議なもので、一期一会のそこでしか買えない大きなコントローラー・クッションを抱えて帰宅するもので、旅のお供とは思い出と共に増えていくものだ。
徳川家康公は「人生とは重荷を背負いて遠き道を進むが如く」と言っている。
様々なモノをよっこらしょと背負い増えていくのが人生の道かもしれないもので、確かに、大きくて重い社長のバックにはその人が背負う人生の重みを感じる。
軽快に動けるだけの機動性だけが旅の道ではなく、一歩一歩と踏みしめる道もあるかもしれない。

旅は旅の準備から始まるとも言われ、そして、人生行路の準備もまた人生の旅の前日談かもしれない。
私の旅の前日を思い出すと下記の通りだ。

リュックにあれこれと必要なモノを詰めて、ニンテンドー・ミュージアムに行くならば、やっぱりマリオな服を来て気分もアゲアゲに行きたい。
マリオのTシャツとはどこに行ったのかとあれこれとドタバタ探しているとTシャツはバンドT高騰の記事を読み、今シーズンからは着るのが勿体なくて仕舞われていた。
ここにあるかな?
ここにはありそうだと、
旅行の前からあちこち掘り返す掘り出し市で、そのような探し物をしていると箱の中から旅と全く関係ない電王ストライクフォームやアルパカのフィギュアを見つける。

アルパカは毛もふさふさで可愛くゼンマイをねじるとコトコトと歩く。
以前は背中にギターを持った電王を乗せて飾っていたもので、今再びそれを再現し机の上でまじまじと眺める。
これらアイテムは旅行の必需品でもなく、人生の寄り道と言えば旅の準備な寄り道でもある。
ふむふむと、いやいや、やっぱりと私の人生に必須な理を見い出せないものの、今見るとアルパカは複数買いして横一列にズラリと並べて飾れば面白かったかもしれない。
私は大人買いしなかったことを後悔している。
アルパカとはお顔を拝見しても癒し系なかわいいお顔で、なぜ?電王なのかわかりませんが仮面ライダーフィギュアとは常に何かの乗り物に乗せたくなる人形でもある。

人生の1/3は寝て、人生の1/24ぐらいは探し物をして、私の人生の多くの時間は探し物を探す時間に費やされる人生かもしれない。
おまえの人生とは本当に有意義な時間を過ごしているものかと自問自答するもので、旅をすることとはやっぱり人生を振り返るきっかけにはなるのかもしれない。
旅の荷物と言えば、松尾芭蕉の「旅の具(ぐ)多きは道のさわり也(なり)」である。

「さわり」とは何であろうか?
「触り」とはモノを触った時の感触で、話の中の一番の聞かせ所や肝心な所。
「障り」なのか?

松尾芭蕉とは江戸時代の歩いて旅するで有名人でもあり、そのような達人がそう言うからにして機動性を追求した身軽さのみの旅を良しとはしていないのかもしれない。(荷物の少ないことを良しとしている)
具とは必ずしもモノを意味するものかはわかりませんが、旅のモノの多きことはいろんなものに触れた証でもあり、見聞も深まり、具体的な土産話しもあって、良いことだと言っているように私は解釈する。
間違えていたらm(_ _)mT候。

正解は全く反対の意味で荷物が少ない旅の方が良くて、「障る」方かもしれない。笑
よって、芭蕉の言葉を借りると大荷物を抱えた旅人は大変なのだ。
むずかしい。汗汗

 

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■2025年9月3日(水)
■ピアノ演奏♪

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■2025年9月4日(木)
■一日一文章トレーニング。

「旅行中のベランダ植物の夏枯れを防ぐ方法」

ミンミンゼミやツクツクボウシが鳴き始める。
木々の葉っぱもどこか茶色が混じる紅葉色がぽちぽとと現れて、それは夏枯れかもしれませんが多肉植物も1本だけ紅葉している。
いよいよ秋の気配ではありますが、いやいや気温はまだまだ高温。
今日のような曇り空であると幾分過ごしやすいのですが、少しでも外に出れば汗汗と汗が滝のように吹き出す毎日の鉄板焼生活である。
生き物たちの活動とは気温と関係なく案外暦通りに進んでいるのかもしれない。
一雨降って涼しくなるかと期待しても天気予報も外れるもので、季節は一雨ごとに進み本日の雨予報は当たって欲しい。(雨降ったー)

溶けるような猛暑の暑さの中で家を空けたならば、毎日の水やりしない植物たちは夏枯れてしまう。
そこで、我は考えた。
旅行中に枯れてしまいそうな植物たちは家の中に緊急避難すれば良いのではないかと。
遮光カーテンで直射日光を遮られた涼しい部屋の光合成しない植物たちはそんなにも水を必要としないものかもしれない。
台風の時もクーラーで涼しい家の中に避難した植物たちは元気にバカンスを楽しんだもので、これによってベランダ植物の外出中の水あげ問題は解決する。
実際に家に帰宅すると、涼しい家の中で過ごした植物たちは葉っぱを青々とピーンと張り以前よりも元気で大成功だ。
多肉植物やサボテンたちは暑さや乾燥にも強いのでそのままベランダに放置。m(_ _)mt

そして、

この夏、私はまるまると太って元気な大根を1本購入したもので、その大根の葉っぱを培養して育てている。
コーラー2リットルの容器の底をカットしてそれを受け皿にして育てていますが、その容器もなかなか良い感じ。
毎日水換えしないと雑菌が繁殖して腐ってしまうもので、数日間家を空けるとなれば、そのような大根の葉っぱも枯れてしまう可能性は高い。
本当は切ってゴミ箱にポイッと捨ててしまうような大根の葉っぱですが、一度育てると愛着も湧くもので枯れるのは可哀想である。
そこで我は考えた。
大根の葉っぱは冷蔵庫に保管して冷やしチャオっと。
事前に4日間ぐらい大根の葉っぱを冷蔵保管する実験では元気に冷え冷えと過ごしているもので、水換えをせずともドアを開け閉めするぐらいの冷蔵庫内の光の暗闇でも元気にすごしている。
お花屋さんでも冷蔵庫みたいなものがあるように、旅の道連れで植物たちを枯らさない方法とは涼しくて暗い場所に一次避難すれば解決できそうだ。
こうして、来年の夏休みも夏枯れを防ぐ植物の管理方法を編み出して一件落着。

ただし、

困ったこともあるもので、植物の入った鉢をどけていると丸くならないマルムシがいるものだ。
風の谷のマルムシは姫様に隠れて育てられようとしますが、私の谷のマルムシたちは巨人のフットワークによってベシベシと踏み潰される。
何か地上に住まうエビ類や海岸の岩肌に生息してガサガサと動くフナムシにも似ていて非常に怖い。
あまりにも怖すぎるのでコンコンと全てのマルムシをベランダの上に落として踏み潰し鉢を家に持ち込む。
そして、恐怖の夜がやって来るもので3匹のマルムシが床の上を散歩していたのを発見する。ヒエー☆
夜も暗くなり部屋の電球も暗く床を歩く黒い物体を発見し、「お前を見つけたーゾ」とティッシュペーパーで巻き取りブチッと潰す恐怖!
オレが怖いのか、お前が怖いのか、これはもう哲学の先生に聞かないとわからない。
最近、阪神のサトテル選手がフランスの哲学者の名前のようにも聞こえてくるような私と虫のどっちが怖いのか、それはなかなかホラーだ。

ということで、「旅の具多きは道のさわりなり」だ。

この文章は「さわり」が「障り」なのか「触り」になるだけでも印象が180度変わる文章で面白い。
「障り」だとネット上の一般的な解釈の「道の触り」でモノが進路を妨げるモノ多き事の不便さと読める。
そして、「触る」と読むと旅の特別な思い出を集めする多幸感な俳句にも読める。
流石の芭蕉なのか何なのか、なぜこのような何とでも読めそうな曖昧な表現をしたかと空想も膨らむもので、江戸時代の旅行とは一生に1回の大きなイベント事でもあったかもしれない。
先日読んだお犬様のお伊勢参りの本でも旅に出る為にお金集めの講を募り代表者を旅に送るような時代でもある。
一般の人々が旅に出るということは非常にお金のかかるイベント事でもあったようだ。
最初で最後の旅かと思えば、あれやこれやとお土産もたくさん購入し荷物はたくさん膨らむであろし、ハメも外すかもしれない。
今でもそうなのですが地元の人達から見ればそのような大きな荷物を持って旅する旅人を馬鹿にしたり迷惑に思うもので、確かに、荷物は少ない方がそれに越したことはありませんが、たくさんの荷物を持つ理由というものもあるものだ。
そのような二面性の軸を考えた時に「当たり触りのない」表現でどちらとも読める「さわり」と表現した妄想も浮かぶ。
芭蕉とは江戸きっての旅人でもあり特別な人物でもある。
彼の旅はいつでも出来る旅かもしれませんが、庶民にとっては一世一代の旅かもしれなくて、確かにモノは少ない方が良い正論ですが「当たり障りのない」「さわり」と表現したのかもしれない。

 

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■2025年9月4日(木)
■にゃにゃにゃのうた。

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■2025年9月5日(金)
■一日一文章トレーニング。

「しとしとぴっちゃん しとぴっちゃん しとぴっちゃん」

台風が接近中のお天気で大五郎もなかなかに過ごしやすい。
雨降りてちー固まり、大雨降りて空気も洗われ、ベランダの植物たちもゆらゆら揺れる。
今回の台風は恵みの雨としてベランダの植物たちも体当たりで風雨に耐えてもらう予定で、我は一切関知しない。

低気圧のせいか少し頭が痛く、今、私は苦いコーヒーをちびちびと飲みながら頭痛解消をはかる。
1杯飲んでニガイ。
2杯目を飲んで苦く。
しばらくして、もう1杯飲んだら頭痛も収まっていた。
苦いブラックコーヒーがこんなにも役に立つドリンクであることはなかなかに神秘な、しとぴっちゃん。

そう言えば、昨晩、イカの1杯2杯3杯と3匹も捌いた。
イカの三角頭巾を切り落とし、まるで幽霊を捌く閻魔様の気分で美味しく頂く。
3匹のイカとは流石に多いもので、あと3食分ぐらいは残っている。
真ん中からスパッと切り落とし、イカボディーはパカッと開いて軟骨や足とはらわたを引っこ抜く。
そして、キレイに流水で洗い流し、剥ぎ取ったはらわたはゴミ箱にポイする。
足も真ん中で開いて目玉や口を取り除き、目玉は水の中で取らないと墨が飛び出すものでボールの中で処置する。
後は1杯2杯3杯とイカの皮をはぎ美味しく食べる、しとぴっちゃん。

ということで、

今朝の業務は椅子の上に置いてある座布団の中身をキレイに洗浄した。
そして、座布団クッションはキレイに一夜干しのようにお風呂場に干される。
先日の旅行中に水分切れになることの対抗策として、夏枯れしそうな植物たちは家の中に置きましたが、旅の前にたっぷりの水をあげていたならば鉢から水が溢れ出すものでクッションも水浸しとなる迂闊。
クッションは横置きで干して乾いていますが、マルムシが這う鉢の水をたっぷりと吸収したと考えれば気持ち悪いものであり洗浄する。
ファスナーを開け、座布団の汚いはらわたなクッションを取り出して洗うのですが、クッションはなかなかに汚いクッションである。
新しいクッションを買った方が早いかもしれませんが、物を大切に使うこともまたエコなことでもあり、お風呂にお湯を張って、座布団クッションをほり込み、しとしとぴっちゃんと汚れを落とす。
クッションとは、毎日使うものではありますが、クッションの中身を洗浄するという発想にはなかなかならない。
クッションをお風呂に入れると、大五郎は気持ち良かーとプカプカと浮き上がり良い湯加減。
いやいや、これから重曹を入れて洗浄するとなると沈んで欲しい大五郎なのである。
そして、我、考えた。
大五郎は何かの重しで沈める必要があるもので、バケツに湯を入れて重しとする方法を考える。
さっそく、クッションの上にバケツを置き、お湯をジャージャーと流し込みやがてバケツは“重りちゃん”となりて大五郎をお風呂の底に沈める。
重曹の粉はふりふりとお湯の中にふりかけて、これでキレイにクッションも洗浄出来る。
重りちゃんが乗っていない部分の端っこは浮かび上がってくるので、それは手でゴシゴシと洗浄し、台風が迫る時に椅子の上に置かれたクッションはキレイになった、しとぴっちゃん。

出演:大五郎、重りちゃん。

 

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■2025年9月5日(金)
■イカ。

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■2025年9月8日(月)
■一日一文章トレーニング。

「もっと立ち仕事しないと体がなまる」

今、私は背筋をピーンと伸ばした立ち姿勢のまま文章を書いている。
腰もピーンと真っ直ぐに伸ばされれば気持ち良いものですが長時間の持続は出来ない。
なので、立ったりと座ったりと短いスパンで忙しく姿勢を変えながらのデスクワーク。
このような立ち姿勢で作業することは久しぶりのこと。

高さのある作業台は職人さんの特注品で、椅子に座ると目の位置に机の表面がくるもので、通常立った姿勢でしか使用できない。
しかし、我考えて防災用の仮設便器と白色ボディーの空タンクを合体させればピッタリの椅子となる。
椅子と椅子が2つ合体するとはおかしな話でもありますが、一つは災害時用の非常用便器で、もう一つは空っぽのバケツで本来の意味の椅子ではありませんが、この二つは最初から申し合わせたように合体する。
空バケツのフタを窪みに重ね合わせるとピッタリとくっつき背の高い椅子となる。

災害時の便器椅子は普段は腰掛け用の椅子として使用しているもので、災害時には椅子のフタを開けると便座がありトイレとしても利用出来る。
このバケツの中に糞尿を溜める仕様で匂いを消すような薬剤も付いていますが、溜まった汚物はジャバーと大地に捨てるしかないもので、結局汚物とはどのように処理をすべきなのか全くわからない非常用便器なのだ。
絶対に使う機会がないことの祈り。

お客様がやって来てこの便器椅子に座らされる笑い話はあるかもで、また、トイレから一向に帰ってこない人も多いもので、便座に座る人生というのも多いような予感。
持ち歩きにも軽く、便座とフタ椅子付きの携帯便器は大人が座ってもビクトもしない丈夫さもあって、間違いなく倉庫の友だ。

白い空タンクも丈夫で軽くフタ付きのプラスチック製で、液体やオイルタンクのような絶対に漏れない意思をふつふつと感じさせる。
非常用の便器のフタはパカパカと開閉し汚物がこぼれ地獄絵図と想像は出来ますが、こちらのバケツは完全密封で安心感はある。
これは昔、オシャレで有名なカフェのオーナーさんから貰ったもので、これをたくさん並べてイベントの椅子として利用していたそうで、お店の入口に目印のバケツを飾っていたのでバケツ好きかと思われて「椅子みたいなバケツがあるけどいる?」と聞かれ、二つ返事で「はい」と答えたものだ。
長年愛用しているので、これも倉庫の友な長年の愛用品である。

これら椅子のようなものたちは重ねてもコンパクトだし、ちょっと座りたい時には重宝する汎用性もある。

椅子に座らずに立ったままの姿勢でパソコン入力するのは何年ぶりのことであろうか。
お店をやっている頃は常に立ち仕事をしていたもので、両足を横に広げて立つ姿勢の位置を調整しながらスタンドワークをしていた。
聞いた話によると北欧の会社では立ったまま文章を書き、または、椅子に座ったりと様々に働く姿勢を変化させながらワークしているようだ。
これは昔の自分たちのような働き方でもありますが、「北欧では・・・」と言われると急に先進性な何かを感じる。
スタンディングデスクの姿勢は体への負荷を減らし生産性もあがるそうですが、我らに立ち返っても生産性云々とは全く感じられない面白さだ。
何が何だか皆目わからないのですが、今であればDXと誰かが謎に広める定着しない流行みたいなものかもしれない。

寝て、座り、探し物をして、便座に座る人生でもあり、以前のように立ち姿勢であることは少ない。
立ち姿勢の少ないことの弊害を考えるとまず純粋に体力は落ちている。
これは老化かもしれませんが、立ち仕事だと品出しにレジに何だかんだとグランド内を常に移動するサッカー選手のように動くもので、それなりに体力はあったような気もする。
今は赤信号になる前の歩道をダッシュするだけでもゼェゼェと息が切れて、長い下り階段を降りていればヒザがワラワラと足の弱りを感じる。
立ち仕事とは常に人の目線があるもので、それなりにピシリとしているものだ。
そのような習慣も失われれば、だらりとネット中のような感じでもあり、わーは再び鞭打って足腰を鍛える必要性を感じるものだ。

 

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■2025年9月8日(月)
■考える犬。柴犬作(シバケンサク)

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■2025年9月9日(火)
■一日一文章トレーニング。

「エンジュの実を拾ったよ」

いやはや昨日は暑かった。
残暑厳しいというか厳しすぎるもので、湿度も相まって体に纏わりつく暑さでもあった。
今年1番ぐらいに汗は出たかもしれないもので汗はだくだくと、汗もこんなにも出たならば体中に溜まった悪い毒素は全て吐き出たような気もする。

そう言えば、先日の独裁者と武器の集いで臓器移植をすれば150歳まで生きることがニュースになっていた。
これは独裁国家向けに考えに考えて発言した150歳まで続投宣言かもしれませんが、当然、その他の国々や、はたまた独裁国家内でも不法な臓器売買を連想させるので彼の国では報道禁止となっているようだ。草
このような臓器移植してまで延命したい権力者とは本当にご苦労なことでもありますが、その取り巻きの人々にも未来永劫にチャンスはこないことの意見表明でもあり人心も離れるキッカケとなるかもだ。

日本でも中国系資本の葬儀場?火葬場?が増えて死体からの不当な摘出などの噂に聞く。
真贋は如何にと知り得ぬことではありますが、全ては死人に口なしでもあり、火のないところに煙は立たないものでもあって、これこそマスコミが噂の真相を追求すべく個人的に気になる案件でもある。
我にできることがあるとすれば、目には目を歯には歯をゴーストにはゴーストと幽霊部員を派遣するぐらいしか出来ないものだ。www
仮に臓器が新鮮で若くなったとして老化で衰えた筋肉や骨は変わらなければ五体満足にはならないような気もするもので、臓器移植だけで人は本当に健康に長く生きられるのでしょうか。
また、不当に摘出された人身売買の臓器であれば恨みや憎しみが遺伝子レベルの思念となり残る可能性もあるかもしれない。
星新一さんの短編集的にまとめると、体にそのような権力者を憎む遺伝子が組み込まれた新しい臓器を持つ独裁者は150歳の長きに渡って逃れられない体内の苦痛を味わい、めでたしめでたしとなるかもだ。
さっそく、我も今、マイ遺伝子に呪(じゅ)をしっかりと刻み込んだ。www

墓場から「カアーカアー」とカラスの大群が大騒ぎするもので、カラスがオレを呼んでいる。
谷中霊園はオナガやムクドリなどの小さな野鳥の生息地でもありますが、上野の博物館の裏の墓場は大きなカラスたちの生息圏でもある。
毎日の通り道に墓場があることは良いもので、墓場を通る度に身近に思う人の死でもある。
私が150歳まで生きるとすれば人生も半ばまでも辿りつかないまだまだ若造でwww、これはハッピーなのか何なのか、いやいや、実際は体の節々に劣化は起こるもので、人の決められた運命と寝て起き、便座に座り、探し物をして、座っていることも多きそろーりそろりと棺桶に足を突っ込む短き人生でもある。
私が150歳まで生きたい独裁者に進言するとすれば、酸素に触れることで体は酸化してしまうので二酸化炭素三昧な生活オススメしたい。www

そのようなことを考えて人生の長き道を歩んでいると、我が足元に変な実が落ちているのを見つける。
パッと見て小さな枝豆のように実を内包しており美味しそうな緑色の実だ。
さっそく私は実を拾って後ろポケットにしまう。
「あーあー」また拾ってしまったかと思う変な実で、上を眺めると桜の木が広がっているので桜の木の何かの実かと思うものですが、ネットで調べるとエンジュの木の実のようだ。
槐・エンジュは鬼の木と書くようで、高さ20メートルぐらいに成長するマメ科の落葉高木で、この実は食べられないようだ。
鬼とは死者の魂、神として祀られて霊魂、化け物、亡霊、人に害を与えるものや、荒々しい神のこと。
辞書によると中国から渡来した樹木であるようで、周の時代に三公(太師・太傅・太保)の座する所に3本の槐を植えたことから三公の位を槐位(かいい)と言うようで、太師・太傅・太保は天子を助け政治を補佐する重職であったようだ。
実が連なり成ることが縁起ものかもしれないので良い実を拾ったものだ。

私の人生に拾う人生を書き込みたくもありますが、拾う時間を計測するとあっという間の一瞬で、移動する時間を新たに付け加えることにする。
なので、私の人生は寝て起きて、便座に座り、座って、移動して、探し物をしている人生である。
今のところ。

 

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■2025年9月9日(火)
■考える椅子。

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■2025年9月10日(水)
■一日一文章トレーニング。

「蜂蜜すくいとマリカーとの戦い」

今朝の水温は1℃ぐらい下がり夏と秋の境界線を超えたような気もしますが、毎日残暑厳しいもので、引き続き観測を続けて夏と秋の境界線を見つけたい。

そして、

我が家にも童話やプーさんの映画に出てくるような蜂蜜すくいがやって来た。
先端に蜂の巣型のかわいい層のある素敵な棒で、これで蜂蜜を掬い塗るようだ。ウキウキ
しかし、優雅に水切りヨーグルトに蜂蜜をポタポタとかけていると耐え切れない蜂蜜落ちの待ち時間が発生して困惑する。
これはなかなかの苦痛でもあり、忍耐という言葉が足りないのか、使用方法が間違っているか、いやはや、朝の急いでいる時間帯に蜂蜜をポタポタと落とし優雅に振る舞える現代人とは存在しないような気もする。

押せばピューとすぐに出るチューブ入の蜂蜜が恋しくもなるもので、できれば、そのような蜂蜜とは下向き置きのタイプの蜂蜜が良い。
上向き置きの蜂蜜だと量が少なくなった時に注ぎ口まで蜂蜜が降りてくるのを待つのはじれったい。
これは残量が少なくなったケチャップやマヨネーズをひっくり返すように使えば良いのですが、上向きの蜂蜜をひっくり返して置いていると蜂蜜が容器から漏れたこともある。

パソコンでも押せばすぐに反応しないと待ち切れないもので、これは時短だの何だとの現代的な一種のスピード感覚でもある。
蜂蜜すくいの棒でじっくりと蜂蜜が落ちるのを待つことが、こんなにも耐え難き苦痛であることを初めて知る。
これを優雅に待てる人とは我慢強く、怒りの導火線もロングロングで、真の雅(みやび)人であるやもしれない。
いろんな人に時間を気にする急がした中で、蜂蜜すくい棒で蜂蜜をかけてもらいどのような反応するのか?見てみたい。

また、貧乏性な私は棒に付いた蜂蜜を全部残らず落としたくも思う。
そうすると、さらに時間のかかる蜂蜜落としでもある。
最終的にはお皿の上に置いて自然と皿に落ちた蜂蜜をパンで掬くいて食べる方法を見つけ、多少蜂蜜が落ちを待ち時間の苦痛からも開放されている。

いやはや、本当にこのような使い方で良いかと調べても特段の間違いは見つからないお洒落な蜂蜜生活である。
今であれば、ウィニー・ザ・プーさんが目の前の蜂蜜に我慢出来ずにダイブしてしまう気持ちもよくわかる。
ぽたぽたと落ちる蜂蜜を見ていると、「エエーイ」と指でぺろーんといきたくもなる。
だからと言って、スプーンで時短の蜂蜜を掬うとなると蜂蜜が机の上に垂れ落ちてベタベタとなる。
おそらく、蜂蜜すくいのメリットとは素早く蜂蜜を塗ることではなくて、蜂蜜をたっぷりと吸収し保持してから、それを机に垂らさないことにあると思う。
机の落ちた蜂蜜のベトベトとは拭き取るのも結構大変なベトベータである。

ということで、

我が家にもついにスイッチ2がやって来た。
さっそく、マリオカートワールドのレースに参加すると他に追随を許さないぶっちぎりの最下位で1回目からやる気も失せる。
レースの塊集団から物凄く遅れてのゴールで救いようのないドライブテクニックである。
そして、操作方法をネットで調べていると2レース目も始まり、再び誰一人の誰も対戦者の見えない自分との戦いのドライブでぶっちぎりの最下位となる。
オリンピックで最下位の選手が拍手で迎えられるような気分だ。
勿論、オリンピックのオも経験したことはないのだが。
くーー。
最近、エルデンのナイトレインでもボス戦ですぐに死ぬものでゲーム下手をつくづくと感じる。
電源オフじゃ(>_<)トホホ

 

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■2025年9月10日(水)
■You need me.

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■2025年9月11日(木)
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「梅干しとにらめっこをして唾ごくり」

写真の梅干しは実家に帰った時に回収した梅干し。
梅干しは私の漬けた梅干しと実家の梅干しの2種類ある。
左は私が東京で漬けた今年産の梅で実家に送り天日干ししてもらったもの。
そして、右が実家の梅干しとなる。
このような梅干しの違いとは何かと比較すれば色目が実家梅(右)の方が赤く濃い色をしていて美味しそうに見える。
右の実家梅は1年間梅酢に漬かった去年産の梅干しを使用しており梅の色も赤く濃いのかもしれない。
梅の赤味を強くしたい場合には1年間梅酢に漬けるのもありかもと思うもので、来年の梅は1年熟成梅と通常通りに作る梅の2通りを作りたい。

手作り右の梅干しが白く見る原因は何であろうか。
この梅干しはよく見れば目の細かい塩の結晶が前面に吹き出して白く見えているもので、塩の結晶の粒が細かいことが今年の私の梅の特徴でもある。
その理由は何かと考えれば、今年の自家製梅干しは海のミネラル成分を梅に取り込もうとメキシコ産、フランス産、沖縄の塩に一般的な粗塩と様々の塩をミックスして使用したスーパーブレンドの塩を使用した梅である。
単純な粗塩だけで作った梅ではないもので、因みに、去年産の梅は普通にスーパーで売られている粗塩だけで作ったものだ。
去年の梅は塩の結晶も随分と粗目でもあり、塩の結晶の大きさとは塩の粗い細かいに由来するのかもしれない。
結晶が粗いと塩の付いている場所とそうでない場所との塩の粗さも雑であり、塩の結晶が細かいとキレイに表面を全部覆い尽くすように張り付き梅の赤い身もあまり見えないようだ。
どちらが良いかと比較すると結晶は細かい方が上品な梅にも見えるものではありますが、見た目の赤味が消えてしまうのも少し残念である。
味はとても美味しい梅干しであり、今年の梅は雹害で実も小さくて身の部分も少ないのですが、少しちぎりてご飯と一緒に食べるとご飯も進む美味しさだ。
上品な見た目の梅干しを作るには粗塩を使うよりも細かい塩を使いブレンドした方がお上品な梅となるようで、いろいろと検証したいけれども、梅干し作りとは1年に1回しか試せないゆっくりな実験なのである。

というわけで、

UME UMA AMA とやっぱりPROよりAMAなアマチュアリズムなのだ。

毎年、アップルの新製品発表がある度に携帯を買うのか?買わないのか?との場外で大騒ぎしているもので、全くのアップル製品の部外者である私もリンゴを買う買わないに当然参入している。
PROは転送速度が凄いそうで転送速度が早いらしいとにわか情報を披露していると、お主が何を転送するのか?と聞かれて確かに写真など時折送るぐらいで何も転送もしないものだ。
今年はeSIMなどのちょっと難しい用語も加わり、さらに難易度も高くなったようだ。
他の人がアップするリンゴ話を聞いていると漫談を聞いているようでもあり、仕方なく私は新製品の携帯電話の筐体を落書きする。

図参照。

上の目が超望遠レンズで遠くの人の毛穴を見逃さない。
右の目はワイドな広角レンズで素敵な全体を見逃さない。
左の目ーはフツーの目で何も見逃さない。

私が数々の壁を乗り越えてeSIMに切り替え携帯電話を新調できるかも危うきもので、それは一人で飛行機や電車を乗り継ぎヨーロッパ旅行をするぐらいに難易度は高そうだ。
PROやエアーや17といろいろあるようで一番値段の安い17がいいなーと思っているのですが、新しいスマホをゲットする日はやって来るのでしょうか。

 

*デスクトップ画面用の画像です。
■2025年9月11日(木)
■携帯用ロボットのケイタロイド。

*デスクトップ画面用の画像です。
■2025年9月12日(金)
■一日一文章トレーニング。

「オレが猫だ」

いやはや、昨日は凄い雨だった。
9月10日に1℃の水温低下を計測して以来、少しづつ深まる秋の気配。
このような怒涛の如く降る強い雨は何日ぶりかと思えば、一昨年の野球観戦を見に行った以来の大雨である。
あの時は「野球が始まるよ」とワクワクしていたならば急に空が鉛色となりてピカピカゴロゴロと雷が鳴り始めた。
小雨はすぐに大粒の雨となり日陰に避難したならばすぐにマウンドが見えないぐらいに真っ白な大雨となって試合も中止。
そして、球場前の道路も池のように水没して、雨が止むまで雷のドドドンガガギャーンな落雷にいちいち皆と一緒にキャーキャーと怯える。
少し小雨になると野球ファンは球場の外に出るのですが道路は冠水していて水浸し。
靴も水でたぷたぷですが、野球のタオルを首に巻きユニフォームを着る輩(やから)となれば、雨に濡れてもそんなに苦にならない。
なので、野球観戦には応援チームのユニフォームは必需品である。

ということで、

大雨に降られた私は猫となりてミャーミャーと鳴く。
雨に降られた猫が「ミャーミャー」と鳴いていると猫好きの優しい人が近づいてくるもので、猫とは水の惑星に住む唯一のあざとい生物である。

「あら~どうしたのー雨に濡れているのー」
「ミャーミャー・そうだにゃー雨は嫌だ」
猫はかわいいお姉さんの足元にポンと飛び寄り大きな傘の下の足にスリスリとする。
「ミャーミャー・早くたすけろ」

そう言えば、私が二十歳の頃だったが道を歩いていると野良猫が「ミャーミャー」と前方からやって来たものだ。
とりあえず野良猫が近づいて来たならば人とは足を止める習性があるようで、私もミャーミャーと近づく猫に「ミャーミャーどうしたの?」と足を止める。
猫はマイパンツにスリスリと体をこすりつけて8の字の無限歩きをするもので、いっちょうらんのズボンも猫の毛で毛むくじゃら。
私はそれまでの人生でも猫を触ったことも無いもので、そのように近寄って来る猫に対してどのように対応したら良いのかわからない。
マイパンツは猫の毛でイッパイとなり、この野良猫は私のズボンで体を掃除しているのかと思うもので、毛にはノミもくっついているかもと思えば急に怖くもなり、私はピョンとジャンプして猫から逃げた。
あの頃の道には野良猫よけの2Lの水の入ったペットボトルが道に所せましと並んでいたものだ。
そして、今ではそのような猫よけは全く見ないもので、それは時代の猫認識も変わったのか、猫の生活サイクルが変わったのか、あの水の入ったペットボトルが並んだ時代よりも野良猫を見かけることは少ない。

そのような昔話を思い出しながら、私は「ミャーミャー・早く肩にのせろ」と鳴く。
優しいお姉さんは頭をなでなでと「どこから来たのー」と聞くので、「ミャー・そこから来たのだ」と言う。
床は随分と水浸しで、毛むくじゃらな生き物とは水に濡れるのが嫌なのじゃ。
優しいお姉さんは「雨が止むまで一緒に待とうね」と話すもので、「ニャーニャー・お主の早く肩を貸してくれ」である。

優しいお姉さんは目線を下げて頭をなでなでと「キジトラですかー・立派なおヒゲですねー・気品もあるねー」と矢継ぎ早に意味のわからないことをとやかく言っているもので、「ミャー」と雨も一向に止む気配もないものだ。
雨はもはや道を川にするような勢いで流れるもので、この場所もいつ水浸しになってもおかしくはないものだ。
ピカピカ・ゴロゴロ・ミャーと怖いもので、ニャーは優しいお姉さんの背中に飛び乗り、後は背中から肩へと一気に駆け寄って人間への肩乗りを完了する。
優しいお姉さんは「キャー、うごごー、私のいっちょうらんガー」と謎の言葉を発しながら固まるもので、泣いているのか、笑っているのか、人という巨人とは世にも変わった生き物である。
ミャーは傘で守られた人間の肩の上にのっかりてとても良い気分。
夏も終わりに近づくゲリラ豪雨な日には猫好きの人の肩の上に乗って避難するのが一番の手っ取り早い正解なのにゃ。
そして、人の肩の上で踏ん張っていると前方の川のように水没した道路から大きな四角いものが流れてくる。
そこにたまに見かける野良猫が一匹踏ん張り流されている漢だ。
人の肩の上に乗るという長年の夢も叶い、大雨の日とは踏ん張りが必要なものだ。
そして、私は一言「ミャー」と鳴いた、そんな夏の終わりの話である。

 

*デスクトップ画面用の画像です。
■2025年9月12日(金)
■【交通安全週間】簡単に止まれると思うなにゃ。

*デスクトップ画面用の画像です。
■2025年9月16日(火)
■一日一文章トレーニング。

「あれは猫である」

暑い夏場のお風呂上がりには夜の決まり事としてごろごろと粗熱をとりながら寝ころんでいる。
そして、体も冷たく冷えれば夏布団に包まり本格的に寝る。
冬でも体が一度冷めてから温かいお布団に入る方が快眠のようで、本格的に寝る前に布団でごろごろと熱も冷ますことは私の呆則な日課でもある。

そのような就寝するまでのお時間の相棒とはユーチューブ動画。
お絵描き用の大きな画面の重いアイパッドを持ちながらゴロゴロとしていると手の筋肉もプルプルと筋トレ状態。
なので、アイパッドは枕や体に半分のせて重さを半減しながらごろごろと過ごすのが乙(おつ)である。
そして、そのうちに眠気はうとうとと本格的にやって来るもので、頭に1本とアイパッドが落ちてハッと目覚める。
または、突然始まるCMに起こされて電源を落とし本格的な眠りに入る。
就寝前の鉄則はブルーライトはNGなようですが、私の場合、動画のシャワーを浴びながらそのままの流れから寝てしまうことの快眠でもある。
アイパッドが重すぎてほとんど画面を観ていないとの噂もありますが、寝る前のお気に入り動画は心霊動画。
内容が深すぎると逆に頭が冴えてしまうかもしれないもので、心霊動画の暗い建物内をただお化け探しをしながら探索するのが良い眠気を誘うのかもしれない。
最初の導入部分の怖い建物に侵入していくところはよく覚えているものの、それ以降はよく覚えていない心霊動画。

ということで、

ご主人さまは寝ながらうとうととよく寝ているのだニャー。
仕方がないのでニャーがその動画の続きを観る。
建物をうろうろと歩く映像とは「退屈」と「気になり」の境界線を歩くようでもあり、これが現世とあの世との境界線かいにゃ。
モノや建物の剥がれた壁紙が動くと人がウワーと驚き、びっくらするニャー。
ガタガタゴトゴトな音が鳴っても場に緊張感が走って何の音なのか気になるのだニャー。
空をコウモリがパタパタと飛べば何だか怖そうであり1日中楽しめそうな場所でもあるニャー。

コウモリとは野良時代によく見ていた生き物だ。
キーキーと夕焼けの空を黒くて早いあの生き物がジグザグに飛び回れば、暇なニャーはそのような姿を日が暮れるまで目で追っていたものだ。

先日、ご主人さまがでんぐり返しな運動をしながら「ニャーさんはなぜコウモリが逆さつりであっても頭に血がのぼらないのか知っている」と聞いてきた。
流石のニャーでも「ニャー・そんなことは知らんのにゃー」
ご主人さまはその後アイパッドでコウモリはなぜ逆さまでも大丈夫なのかと調べて、コウモリとは体重も軽く血管が特殊で逆さつりであっても血がのぼらないとぼんやりとした答えを教えてくれた。
ご主人さまとは何でも気になったことを先ずはニャーに質問してから、後で調べて教えてくれるもの也。
まだまだ残暑は続きますがそろそろ足冷えも起こるようで、最近、足の先まで血がのぼり暖かな足先にならないかとコウモリの逆さの逆さみたいな話をしている。
そのような話には「ニャーニャー・パクっと食べれるものを食べたい」と返事している。

そして、

ユーチューブ動画から突然、「うわーびっくりした猫かー」と男どもの大きな声がする。
ニャーはコウモリの逆さの逆さな足冷え改善のお話を思い出しながらうとうと眠くなっていたもので流石に寝ていた。
そして、「もう一度ご覧いただこうと」ゆっくりと再生動画が流れるもので、ニャーはその画面を大きな目を開けて凝視する。
「ニャー・そこに猫がいたー」
ニャーは白い布のお化けの肩にのった、あの時、雨の中で一匹踏ん張り流されて野良猫の漢をみた。
ニャーはびっくら驚いて布団の上でうとうと寝ているご主人さまの肩に仁王立ちして起こすのである。
「にゃーにゃー・あの猫がいたよ」

 

*デスクトップ画面用の画像です。
■2025年9月16日(火) 
■白い布の上の野良猫ぽにょ。